7 / 22
7. 曲線
しおりを挟む
桜井がギャラリーを選んだ理由は二つあった。
一つは、単に自分がそこに行きたかったから。もう一つは、その絵画を、広瀬がどう見るのか気になったからだ。絵画を見るとき、自分はその絵画の世界観を組み立てる。広瀬がそれをどう見るのか、どういう世界観を組み立てるのは分からないが、そこに広瀬の価値観の根底が現れる。明確な根拠はないが、不思議とそう思った。
駅前は先週と同様に賑わっている。人をかき分け、駅前へ向かうと、すでに広瀬はそこに立っていた。襟の返しがない黒いシャツを、黒いスキニーパンツに入れている。到底、桜井には着こなせそうにないファッションだが、細くてスタイルの良い広瀬だからこそ着こなせるのだろう。様になっていて、素直に格好いい。
「ごめん。待たせたかな?」
「いや、今来たところ」
桜井は腕時計を見た。約束の時間まであと20分ある。
「広瀬くん、水族館の時もそうだったけど、結構早く来るタイプなんだね。どうして?」
今回も広瀬を待たせないよう、早めに家を出たつもりだ。だが、結果的に広瀬よりも後に着いてしまった。水族館の時もそうだが、広瀬は早めに集合時間に着く。そこに、人を待たせない優しさのようなものを、何となく感じ取った。
「別に、家にいてもすることないから」
広瀬はそう答えるが、桜井にはどうしてもそうは思えなかった。
二人は電車に乗り、二駅先の駅で降りる。そしてしばらく道なりに歩いた。そして、20分ほど歩いて、目的地が見えてきた。住宅街の中にある、二階建てのコンクリート製の建物。一階はカフェになっていて、二階にギャラリーがある。
桜井が黒い木製のドアを開けた。鈴の音がちりん、と鳴る。同時に、コーヒーの香りが漂った。
「桜井くん。いらっしゃい。今日はお友達と一緒かい?」
入口近くのカウンターの奥に、ギャラリーオーナーの|矢島《ルビ》が立っていた。
桜井は土日によくここを訪れる。何度か通ううちに、矢島とは親しくなった。矢島はオーナーだけでなく、カフェのマスターをしている。また、矢島は絵を描くのが趣味で、自分の作品をギャラリーに展示している。
「はい」と桜井が頷くと、矢島はふうん、と言って、長い顎鬚を触りながら、広瀬の全身を嘗め回すように見つめた。
「まあ、私の若いころには負けるが、いい男だね。君は美術に興味あるのかい?」
「いえ、ありません」
広瀬がきっぱり言うと、矢島はがはは、と口を大きくあけて笑った。
「そうかそうか。だが、きっと私の作品を見たら、君の眼は変わるだろうね。桜井くん、今週も新しい絵を描いたから、良かったら後で感想を聞かせてくれ」
桜井は返事をして、階段を上がった。白い壁には矢島が描いた絵が、等間隔で壁にたてつけてあった。どれもユニークな作品ばかりで、ついつい惹かれてしまう。
その中に一枚、ひときわ桜井の目を引くものがあった。
『STILL』と名付けられたその絵は、黒い背景に、何色もの線が、中央に円を形作っていた。一つ一つ線を見ていけば、適当にグニャグニャと引いただけに見えるが、全体を見ると、様々な線が円としてまとまっている。この作品を見たのは初めてだった。きっと、矢島が言っていた作品はこれの事なのだろう。
桜井は広瀬に視線を向けた。広瀬は、この作品をただじっと眺めていた。その瞳には、やはり何も映っていない。
「広瀬くんは、この絵をどう思う?」
どうしても聞いてみたかった。広瀬の瞳には何も映ってはいないが、心の奥底で感じたことを知りたかった。
「どうも思わない。円があるだけだ」
広瀬なら、そう答えると予想していた。だが、心の奥底を知るためには、もう少し広瀬の考えを深く掘りたい。
「僕はさ、可哀そうだって思ったよ」
桜井は感じたことを、そのまま言葉に乗せた。
「可哀そう?」
広瀬は不思議そうな顔をした。
