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一話 江戸時代の妖怪

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 静岡には、徳川家康が築城した駿府城があった。
 天守閣は駿河湾を望み、視線を北東に向ければ雄大な富士がそびえる。

 この駿府城には、肉人が現れたという有名な話がある。

 徳川家康が、帝より将軍を任じられたのが1603年。
 その6年後。1609年のある朝のこと、駿府城の庭に、奇怪なモノが現れたのだ。
 
 人の形をした肉の塊である。
身の丈は、子供ていど。
 その肉人とでも言うべきモノは、何を伝えたかったのか、指の無い手で、しきりに天を示す仕草をくりかえした。
 警護の者たちが集まったが、肉人は、見かけに反して素早く、なかなか捕らえることが出来ない。

 当時、家康は、将軍職を息子の秀忠に譲り、江戸を離れて駿府城に戻っていた。
 将軍職を譲ったといっても、政治の実権は離さず、大御所と呼ばれていた。

 報せを受けた家康だが、肉人に興味を持たなかった。
 「無理に捕らえずとも良い。見えぬところへ追い払え」
そう命じ、肉人は、家来たちによって城外へと追い立てられ、山の方へと姿を消した。

 のちに薬学に詳しい者が、この話を聞き、嘆いたという。
 「なんと惜しいことだ。
 その肉の人間は、中国の書物『白澤図』に記されている、『封』というものに間違いない。
 封の肉は仙薬であり、食べれば、武勇にすぐれる力を得ることができるのだ」
 


 1671年には、このような話がある。
 肥前国(現在の佐賀、長崎県あたり)大村藩の藩主、大村純長の乗る船が、浦辺(岡山県の南東部。瀬戸内海)のあたりの海岸線を進んでいた。
 「なんぞ?」
 「あれは、なんぞや?」
 船が波をかき分けて進んでいると、船首にいる水夫たちが騒ぎ始めた。

 騒ぎに気づいた純長が、家来と共に現れると、前方の海面に、二抱えほどの黒雲が湧きあがっているのを見た。
 黒雲は海風で拡散するでもなく、ねっとりと固まったまま、ゆるりゆるりと船へ近寄ってきた。

 「これは面妖な」
 純長が驚いた顔になった。

 そうこうするうちに、黒雲は船の上に達した。
 船上から手を伸ばせば、届くか届かないかという高さである。
 ここで、さらに恐ろしいことが起こった。

 黒くもの中から「ああ、悲しや」と、しゃがれた声が聞こえたのだ。
 悲しや。
 悲しや。
 ああ、なんとも悲しや。
 その声の主なのか、黒雲の中から、やせ細った人間の足が現れた。
 枯れ枝のような足は、ピクリとも動かない。

 「足か? 人の足なのか?」
 「私が、引っ捕らえてみせましょう」
 肝の座った家来の一人が前へ出ると、「えいや」と飛びあがってその足をつかみ、力を込めて引っ張った。
 黒雲の中から船上に引きずり下ろされたのは、なんと老婆の死体であった。

 「どういうことなのだ」
 あまりに不思議であったため、純長は船を停めさせた。
 そして、近くの浜に住むものならば、何かを知っているかも知れぬと思い、事情を聞いてくるよう、足軽二人に命じた。

 足軽二人は小舟に乗って浜へと向かい、近隣の浜に住む人々に話を聞いて回った。
 話を聞いた人々は、その老婆は、材木屋の母親に違いないと答えた。
 ほんの少し前、どこからともなく現れた黒雲に包まれ、連れ去られたと言うのだ。
 強欲で、すこぶる評判の悪い老婆であったと言う。

 「……火車だな」
 戻って来た足軽から、話を聞いた純長は、納得した顔でそう言った。
 「それは、なんでございますか?」
 家来が聞くと、純長が説明をした。

 「悪行を重ねた者が死ぬと、その亡骸を連れ去っていく物の怪よ。
 その昔、権現様(家康)に仕えていた松平近正という者は、従兄弟の葬儀に現れ、遺骸を奪おうとした火車の腕を斬り飛ばしたそうだ」
 「真でございますか?」
 「真も真。火車の腕は、近正の孫娘が信濃の諏訪家に嫁ぐ際、引き出物の一つとして贈られたと聞いたわ」
 純長は、そう答えたそうである。

 ※画像は『百怪図巻』より
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