桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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7. 曲線

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桜井がギャラリーを選んだ理由は二つあった。
一つは、単に自分がそこに行きたかったから。もう一つは、その絵画を、広瀬がどう見るのか気になったからだ。絵画を見るとき、自分はその絵画の世界観を組み立てる。広瀬がそれをどう見るのか、どういう世界観を組み立てるのは分からないが、そこに広瀬の価値観の根底が現れる。明確な根拠はないが、不思議とそう思った。
駅前は先週と同様に賑わっている。人をかき分け、駅前へ向かうと、すでに広瀬はそこに立っていた。襟の返しがない黒いシャツを、黒いスキニーパンツに入れている。到底、桜井には着こなせそうにないファッションだが、細くてスタイルの良い広瀬だからこそ着こなせるのだろう。様になっていて、素直に格好いい。

「ごめん。待たせたかな?」
「いや、今来たところ」

桜井は腕時計を見た。約束の時間まであと20分ある。

「広瀬くん、水族館の時もそうだったけど、結構早く来るタイプなんだね。どうして?」

今回も広瀬を待たせないよう、早めに家を出たつもりだ。だが、結果的に広瀬よりも後に着いてしまった。水族館の時もそうだが、広瀬は早めに集合時間に着く。そこに、人を待たせない優しさのようなものを、何となく感じ取った。

「別に、家にいてもすることないから」

広瀬はそう答えるが、桜井にはどうしてもそうは思えなかった。

二人は電車に乗り、二駅先の駅で降りる。そしてしばらく道なりに歩いた。そして、20分ほど歩いて、目的地が見えてきた。住宅街の中にある、二階建てのコンクリート製の建物。一階はカフェになっていて、二階にギャラリーがある。
桜井が黒い木製のドアを開けた。鈴の音がちりん、と鳴る。同時に、コーヒーの香りが漂った。

「桜井くん。いらっしゃい。今日はお友達と一緒かい?」

入口近くのカウンターの奥に、ギャラリーオーナーの|矢島《ルビやじま》が立っていた。
桜井は土日によくここを訪れる。何度か通ううちに、矢島とは親しくなった。矢島はオーナーだけでなく、カフェのマスターをしている。また、矢島は絵を描くのが趣味で、自分の作品をギャラリーに展示している。
「はい」と桜井が頷くと、矢島はふうん、と言って、長い顎鬚を触りながら、広瀬の全身を嘗め回すように見つめた。

「まあ、私の若いころには負けるが、いい男だね。君は美術に興味あるのかい?」
「いえ、ありません」

広瀬がきっぱり言うと、矢島はがはは、と口を大きくあけて笑った。

「そうかそうか。だが、きっと私の作品を見たら、君の眼は変わるだろうね。桜井くん、今週も新しい絵を描いたから、良かったら後で感想を聞かせてくれ」

桜井は返事をして、階段を上がった。白い壁には矢島が描いた絵が、等間隔で壁にたてつけてあった。どれもユニークな作品ばかりで、ついつい惹かれてしまう。
その中に一枚、ひときわ桜井の目を引くものがあった。
『STILL』と名付けられたその絵は、黒い背景に、何色もの線が、中央に円を形作っていた。一つ一つ線を見ていけば、適当にグニャグニャと引いただけに見えるが、全体を見ると、様々な線が円としてまとまっている。この作品を見たのは初めてだった。きっと、矢島が言っていた作品はこれの事なのだろう。
桜井は広瀬に視線を向けた。広瀬は、この作品をただじっと眺めていた。その瞳には、やはり何も映っていない。

「広瀬くんは、この絵をどう思う?」

どうしても聞いてみたかった。広瀬の瞳には何も映ってはいないが、心の奥底で感じたことを知りたかった。

「どうも思わない。円があるだけだ」

広瀬なら、そう答えると予想していた。だが、心の奥底を知るためには、もう少し広瀬の考えを深く掘りたい。

「僕はさ、可哀そうだって思ったよ」

桜井は感じたことを、そのまま言葉に乗せた。

「可哀そう?」

広瀬は不思議そうな顔をした。

「一つの線に注目すると、どこに進んでいるか、迷ってるように見える。その場で足踏みをしているような、そんな感じに見えるんだ。どこに向かおうとしても、足踏みしてその場から動けない。だから、可哀そうだって思った」

