雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

文字の大きさ
14 / 48

碧海渚沙(七月二十八日)

しおりを挟む
七月二十八日
 天気:雪。
 なんて私の心は弱いんだろう。たった一日程度ですっかり摩耗してしまった。私はきっと完全に頭がおかしくなってしまった。
 でも、誰に相談したらいいんだろう。うちの両親は放任主義というか、子供に関心がない。降り続ける雪。溶けた美雪。私が現状を必至に訴えたところで、まともに取り合ってくれるとは思えなかった。
 だが、いくらか金を引き出すことはできる。私は体調が悪いと訴えて、二千円の医者代を貰った。嘘はついていないから問題ない。
 そこに自分の小遣いを合わせ、町の精神科病院に向かった。番号札と問診票を渡される。クラシックの流れる待合室のソファには三人ほどの男女が座っていた。問診票を記入している間、こいつらみんな頭がおかしいんだと思うと怖かったし、その仲間入りをしてしまったと思うと気分が重くなった。
 一時間ほどして、自分の番号が呼ばれた。優しそうな初老の先生は、私の言う事をうんうんとうなずいて聞いてくれた。私の説明はあまりにも非現実的だったに違いないというのにだ。この人なら信頼できる。
「ところで……僕は医師だけど、中毒患者を発見したからと言って医師は必ずしも警察に通報しなければいけないわけではない。だから、正直に言ってほしい。未来ある君のために。もしそうなら、一緒に治していかなくちゃならないのだから」
 そんなインスタントな信頼は一発で打ち砕かれる。
「友達とか先輩から、変な薬、もらったことある?」


 何の収穫も得られないまま病院を後にした。まさかヤク中扱いされるなんて。私は薬はおろか煙草やお酒もやったことがないのだ。病院の外に放り出されたように途方に暮れる。
 ラインにメッセージが来ていた。姫子だった。昨日のことを心配してくれているようだ。「大丈夫だよ。疲れてただけ」と返信した。馬鹿な私。助けが欲しいなら、今こそ姫子に縋るチャンスだったのに。でも、自分を心配してくる人に迷惑はかけたくないなどと面倒くさい考えが過ってしまったのだ。
 白い日差しがまぶしい。照り付ける太陽で肌が焦がされそうなのに、斜光に混じって雪が降っているというのだから気が変になりそうだ。いや、もうなっているのか。
 なんて目障りな白。
 思えば、この雪が始まりだ。
 雪が降るのを確認したのが、一連の奇怪な現象のスタートだ。
 ……そうか。
 雪か。
 私は駅に向かって歩き出す。
 この雪が降っていない場所に行こう。そうすれば、少しはまともに思考できるようになる気がした。
 精神病院は駅の近くにあったから、ホームに辿り着くまでそう時間はかからなかった。
 電光掲示板には電車の到着時間が表示されている。されなくてはならない。
 だが……故障でもしているのだろうか。真っ黒で何も映していない。
 まあ、いいか。電車にさえ乗れれば。
 私はホームで電車を待ち続ける。電車が来るべき方向をじっと見つめ続ける。すぐに四角いシルエットが確認できた。徐々に大きくなってくる。だが……どういうわけか、減速する様子が見受けられない。
 私が乗るはずだった電車はまるで回送電車かのように私が立っているホームを通過していった。横切る風が私の髪をばたばたとはためかせていった。
……わけがわからない。今の電車は普段私が乗っている路線の電車ではなかったか。見慣れた、見知ったデザインの電車だったのに。別の電車がこの線路を使っていたから止まらなかったのだろうか。そんなの一度も目にしたことはないが。
 その後、二本ほど電車を待ってみたが、すべてこの駅を無視して駆け抜けていった。
 だから、私はホームの端っこに立っている紺の制服を着た若い駅員に事情を聴くことにした。
「どうしました?」
 さわやかな笑顔を浮かべて、駅員は私を見た。その笑顔は、たとえ営業スマイルなのだとしても、私を少しだけ安堵させてくれた。
「あの……電車が変で……今日って、この駅に電車、止まらないんですか」
 私の質問に駅員は笑顔のまま答えない。説明の仕方が悪かったかもしれない。確かに、自分でもちょっと要領を得ない説明と思う。
「えっと……電車に乗りたいんですけど……次の電車って何時ですか」
 駅員は笑顔のまま答えない。
「あ……その、通過しちゃう電車っていつもの電車じゃ……」
 ここまで話して、私は止まった。てっきり駅員は、私の言ってることがわからなくて困って笑顔のままなのだと思っていた。それが違うと気付いた。
 静止している。
 ショートを起こした電化製品のように、解答不能の計算を強いられたコンピューターのように。
 私の質問は、駅員を停止させてしまっている。
 駅員は笑っている。爽やかな笑顔を浮かべている。そのまま動かない。まつ毛の一本すらも。
 怖くなって、私はそこから逃げ、駅を飛び出した。
 

