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藤原夫妻のエピソード
6 僕の幸せ
しおりを挟む忘れもしない。
忘れたいが、僕達が出会った日は、辛い思い出のある日でもある。
悦子と初めて出会った日、男に何をされたのかは知らない。美術館から駅に向かう薄暗い公園から出てきた時の、恐怖で逃げる際のふらふらとした足元。上半身の衣服が乱れ、本来は見えない筈の白い肌が見えていたこと、本当はすぐにでも奴を警察に突き出してやりたかった。同時に僕の手で彼女を護り、忘れさせてやりたかった。だが、どうやって…………。
その数時間前、彼女はそんな恐怖を知らない瞳で美術鑑賞をしていた。僕も同じ作品を長い時間観ていたのだ。僕があの時勇気を出して声を掛けていれば、あんなことにならなかったのではと。「これ、いい作品ですね」とか「お茶でも一緒にどうですか」とか言えたらよかったのに。あんなことになるならば、例え迷惑だと思われても強引に一緒に帰ればよかったのに。
僕はそれを後悔せずにいられない。
不甲斐ない自分が悔しくてたまらなかった。
るり子さんが大学院を卒業して数年経った四月。
僕が教育して面倒を見ることになった新入社員は「槇誠一」という、日本人には珍しい程に背の高い、見目形の好い男だった。仕事ぶりも真面目で大変好感を持った。仕事以外の話をしてみると、芸術を愛する素直な男だった。僕はるり子さんのピアノリサイタルに彼を誘ってみた。彼は綺麗な女性の写真のチラシを見て、嬉しそうな表情を見せた。好みだろうか。そうだといい、お互いに。ついついそんなことまで期待した。
るり子さんには、
「いい部下が入ったんだ。ちょっと伸び伸びしているけれど、素直でいい男だ。リサイタルに誘ったら喜んでいた。あれは付き合いとか社交辞令じゃない。芸術が好きな人間だ。連れていくから頑張ってね」
と電話で伝えておいた。
リサイタルは七月だった。
僕は悦子と出掛けることが嬉しくて舞い上がっていた。勿論、るり子さんの演奏も楽しみだったし、実際、とても良かった。卒業した時に演奏していた曲の印象と同じ、落ち着いた曲調のプログラムではなく、刺激的というか、挑戦的とでも言うのだろうか。僕は美術と比べたら音楽はあまりわからなかった。僕よりも槇君の方は音楽に詳しい様子で、彼はいたく感動したようだった。単なるつきあいで来たのではないとわかり、連れてきてよかった。
演奏の後、悦子と槇君と一緒に楽屋を訪れた。
槇君は、るり子さんに向かって言った。
「素敵でした。付き合ってほしい。だめ?」
おいおい、早いな!
「私は普段練習があるし、男性とお付き合いしたことがありません。遊びなら、お付き合いできません」
るり子さんも即答だった。二人とも慣れてるな、と感じた。
「真面目に言ってる。あなたの解説文章も演奏も、音楽に対する姿勢も素敵だと思ったから。それに、友達思いのところも。お互いに、素敵なお友達なんでしょ?」
悦子のことか。絵を描く妻がいると話題にしたことがあったが、覚えていてくれたのか。
そこへ、るり子さんのお父様が現れた。
「それは誰だ!」と既に御立腹だった。僕とは面識がある。槇君のことか。
槇君はその剣幕にも怯まずに自己紹介をした。
「るり子さんのお父様ですか?初めまして。私は槇誠一と申します。るり子さんとお付き合いさせていただいております」
大したものだ。びっくりしたけれど、
「お父様。私の部下で、素直ないい男なんですよ」
と、僕からも紹介した。
「聞いていないぞ!君はるり子の何を知っていると言うのかね!音楽は判るのか!」
「るり子さんとは、これから理解を深めるつもりです。音楽については……今日の曲目は、日本ではなかなかお目にかかれないプログラムです。僕は一曲も知りませんでした。るり子さんが書かれた解説文章を演奏前に読みました。聴いてみたくなりましたし、実際に聴いてみたら、すごく良かったです。バラキレフの『イスラメイ』……『東洋的幻想曲』、格好良かった。デュティユの『ソナタ』も。何回聴いたら判るようになるんだろう。シェーンベルクやストラヴィンスキーから影響を受けているというのは興味深いですね。同じ作曲家の他の曲や、他の楽器の曲を聴いてみたいと思いました。同じ年代の作曲家の曲も教えてもらいたいと思いました。評論家ではありませんから、上手く言えませんが……一つの音も妥協のないような、音楽への情熱が伝わりました」
るり子さんの心が動いたことが判るようだった。
「彼の方が、よっぽど音楽を判っているわ!お父様の方が彼に教えていただいたら?お父様が判ってくださらないから、このプログラムにしたのよ!来てくださったお客様には感謝しているけれど、お父様のお仕事の方しか来られないし、皆お世辞ばかり言うから、私は誰でも知っているような曲は弾かないわ!国際コンクールに通ったら、フランスに留学させて頂きたいです!婚期が遅れるって言うなら、結婚なんてしなくて結構です!」
「るり子程度で、通るわけがないだろう!」
場が凍りついた。
「何よそれ……応援してくれているわけじゃないってこと?」
るり子さんの頬を、ボロボロと涙が伝っていった。
るり子さんは呆然としていて、拭うこともしなかった。
「るり子さん、……俺と結婚してフランスに行くのはどう?コンクールも受けたらいい。俺は応援する。多分俺は出張が多い。ピアノを弾く時間がある。ちゃんと自分をしっかり持って音楽がある君は、人間として尊敬している」
槇君は真っ直ぐに言葉を発していた。
僕の背中で、悦子が震えていたのが判った。
「悦子、大丈夫だよ。喧嘩しているんじゃないんだ。皆、急いで仲良くなろうとしているだけなんだ。大人になると、時間がないからね」
僕は悦子に優しく声をかけた。
僅かな沈黙の後、るり子さんが言った。
「私、あなたと仲良くなりたいです」
槇君はニッと笑った。
僕達が住んでいる家族社宅の住人に転勤があり、一階の住戸が四月から空いていた。僕が管理部の一端を担っていたことから、空いた社宅の一階の鍵を持っていた。勿論、普段は会社で保管している代物だ。何故、あの時にその鍵を持ち出していたのだろう。まるで未来から来た誰かが教えてくれたかのようだった。
僕は槇君にそれを渡した。
「社宅の鍵だ。家具もあるから、直ぐに住めるよ」
「そうなの?一階なんだっけ?じゃ行ってみよう?お父様、お母様、急いで仲良くなりたいのでるり子さんを連れていきます。品川の◯◯山……マンション名は◯◯◯◯◯。一階ですから、どうぞいらしてください」
槇君はサッとるり子さんの手を取り、あっという間に二人は消えてしまった。
自分の恋はなかなかうまくいかなかったのに、他人はこうもトントン拍子に進むものなのかと驚く暇もない程だった。否、充分に驚いたが。
翌日には二人とも正式に一階の住人となり、悦子とるり子さんが頻繁に会えるようになった。僕も槇君も仕事が忙しく、女性は家庭を守る、当時はそれが普通だった。男が家のことをするなど、周囲では聞かなかった。そんな暇もゆとりもなかった。
るり子さんが、悦子に接してくれたお陰だろう。悦子は元気になっていくようだった。といっても、もともとおとなしい女性だから、僕だけがわかる程度の僅かな、しかし大きな変化だった。るり子さんには頭が上がらない。
僕は嬉しかった。
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