雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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碧海渚沙(七月三十日)

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七月三十日
 不快な臭いで目が覚める。
 異臭の元は両親の寝室、そのわずかに開いた戸の隙間から漏れ出てきていた。
 引き戸を開けて中を覗く。
 果たしてそこに両親はいなかった。
 窓ガラスを通して、爽やかな朝日が注いできている。それだけが部屋を照らし出す灯りだった。風に乗って流れくるキジバトの囀り。それは、眼下に広がる光景とはかけ離れた……今となっては遠く彼方の長閑な日常の名残。
 父と母は、人の形をしていなかった。在る物体は、布団と、その上に置かれたぐしゃぐしゃの二着の寝巻。寝巻の手足、そして首から緑色の液体が漏れ出し、異臭を放っているのだった。
 だが、美雪達のときと違い、両親は二人とも息絶えていた。命亡き流動体と化していたことだけが、私にとっては不幸中の幸いだったように思う。生きていたのなら、きっと私がとどめを刺さなければならなかったから。
 私はさしたる感動もなく寝室を後にする。親の死を悼まない娘だなんて、なんて親不孝なのだろう。でも、そういう生きた感情は死んでしまっていた。
 喉の奥に絡みつく異物を洗面台に吐き捨てる。それは緑色の痰のようだった。だが痰ではない。これは、私の体の一部だ。内臓の一部が融解・剥離し、食道を通じて排出されたのだ。
 胸元のクロスを握る。深山さんからもらった魔除けのクロスがなければ、きっと私も母さん達と同じ姿になっていただろう。
 目を上げ、洗面台の鏡を見る。ぎょっとした。栄養失調でやつれたような少女が映っている。落ちくぼんだ眼孔に、皮が張り付く骨。まるで死人のよう。それが私の姿だなんてにわかには信じられなかった。怖くなってクロスを強く握りしめた。金属が手のひらに食い込む痛み、それがまだ感じられる体であることに感謝した。

 ベッドに残っている液体の量が、どう見積もっても父母の体積に満たないのだ。布団に染み込んだり、気化した分を考慮したとしても、全部の残滓を合わせて一人分の量になるかも怪しい。深山さんが言っていた養分とはこういうことだろうか。栄養素を吸いつくされてしまったから、ここにあるのは残りかすだけと。そういうことだろうか。深山さんの言うように、魔女はこの町の人間を全て食らい尽くしてしまうのだろうか。だとしたら残された時間は少ない。
私は力の入らない体を持ち上げ、恋衣を探すべく再び町へ繰り出した。
 
 
 町は地獄絵図と化していた。
 降り積もる雪は勢いを増し、もはや足首付近が埋もれるほどの高さまで積もっている。その白の中、緑の染みがあちこちに点在している。無論、それが人間の末路だということは説明に及ばない。
 息が上がる。一歩進むごとに深呼吸が必要だった。顎を滴り、額を濡らす粘り気の強い汗は、うだるような熱気だけが原因ではあるまい。
 恋衣の捜索の途中、私以外にまだ立って歩ける人間もちらほら見かけたが、誰もかれも私以上に憔悴しきった様子で、当てもなく彷徨っているようだった。
 すれ違ったОLが短い断末魔とともに、緑の飛沫を口から吹いて倒れた。地面にしたたかに打ち付けた頭が風船のように割れて内容液をまき散らす。どこからか犬がやってきて、ぺろぺろと脳の名残を舐め取り、胃に収めていった。
 この町は終わりだという東崎さんの言葉を思い出す。事実、そのとおりになっていっている。だが、私はあんなふうにはなりたくない。犬の餌になる最期なんて絶対に……。


 駅前までやってきた。いつもなら歩いて十分程度の道程に、今日は何時間かかったのか、日はとっくに沈んでいる。遠目から電車は宮坂駅を無視して走っているのが見えた。外部への脱出はやはり期待できない。
 聞こえてくる電車の走行音に混じって、誰かの声が耳に届いた。その声は不協和音めいているものの、今の町の様子にはどうにも馴染んでいて心地よい。誘われるようにふらふらと声の元へ向かう。