 とにかく町の外に出よう。
 公共交通機関はダメだ。あの駅員みたいな事態が起きるかもしれない。信じられるのは自分の足だけだ。
 町の外へ駆けていく。休むことなく走り続ける。激しい運動に心臓が破裂しそうになるが、かまわず足を動かし続けた。線路に沿って進みつづければ、必ず町の外に出られるはずだ。
 見慣れた景色が後ろに飛んでいく。隣町はもうすぐだ。けれど、どういうことだろうか。前に見える建物が蜃気楼のようにぼやけていく。近づくにつれ、輪郭を失っていく。
 白く、白く、白く。
 柔らかな雪に侵食されるように、美しく蕩けていく。遠景だけでない。すぐ横のビルも、線路も、看板も……そして、地面さえも。
 私は小さな悲鳴を上げ、すんでのところで足を止めた。
 足元には、真っ白の深淵が口を広げていた。あと一歩でも進んでいたならば、白い闇の中に真っ逆さまに落ちていったことだろう。
 私は力なくその場にへたり込んだ。
 一体どうなってしまったのか。
 この町に何が起きているのか。
 この異変、誰も気づいていないのか。
 まるで、世界でひとりぼっちになってしまったようだ。
 真っ白の空間に置き去りにされたような……。
 狂ってしまいそうだ。
 誰でもいい。この問題を解決できなくてもかまわない。
 とにかく誰か……誰か、私とこの事象を共有できる人は……。
 スマフォを取り出し、当てもなくラインのメンバーリストをスライドしていく。親もダメ。友達もダメ。無意味な足掻きだった。
 だが、ある名前を前に私の手は止まった。名前の羅列の中に、一人、これはという名前が目に留まったからだ。
 東崎惟子。
 小説家だ。去年、国語の授業で小説技法を教える講師としてたった一度招かれた人。もっとも授業内容は奇抜というか、独創的なもので何の参考にもならなかったが。教室の後ろで見守る教師も渋面をしていた。
 ただ、私は昔から本が好きだったからか、その支離滅裂な授業内容を楽しく聞くことができた。それで、授業後に感想を伝えたら、気に入ってもらえて連絡先を交換していたのだ。もっともそれ以降まともに交信はなかったのだが。
 私はライン通話をかけた。メッセージではいつ見てもらえるかわからない。すぐにでも話をして安心したかった。
 こんな非現実的な状況を、ほとんど接触のない小説家に話してどうする?
 冷静な私がそう制止する。けれど、私はなにかのヒントを得られる確信を持っていた。私はあの人の小説を読んだことがある。多種多様なジャンルを書く人だけれど、その中に、今の私と似た境遇に主人公が置かれる話があったのだ。
 コール音が続く。
 コール音が続く。
 もうダメかと切りかけたところで、「もしもし」という気だるげな声が聞こえてきた。
 私はまくしたてるように現状を説明した。精神科医に話したとき以上に、めちゃくちゃな言葉のサラダだったと思う。けれど、東崎さんは黙って聞いていた。遮ることも、質問してくることもしない。驚くべきことに、彼女は私の状況をきちんと理解しているようだった。
「結論から言うぜ」
 私が一通り話し終えたのを確認してから東崎さんは口を開いた。
「おまえが助かる方法はない。確証はないが……その町は魔女の匣庭になってしまった可能性が高い。匣庭から出る手段は存在しない」
 匣庭。
 東崎さんの小説に何度か出てきた……確か魔女の縄張りみたいなものだったと思う。匣庭に囚われた人間はことごとく魔女の餌食にされてしまった。だけど、あの小説には匣庭からの生還者もいたはずだ。
「脱出できる奴は、方法ではなく性質で脱出するんだ。先天的、あるいは後天的に魔女と近い性質を持つなどした者は殺されずに脱出することができる。俺はその典型だ。……おまえだけが知覚できる雪……。そこから考えるに通常の人間に比べれば、おまえもその素質がある方なんだろうけど、多分、生き残れるほど強いものじゃねえな」
「そんな……このまま何もしないで死ねっていうんですか。この白い孤独の中で!」
「喚くなよ。おまえの話を元に現状を整理してやるから。言っとくが、俺の推論だからな。絶対に鵜呑みにはするな。夏に降り出した雪、町を取り囲む白の断崖絶壁。その町には何かしらの魔性が居て、おそらく人間を食い物にしようとしている。ということはだな、魔性をどうにかできれば、雪は降り止むということだろう」
「どうにかって……」
「殺すしかないだろう」
 物騒な言葉に生唾を飲み下す。
「お前がやるしかないぞ。奴らは基本的に別次元の生き物だから、通常の人間では干渉できない。人間の意識の外が棲家だからね。雪を認識できるおまえだけが魔女を知覚できる。そして、魔女を殺すことが、おまえが助かる唯一の方法。ただこの作戦にはひとつだけ欠点がある」
「なんですか」
「不可能だってことだよ。魔性の類って言うのは人間にどうにかできる相手じゃないんだよ。たとえその場は凌げたつもりでも、やつらは予想もつかない方向から攻撃してくる。例えば、影に潜んだりな。まあ、そう言ってもお前は受け入れられないだろうが」
 私は答えない。それは肯定の無言だ。
「おまえが住んでいるのは宮坂町だったな。なら、深山昆虫学研究所を尋ねろ。そこに俺の知り合いがいる。そいつは比較的魔性に近い人間だったと記憶しているから、何かの足しにはなるかもしれん」
 深山昆虫学研究所。
 確か町はずれにある個人研究所だ。中学の頃、理科の課外授業で一度行ったことがある。若い女の人が蝶について優しく教えてくれた……。あの人のことかもしれない。
 ひとまずはその研究所に行くことに決めた。だがそれに合わせて、私は東崎さんにこの町に助けに来てくれないかと尋ねた。助かる手段は一つでも多い方がいい。
「難しいだろうな。電車の話を聞くに、その町はすでに人間の意識外になってしまっている。向かおうとしても無意識のうちに町を避けてしまうはずだ。調べてやるが……当てにするな。到着するとしてもおそらく全部終わった後だ」
 電話が切れる。ひとまず目的地ができて、安堵する。
 私は深山昆虫学研究所に向けて歩を進めた。