「一つの線に注目すると、どこに進んでいるか、迷ってるように見える。その場で足踏みをしているような、そんな感じに見えるんだ。どこに向かおうとしても、足踏みしてその場から動けない。だから、可哀そうだって思った」
矢島が何をどう思って描いたのかは分からない。だから、自分の解釈は間違っているのかもしれない。だが、自分の感じたことを、広瀬に伝えたかった。自分が絵を見るときと同じように、何かを感じて、それを言葉で伝えてほしいと思った。
「広瀬くんは、今の話を聞いて、どう感じる?」
広瀬は黙り込んだ。ギャラリーの中が静寂に包まれる。だが、不思議と桜井はこの時間が心地良かった。絵に興味のない広瀬が、真剣に絵と向き合ってくれている。その様子が何だか嬉しかった。
「やっぱり、絵のことはよく分からない」
そう言って、広瀬はこちらを向いた。広瀬の瞳には、桜井の姿が映っていた。
「でも、君が絵を好きだってことは、分かる」
桜井は目を見開いた。
てっきり、人には無関心なものとばかり思っていた。高山のことも、自分のことも、何も映っていないと思っていた。でも違った。広瀬はちゃんと、人のことを見ている。
「意外……」
桜井は思わず口にした。
「何が?」
広瀬が聞き返し、桜井ははっとした。
「あ、いや、その。いつも僕たちの事、ぼーっとした顔で見ていたから。意外と人を見てるんだなって」
桜井がそう言うと、広瀬は一瞬、驚いたような、悲しい顔をした。だが、その表情はすぐに無表情に戻り、何も言わずに隣の絵を鑑賞しはじめた。
いつも無表情なのに、どうしてそんな顔をしたのか。ほんの一瞬の事だったが、しばらく胸の中で引っ掛かった。
一階に降り、桜井と広瀬はカウンターの席に座った。ふと腕時計を見ると、12時半を示していた。桜井は急に空腹を覚えた。きっと時間を意識したからだろう。
「おや、やっと見終わったかい?」
カウンターの奥の部屋から矢島がやってきた。矢島のつけているエプロンは、目新しい茶色のエプロンだった。
「ええ」と頷くと、矢島は「いつも君は長時間、見てくれるからなあ」と、シンクで手を洗いながら言った。そして手を洗った後、透明なお洒落なグラスに水を注いで、カウンターに置いた。
桜井はさっそく水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、体に冷たさが行き渡る。水には味がないはずだが、美味しいと感じた。
矢島はメニュー表をカウンター下から出すと、それを桜井に渡した。
「今から作るから、時間がかかるけど、何食べたい?」
桜井は隣に座る広瀬にメニュー表を見せた。メニュー表には、オムライスとサンドイッチセット、それからナポリタンの三つがあった。
「広瀬くんはどれがいい?」
「オムライス」
広瀬は即答した。もしかして、オムライスが好きなのだろうか。
「じゃあ僕もオムライスで」
矢島は「OK」といい、さっそく調理を始めた。細かく切った玉ねぎとウインナーをバターで炒め、あらかじめ炊いていた米を投入し、ケチャップとトマトソースを混ぜた。
ふんわりとバターとトマトの香りが漂い、鼻腔をくすぐる。その匂いにいっそうお腹を空かせた。
そして、矢島は卵を割り始め、かき混ぜる。フライパンにバターを入れて溶かした後、かき混ぜた卵を入れた。じゅう、と卵の熱する音が聞こえてくる。ふと隣を見ると、無表情の広瀬の顔が、気持ちばかり緩んでいた。
「広瀬くん、オムライスが好きなの?」
「いや。ただ、お腹がすいた」
メニューを選んだとき、広瀬は即答で答えていたから、てっきりオムライスが好きなのかと思ったが、そうでもなかったようだ。広瀬の好きなものがやっと分かった、と思ったのだが、的外れだったようで、ほんの少しがっかりした。
矢島は先ほど炒めたトマトライスを、カップの中に詰め、皿に盛りつけた。そして、半熟の卵をライスの上に盛り付け、あらかじめ用意していたミートソースとパセリをかけた。
「はい、おまたせ」
