108 / 151
藤原夫妻のエピソード
7 妻の幸せ、娘の幸せ
しおりを挟む翌年の四月。
槇君夫妻のところに男の子が産まれた。
夜、悦子を連れてるり子さんに会いに行った。個人の病室は静かで、槇君もいた。若くして父親となった槇君に、僕は心からの「おめでとう」を伝えた。
悦子は赤ちゃんを見て、自然とそちらに歩み寄り、ふわぁっとした表情になった。繊細で怖がりな彼女の、そんな表情を僕は初めて見た。
「……私も……赤ちゃんがほしい……」
悦子がるり子さんにそう言った。
僕は驚いた。
るり子さんが、
「悦子、ご主人様にお願いするのよ?」
と言うと悦子は「うん」と言って、にこっとした。今まで見た中で一番可愛らしい表情だった。
恥ずかしくて、なのに嬉しくて。槇君に後でどんなに誂われても仕方がない。向こうを向くしかなかった。
それと前後して悦子は鉛筆を持てるようになり、いくつもの線を書くようになっていた。僕がそれを側で見ていても、悦子は嫌がらなかった。
少しずつ段階が進み、何を描こうとしているのか、何を描いたのかが僕にもわかるようになった。魔法のようにゆっくりじわじわとあふれ出てくるような鉛筆の芯の跡……。僕は、毎日帰宅後にそれを見るのが楽しみだったし、休日には一日中でも………その過程を見ているのは幸せだった。
それは確かに僕の幸せであった。
同時に、悦子の幸せを体現するものでもあった。
まだ鉛筆だけで、色はつけていなかった。
悦子は書きかけた下絵を何度も何度も見ては、涙したりしていた。何の涙なのかはわからなかった。聞くことは出来なかった。絵筆を持とうとすると、心が震えているのがわかったから…………。
小さな絵に、赤い色の絵の具をのせられた時……僕はその瞬間を見ることができた。悦子の横顔が、得も言われぬ美しさで、初めてその唇に自分の唇を重ねた。悦子を一層愛しく思った。
後日。
会社で昼休みに槇君と会った。たまたま僕達二人だけだった。
「悦子が、鉛筆で描いたものに絵の具を乗せられるようになった」
と報告した。
綺麗な赤で、初めてキスをしたことも話した。言わないつもりだったのだが、嬉しくてつい話してしまった。その先は他の人が来たので話はしなかった。槇君に感謝していると伝えたかったのだがタイミング悪く、言葉足らずで不甲斐ない。
それからというもの、悦子の手からは小さいながらも明るい色の「絵」が生まれるようになった。「線」に色がつき、「絵」になっていく様は、僕が待ち焦がれた生活の彩り、幸福そのものだった。
僕達に待望の娘が産まれたのは、槇君夫妻の息子である慎一君が産まれた五年後のことだった。
娘というものは可愛くて可愛くてたまらなかった。小さくて、白い肌の色、閉じた目元、瞳の色、鼻筋、唇、全て悦子に似ていた。声も発しない、滅多に泣くことのない、異様な程におとなしい静かな子だった。
悦子が入院中、慎一君は「いいかおりでしょ?」と花束を持ってきてくれた。槇君によく似た明るい少年のその言葉で、娘の名前を『かおり』と一緒に決めた。慎一君は、僕が行けなかった日にも来ていて、毎日娘を可愛がっていてくれたという。感謝の気持ちでいっぱいだった。
娘は慎一君の弾くピアノが大好きだったようだ。ベビーベッドの中でも、ピアノの音が聴こえると笑顔になった。
それからも慎一君は、ずっと娘を大切にしてくれた。
僕はいつでも慎一君に渡す覚悟で娘を育てた。しかし僕は、海外勤務を含む転勤をしない選択をしたことで更に忙しくなったし、悦子は普通の生活、普通の育児をすることも難しかった。娘は殆どるり子さんの家族に育ててもらったようなものだ。
娘は悦子に似ていた。
多くは望まない。
とにかく笑顔でいてほしい。
娘に望むのはそれだけだった。
娘は、慎一君のことが好きだった。慎一君は娘にずっとピアノを教えてくれていた。この家にはピアノがない。僕はピアノのことはわからない。応援したいが、具体的に何を応援したらよいかわからず、結果何も応援しないのと同じだっただろう。
慎一君は娘を好きだろうか……。彼の未来を縛ることになってもいけないし……と逡巡した。僕は不器用な父親だったろう。せめて普通の女の子として、普通の男の子に好まれるようにと案じた。
年頃になった慎一君は、礼儀正しく僕に結婚の許可を取り、僕の目の前で娘にプロポーズした。
娘の返事は、悦子が僕のプロポーズに応えた時の言葉と同じで、堪らなく愛らしかった。
僕はその後席を外した。そっと扉を閉める際、慎一君が娘に優しくキスをする瞬間を見てしまった。娘はそのまま受け入れていた。悔しいなんて気持ちは微塵もない。これでいいのだ。
過保護だとか親馬鹿だと言われても構わない。
慎一君と娘には、あんな後悔や心の傷など、無縁で生きていってほしいから。
これでいいのだ。
そうして僕達は、再び愛する悦子と二人の生活になった。思ったよりも早く連れて行かれてしまった。二人は幸せなのだ。
娘と慎一君は時々やってきて、笑顔を見せてくれる。
悦子も、絵を描きながら僕に微笑んでくれる。
まるで、幸せを描いたような絵。美しい色づかい。差し込んだあたたかい光の線。
僕は、絵筆を置いた悦子の手を握った。
1
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる