神界の器

高菜あやめ

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第二部

三、旅立ち

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「あの、明翠様……」
「何でもない」

 肩越しに見えた横顔は硬く、視線が合わない。雨音が何か失言をしてしまったのかと、不安に駆られたその時、襖の向こうから静かな声が響いた。

「明翠様、お話が」
「ああ、松葉か……入れ」

 松葉は部屋に入ると、明翠の傍らで正座する雨音に目を留め、微かに眉を寄せた。そのどこか困った様子に、雨音は慌てて立ち上がる。

「あの、俺、自分の部屋に戻ります」
「構わない、ここにいろ」
「でも」

 雨音は襖の方をチラリと見やると、正座する松葉と目が合った。小さく頷かれてしまい、再び腰を下ろすしかなかった。
 明翠は、戸惑う様子の雨音を一瞥し、それから松葉に向き直った。

「それで、消息は掴めたのか」
「ええ」

 雨音は何の話だろうと、隣の明翠を見上げた。紫紺の澄んだ瞳が、静かに雨音を見つめ返す。

「お前の弟の消息を、松葉に調べさせた」

 ヒュッと息を飲んだ雨音は、途端に胸の奥が詰まったように苦しくなる。
 とても気になっていた。あれからどうしているのか心配していた。無事でいることを確かめたかった。

(それなのに、どうして……苦しくなるの)

 明翠は松葉に話を続けるよう、小さく頷いて促す。松葉は居住まいを正すと、やや視線を落として口を開いた。

「……ひと月ほど前、弥吉という十歳の少年が、入嶋国いりしまこくで廻船問屋を商う奥津という夫婦に引き取られたそうです。奥津夫妻はその少年を、匡院宮きょういんのみや家の前当主の落胤らくいんだと主張し、都の別宅で『預かって』いるそうです」

 雨音は話の前半部分の理解できたものの、後半部分はちっとも頭に入らなかった。なにやら、どこかの宮家と聞こえた気がしたが、聞き間違いだろうか。

「匡院宮とは、例の?」
「ええ、恐らく十年程前に宮中で発覚した『例の』醜聞事件との関わりを示唆しているのでしょう。表沙汰になるまで、何年にも渡って隠蔽されてきた悪習ですから、どこぞの公家か宮家の隠し子が一人や二人存在しても、ちっとも不思議ではありませんからね」
「浅ましいことだ」

 明翠は吐き捨てるように小さく呟くと、隣で固まっている雨音に顔を向けた。

「雨音。少なくとも、お前の弟は『大切』にされているようだ。今のところは、な」
「……どういう意味でしょうか」
「つまらない人間に利用されようとしている。おそらくお前の弟を使って、宮家と関わりを持とうとしているのか、それとも揺すって金銭を奪うつもりか。いずれにせよ、私利私欲しか考えてない連中の思いつきそうな、浅慮で卑しい計画に違いあるまい」
「な、なぜそのようなことに、弥吉が……」

 雨音の脳裏に、下山した夜に見た弥吉の姿が蘇る。あの夜、番頭と話していたのは紛れもなく自分の弟なのに、どこか遠くなってしまった気がした。

『ようやく兄貴が出てって、お前も決心がついただろう。いい加減いい返事をしてやれよ。向こうは一年前に息子を亡くしてから、ずっとお前を養子に引き取りたがってたんだ』
『でも……俺には兄ちゃんが』
『だからその兄貴がいなくなったんだ。もう変な遠慮もいらねえだろう?』

 忘れようとしていた会話が一瞬にして蘇り、自問自答せずにいられなくなる……自分は弟にとって何だったのだろう、と。

「……つまりその連中は、一年も前からお前の弟を狙っていたのだな。すると、お前たち二人がはめられた可能性は大いにある」
「は、はめられたって……?」
「器を盗んだ濡れ衣を着せられたのは、この計画の一端だったに違いない。恐らくお前の弟を手に入れる為に仕組まれた罠だろう」
「そ、そんな……」

 雨音は体の力が抜けていく思いがした。ガクリと首を垂れて崩れ落ちる前に、明翠にしっかりと肩を抱かれる。急激に熱くなった瞼からは涙が零れ落ちて、畳を濡らしていく有様が、滲んだ視界に映った。

(……)

「雨音。心を閉ざすな……気持ちを解放しろ」

(……悲しい……苦しい……つらい……)

「そうか、つらかったな。もう大丈夫だ、私が傍についている」

(……でも、弥吉は……どうなってしまうの)

「お前の弟なら、こちらで出来る限りの手を打つ。だからお前は安心するといい」

「……それでは、駄目です……!」

 雨音は明翠の手を振りほどくと、ガバッとその場にひれ伏した。

「それじゃ駄目なんです……俺だけが、守られているなんて……」

 言葉に乗せて口にすると、思いは一層強くなる。雨音は自分に言い聞かせる為にも、はっきりと自分の意思を口にした。

「お願いです、下山させてください。弟を、助けたいんです」
「……どうやって助けるというのだ」
「分かりません。何が出来るかなんて、今は何も思いつきません。でも、行かなくちゃならないんです」

 これまで自分の非力さ、無力さは、ずっと噛みしめて生きてきた。やれることは少なく、試してもうまくいかないことばかりだった。
 それでも精一杯、立ち向かわないといけない。たとえ意味のないことでも、やらなくてはならない。

(でないと俺はきっと、一生後悔してしまう……!)