 宮坂高校から徒歩で十五分ほど、住宅街と丘陵地の境のような場所にその研究所は存在した。もっとも研究所と言っても、個人施設であるため、そう大きなものではない。確か三階建ての建物で、一階が文献室、二階が標本室、三階が実験室となっていたと記憶している。建物の入り口には『深山昆虫学研究所』という簡素なプレートが提げられているが、それが一層この研究所の質素さを引き立ててしまっていた。近くに緑豊かな森林やビニールハウスがあるのも、研究所が持つべき厳格なイメージをこそぎ落としている。
 一般家庭と何ら変わりないインターフォンを押す。
「はい、どちら様でしょう」
 しばらくして女性の声が応対した。
「あの、私、碧海渚沙と申します。えっと……東崎さんの紹介でここに来ました。あなたが一番魔性に近い人物だって……」
 インターフォンからはしばしの沈黙が流れてきた。
「すぐに行くよ。少し待っていてくれ」
 インターフォンが切れる。家、もとい研究所からどたどたとせわしない音が聞こえてきた。やや間があって、洋風のドアが開けられた。
 出てきたのは、自分と同年代の少女だった。いや、ともすると二歳くらい年下かもしれない。背丈は百五十センチにも届いていないだろう。身にまとう黒いドレスには、あちこちに深緑色の巧みな刺繍が施されている。私の知っている種類の衣服でいえばゴシック&ロリータが一番近いように思えた。一目見て高級な生地であることがわかるくらいだから、全身のコーディネートの総価格はきっと目玉が飛び出るか数値になる。
「初めまして、かな。僕は深山安綺羽みやまあげは。とりあえず中に入ってよ」


