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深山安綺羽(七月三十日)
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七月三十日
宿主に変化なし。いつものように玩具で遊んでいる。人形を愛おしそうに抱き、優しげな声で物語を紡ぐ。
一方、僕の容体の方に変化が現れた。判然としない思考にふらつく頭。咽込むと、緑色の痰が手を汚した。クロスを手放したことで無欠の魔匠に穴が空いてしまったせいか、あるいはそもそも防ぎきれるものではないのか、身体の裡を魔障に食い散らかされている。だが、問題はない。羽化まで持てばいい。発生から今日で十一日目。守り人の言葉を信じるならば、今日にも識への羽ばたきが起こる。僕の体は、その瞬間まで持てばそれでいい。
夜分、屋上に出る。煙草を取り出し、紫煙を燻らせながら闇に落ちた町を俯瞰した。ほんの一週間前まで、ここからの景色は騒々しいものだった。人の手に作られた、いびつなほどに白い光が、星光さえも掻き消して己の存在を主張していた。だが今や不自然は全て沈黙している。まるで人間全てが死に絶えてしまったように。眼下に広がるのは静かな深海の海だ。
目を閉じ、夢想する。
もし僕に眼があったなら。魔性を知覚する感受性がまだ残っていたのなら。
今、僕の下に広がるのは、美しい銀世界に違いない。
その白は一体どんな白だろう。
人を包む温かみを帯びた白、極北のような零下の白、それとも一切の汚れを廃絶する潔癖の白。
ふっ、と。
視界をひとひらの粉雪が横切ったように思った。
無論、ありえない。だって僕は今も目をつむっているのだから。
けれど、もしかしたら。
万一に縋って、ゆっくりと瞼を開ける。
そして、小さく自嘲した。
広がっているのは、寸刻先と変わらぬ黒の海。
唯一の灯りと言えば、手元の煙草の仄かな火だけ。
僕は煙草を屋上の外へ放った。
これでは、目を開いているのも閉じているのも変わらない。
結局僕は……惟子の言うように最後まで無才の人間なのだろう。
小さくなっていく煙草の火を見届けていると、黒の海中で影が揺らめいていることに気付いた。
目を凝らして、それが人影であることに気付き、全身から血の気が引いた。
何人もの人間が研究所に群がっている。手には思い思いの凶器の数々。
考えるよりも先に直感した。
恋衣が狙われている。
急ぎ屋上から降る階段へ向かう。背後から金属音が追いかけてきた。ドアに鈍器が叩きつけられた音に違いない。恋衣に屋上に避難するように命令した。二階の自室に飛び込みながら、どうして人間が研究所を襲うのか、恋衣の居場所がわかったのかを考える。寄生体は人の生命力と感情を糧に成長する生き物だ。今回の場合、感情の吸収というのが重要なファクターだろう。感情を失った人間に残されるのは、本能だけである。むき出しになった本能はこれ以上なく研ぎ澄まされ、文字通り本能的に外敵の居場所を把握できるまでになったのだ。
窓際の西洋机の引き出しを開ける。
出てきたのは、クラシカルなフリントロック式の短銃だ。弾や槊杖も一緒に収納されている。無論。銃を所持する正当な許可など貰っていない。この古銃に施されている現代的な改造についてなど言わずもがな。出来ることならばもう使いたくはなかったが。
火薬を取り出しながら、窓下を一瞥し、自身の楽観をあざ笑う。人殺しの覚悟はしていたし、数人なら殺してきた。だが、最後にこれほどまでに大勢の人間を、それも一度に相手にすることになるなど夢にも思わなかった。
僕の計算では、僕が生涯に行う殺人の数はそう多くならないはずだった。たとえば、幼生の確保のために競争相手を殺すだとか、エクソシストめいた十字架持ちを殉教させるだとかのケースが、羽化させるまでに行いうる殺人のケースだった。どう多めに見積もっても、せいぜい両の手の指で数え終わる回数で済むだろうと踏んでいたのだ。