 滝野だった。
 特に憔悴した様子もなく、あの日と同じようにアコギの弦を引っかいている。数人の男女が滝野の歌に聞き入っていて、彼らの足元には緑の染みが広がっている。まるで滝野を中心とした花弁のように。聞き入る連中は色のついた涙を澎湃と流して、最期の時を迎え泡沫へと弾けていた。
 ――持っていかれそうになる。
 彼女の歌声は……ほんの数日前、耳障りでしかなかったしゃがれ声が……今はこんなにも落ち着く。心地よい音色に安寧の幻を見る。このまま消えてしまうのが、一番幸せだと錯覚をもたらす。
 ああ、この声は、正に魔性と呼ぶにふさわしい――。
 瞬間、私の脳に電流が走った。魔性、その単語が深山さんや東崎さんの言葉と繋がった。続けて、電話口での恋衣の様子も思いだす。あの子は「魔女」という名詞にいまいちぴんときていないようだった。
 そこに、雪の中でもぴんぴんして、歌唱をしている滝野……。
 歩を進め、歌っている滝野の胸ぐらをつかむ。ほとんど寄りかかるような態勢だった。
「あなたが魔女ね」
 か細い声を絞り出して、糾弾する。
 滝野は歌うことを中断して、私の手を優しく握った。
 そして、じっと私と見るとゆるやかにかぶりを振った。
「嘘を言わないで。なら、どうしてあなただけが元気なの」
「僕は賛美歌を歌っているから」
 滝野の声は、地の底から響くような穢らわしい声で答えた。
「もう頑張るのはやめようよ。僕達が頑張ってどうこうできる領域の話じゃないんだ。ごらん、この雪を。人を沈黙させる白を。何か、人間より強大な何かがこの町を終わらせようとしている。人間を嫌う何かが……人間を消去しようとしている。さあ、僕の歌に耳を傾けて。僕のステージだけが、声が届く範囲が、この町の残された唯一の極楽だ。だから……」
 滝野は歌を再開する。途端、暴力的なまでに強い微睡が私の意識をさらおうとする。たまらず私はその場に膝をついた。弛緩しきってしまった肉体にはもう力が入らない。そのゆるみに精神も引きずられてしまう。
 ……これでいいのかもしれない。
 誰だって、死について考えたことはあると思う。全人類共通の関心事は、「いかに楽な死を迎えるか」だ。もし比喩でなく真実として「眠るように安らかに死ぬ」ことができるなら、喜んで命を差し出す人間はかなり多いのではないかと思う。
 滝野がもたらそうとしているのはまさにそれだ。
 もう雪原を犬みたいに走らなくていい。魔女の正体を色々勘ぐらなくていい。水泡に帰す同類に恐怖しなくていい。彼らを殺せなかった罪悪感に頭を抱えなくていい。
 ――もう生きるために苦しまなくていい。
 気力を失った上体が雪の中に倒れる。私の顔の半分が白に埋もれた。
 ああ、なんて気楽。
 雪はまるで温度がなくて、むしろ雲に近い。心地よい羽毛のようにふかふかと柔らかい。これに身を任せて死ねるのなら上等な最期だろう。
 私は目を閉じる。あとを滝野と雪に任せて。
 静観に身を落とす。
 ………………。
 …………。
 ……。
 鼻がむずかゆい。
 呼吸に際して、埃か何かを吸い込んでしまったようだ。
 強く鼻息を漏らして詰まった何かを放り出した。
 何が入ってきたのだろう。
 私は目を開けてソレを探す。
 ……探すまでもなかった。
 だって、それは雪だったから。
 鼻水に濡れそぼって、力なく横たわっている粉雪。
 雪の上に横たえられた雪。
 全身をおぞ気が走る。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。
 どうして今までちゃんと見なかったのだろう。
 それは、最初から決めつけてしまっていたから。
 空から降ってくる柔らかな白いモノを。
 ――雪だと。
 なんて、愚か。
 このとき、私はようやく、降雪が始まって数日してから初めて、『雪』をちゃんと見たのである。
 目の前に積もるたくさんの白。悍ましいほどに積みあがったソレは。
 ――虫だ。
 白い羽毛に覆われた細かな虫。微小な白い蛾のような生物。それが『雪』の正体。
 声にならない悲鳴とともに私は跳ね起きると、体中にまとわりついたソレを払い落した。汗で張りついている死骸も可能な限り手でたたき落とした。潰れてバラバラになった肢がまだ指先に付着しているのに気付いて、ヒステリックに何度も手を叩いた。
