君が奏でる部屋

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槇夫妻のエピソード

1 出逢った日のこと

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 妻と出逢った頃。
 携帯電話なんて、会社から預かった一部の人しか持っていなかった。ふとした時に携帯電話を握りしめると、あの頃の生活を懐かしく思い出す時がある。ずっとここに住んでいるからな……。


 妻……るり子と駆け落ちすることになったのは俺のせいだ。だがそれから人生が想定外な方向に面白くなっていったのは、俺もるり子も……多分同じだった。時代もあるが、俺達は若く健康で、常に精神的に自由で、自分達の未来と可能性に、好奇心で一杯だった。




 少許時間を遡る。俺が社会人になりたての頃。
 教育係となった上司が休憩時間に芸術の話をしてくれた。俺は芸術が好きだったから熱心に話を聞いた。その上司は俺をクラシックの演奏会に誘ってくれた。上司……明るくて朗らかで、どんなトラブルにも冷静に対処し、大人で落ち着いている藤原さんに、俺は憧れていた。何かの時に、奥さんの写真を見せてもらった。色白で髪の長い、人形のように可愛らしい女性だった。絵が趣味で、子供はいないらしい。


 演奏会というのは、藤原さんの奥さんの友人のピアニストのリサイタルだそうだ。俺は音楽も好きだった。ピアノでもヴァイオリンでも何でも、美しいもの、美しい音楽が好きだ。楽器そのものさえ。
 後日チラシを持って来てくれた。それは知らない曲ばかりだった。俺はクラシックは結構知っているつもりだったから急激に興味をそそられた。それに美人で好みだった。イイな。イイことがあるかもしれない。






 リサイタルは七月だった。

 演奏を聴いて俺の予感は確信に変わった。
 演奏後、藤原さんは楽屋に連れて行ってくれた。

 チラシの写真よりも本物の方が何倍も綺麗だった。肩を出した大胆なデザインのドレスに包まれた体。張りのある肌の感じが色っぽい。演奏が終わったばかりで、まだ興奮冷めやらずといった表情だ。
 俺はピアニストに向かって堂々と言った。
「素敵でした。付き合ってほしい。だめ?」
 いきなり言ってしまった。手はともかく口は早い。それは認める。

「私は普段練習があるし、男性とお付き合いしたことがありません。遊びなら、お付き合いできません」
 断られた。断られたのは初めてだが全然気にしなかった。
 
「真面目に言ってる。あなたの解説文章も演奏も、音楽に対する姿勢も素敵だと思ったから。それに友達思いのところも。お互いに素敵なお友達なんでしょ?」
 俺も真面目に返した。
 彼女の表情が変わった。
 

 「それは誰だ!」
 彼女の父親が来た。俺に対して既にお怒りのご様子。俺はつとめて冷静に自己紹介をした。

「るり子さんのお父様ですか?初めまして。私は槇誠一と申します。るり子さんとお付き合いさせていただいております」

「お父様。私の部下で、素直ないい男なんですよ」
 藤原さんも俺に合わせてくれた。話の判る上司だ。藤原さんはご両親共に面識があるらしい。

 ご立腹の父親は、俺の方を向いて言った。

「聞いていないぞ!君はるり子の何を知っていると言うのかね!音楽は判るのか!」
「るり子さんとは、これから理解を深めるつもりです。音楽については……今日の曲目は、日本ではなかなかお目にかかれないプログラムです。僕は一曲も知りませんでした。るり子さんが書かれた解説文章を演奏前に読みました。聴いてみたくなりましたし、実際に聴いてみたら、すごく良かったです。バラキレフの『イスラメイ』……『東洋的幻想曲』、格好良かった。デュティユの『ソナタ』も。何回聴いたら判るようになるんだろう。シェーンベルクやストラヴィンスキーから影響を受けているというのは興味深いですね。同じ作曲家の他の曲や、他の楽器の曲を聴いてみたいと思いました。同じ年代の作曲家の曲も教えてもらいたいと思いました。評論家ではありませんから、上手く言えませんが……一つの音も妥協のないような、音楽への情熱が伝わりました」

 傾きかけていた彼女の気持ちが、完全にこちらに変わったことが見て取れた。

「彼の方が、よっぽど音楽を判っているわ!お父様の方が彼に教えていただいたら?お父様が判ってくださらないから、このプログラムにしたのよ!来てくださったお客様には感謝しているけれど、お父様のお仕事の方しか来られないし、皆お世辞ばかり言うから、私は誰でも知っているような曲は弾かないわ!国際コンクールに通ったら、フランスに留学させて頂きたいです!婚期が遅れるって言うなら、結婚なんてしなくて結構です!」
「るり子程度で、通るわけがないだろう!」

 誰も何も言うことができなかった。予想と違う展開だ。

「何よそれ……応援してくれているわけじゃないってこと?」

 その瞬間、彼女の頬を涙が伝っていった。
 彼女と父親の真剣なやりとりに、俺は責任を感じた。この様子では、親に反抗したのは初めてなのかもしれない。
 俺は彼女が言い過ぎないよう願い、落ちてくる涙を拭い、願うように伝えた。

「るり子さん、……俺と結婚してフランスに行くのはどう?コンクールも受けたらいい。俺は応援する。多分俺は出張が多い。結婚してもピアノを弾く時間がある。ちゃんと自分をしっかり持って音楽がある君は、人間として尊敬している」

 藤原さんが、後ろを振り返って奥さんの肩を優しく抱きかかえた。
「悦子、大丈夫だよ。喧嘩しているんじゃないんだ。皆、急いで仲良くなろうとしているだけなんだ。大人になると、時間がないからね」

 そうだ、奥さんは非常に繊細だと聞いていた。俺は心から反省した。

 今日は諦めようと思った時、彼女が言った。

「私、あなたと仲良くなりたいです」

 運はこちらに向いていた。
 更に、藤原さんが俺にそっと何かを渡してくれた。

「社宅の鍵だ。家具もあるから、直ぐに住めるよ」

 途端に、俺はワクワクした。藤原さんが住んでいるという『家族社宅』か!すぐにでも行ってみたい。高級住宅地だから住所も覚えている。

「そうなの?一階なんだっけ?じゃ行ってみよう?お父様、お母様、急いで仲良くなりたいのでるり子さんを連れていきます。品川の◯◯山……マンション名は◯◯◯◯◯。一階ですから、どうぞいらしてください」

 俺は彼女を抱き寄せた。

「今?今日?待って、ドレスだし!」
「着替えなくていいよ。シンデレラみたいでいいじゃない?」

 俺は彼女の手をひいて、タクシーに乗せた。
 吸い付くような肌だった。綺麗だ。
 このまま自分のものにしてしまいたい。

 本当に帰りたいのなら、後でちゃんと送っていくさ。
 




















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