それがなんだ、この亡者の数は。
機関銃でも用意しておくべきだったかと自嘲しながらも、短銃を準備する手は止めない。火薬を入れ、槊杖で弾丸を押し込み、ハンマーを起こす。指は迷いなく動く。眠っていたってできる作業だ。窓から半身を乗り出し、銃身をやや下方に向けた。ここからなら玄関を狙い撃つことができる。スコップで扉を殴りつけている男に向けて、引き金を引く。
炸裂音とともに、暗闇を強烈な赤の閃光が照らした。鉛玉に貫かれた男は、緑に染まった頭部の欠片をまき散らして崩れ落ちる。白煙に包まれながら次弾と火薬の装填に取り掛かる。
しかし、本当に向いてない。
冷汗が額に浮かび、頬を伝っていく。
フリントロックなんてアンティーク、いくら改造しているとはいえ、実戦にはとても向いてない。なにせ一発撃ちきりなのだ。装填には慣れた者でも数十秒はかかる。
窓から聞こえてくる怒声と、鉄がひしゃげるような音。銃身に突っ込む槊杖に力がこもった。機関銃とまでいかなくとも、大人しくレディース用のハンドガンを買っておけば、こんな手間はいらなかっただろうに。
だが、コイツを買ったことを後悔してない。
だって、僕にはこれしかありえない。
なにせ、ハンドガンは浪漫が足りない。
扱いやすさや利便性で、遥かにフリントロックを上回ることは知っている。そういう高性能の近代兵器が、吐いて捨てるほど存在することを知っている。だが、無骨な兵器然とした鈍色の鉄塊に、僕は僅かの浪漫も覚えなかった。
再び、窓から敵を狙い撃つ。フリントロックは滑腔式であるため銃そのものの命中精度はお世辞にも高いとは言えないが、放たれた弾丸はまるで吸い込まれるように標的の頭に向かい、緑の花火をぶちまけさせる。
満足感に陶酔しながら、持ち手にあしらわれた蝶の華飾を指で撫でた。これが僕の士気と集中力を飛躍的に向上させる。他の銃では――それがどんなに性能が高くとも――僕には扱えないのである。
――だって、僕は蝶なのだから。
僕が追い求める像、美意識に反する道具では、どれだけ高性能でもすべて無用の長物になり下がるのだ。
狙撃するたび、ハイになっていくのがわかる。装填速度が加速し、命中精度も向上していく。狙いをつけてから発射するまでの時間も短くなっていった。最終的には、装填から発射までに十秒かからないほどに――。
白煙の中を舞う黒い鱗粉、時々上がる小さな花火。指の間でステッキのように槊杖を回転させる。装いも合わさって、さながら奇術師にでもなった心持ちだ。だが、奇術師は奇術師であって、魔術師ではない。巧みな手品は魔法のように装填間隔を短縮させるが、魔法ではないから完全に隙をなくすことなどできるはずがない。
耳を塞ぎたくなる不吉の破壊音。玄関ドアが破られたことが分かった。
最後の装填を済ませ、僕は部屋を出た。
段まで来ると、ちょうど先陣を切る男が一階から駆け上がってくるところだった。男が見上げるより早く、脳天に弾丸をぶち込んだ。
倒れた男が一瞬だけ後続を足止めしてくれた。が、すぐに次の男が上ってくる。そいつの額に銃の持ち手の底を叩きつけてかち割った。金色の蝶の装飾はその複雑な文様により、雅さに似つかわしくない殺傷能力を生み出した。
上階で迎え撃った方がいいだろう。専守防衛に努めるべきだ。先に待つ敗北は変わらずとも、高さという地の利を利用して抗戦した方が時間が稼げる。そんなことは、これまでの戦闘経験から分かっている。
だが、僕は階段を蹴り、死へと羽ばたいた。飛翔への欲求を抑えられなかった。中空で銃を振り下ろし、次なる敵を殴りつけた。赤のマニキュアを塗った爪が砕け、緑の血しぶきを撒き散らした。僕には武術の心得がある、それが火事場の馬鹿力も合わさって、自分でも驚くような戦闘能力となった。なにせ襲い掛かる殺意の手拳が全てスローモーションに見えるのだ。ドレスを翻して掻い潜り、銃で対象の顎を砕いた。
は、はは――――!!