「……わかった」

 明翠の静かな声が響いた。

「ただし、私もついていく」
「明翠様、それはなりません!」

 松葉がひと際大きな声で、明翠に異論を唱えた。

神界こちらを離れるのは、御身に負担が大きすぎます……それでなくても、最近は」
「松葉」

 明翠は低い声で、松葉の言葉を遮った。

「お前の言いたいことは分かっている」
「ですが……!」

 二人のやり取りを聞いていた雨音は、自分の我儘が原因で、心配や迷惑を掛けていると理解する。だが弟が窮地に陥っているのに、自分は何もせず、安全な場所にいるなんて到底できない。

「あの、俺ひとりで下山するので大丈夫です」
「大丈夫なものか」

 明翠に真っ向から否定され、雨音は肩を落とした。

「だから松葉を護衛につける。それでよいな、松葉?」
「仕方ありませんね」

 明翠の顔には、観念したような表情が浮かんでいた。向かいに座る松葉も不本意そうだが、諦めたかのように頷いている。

「ありがとうございます……!」

 雨音は感謝で泣きそうな気持ちで深く低頭し、明翠に顔を上げろと再三命じられるまで、畳に額を押し付けたまま動こうとはしなかった。





 さっそく翌日、雨音は松葉とともに下界へ向けて出発することになった。
 旅支度を狐達に手伝ってもらう中、松葉から下界に降りた際に、注意しなければならない事について説明を受ける。

「まず私たちの関係ですが、主人とその家臣ということにします」
「はい、きちんとお仕えいたします!」
「違います、家臣は私です。あなたはお忍びで旅に出た、さる公家の若君という設定です」
「ええっ!? で、でも俺……」

 松葉はふう、と吐息をついて首を振った。

「分かってませんね。あなたが一端の家臣として振まえると、本気で思ってるのですか」
「あ……」

 頬を熱くしたまま俯くと、松葉が苦笑を漏らした。

「意地悪な物言いをしましたね。ただ私の方が、何かあった際うまく立ち回れると思ったのです。あなたは世間知らずな若君、ということで、迷ったらとりあえず黙って私の隣にいればいいでしょう。あとは私が何とかします」
「はい……お願いいたします」
「その申し訳なさそうな態度は、町に降りたら改めなくてはなりませんね。あなたは少し我儘で、偉そうなくらいの態度を心掛けた方がちょうどいいでしょう」

 雨音は本当にそのような振る舞いが出来るか疑問に思っていると、障子の向こうから「入るぞ」と明翠の声が聞こえた。

「……見違えたな」

 紫紺の着流し姿で現れた明翠は、緊張のあまり真っ直ぐ背筋を伸ばして正座する雨音の姿を見つけ、目を見開いた。

「とても良く似合う」

 明翠は銀色の髪の束を揺らしながら身を屈ませ、雨音の顔を覗き込むとフワリと微笑む。雨音は頰を熱くすると、恐縮気味に小さく頭を下げた。

「あ、ありがとう、ございます……こんな、立派な着物まで用意していただいて、申し訳ありません」

 雨音が着ている絹の小袖は、光沢のある鼠色の渋い色合いで、浅葱色あさぎいろの袴と相まって、すっきりと凛々しい姿だ。明翠は満足げに頷くと、小さな袋を差し出した。

「これはお守りだ。肌身離さず持つのを忘れるな」
「はい……ありがとうございます」

 雨音は両手で受け取ったお守り袋を、胸の前でそっと握り締めた。

(嬉しい)

 そっと頬に手が添えられ、親指で頬をひと撫でされた。

「早く、戻ってこい」
「はい、行って参ります」

 明翠に手を取られて立ち上がり、松葉を先導に部屋を出る。廊下を歩きながら、明翠はずっと雨音の手を離さなかった。

(明翠様には、きっと俺の気持ちが伝わっている)

 甘くくすぐったい、胸に染み入る切なさの混じった気持ち。こんなに大切にされた記憶は、幼い頃に両親と暮らしていた頃以来だ。

 遠い昔に家族で暮らした、自然豊かな田舎の小さな村が、雨音の幸せな記憶の始まりだ。そしてその記憶が途絶えたのも、その村だった……悲しくて懐かしい思い出だ。
 雨音は繋がれた手をぎゅっと握り締めた。

(でもその記憶があるから、明翠様のお優しいお気持ちが分かるんだ……この手から温かい気持ちが、たくさん伝わってくるもの)

 繋がれた手が微かに震えた。視線を感じて隣を振り仰ぐと、明翠がこちらを見つめていた。口元が何かに堪えるように、ギュッと固く閉じられている。

(明翠様のお心は、俺にたくさん伝わってます……ずっと前から、それに今も……)

 明翠にその場で抱きすくめられた。背に回された腕の強さから、重なった胸から、壊れそうなくらい繊細なのに、力強く温かな心がしんしんと体に染み渡り、全身に駆け巡っていくようだった。

「もう一度言う……早く帰ってこい……分かったな?」




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