矢島が何をどう思って描いたのかは分からない。だから、自分の解釈は間違っているのかもしれない。だが、自分の感じたことを、広瀬に伝えたかった。自分が絵を見るときと同じように、何かを感じて、それを言葉で伝えてほしいと思った。

「広瀬くんは、今の話を聞いて、どう感じる?」

広瀬は黙り込んだ。ギャラリーの中が静寂に包まれる。だが、不思議と桜井はこの時間が心地良かった。絵に興味のない広瀬が、真剣に絵と向き合ってくれている。その様子が何だか嬉しかった。

「やっぱり、絵のことはよく分からない」

そう言って、広瀬はこちらを向いた。広瀬の瞳には、桜井の姿が映っていた。

「でも、君が絵を好きだってことは、分かる」

桜井は目を見開いた。
てっきり、人には無関心なものとばかり思っていた。高山のことも、自分のことも、何も映っていないと思っていた。でも違った。広瀬はちゃんと、人のことを見ている。

「意外……」

桜井は思わず口にした。

「何が?」

広瀬が聞き返し、桜井ははっとした。

「あ、いや、その。いつも僕たちの事、ぼーっとした顔で見ていたから。意外と人を見てるんだなって」

桜井がそう言うと、広瀬は一瞬、驚いたような、悲しい顔をした。だが、その表情はすぐに無表情に戻り、何も言わずに隣の絵を鑑賞しはじめた。
いつも無表情なのに、どうしてそんな顔をしたのか。ほんの一瞬の事だったが、しばらく胸の中で引っ掛かった。

一階に降り、桜井と広瀬はカウンターの席に座った。ふと腕時計を見ると、12時半を示していた。桜井は急に空腹を覚えた。きっと時間を意識したからだろう。

「おや、やっと見終わったかい?」

カウンターの奥の部屋から矢島がやってきた。矢島のつけているエプロンは、目新しい茶色のエプロンだった。
「ええ」と頷くと、矢島は「いつも君は長時間、見てくれるからなあ」と、シンクで手を洗いながら言った。そして手を洗った後、透明なお洒落なグラスに水を注いで、カウンターに置いた。
桜井はさっそく水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、体に冷たさが行き渡る。水には味がないはずだが、美味しいと感じた。
矢島はメニュー表をカウンター下から出すと、それを桜井に渡した。

「今から作るから、時間がかかるけど、何食べたい?」

桜井は隣に座る広瀬にメニュー表を見せた。メニュー表には、オムライスとサンドイッチセット、それからナポリタンの三つがあった。

「広瀬くんはどれがいい?」
「オムライス」

広瀬は即答した。もしかして、オムライスが好きなのだろうか。

「じゃあ僕もオムライスで」

矢島は「OK」といい、さっそく調理を始めた。細かく切った玉ねぎとウインナーをバターで炒め、あらかじめ炊いていた米を投入し、ケチャップとトマトソースを混ぜた。
ふんわりとバターとトマトの香りが漂い、鼻腔をくすぐる。その匂いにいっそうお腹を空かせた。
そして、矢島は卵を割り始め、かき混ぜる。フライパンにバターを入れて溶かした後、かき混ぜた卵を入れた。じゅう、と卵の熱する音が聞こえてくる。ふと隣を見ると、無表情の広瀬の顔が、気持ちばかり緩んでいた。

「広瀬くん、オムライスが好きなの?」
「いや。ただ、お腹がすいた」

メニューを選んだとき、広瀬は即答で答えていたから、てっきりオムライスが好きなのかと思ったが、そうでもなかったようだ。広瀬の好きなものがやっと分かった、と思ったのだが、的外れだったようで、ほんの少しがっかりした。
矢島は先ほど炒めたトマトライスを、カップの中に詰め、皿に盛りつけた。そして、半熟の卵をライスの上に盛り付け、あらかじめ用意していたミートソースとパセリをかけた。

「はい、おまたせ」

二人の前に、美味しそうなオムライスが並べられた。桜井は目を輝かせながら、さっそくオムライスを一口食べた。ほのかなバターの香りと、トマトの酸味、そして優しい卵の味が舌を包む。あまりの美味しさに、桜井は思わず笑みがこぼれた。