 一階の文献室には長テーブルが置かれている。私は飾り気のない丸椅子に座って安綺羽さんを待った。
「あったかいもの、どうぞ」
 やってきた深山さんからマグカップを受け取る。中にはあったかいコーヒーで満たされている。
「はあ、あったかいもの、どうも」
 口をつけると、予想していた苦みとは真逆な……甘みを感じる。コーヒーではなくチョコレートだったようだ。
 社交辞令に一口だけ飲んで、テーブルの上に置く。このクソ暑い日にホットチョコレートなんて飲む気になれない。
「おや、もういいのかい? 外は寒かったんじゃないか?」
「え?」
「なにせ雪が降っているのだからね」
 組んだ指の上に顔を乗せ、安綺羽さんは私のことを見つめていた。
「あ、ああ……」
 安堵が胸いっぱいに広がり、全身が弛緩していくのがわかる。
 この人には見えている。
 孤独じゃないということが分かっただけで、救われた気分だった。
 落ち着いた心で、私はぽつりぽつりと一連の出来事を話しだした。


「なるほど、君は魔女を殺したいのだね」
 深山さんは、東崎さんと同じように静かに私の話を聞いていた。
「はい。それで……東崎さんは間に合わないからあなたを頼れと……」
「まったく……。日頃は僕のことを邪険にするくせにこういうときだけ。相変わらずかわいい子だね、彼女は。馴染みの紹介となれば無下にするわけにもいかないな」
 ……やはりこの人が深山安綺羽らしい。どう見ても、自分より年下の少女にしか見えないのに……。実年齢は三十歳を超えているということになる。若作りにもほどがある。
「率直に言うと、僕はもう諦めていてね。こうなった以上は、養分になる他ないよ。惟子の言うとおり、人間の二、三人が足掻いてどうにかなる相手じゃない」
「養分……?」
「なんだ、惟子から聞いていないのかい? 魔女という生き物はなんでも人間の感情エネルギーを食い物にするそうだ。君が見た溶けた同級生というのは養分を吸い取られた抜け殻なんだろう。我々もじきにそうなる」
「そんな……。私は嫌です。このまま死を待つだけなんて……」
「だったら、魔女を殺さないとねぇ」
「……深山さん、魔女について何か知りませんか。容姿とか居場所とか……。なんでもいいんです」
「さあ……生憎僕は惟子ほど感受性が強いわけじゃないからね。会ったことがない奴の居場所を探知したりはできないよ。ただ、推理することはできるかもね。碧海君、と言ったかな。溶けてしまった友人の言葉、よく思い出してもう一度聞かせてくれるかい?」
「はい。……ええと、お母さん……ええと、これはまた月宮恋衣っていう友人のお母さんですが……が溶けていて、殺してあげられなかったって……」
 そこまで言ってはっとする。
「美雪という友人は恋衣という少女に会いに行くと言っていたんだよね? そして、美雪君曰く恋衣の母親が溶けていたらしい。となればだ、両者は『月宮恋衣』という一人の人物で繋がるね。足掻きたいというのなら、君は彼女を探しに行くべきじゃないかな」
 そのとおりだ。なぜ今まで気付かなかったのだろう。超自然的な事柄が起こりすぎて、パニックになっていたみたいだ。
 私はいても立ってもいられず、席を立った。
 一刻も早く恋衣を見つけ出さないと。
 だが……。
「深山さん」
 その前にひとつ、聞いておかなければならない。
「一緒に恋衣を探してくれませんか」
 深山さんは目を伏せながら、自分の分のチョコレートを啜った。
 すでに諦めていると言った人間に、こんなお願いしても無駄かもしれない。だけど、一人で探すのは心細かった。
「……遠慮しておく。どうせ見つかるはずもないしね」
「……わかりました。深山さん、ありがとうございました」
 礼を言って、私は今度こそ研究所の外に向かう。
「待ちなよ。これを持っていくといい」
 振り返ると、深山さんは首にさげていたクロスのネックレスを外し、私に向かって放った。文化系で運動音痴の私は不器用にそれをキャッチする。
「僕は何もしてあげられないけど……惟子の紹介だというのに手ぶらで返すわけにはいかないからね。そのネックレスには防魔の効果がある。魔障に遭遇した時、少しだけ脅威を和らげてくれるよ」
 私はネックレスを握りしめると、深々と頭を下げて、研究所の外に出た。