大量の脳内麻薬が分泌される。
極度の興奮状態で、蝶に近付く自分を感じる。視界の端ではためく黒の袖に蝶の翅を幻視し、本来の自分の姿を思い出す。
この世は所詮『胡蝶之夢』。
幼い僕は見たのだ。
次元の裂け目に飛んでいく輝く蛾を。あれを見てから、僕は現世の全てが張りぼての景色にしか見えなくなってしまったのだ。こことは違う世界が存在し、それはきっと素晴らしい場所だと夢想するようになってしまったのだ。
まもなく。まもなくだ。
羽化さえ終えれば、ここは完全になる異界になる。識への羽ばたきが、人が手を出してはならない知識の奔流となり、痴愚なる人類と幼稚な文明を薙ぎ払い、別次元への扉を繋いでくれるだろう。僕は醜い肉の器から解放され、アルベキ姿に戻る。蝶の姿、本当の僕の姿に。ああ、人間にしてはこれはまずまずの終点だ。まだ人の身であるうちから、こうまで蝶に近付けるなんて。
思い出す。幼かったのあの日。
遠くを飛んでいった銀色の影。
五感を突き裂き、破壊する美。
アレを目にして以来、僕は蝶の虜なのだ。
アレを目にして以来、僕は虫の殉教者なのだ。
アレを目にして以来、僕は夢を見続けている。
ともすると、それは僕であり、私でないかもしれなない。
ともすると、これは私の感覚ではないかもしれない。
ともすると、これは私の意思ではないかもしれない。
ともすると、本来の私は、人間に美を見いだせる子だったのかもしれない。
ともすると、幼心に受けた翅の照射で、どこかを壊してしまったのかもしれない。
だけど、なんて忌まわしい。
なぜ私に翅がないのか。
なぜ私の手足は四本しかないのか。
なぜ私の目玉はふたつしかないのか。
なぜ私は夢の世界を許容できないのか。
なぜ人間という夢の容はこうも不細工なのか。
けれど、大丈夫。もう終わりだ。
彼女が覚醒させてくれる。
次元を超越する翼で、私を連れ出してくれる。
この不自由な夢物語から。
ようやく長かった悪夢から目醒めるのだ。
この胡蝶之夢から――。
がつんという硝石をこそぎ落とすような掘削音。
その音は奇妙なことに、僕の外と中から同時に聞こえてきた。
奥歯まで震わす脳天からの衝撃。終わりの撞鐘だった。
亡者のひとりが。でたらめに振りおろしたつるはし。いかに人間離れした動きをしようが、物理的にどうしても生じる隙にたまたま振り下ろされたそれは、僕の頭に突き刺さり、頭蓋を砕いて脳に大穴をあけた。だが神の慈悲深いことには、刃が脳髄に届くまで僅かな猶予があった。その瞬刻に僕は願う。月宮恋衣の無事を。月光蛾の万全の羽化を。所詮僕は人間だ。僕に彼らをとらえることはできないから、月宮君、君に託そう。君が無事羽化さえしてくれれば、僕は異形の虫に生涯を狂わされたと恨めしく思わなくてすむだろう。君の生誕こそが僕の魂において至上の慰めとなるのだ。だからあと少し。ほんのわずかな時間を、どうか無事で。
虫けらのように地に落ちる自身の翅を見届けて、僕は決して日の昇らぬ暗黒にさらわれていった。
宿主に変化なし。いつものように玩具で遊んでいる。人形を愛おしそうに抱き、優しげな声で物語を紡ぐ。
一方、僕の容体の方に変化が現れた。判然としない思考にふらつく頭。咽込むと、緑色の痰が手を汚した。クロスを手放したことで無欠の魔匠に穴が空いてしまったせいか、あるいはそもそも防ぎきれるものではないのか、身体の裡を魔障に食い散らかされている。だが、問題はない。羽化まで持てばいい。発生から今日で十一日目。守り人の言葉を信じるならば、今日にも識への羽ばたきが起こる。僕の体は、その瞬間まで持てばそれでいい。
夜分、屋上に出る。煙草を取り出し、紫煙を燻らせながら闇に落ちた町を俯瞰した。ほんの一週間前まで、ここからの景色は騒々しいものだった。人の手に作られた、いびつなほどに白い光が、星光さえも掻き消して己の存在を主張していた。だが今や不自然は全て沈黙している。まるで人間全てが死に絶えてしまったように。眼下に広がるのは静かな深海の海だ。
目を閉じ、夢想する。
もし僕に眼があったなら。魔性を知覚する感受性がまだ残っていたのなら。
今、僕の下に広がるのは、美しい銀世界に違いない。
その白は一体どんな白だろう。
人を包む温かみを帯びた白、極北のような零下の白、それとも一切の汚れを廃絶する潔癖の白。
ふっ、と。
視界をひとひらの粉雪が横切ったように思った。
無論、ありえない。だって僕は今も目をつむっているのだから。
けれど、もしかしたら。
万一に縋って、ゆっくりと瞼を開ける。
そして、小さく自嘲した。
広がっているのは、寸刻先と変わらぬ黒の海。
唯一の灯りと言えば、手元の煙草の仄かな火だけ。
僕は煙草を屋上の外へ放った。
これでは、目を開いているのも閉じているのも変わらない。
結局僕は……惟子の言うように最後まで無才の人間なのだろう。
小さくなっていく煙草の火を見届けていると、黒の海中で影が揺らめいていることに気付いた。
目を凝らして、それが人影であることに気付き、全身から血の気が引いた。
何人もの人間が研究所に群がっている。手には思い思いの凶器の数々。
考えるよりも先に直感した。
恋衣が狙われている。