「美味しいです!」

桜井がそう言うと、矢島は「そうか」と腕を組んで頷いた。

「君はどうかな?」

矢島は広瀬に味の感想を求めた。広瀬はもぐもぐと噛んで、飲み込む。

「美味しい」

顔は相変わらずの無表情。だが、表情の陰に、ほんのわずかだが、喜びのようなものを感じる。
やっぱり、広瀬はオムライスが好きなのだ。
桜井は喜んだ。広瀬の内面がわずかばかり見えた気がして、密に高揚した。

「自慢のオムライスだからね。それはそうと、桜井くん。新作見てくれたかな?」
「ええ。ユニークな作品でした」

矢島は後ろの棚からコーヒー豆の袋を取り出した。それをコーヒーミルに入れて、ハンドルを回し始めた。

「あの作品、君はどう解釈した?」

そう言ったので、桜井は広瀬に伝えた解釈をそのまま伝えると、矢島は「なるほど」と呟いた。

「確かにそうだ。だが、その気になれば、線たちは円の外に飛び出すことだってできるんだ。わざわざ足踏みをしなくたって、好きな方に動けばいいだけの話だ。でもそれをしない。なぜだと思う?」

桜井はオムライスを頬張りながら考える。矢島の言う通り、好きな方に動けば、あの円はぐちゃぐちゃに、そもそも形にはならない。なのに、線は図ったかのようにその場に集まり、一つの縁を形成している。

「はみ出す勇気がないから、ですか?」

多数の線がその場に留まっている。その中でひとり飛び出せば、綺麗な円は形が崩れる。それを恐れて、ぐるぐると固まっているのかもしれない。

「うーん。それもあるんだけど、私が込めた願いは他にもある」

矢島はポッドのお湯をドリップケトルに注いだ。

「その線たちは、世界が見えていないんだ。だから、はみ出そうとしない。『STILL』ってタイトルを付けたのも、そういうことさ」

世界が見えていない。桜井はその言葉を聞いて、広瀬の方を向いた。広瀬は最後の一口を頬張りながら、矢島の方を見ていた。

「世界がどういうものなのか、知っていたら、線たちはその場に留まらないだろうね」

矢島はフィルターをドリッパーにセットし、挽いたコーヒー豆を入れて、何回かに分けてお湯を注ぎ始めた。コーヒーの深い香りが漂い始める。

「かつての私も同じさ。人と同じように生きてきた。普通に働いて、普通に生きてきた。でも今は、こうして絵を描いて、展示して、コーヒーを入れて、とにかく好きに生きている。線たちの中では、私は間違いなく、はみ出しものだろうね」

桜井は最後の一口をスプーンですくって食べた。何度も噛んで、最後まで味わって飲み込んだ。

「桜井くんは、自分がはみ出し者だと思う?」

矢島はケトルを置いて、じっとこちらを見つめていた。

「どうでしょう。クラスの中では空気みたいなものですし、そもそもはみ出しているのか、分からないですね」
「空気ってことは、その場に溶け込んでいるってことかな」
「いや、溶け込むというより、存在していないってことです。ほら、わざわざ空気に向かって話す人なんていないでしょう。それと同じなんですよ」

そう言うと、矢島は「何を言っているんだ」と苦笑した。

「私の目の前にいるじゃないか。私と目が合って、こうして言葉を返し、反応する。桜井くんは空気じゃないよ。間違いなく存在している。それに……」

矢島は広瀬の方を向いた。

「君のお友達と、こうして一緒に来ているじゃないか。絵に興味が無いと言いつつ、ギャラリーに来ている。桜井くんがいなかったら、間違いなくお友達は来ていないし、ここのギャラリーの存在なんて知ることも無かっただろう?」

「な?」と矢島が広瀬に尋ねると、広瀬は小さく頷いた。
その光景に、桜井は目を見開いた。
自分の存在を、広瀬が認めてくれたような気がした。広瀬は無関心そうに見えて、ちゃんと人を見ていた。絵が好きだという自分の気持ちを知ってくれた。空気だった自分を肯定した。そのことがひどく嬉しい。

「だから、桜井くんはちゃんと一本の線として存在している。まあ、君がはみ出し者になるかどうかは、これからってことなのかもしれないね」

矢島は淹れたてのコーヒーを二人に出した。そのコーヒーの苦みは、今までに飲んだどのコーヒーよりもずっと柔らかで、美味しかった。
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