 けれど、きりがない。だって払っても払っても、次から次へと空から雪虫が降ってくるのだから。
「何よこれ! 何なのよこれ!」
 虫が心底苦手な私は半狂乱になりながら、滝野に詰め寄った。滝野にどうにかできるかはわからなかったが、とにかく誰かに縋らなければどうにかなってしまいそうだった。
「妖精だよ。そうあの人は言ってた」
 妖精? ふざけるな。こんな虫けらを雪の妖精とでも言いたのか。
「君にも見えるんだろ? ならあちらをごらんよ」
 滝野が山の方を指差す。
「目を凝らして」
 見つめていると、彼女が指差す方向に仄かな光が浮遊して飛んでいくのが見えた。その光は、雪虫の無温の白ではなく、生命の温かみを感じる蛍光をしていた。
「妖精が集めた光は、全部あそこに向かってる。どうしても君が全てを知りたいのなら、最後まで苦しんで抗いたいのなら、向かうといい。なんの保証も僕はできないけど」
 私は虫の死骸でできた雪原を蹴って走った。
 ヒステリックになったおかげで少しだけ体力が戻ったようだった。だがこれは火事場の馬鹿力というものだろう。長くは持たない。


 燐光が向かっていたのは山ではなく、山のふもとにある建物の屋上だった。
 深山昆虫学研究所だ。
 研究所にはすでに大勢の人間が群がってきていた。群衆の目には空恐ろしい光だけが宿っている。それは、研ぎ澄まされた本能、生存への願望であった。彼らの目や挙動は虚ろであるのに、その昏い闇の奥底で生存本能だけがぎらぎらと飢えた光を放っているのである。包丁、斧、はさみ。手には様々な凶器。彼らは本能的に理解しているようだった。ここに殺すべきナニカがいると。彼らの動きは魂の宿っていないものであったが、それでも孤軍奮闘してきた私にとっては心強い味方に思えた。
 研究所の扉は破壊されていた。深山昆虫学研究所と書かれたプレートが幾度となく暴力にさらされた形にひん曲がって地面に落ちている。群衆に紛れて、私も中に入る。二階に続く階段付近で黒い物体が転がっているのがわかった。
 深山安綺羽だった。
 黒いドレスに身を包んだ彼女は、頭蓋に穴をあけて死んでいた。暴徒にやられたであろうことは言うまでもない。鋭利な武器で頭を突かれたか、傍らに転がっている銃で頭を打ちぬかれたか……。なんであれ、彼女は襤褸切れのように息絶えていた。暴虐の群れは、死骸を虫けらのように踏みつけて階段を上がっていた。蝶の翅のように美しかったドレスは破れて泥まみれになっていた。小柄な体を踏み抜く大きな足。食い込むたび、身体の穴から緑色の体液を漏らしていた。
 せめて生きているならば、お礼の一言でも言いたかったのに。だが死体相手にありがとうというのもなんだかそぐわない気がする。それより先に冥福を祈ったりするべきではないだろうか。
 結局、かける言葉を見つけられないまま、せめて自分だけは踏んで汚さないようにと気をつけながら、私は屋上への歩みを進めた。
 

 白の積もる屋上。眺望できる町景色はまるで雪化粧が施されたかのように霊妙な美しさ。電気による人工の明かりが消え、人知を超えた雪灯りに照らし出される人間の遺跡。
 果たして屋上の最奥にその人はいた。
 ――月宮恋衣。
 人形を胸に抱えた彼女は、何十人もの人々に取り囲まれて尚超然としていた。何か余裕があるようにも見えるし、不退転の覚悟を決めたようにも見える。町から飛んできた燐光はすべて彼女に向かっている。
 暴徒達はなぜか攻めあぐねていた。本能だけの存在となった彼らは、故に本能的に彼女を恐れているのだと思った。それで、私は再度確認した。
 彼女、月宮恋衣こそが魔女なのだと。
 だから、ここは理性残る私が、本能を理性で制して、幕を切るしかない。
 バッグからつるはしを取り出し、組み立てる。十秒もかからない。
 雄叫びを上げながらそれを振りかぶって恋衣に駆け寄ると、彼女の頭に向かって振り下ろした。会話の必要もない。もはや私達は同級生どころか同族ですらないのだ。恋衣はとっさに反転し、私に背を向けた。致命傷を避けようとしたのだろう。小さな背中に深々とつるはしが突き刺さる。