急ぎ屋上から降る階段へ向かう。背後から金属音が追いかけてきた。ドアに鈍器が叩きつけられた音に違いない。恋衣に屋上に避難するように命令した。二階の自室に飛び込みながら、どうして人間が研究所を襲うのか、恋衣の居場所がわかったのかを考える。寄生体は人の生命力と感情を糧に成長する生き物だ。今回の場合、感情の吸収というのが重要なファクターだろう。感情を失った人間に残されるのは、本能だけである。むき出しになった本能はこれ以上なく研ぎ澄まされ、文字通り本能的に外敵の居場所を把握できるまでになったのだ。
窓際の西洋机の引き出しを開ける。
出てきたのは、クラシカルなフリントロック式の短銃だ。弾や槊杖も一緒に収納されている。無論。銃を所持する正当な許可など貰っていない。この古銃に施されている現代的な改造についてなど言わずもがな。出来ることならばもう使いたくはなかったが。
火薬を取り出しながら、窓下を一瞥し、自身の楽観をあざ笑う。人殺しの覚悟はしていたし、数人なら殺してきた。だが、最後にこれほどまでに大勢の人間を、それも一度に相手にすることになるなど夢にも思わなかった。
僕の計算では、僕が生涯に行う殺人の数はそう多くならないはずだった。たとえば、幼生の確保のために競争相手を殺すだとか、エクソシストめいた十字架持ちを殉教させるだとかのケースが、羽化させるまでに行いうる殺人のケースだった。どう多めに見積もっても、せいぜい両の手の指で数え終わる回数で済むだろうと踏んでいたのだ。
それがなんだ、この亡者の数は。
機関銃でも用意しておくべきだったかと自嘲しながらも、短銃を準備する手は止めない。火薬を入れ、槊杖で弾丸を押し込み、ハンマーを起こす。指は迷いなく動く。眠っていたってできる作業だ。窓から半身を乗り出し、銃身をやや下方に向けた。ここからなら玄関を狙い撃つことができる。スコップで扉を殴りつけている男に向けて、引き金を引く。
炸裂音とともに、暗闇を強烈な赤の閃光が照らした。鉛玉に貫かれた男は、緑に染まった頭部の欠片をまき散らして崩れ落ちる。白煙に包まれながら次弾と火薬の装填に取り掛かる。
しかし、本当に向いてない。
冷汗が額に浮かび、頬を伝っていく。
フリントロックなんてアンティーク、いくら改造しているとはいえ、実戦にはとても向いてない。なにせ一発撃ちきりなのだ。装填には慣れた者でも数十秒はかかる。
窓から聞こえてくる怒声と、鉄がひしゃげるような音。銃身に突っ込む槊杖に力がこもった。機関銃とまでいかなくとも、大人しくレディース用のハンドガンを買っておけば、こんな手間はいらなかっただろうに。
だが、コイツを買ったことを後悔してない。
だって、僕にはこれしかありえない。
なにせ、ハンドガンは浪漫が足りない。
扱いやすさや利便性で、遥かにフリントロックを上回ることは知っている。そういう高性能の近代兵器が、吐いて捨てるほど存在することを知っている。だが、無骨な兵器然とした鈍色の鉄塊に、僕は僅かの浪漫も覚えなかった。
再び、窓から敵を狙い撃つ。フリントロックは滑腔式であるため銃そのものの命中精度はお世辞にも高いとは言えないが、放たれた弾丸はまるで吸い込まれるように標的の頭に向かい、緑の花火をぶちまけさせる。
満足感に陶酔しながら、持ち手にあしらわれた蝶の華飾を指で撫でた。これが僕の士気と集中力を飛躍的に向上させる。他の銃では――それがどんなに性能が高くとも――僕には扱えないのである。
――だって、僕は蝶なのだから。
僕が追い求める像、美意識に反する道具では、どれだけ高性能でもすべて無用の長物になり下がるのだ。
狙撃するたび、ハイになっていくのがわかる。装填速度が加速し、命中精度も向上していく。狙いをつけてから発射するまでの時間も短くなっていった。最終的には、装填から発射までに十秒かからないほどに――。
白煙の中を舞う黒い鱗粉、時々上がる小さな花火。指の間でステッキのように槊杖を回転させる。装いも合わさって、さながら奇術師にでもなった心持ちだ。だが、奇術師は奇術師であって、魔術師ではない。巧みな手品は魔法のように装填間隔を短縮させるが、魔法ではないから完全に隙をなくすことなどできるはずがない。
耳を塞ぎたくなる不吉の破壊音。玄関ドアが破られたことが分かった。
最後の装填を済ませ、僕は部屋を出た。
段まで来ると、ちょうど先陣を切る男が一階から駆け上がってくるところだった。男が見上げるより早く、脳天に弾丸をぶち込んだ。
倒れた男が一瞬だけ後続を足止めしてくれた。が、すぐに次の男が上ってくる。そいつの額に銃の持ち手の底を叩きつけてかち割った。金色の蝶の装飾はその複雑な文様により、雅さに似つかわしくない殺傷能力を生み出した。
上階で迎え撃った方がいいだろう。専守防衛に努めるべきだ。先に待つ敗北は変わらずとも、高さという地の利を利用して抗戦した方が時間が稼げる。そんなことは、これまでの戦闘経験から分かっている。
だが、僕は階段を蹴り、死へと羽ばたいた。飛翔への欲求を抑えられなかった。中空で銃を振り下ろし、次なる敵を殴りつけた。赤のマニキュアを塗った爪が砕け、緑の血しぶきを撒き散らした。僕には武術の心得がある、それが火事場の馬鹿力も合わさって、自分でも驚くような戦闘能力となった。なにせ襲い掛かる殺意の手拳が全てスローモーションに見えるのだ。ドレスを翻して掻い潜り、銃で対象の顎を砕いた。
は、はは――――!!
