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槇 慎一

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毎日が楽しくてたまらないテノールバカと仲間たち

1 リサイタルの真面目な計画 

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 4月。

「松本先生、ありがとうございました」
「あぁ、また来週」


 大学合唱団の稽古が終わった。

 広いホールのステージに、等間隔で並んで歌っていた団員が散り散りになり、俺に挨拶をしながら人が少なくなっていった。

 稽古は毎週あり、演奏会や行事の前には練習日が増える。
 夏の演奏会が終わったら、自分のリサイタルをやりたい。


 プライベートも落ち着いたし、いいピアニストも見つけた。信頼関係もできた……と俺は思っている。そのピアニストに声を掛けた。

「藤原、後で相談したいことがある。この後、時間いいか?」
「はい」

 俺は合唱ピアニストの藤原を、大学内にあるレストランに連れて行った。


 今年度から、藤原は音楽大学附属音楽教室の講師となり、新規の帰国子女のレッスンと、パートナーである槇が担当していた女子生徒を引き継いでレッスンしているらしい。


 レストランで、藤原は少々落ち着かない様子だ。ここはまだ慣れていないらしい。無理もない。教職員専用の場所だ。

「ここには酒はない、安心しろ。コーヒーにする?紅茶にする?」
「……紅茶をお願いします」



 以前、軽く飲みに誘って適当なカクテルを出したら酒は初めてだったということがある。綺麗な色だったことだけは覚えているらしい。俺のことは覚えていないとか……妻よりも純情かよ!

 正直に言うと、妻のことは愛しているが、藤原のことは他人のパートナーといえども才能ごと心酔している。

 一生俺の伴奏をしてほしい。そういう相手を探していた。
 男より女がよかった。俺が歌いたくなる、俺の最高の声を誘い出す音を出してくれる女が。

「リサイタルをしたい。今年度中、少なくとも学内でチャンスはあるだろう。また秋以降、違うプログラムで伴奏を頼みたい。大変なら、合唱団のプログラムを一部アカペラにする」
「……はい。私にできそうか、慎一さんに相談します。お返事はその後でもよろしいですか?」

「あぁ。なんなら選曲にも付き合ってほしいから今度、槇と一緒に家に来てくれ」
「はい。そのように伝えます」


 槇慎一は、俺の同期のピアノ演奏科講師だ。
 二人は、槇の卒業と同時に結婚したらしい。幼なじみで師弟関係だったと聞き、光源氏と紫の上のような関係だと思った。自分好みに育て、音楽的にも似合いのパートナーとは羨ましい。俺も混ぜろと言いたいくらいだ。そんなお伽話はなかっただろうか?



 レストランには大きなグランドピアノがある。人はほとんどいない。俺はピアノの前に座った。

「いい返事が聞けて気分がいい。歌ってやる」

 今は、特に譜面を持っていない。自分で伴奏を弾きながら歌った。


 藤原は驚いていた。

「松本さん、ピアノがお上手でいらっしゃるんですね。何ていう曲ですか?」
「『4月が戻ってくる』だ。もともとピアノ科を目指していた」

 だからこそ、ピアニストに妥協したくない。
 伴奏についての要求は細かくもなるし、期待値も上がる。藤原に出会うまでは、伴奏者をとっかえひっかえしていた。それでも後輩の平山は気に入って何回か頼んだ。しかし、奴は作曲の方に進んで忙しくなり、藤原を紹介してくれたのだ。



「松本さん、お歌も素敵なのに、弾きながらなんて……素晴らしいです」

 藤原は褒めるのが上手い。男が喜ぶ言葉を知っている。言葉だけじゃない。うっとりしたその表情は煽られるに充分だ。槇に対してもそうなのだろう。人見知りするようだが、俺には慣れたようだ。

「君も、弾きながら歌えばいい。きっと歌声も綺麗だろう。いや、俺が弾こう。何が歌える?」
「え?じゃあ……『愛の小径』」

 へぇ…おとなしいのに、音楽には物怖じしないんだな。ピアノ専攻の女にしてはいい反応だ。それに、それは初めて俺が伴奏を頼んだ曲だ。悪くない。

 俺は前奏を弾いた。
 いいタイミングで歌が入ってきた。予想通りだ。

 藤原は専門的な声楽の経験はなさそうだが、細くても伸びのある、素直な声だった。平均律的な音程でなく、和声や調性の中での音程のとり方が自然で驚いた。小学生から学校で習ったというフランス語の発音も綺麗だ。子音の暈し方など……日本語より上手いんじゃないか?もともと歌心があるのは、ピアノの演奏を聴けばすぐにわかる。自然に体を揺らして歌っている。可憐な少女みたいだ。可愛い。非常に可愛い。人妻でも可愛い。槇の妻。俺にもっと懐かせたい。