 それで、堰を切ったように亡者の群れが殺到する。殺意を凶器に宿して異形に振るう。恋衣の肉体は様々な武器の形に削り取られ飛び散り、穿たれていった。
 なんだ、大したことはない。何か超自然的な抵抗があるのかと危ぶんでいたのだが、それもない。亀のように丸まっているだけ。月宮恋衣は最後まで月宮恋衣らしく寡黙で、人間の暴力に反応を示さなかった。 
 打ち据え、抉り取る度に、月宮恋衣は赤黒い肉塊へと形を変えていった。そうして、やがて月宮恋衣の原型をとどめなくなった。間違いなく生命を維持できない形へと変貌を遂げた。
 終わった。
 魔女を殺した。
 これで、雪がやみ、町は救われるはず。
 役目を終えた亡者達は、糸が切れた人形のように脱力して空を見上げている。
 だというのに。
 私も空を見上げる。
 まだ煩わしい雪は降り続けている。
 白い羽毛の虫は乱舞を続けている。
 まだ終わっていないというのか。
 肉塊を見る。
 ふと気になった。
 肉塊は何かを覆っているように膨らんでいる。
 私はつるはしで肉塊を何かから剥がそうとしたが、どうにも不器用な動きしかできず成功しない。そこで、汚れる覚悟を決めて素手で剥がしにかかった。手のひらに伝わる生温かい体温。この物体が一分前まで生き物だったことの名残。赤い粘液を引きながら水音とともに肉が剥離する。内包されていたのは――。
 人形だった。
 それは、恋衣が胸に抱えていた人形だった。彼女が特に気に入っていた、薄汚い西洋人形。あれだけの暴虐の嵐の中であってなお無傷で存在している。
 私の中の時間が止まる。
 状況が全く分からない。肉塊が、いや、月宮恋衣がなぜ後生大事に人形を抱えていたのか……。人形趣味あるとはいえ、自分の命を賭してまでなぜ……。
そこで背後から形容しがたい叫び声が聞こえて、私の思考は途切れた。
 振り返れば、肉の塊が――いかようにしてかは全く不明なのだが――私に向かって覆いかぶさるように襲い掛かってきていた。
 私はこの世ならざる光景に腰を抜かして、背後に倒れ込んだ。それが功を奏し、肉塊ののしかかりは私から外れ、人形の上に倒れこんだ。
 私はしばらく動けなかった。ただ茫然と隣に横たえられた赤を見ていた。気付かなかった。いや、気付くはずがあるだろうか。これがまだ生きているなんて。肉は呼吸するように上下している。筋線維は伸縮を繰り返している。肉は脈動している。
 私は再びつるはしを手にすると半狂乱になって赤い肉に振り下ろした。
 何度も、何度も、何度も、何度も。
 振り下ろす度、徐々にそれは弱っていき、やがて完全に静止した。
 つるはしを持ち上げる。刃の先にひっかかった肉がぶらりと垂れ下がった。振り払うと、肉は紅い飛沫をまき散らしながら汚らしい水音を立てて雪に埋没した。
 そして、雪がやんだ。
 あたりにしんとした静けさが広がる。それは、雪国の寒々しさを彷彿と察せる無情の静寂であった。
 突如、やわらかな極光が広がった。
 屋上の一部から、それは雪のように冷たい純白を迸らせた。
 終わった。 
 今度こそ終わった。
 すべて終わった。
 東崎惟子は言っていた。
 助かる道はないと。
 そのとおりになった
 深山安綺羽は言っていた。
 諦めていると。
 それは正しかった。
 答えは最初から出ていて、先人達はそれを知っていた。
 三対六枚の発光の翼。熾天使を思わせる輝き。
 それは人が目にしてはならない光。
 刻まれるは人が識ってはならない紋様。
 処理能力を超えた計算に耐え切れず、脳が融解を始める。
 数秒前まで脳だったものを耳から垂れ流す。
 発熱にがくがくと震えて光の翼を見上げる。
 理解した。 
 私は最初からすべて誤っていたのだと。
 私は最後まで静観しかできなかったのだと。
 この町は滅ぶ。
 浄化の光は、人間という虫けらを全て掻き消していく。
 私達の文明すら焼き払い、残るのはただの遺跡だけ。
 高貴なる輝きは二度と何人も寄せ付けまい。
 存在が消滅する寸前、蕩けた脳で私は思った。
 滝野の言うとおりだった。
 こんなことなら、私はあの雪に埋もれて眠ってしまえばよかったのだ。
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