大量の脳内麻薬が分泌される。
極度の興奮状態で、蝶に近付く自分を感じる。視界の端ではためく黒の袖に蝶の翅を幻視し、本来の自分の姿を思い出す。
この世は所詮『胡蝶之夢』。
幼い僕は見たのだ。
次元の裂け目に飛んでいく輝く蛾を。あれを見てから、僕は現世の全てが張りぼての景色にしか見えなくなってしまったのだ。こことは違う世界が存在し、それはきっと素晴らしい場所だと夢想するようになってしまったのだ。
まもなく。まもなくだ。
羽化さえ終えれば、ここは完全になる異界になる。識への羽ばたきが、人が手を出してはならない知識の奔流となり、痴愚なる人類と幼稚な文明を薙ぎ払い、別次元への扉を繋いでくれるだろう。僕は醜い肉の器から解放され、アルベキ姿に戻る。蝶の姿、本当の僕の姿に。ああ、人間にしてはこれはまずまずの終点だ。まだ人の身であるうちから、こうまで蝶に近付けるなんて。
思い出す。幼かったのあの日。
遠くを飛んでいった銀色の影。
五感を突き裂き、破壊する美。
アレを目にして以来、僕は蝶の虜なのだ。
アレを目にして以来、僕は虫の殉教者なのだ。
アレを目にして以来、僕は夢を見続けている。
ともすると、それは僕であり、私でないかもしれなない。
ともすると、これは私の感覚ではないかもしれない。
ともすると、これは私の意思ではないかもしれない。
ともすると、本来の私は、人間に美を見いだせる子だったのかもしれない。
ともすると、幼心に受けた翅の照射で、どこかを壊してしまったのかもしれない。
だけど、なんて忌まわしい。
なぜ私に翅がないのか。
なぜ私の手足は四本しかないのか。
なぜ私の目玉はふたつしかないのか。
なぜ私は夢の世界を許容できないのか。
なぜ人間という夢の容はこうも不細工なのか。
けれど、大丈夫。もう終わりだ。
彼女が覚醒させてくれる。
次元を超越する翼で、私を連れ出してくれる。
この不自由な夢物語から。
ようやく長かった悪夢から目醒めるのだ。
この胡蝶之夢から――。
がつんという硝石をこそぎ落とすような掘削音。
その音は奇妙なことに、僕の外と中から同時に聞こえてきた。
奥歯まで震わす脳天からの衝撃。終わりの撞鐘だった。
亡者のひとりが。でたらめに振りおろしたつるはし。いかに人間離れした動きをしようが、物理的にどうしても生じる隙にたまたま振り下ろされたそれは、僕の頭に突き刺さり、頭蓋を砕いて脳に大穴をあけた。だが神の慈悲深いことには、刃が脳髄に届くまで僅かな猶予があった。その瞬刻に僕は願う。月宮恋衣の無事を。月光蛾の万全の羽化を。所詮僕は人間だ。僕に彼らをとらえることはできないから、月宮君、君に託そう。君が無事羽化さえしてくれれば、僕は異形の虫に生涯を狂わされたと恨めしく思わなくてすむだろう。君の生誕こそが僕の魂において至上の慰めとなるのだ。だからあと少し。ほんのわずかな時間を、どうか無事で。
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