 研究所を出た時点で、日は暮れかけていた。朱から紫に変わりゆく斜陽の中、私は恋衣の家へ歩みを進める。一瞬、ラインで連絡することも考えた。だが、それはダメだ。もし、恋衣が一連の現象に関わっているのならば……勘付かれて逃げられてしまうかもしれない。そう、私は恋衣が逃げる可能性にこの時点で思い及んでいた。
 つまり、恋衣が魔女に近しい者――もしかすると魔女ではないかと。
 聞いたことがある。恋衣は母親とうまくいっていないと。いや、うまくいっていないこととい表現では生ぬるいか。おそらく虐待されている。児童相談所の職員が恋衣の家を訪れているのを見たという話もある。
 恋衣の母と、美雪。
 両者に共通する要素は、恋衣に恨まれる覚えがあるということだ。
 無論、証拠などない。……私は直感で、恋衣が二人を溶かしてしまったのだと踏んでいた。
 もともと不気味な女だった。おかしくなる前から、人形好きでカルトじみた子だった。町を覆う現象は未だ不可解に思うが、その現象の中心が恋衣だとしても、そのことは別段、不思議に思わない。


 恋衣の家に行く前に一度帰宅した。
 魔女というのがどういう生き物かはわからないが……殺す以上武器が必要になる。台所に向かい、流し台の下の開きを開ける。そこにはずらりと包丁が並んでいる。その中で一番大きなものを手に持ってみた。だが、どうにも心許ない。大きいと言っても、その長さは三十センチにも満たない。もっとリーチの長いもの……理想を言えば槍や日本刀のような……殺傷力とリーチを兼ね備えたものがあればいいのだが……。
「あっ」
 思い出した。
 蔵に折り畳み式のつるはしがある。さすがに槍とまではいかないがリーチも攻撃力も十分だろう。
 靴をスニーカーに履き替え、私は蔵に向かう。無秩序に収納された道具の海の中からつるはしを見つけ出した。折りたたまれたそれは、大きめのポーチになら収用可能なほどにコンパクトだ。念のため、ちゃんと展開できることを確認する。鈍い光を放つ刃をじっと見つめ、考える。
これで私は本当に何かを殺すのだろうか。
 東崎惟子と深山安綺羽は、今起きている奇怪な出来事の数々は魔女によるものだという。私もこんな天変地異や怪奇現象が人間によるものだとは思っていない。けれど、実際に魔女というものを目にしたことがない私にとってはどこか現実離れした感覚は残っていたし、もし予測のとおり恋衣が魔女なのだとして、果たして殺す必要まであるのかという疑問もあった。
 こんな物騒なモノ、本当に引っ張りだしてくる必要があるのだろうか。
 しばらくつるはしとにらめっこした後、使うか使わないかは置いておいても、装備は充実していた方がいいだろうと考えた私は、持ってきたバッグにつるはしを折りたたんで入れた。そうだ、必要がなければ使わなければいいだけの話だ。