二人の前に、美味しそうなオムライスが並べられた。桜井は目を輝かせながら、さっそくオムライスを一口食べた。ほのかなバターの香りと、トマトの酸味、そして優しい卵の味が舌を包む。あまりの美味しさに、桜井は思わず笑みがこぼれた。
「美味しいです!」
桜井がそう言うと、矢島は「そうか」と腕を組んで頷いた。
「君はどうかな?」
矢島は広瀬に味の感想を求めた。広瀬はもぐもぐと噛んで、飲み込む。
「美味しい」
顔は相変わらずの無表情。だが、表情の陰に、ほんのわずかだが、喜びのようなものを感じる。
やっぱり、広瀬はオムライスが好きなのだ。
桜井は喜んだ。広瀬の内面がわずかばかり見えた気がして、密に高揚した。
「自慢のオムライスだからね。それはそうと、桜井くん。新作見てくれたかな?」
「ええ。ユニークな作品でした」
矢島は後ろの棚からコーヒー豆の袋を取り出した。それをコーヒーミルに入れて、ハンドルを回し始めた。
「あの作品、君はどう解釈した?」
そう言ったので、桜井は広瀬に伝えた解釈をそのまま伝えると、矢島は「なるほど」と呟いた。
「確かにそうだ。だが、その気になれば、線たちは円の外に飛び出すことだってできるんだ。わざわざ足踏みをしなくたって、好きな方に動けばいいだけの話だ。でもそれをしない。なぜだと思う?」
桜井はオムライスを頬張りながら考える。矢島の言う通り、好きな方に動けば、あの円はぐちゃぐちゃに、そもそも形にはならない。なのに、線は図ったかのようにその場に集まり、一つの縁を形成している。
「はみ出す勇気がないから、ですか?」
多数の線がその場に留まっている。その中でひとり飛び出せば、綺麗な円は形が崩れる。それを恐れて、ぐるぐると固まっているのかもしれない。
「うーん。それもあるんだけど、私が込めた願いは他にもある」
矢島はポッドのお湯をドリップケトルに注いだ。
「その線たちは、世界が見えていないんだ。だから、はみ出そうとしない。『STILL』ってタイトルを付けたのも、そういうことさ」
世界が見えていない。桜井はその言葉を聞いて、広瀬の方を向いた。広瀬は最後の一口を頬張りながら、矢島の方を見ていた。
「世界がどういうものなのか、知っていたら、線たちはその場に留まらないだろうね」
矢島はフィルターをドリッパーにセットし、挽いたコーヒー豆を入れて、何回かに分けてお湯を注ぎ始めた。コーヒーの深い香りが漂い始める。
「かつての私も同じさ。人と同じように生きてきた。普通に働いて、普通に生きてきた。でも今は、こうして絵を描いて、展示して、コーヒーを入れて、とにかく好きに生きている。線たちの中では、私は間違いなく、はみ出しものだろうね」
桜井は最後の一口をスプーンですくって食べた。何度も噛んで、最後まで味わって飲み込んだ。
「桜井くんは、自分がはみ出し者だと思う?」
矢島はケトルを置いて、じっとこちらを見つめていた。
「どうでしょう。クラスの中では空気みたいなものですし、そもそもはみ出しているのか、分からないですね」
「空気ってことは、その場に溶け込んでいるってことかな」
「いや、溶け込むというより、存在していないってことです。ほら、わざわざ空気に向かって話す人なんていないでしょう。それと同じなんですよ」
そう言うと、矢島は「何を言っているんだ」と苦笑した。
「私の目の前にいるじゃないか。私と目が合って、こうして言葉を返し、反応する。桜井くんは空気じゃないよ。間違いなく存在している。それに……」
矢島は広瀬の方を向いた。
「君のお友達と、こうして一緒に来ているじゃないか。絵に興味が無いと言いつつ、ギャラリーに来ている。桜井くんがいなかったら、間違いなくお友達は来ていないし、ここのギャラリーの存在なんて知ることも無かっただろう?」
「な?」と矢島が広瀬に尋ねると、広瀬は小さく頷いた。
その光景に、桜井は目を見開いた。