「いいな。また聴かせてくれ。おい、俺の声は好きか?」
「はい」

「じゃあ、俺のことも好きだな?」
「え?あの……好きって……」

 言い淀んだ。真面目だな。

 いったい槇とはどんな風に愛を育てたのか、藤原の口から聞いてみたい。惚気でも愚痴でも何でもいい。

「なあ、槇のどこが好き?」

 純粋な彼女なら、はにかみながらいくつか出てくると思ったが。


「慎一さんの、……ピアノのこと?」
「ピアノじゃない。人間性のこと。槇のどこが好き?」

 藤原は固まっていた。





 しばらく待ったが、恥ずかしいわけでも言いたくないわけでもないらしい。

「答えられないか?じゃあ、音楽から好きになったのか、人間性から好きになったのか、どっちだ?それとも顔か?」

 彼女の中で、考える方向性が少し変わったようだ。嘘のつけない女だな。

「私が……産まれてすぐに、慎一さんがだっこしてくれて、『ハッピーバースデー』を歌ってくれたって、聞きました。私の名前も、慎一さんと、私の父が一緒に決めたって……」

 初耳だ。面白い。槇からは聞けなっただろう。

「そんな頃からか。藤原が覚えている範囲での恋心のエピソードは?聞かせろよ。槇にそれとなく伝えてやる。他人から褒められると、男は喜ぶ」

 藤原は、明らかに『槇が喜ぶ』に反応した。これだけでも、本当に喜ぶだろう。もう少し、何かないか。世話になっている槇にプレゼントしたい。

「慎一さんのピアノについては、慎一さんに直接申し上げたことはあります。……人間性については尊敬していて……ただ、好きとしか、言えません。どこがって……何がって……」

 途中からは、俯いてほとんど聞こえなかった。俺は耳がいいからアンテナを最大にして、その子音を拾った。身を縮こまらせ、谷間をくっきりさせているだろう。そんなものは1ミリも見える筈ない、首もとまで詰まったブラウスだが。顔も真っ赤だ。くぅ~堪らないな。しかしこんな程度で赤くなるとは中学生か、いや小学生か?


 そこへ、レストランの入口から、馴染みの先輩が入ってきた。
 いいところだったのに。まあいい。チャンスはいくらでも作れる。

「お!松本、お疲れ様。こんなところでも女口説いてるのか?流石だな」
「俺の伴奏者だ。リサイタルの打ち合わせをしていただけだ、な?」

 藤原は、俯いたまま大きく頷いた。


「おぉ!ついに運命の伴奏者を見つけたか?誰だ?名前は?」
「藤原かおり、槇のパートナーだ」

 声楽科の先輩後輩師弟関係は、ピアノ科のそれより相当くだけている。

「槇?槇とは、我らのマドンナ、ソルフェージュ科講師るり子の息子っていう、お前の代で特待だった槇慎一?学生結婚したっていう相手?マジかよ?可愛いな。そういえば松本も結婚したんだよな?いいなぁ~やっぱ、顔と実力か?」

 先輩は、俯いた藤原の顔を覗き込んでいる。

「……だってさ。槇の魅力は?顔と実力?」

 俺はそのまま藤原に水を向けてみた。

「……お顔なんて、そんな……恥ずかしくて……ほとんど……見ていません」

 だよな。

「先輩、顔じゃないそうですよ」
「じゃあ実力か~!」

「先輩は実力も顔もイケてますから大丈夫ですって」
「松本に慰められる日が来ようとは~!」


 俺は俯いたままの藤原を促した。

「藤原、悪かったな。そろそろ行くか」

 藤原は、俯いたまま俺の先輩に頭を下げた。


 レストランを出たところに階段がある。藤原は下を向いていたから、危なげなく足を運んだ。


 階段を降りきったところで俺はわざと足を止めた。


 藤原は予想通り俺の背中にぶつかり、反動で倒れそうになるところを、俺は振り返って抱きとめた。

 俺は熱く藤原を見つめた。こうして、恋が始まる……という設定、あるだろう?今までの伴奏者はそういった演技がわからないらしい。本気で愛されていないからか?演技を本気にされると困るのだが、藤原はそういう感情が全く無いのが助かる。

 普通に芝居の練習すら人間の女相手にできる。楽しい。ただただ楽しい。シリアスもコントもできる。しかし藤原は演技はてんでダメだ。絡みは期待できない。あくまで俺の練習台だ。それでもいい。


 俺の妻も可愛いくて練習につきあってはくれるのだが、こちらがまだまだ練習を終えるつもりがない間合いでも、「そろそろお夕食の支度に行ってもいい?」など興が醒めることを平気で言う。



 俺はオペラが好きだ。
 ステージじゃなくても、日常の、人生の全てが劇場だ。


 今、この一時さえも!























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