 恋衣の家に到着した時には、辺りは薄闇に包まれていた。はらはらと降る雪は先日よりも勢いを強めているようだ。恋衣の家は、中を満たしているじめじめとした静寂が溢れ出てきているかのように人の気配がなく不気味な様相を呈している。
 姫子を呼ぼうかと思い、ポケットの中の携帯電話に触れたがすぐに思いとどまった。彼女がいれば心強いが、あの子には雪が見えていない。
 どうしようもなく心細かったが、そこでポケットの中のネックレスの存在に思い当った。取り出して、首にかける。深山さんがついてくれている気がして、少しだけ心許なさが和らいだ。
 私はつるはしを取り出して組み立てると、恋衣の家のドアの前に立つ。ダメもとで取っ手に手をかけてみたが予想に反して抵抗なくドアが動いた。鍵がかかっていない。そこで、私の中の最後の常識が警鐘を鳴らした。
 ……インターフォンを押すべきじゃないか。
 思い返せば、恋衣がこの事件に関わっている確証はない。ただ、可能性が高いというだけだ。もし無関係であれば……取り返しのつかないことをしでかしてしまうかもしれない。
 目の前にある小さなボタン。これを押せば、まだ自分は常識の檻に守ってもらえる気がする。
 ………………。
 …………。
 ……。
 いや、押す必要はないだろう。
 どうせ、相手は恋衣だ。何をしても抵抗をしない従順な子なのだ。何か過ちを犯しても、殺さない限りはあとからごめんなさいで済むだろう。
 私はドアに手をかけ、なるべく音を立てないようにして取っ手を引いた。
 わずかに開いた隙間。そこに体を滑り込ませるようにして侵入し――何かに足を取られた。
ぬるりとした踏みごたえ。転んだ私は危うく持っていたつるはしに頭から突っ込みそうになった。
大きな音ともに扉が閉まった。家の中は明かりが点いていなくて、一メートル先も判然としない。
だから、最初に刺激された五感は臭覚だった。
生肉が腐ったような臭気。胃の中のモノが逆流しそうになるほどに強烈な――。
続いて、何かが足元で蠢いているのがわかった。
私の足を絡めとったナニカ。
それは、這うようにして、私の足を上ってきていた――。
「ひ、ひいぃ! いやっ!」
 半ば狂乱しながら足を振り回す。遠心力に負けて、ナニカは飛四散すると玄関ドアに打ち付けられ、ずるずると滑り落ちていった。 
「ああああああああああああああああ!!」
 私はつるはしを振りあげ、ナニカに向かって振り下ろした。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
 手応えはほとんどなかった。まるで水を打ち付けているかのよう。がつん、がつん、がつんと鶴の嘴は玄関を引っかいた。
 徐々に夜目がきいていくる。
 そうして、ナニカの正体がようやくわかった。
 恋衣の母親だ。
 美雪と同じように緑色の粘液と化した恋衣の母親の姿だった。
 気付いたときには、彼女は絶命していた。引きちぎられた破片がでたらめに飛び散って靴箱や傘立てを彩っていた。
 息を切らしながら、状況を推理する。
 美雪の言っていたことは正しかった。恋衣の母は、美雪と同じように確かに溶かされてしまっていたのだ。彼女は電話でそれを必死に伝えていたのだ。
 玄関口で蠢いていたのは……多分、恋衣の母親も美雪と同じように苦しかったからだろう。それで、死にたくて玄関に向かった。外に出て死ぬ方法を探そうとしたのだ。だが、液体と化した体では、ドアを開けることができず、途方に暮れていた。
 そこに私が来たのだ。そして、足元を注視していなかった私は誤って彼女を踏んづけてしまった。そして、殺した。