自分の存在を、広瀬が認めてくれたような気がした。広瀬は無関心そうに見えて、ちゃんと人を見ていた。絵が好きだという自分の気持ちを知ってくれた。空気だった自分を肯定した。そのことがひどく嬉しい。
「だから、桜井くんはちゃんと一本の線として存在している。まあ、君がはみ出し者になるかどうかは、これからってことなのかもしれないね」
矢島は淹れたてのコーヒーを二人に出した。そのコーヒーの苦みは、今までに飲んだどのコーヒーよりもずっと柔らかで、美味しかった。
一つは、単に自分がそこに行きたかったから。もう一つは、その絵画を、広瀬がどう見るのか気になったからだ。絵画を見るとき、自分はその絵画の世界観を組み立てる。広瀬がそれをどう見るのか、どういう世界観を組み立てるのは分からないが、そこに広瀬の価値観の根底が現れる。明確な根拠はないが、不思議とそう思った。
駅前は先週と同様に賑わっている。人をかき分け、駅前へ向かうと、すでに広瀬はそこに立っていた。襟の返しがない黒いシャツを、黒いスキニーパンツに入れている。到底、桜井には着こなせそうにないファッションだが、細くてスタイルの良い広瀬だからこそ着こなせるのだろう。様になっていて、素直に格好いい。
「ごめん。待たせたかな?」
「いや、今来たところ」
桜井は腕時計を見た。約束の時間まであと20分ある。
「広瀬くん、水族館の時もそうだったけど、結構早く来るタイプなんだね。どうして?」
今回も広瀬を待たせないよう、早めに家を出たつもりだ。だが、結果的に広瀬よりも後に着いてしまった。水族館の時もそうだが、広瀬は早めに集合時間に着く。そこに、人を待たせない優しさのようなものを、何となく感じ取った。
「別に、家にいてもすることないから」
広瀬はそう答えるが、桜井にはどうしてもそうは思えなかった。
二人は電車に乗り、二駅先の駅で降りる。そしてしばらく道なりに歩いた。そして、20分ほど歩いて、目的地が見えてきた。住宅街の中にある、二階建てのコンクリート製の建物。一階はカフェになっていて、二階にギャラリーがある。
桜井が黒い木製のドアを開けた。鈴の音がちりん、と鳴る。同時に、コーヒーの香りが漂った。
「桜井くん。いらっしゃい。今日はお友達と一緒かい?」
入口近くのカウンターの奥に、ギャラリーオーナーの|矢島《ルビ》が立っていた。
桜井は土日によくここを訪れる。何度か通ううちに、矢島とは親しくなった。矢島はオーナーだけでなく、カフェのマスターをしている。また、矢島は絵を描くのが趣味で、自分の作品をギャラリーに展示している。
「はい」と桜井が頷くと、矢島はふうん、と言って、長い顎鬚を触りながら、広瀬の全身を嘗め回すように見つめた。
「まあ、私の若いころには負けるが、いい男だね。君は美術に興味あるのかい?」
「いえ、ありません」
広瀬がきっぱり言うと、矢島はがはは、と口を大きくあけて笑った。
「そうかそうか。だが、きっと私の作品を見たら、君の眼は変わるだろうね。桜井くん、今週も新しい絵を描いたから、良かったら後で感想を聞かせてくれ」
桜井は返事をして、階段を上がった。白い壁には矢島が描いた絵が、等間隔で壁にたてつけてあった。どれもユニークな作品ばかりで、ついつい惹かれてしまう。
その中に一枚、ひときわ桜井の目を引くものがあった。
『STILL』と名付けられたその絵は、黒い背景に、何色もの線が、中央に円を形作っていた。一つ一つ線を見ていけば、適当にグニャグニャと引いただけに見えるが、全体を見ると、様々な線が円としてまとまっている。この作品を見たのは初めてだった。きっと、矢島が言っていた作品はこれの事なのだろう。
桜井は広瀬に視線を向けた。広瀬は、この作品をただじっと眺めていた。その瞳には、やはり何も映っていない。
「広瀬くんは、この絵をどう思う?」
どうしても聞いてみたかった。広瀬の瞳には何も映ってはいないが、心の奥底で感じたことを知りたかった。
