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藤原夫妻のエピソード
5 美しい絵
しおりを挟む音楽大学の卒業演奏会は素晴らしかった。
会場の中にいた人間達は、皆それぞれの場所に、幸福を持ち帰るようにと外へ散っていった。僕も、今まで聴いた音楽を抱きしめているようで、幸せな一時だった。
僕達は大学の門から外に出て、二人で歩いた。ここに来る時にも二人きりだったが、その時よりも自分がひと回り大きくなったような気がした。
いつもるり子さんと一緒に帰っていた彼女を、今日は僕が送っていくんだ。
嬉しかった。
隣から視線を感じて彼女を見ると、何か言いたそうだった。ずっと彼女を観察してきたから、何も言わなくても多少はわかるようになった。女性に疎かった自分が、こんなに僅かでも変化したことに誇らしかった。少しだけ顔を近づけて、彼女の小さい声を聞き取るようにしたが、何も言わなかった。
「どうした?駅に向かおうか」
「……はい」
その返事だけだった。他に何か言いたいことがあるような気がしたが、気のせいだったか。
会話なく歩くのはあまり変わらなかった。しばらく歩くと、彼女が「こっち」といって僕の手の袖の部分を引っ張った。
「え?」
彼女がそのまま僕の袖を引っ張って歩いていった。途中から駅に行く道ではなく、踏切を通り越した。手を握りたかったが、まぁいいか。僕は彼女に引っ張られながらついていった。
「ここ、私の…………」
彼女が足を止めたのは、女子大学だった。あ、彼女の大学がここで、るり子さんの音楽大学があそこで、近いんだ!僕には大発見だった。そういえば女子大学とは知っていたが、正式な名前も場所も聞かなかった。ここは、僕でも聞いたことがある有名なお嬢様大学だ。え、もしかして……。
「高校が一緒だったって……」
「はい。……幼稚部からずっと、高等部まで、るり子と一緒でした」
「本物のお嬢様か……」
思わず声に出してしまった。
「それで、どうしてここに?」
僕がそう言うか言わないかのタイミングで、彼女は僕から離れて守衛さんの所に行った。何かを見せている。学生証だろうか。僕の方を向いて、手招きした。守衛さんは門を開けてくれた。
正面玄関口に通された。もう夜だから、電気をつけてくれた。何だ?
「……後ろ」
彼女が呟いた。
言われた通りに後ろを振り返ると、玄関の内側の高い壁に、大きな絵画があった。
それは、とても美しい絵だった。模様のような、光のような、何が書かれているかとかはどうでもよかった。とにかく美しい絵で、惹き込まれた。
…………もしかして。僕はあることを思いついた。何処かに製作者のサインがある筈だ。急いでそれを探した。まさか、まさか……。
僕は、到底届かない所にあるそれを、必死でその白い文字で書かれた小さい文字を追った。
「Etsuko Fujiwara」
やっぱり……。
僕は胸がいっぱいになった。
「僕に、これを見せるために、連れてきてくれたの?」
彼女は頷いた。
「悦子、って……呼んでいい?」
「……はい」
「悦子、僕と結婚してほしい」
「…………はい」
……拍手が聞こえた。そうだ、守衛さんがいたんだった。それでも僕は大切なことが言えて、いろいろな悩みや心配事が吹っ切れたようだった。
彼女の家に送り届け、在宅だった御両親に挨拶をした。結婚したい意思も伝えた。
悦子は、黙って僕の隣にいてくれた。
僕に、全てを任せてくれたようだった。
客間に通された。
客間にも大きな絵があり、大学に飾ってある絵と対になっているらしい。今日、大学で観たそれは、フランスの絵画コンクールで入賞したものだと教えてもらった。
悦子は一人娘なので僕が「藤原」姓に変えてほしいこと、女の子が産まれたら、悦子が卒業した女子校に入れてほしいこと等をお願いされた。約束させられたというのだろうか。それらは僕にとってたいした問題ではなく、何一つ不満などなかった。
僕は悦子を大切にすることを誓い、社宅に住めることを伝えた。その社宅は悦子が幼稚部から高等部まで通った女子校のすぐ近くの高級住宅街にある。その地名を伝えるだけで、御両親が安心するには充分だったようだ。
僕はすぐにでも女の子が欲しくなった。悦子に似ていたら、きっと可愛らしいだろう。大人になれば、今の悦子のように綺麗な女性になるだろう。しかし、僕達はまだ手を繋いだだけだった。
先方の希望で、悦子の大学卒業の後に婚姻届を提出した。悦子は僕の少し後ろにいて、ただ黙って時折ほんの少しだけ微笑んで、僕の方を見てくれた。それは、女心に疎い僕にも、信頼してくれていることを確かに感じさせてくれた。
だが、それから悦子が僕に全てを預けてくれるまでには、相応の時間が必要だった。
時間をかけて過ごしていくうちに判ったことは、ただの思い出話にはできない。簡単なことではなかった。僕と出会った日に、悦子が忘れたくても忘れられない心の傷は深く、あれ以降絵筆を持てなくなってしまったことを知った。体に傷をつけられたのかどうかも、確認していない。つまり、体を見ていなかった。僕は決して焦らずに寄り添うことを自分に誓った。
会社の家族社宅に引っ越してから、一番広くて良い部屋を悦子のアトリエにした。その壁に、大学で見せてもらった絵と対にあたるという、大きな絵を飾った。いつでも入れるようにドアを開けたままにし、いつでも描けるように椅子とイーゼルと絵の具を揃えた。大半は悦子の実家から運び入れた物だ。絵を描くのに、足りないものは無い筈だった。
だが、悦子は滅多にその部屋に行かなかった。寝室の広いベッドで一人でいたのかもしれない。僕の不在中にリビングで過ごした形跡もなかった。おそらく、描きたいのに描けない辛さと向き合っていたのだろう。描けないのに僕がこんなに環境を整えてくれたことに申し訳ないと、何度も泣いた。
僕は独身寮から都心の社宅に越したことで通勤時間は短くなったが仕事は激務で、悦子と一緒に夕食をとることも出来なかった。深夜に帰宅すると悦子は寝ていたし、朝早く家を出る時は起こしたくなかった。休日は僕が買い物に行き、悦子が一人でも食べられる物を用意する他は、出来るだけ側にいるようにした。ただただ側にいたかった。何をするわけではなくとも。
想像していた一般的な新婚生活とはほど遠かった。深夜に帰宅する日々で、就寝の支度をしてそうっとベッドに入り、悦子の手を握ると、悦子は無意識にそれを自分の頬にあてることで安心感が齎されるようだった。僕達はそうして眠る日が続いていた。
男としての欲望もあった。
それを抑える理性もあった。
それよりも、僕がまだ知らない、彼女が生き生きと絵を描く姿を見てみたかった。
そうでなければ彼女は「僕と結婚して幸せ」とは言えないのではないかと、僕は辛くて自分自身を責めたくなった、そんな日々だった。
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