 ……だが、結果的には誤りではなかったと思う。
 美雪のことを思い出す。緑の中に浮かぶ苦しげな眼を。殺してくれと訴えてくる目玉。昨日の夜、彼女を殺してあげられなかった罪悪感は私の心を蝕んでいた。
 だから……ここで恋衣の母親を殺してあげられたことが、免罪符になる気がした。そう思えば、足元に在る破裂した目玉も、心なしか安らかな眠りについているように見えた。
 少し、頭が変になっている自分を感じる。粘液と化しているとはいえ、人間だったものを殺して罪悪感どころか免罪された気になるなんて……。溶けた人間を見るのは二回目だから慣れ始めているのだろうか。
 私はそれらの考えを振り払うように頭を振った。今すべきことは殺人の是非を自問自答することではない。
 ……恋衣を探さなければ。
 私はつるはしを握りしめ直す。蔵でつるはしを握った時に抱いた迷いは消え失せていた。
二階へ向かう。幼い頃、何度かこの家に来たことはある。恋衣の部屋は二階の一室だと記憶していた。
 ぎっ、ぎっ、ぎっ……。
 スニーカーが木製の階段を踏みしめる音が静寂を破る。どれだけ忍び足にしても発生する最低限の音量のはずなのに、やたら大きく響いてしまう。
 記憶を頼りに恋衣の部屋の前に辿り着く。閉じられているドアに、そっと耳を当てる。が、何も聞こえない。やはりこの家は無人だと思う。
 玄関ドアを開けたときよりは些か強気にドアを開ける。
 薄暗い部屋。
 恋衣はいなかった。
 そこは普通の子供部屋だった。ただどうにも殺風景な印象を受ける。何かが抜け落ちてしまったように、伽藍洞な空間。少し考え込んでようやくその疑念の答えがわかった。
 人形だ。
 昔、恋衣の家に来たときはそこかしこを人形が埋めて尽くしていたのだ。窓べり、机、ベッドに至るまで。子供部屋というよりは人形部屋と言った方が正しいくらいに……。
なのに、この部屋には一つも人形がない。成長とともに人形離れしたなんてことは彼女にはありえない。なぜならば、高校二年になった今でも、恋衣に人形趣味があることを私は知っているからだ。去年の海にさえ、特にお気に入りらしい汚い西洋人形を持ってきていたくらいなのだ。この部屋には、その西洋人形すらない。持って逃げたのだろうか。確かに二体、三体なら持ち歩くこともできるだろうが、この部屋にあった全てを持ち運ぶのは現実的とは言いがたい。ならばなぜ……。
 しばらく思案に耽ってみたが、結局どうして人形が消失しているのかという疑問に答えを出すことはできなかった。
 その後、すべての部屋を探したが、恋衣の姿を見つけることはできなかった。
 月宮邸をあとにした時にはもう夜更けといって差支えない時間になっている。
緊張の糸が切れたのか、家を出た途端、どっと疲労感が襲ってきた。……今日一日で精神的負担がかかる出来事が起こりすぎた。肉体が休息を求めている。
 私は鉛のような体を引きずって、いったん家に戻って仮眠をとることにした。深い黒色の空からしんしんと雪は降り続けている。よく見ればほんのりと道路や屋根にも積もりだしていた。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

まばたき怪談

坂本 光陽
ホラー
まばたきをしないうちに読み終えられるかも。そんな短すぎるホラー小説をまとめました。ラスト一行の恐怖。ラスト一行の地獄。ラスト一行で明かされる凄惨な事実。一話140字なので、別名「X(旧ツイッター)・ホラー」。ショートショートよりも短い「まばたき怪談」を公開します。

処理中です...