「どうも思わない。円があるだけだ」
広瀬なら、そう答えると予想していた。だが、心の奥底を知るためには、もう少し広瀬の考えを深く掘りたい。
「僕はさ、可哀そうだって思ったよ」
桜井は感じたことを、そのまま言葉に乗せた。
「可哀そう?」
広瀬は不思議そうな顔をした。
「一つの線に注目すると、どこに進んでいるか、迷ってるように見える。その場で足踏みをしているような、そんな感じに見えるんだ。どこに向かおうとしても、足踏みしてその場から動けない。だから、可哀そうだって思った」
矢島が何をどう思って描いたのかは分からない。だから、自分の解釈は間違っているのかもしれない。だが、自分の感じたことを、広瀬に伝えたかった。自分が絵を見るときと同じように、何かを感じて、それを言葉で伝えてほしいと思った。
「広瀬くんは、今の話を聞いて、どう感じる?」
広瀬は黙り込んだ。ギャラリーの中が静寂に包まれる。だが、不思議と桜井はこの時間が心地良かった。絵に興味のない広瀬が、真剣に絵と向き合ってくれている。その様子が何だか嬉しかった。
「やっぱり、絵のことはよく分からない」
そう言って、広瀬はこちらを向いた。広瀬の瞳には、桜井の姿が映っていた。
「でも、君が絵を好きだってことは、分かる」
桜井は目を見開いた。
てっきり、人には無関心なものとばかり思っていた。高山のことも、自分のことも、何も映っていないと思っていた。でも違った。広瀬はちゃんと、人のことを見ている。
「意外……」
桜井は思わず口にした。
「何が?」
広瀬が聞き返し、桜井ははっとした。
「あ、いや、その。いつも僕たちの事、ぼーっとした顔で見ていたから。意外と人を見てるんだなって」
桜井がそう言うと、広瀬は一瞬、驚いたような、悲しい顔をした。だが、その表情はすぐに無表情に戻り、何も言わずに隣の絵を鑑賞しはじめた。
いつも無表情なのに、どうしてそんな顔をしたのか。ほんの一瞬の事だったが、しばらく胸の中で引っ掛かった。
一階に降り、桜井と広瀬はカウンターの席に座った。ふと腕時計を見ると、12時半を示していた。桜井は急に空腹を覚えた。きっと時間を意識したからだろう。
「おや、やっと見終わったかい?」
カウンターの奥の部屋から矢島がやってきた。矢島のつけているエプロンは、目新しい茶色のエプロンだった。
「ええ」と頷くと、矢島は「いつも君は長時間、見てくれるからなあ」と、シンクで手を洗いながら言った。そして手を洗った後、透明なお洒落なグラスに水を注いで、カウンターに置いた。
桜井はさっそく水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、体に冷たさが行き渡る。水には味がないはずだが、美味しいと感じた。
矢島はメニュー表をカウンター下から出すと、それを桜井に渡した。
「今から作るから、時間がかかるけど、何食べたい?」
桜井は隣に座る広瀬にメニュー表を見せた。メニュー表には、オムライスとサンドイッチセット、それからナポリタンの三つがあった。
「広瀬くんはどれがいい?」
「オムライス」
広瀬は即答した。もしかして、オムライスが好きなのだろうか。
「じゃあ僕もオムライスで」
矢島は「OK」といい、さっそく調理を始めた。細かく切った玉ねぎとウインナーをバターで炒め、あらかじめ炊いていた米を投入し、ケチャップとトマトソースを混ぜた。
ふんわりとバターとトマトの香りが漂い、鼻腔をくすぐる。その匂いにいっそうお腹を空かせた。
そして、矢島は卵を割り始め、かき混ぜる。フライパンにバターを入れて溶かした後、かき混ぜた卵を入れた。じゅう、と卵の熱する音が聞こえてくる。ふと隣を見ると、無表情の広瀬の顔が、気持ちばかり緩んでいた。
「広瀬くん、オムライスが好きなの?」
「いや。ただ、お腹がすいた」
メニューを選んだとき、広瀬は即答で答えていたから、てっきりオムライスが好きなのかと思ったが、そうでもなかったようだ。広瀬の好きなものがやっと分かった、と思ったのだが、的外れだったようで、ほんの少しがっかりした。
矢島は先ほど炒めたトマトライスを、カップの中に詰め、皿に盛りつけた。そして、半熟の卵をライスの上に盛り付け、あらかじめ用意していたミートソースとパセリをかけた。
「はい、おまたせ」
二人の前に、美味しそうなオムライスが並べられた。桜井は目を輝かせながら、さっそくオムライスを一口食べた。ほのかなバターの香りと、トマトの酸味、そして優しい卵の味が舌を包む。あまりの美味しさに、桜井は思わず笑みがこぼれた。
「美味しいです!」
桜井がそう言うと、矢島は「そうか」と腕を組んで頷いた。
「君はどうかな?」
矢島は広瀬に味の感想を求めた。広瀬はもぐもぐと噛んで、飲み込む。
「美味しい」
顔は相変わらずの無表情。だが、表情の陰に、ほんのわずかだが、喜びのようなものを感じる。
やっぱり、広瀬はオムライスが好きなのだ。
桜井は喜んだ。広瀬の内面がわずかばかり見えた気がして、密に高揚した。
「自慢のオムライスだからね。それはそうと、桜井くん。新作見てくれたかな?」
「ええ。ユニークな作品でした」
矢島は後ろの棚からコーヒー豆の袋を取り出した。それをコーヒーミルに入れて、ハンドルを回し始めた。
「あの作品、君はどう解釈した?」
そう言ったので、桜井は広瀬に伝えた解釈をそのまま伝えると、矢島は「なるほど」と呟いた。
「確かにそうだ。だが、その気になれば、線たちは円の外に飛び出すことだってできるんだ。わざわざ足踏みをしなくたって、好きな方に動けばいいだけの話だ。でもそれをしない。なぜだと思う?」
桜井はオムライスを頬張りながら考える。矢島の言う通り、好きな方に動けば、あの円はぐちゃぐちゃに、そもそも形にはならない。なのに、線は図ったかのようにその場に集まり、一つの縁を形成している。
「はみ出す勇気がないから、ですか?」
多数の線がその場に留まっている。その中でひとり飛び出せば、綺麗な円は形が崩れる。それを恐れて、ぐるぐると固まっているのかもしれない。
「うーん。それもあるんだけど、私が込めた願いは他にもある」
矢島はポッドのお湯をドリップケトルに注いだ。
「その線たちは、世界が見えていないんだ。だから、はみ出そうとしない。『STILL』ってタイトルを付けたのも、そういうことさ」
世界が見えていない。桜井はその言葉を聞いて、広瀬の方を向いた。広瀬は最後の一口を頬張りながら、矢島の方を見ていた。
「世界がどういうものなのか、知っていたら、線たちはその場に留まらないだろうね」
矢島はフィルターをドリッパーにセットし、挽いたコーヒー豆を入れて、何回かに分けてお湯を注ぎ始めた。コーヒーの深い香りが漂い始める。
「かつての私も同じさ。人と同じように生きてきた。普通に働いて、普通に生きてきた。でも今は、こうして絵を描いて、展示して、コーヒーを入れて、とにかく好きに生きている。線たちの中では、私は間違いなく、はみ出しものだろうね」
桜井は最後の一口をスプーンですくって食べた。何度も噛んで、最後まで味わって飲み込んだ。
「桜井くんは、自分がはみ出し者だと思う?」
矢島はケトルを置いて、じっとこちらを見つめていた。
「どうでしょう。クラスの中では空気みたいなものですし、そもそもはみ出しているのか、分からないですね」
「空気ってことは、その場に溶け込んでいるってことかな」
「いや、溶け込むというより、存在していないってことです。ほら、わざわざ空気に向かって話す人なんていないでしょう。それと同じなんですよ」
そう言うと、矢島は「何を言っているんだ」と苦笑した。
「私の目の前にいるじゃないか。私と目が合って、こうして言葉を返し、反応する。桜井くんは空気じゃないよ。間違いなく存在している。それに……」
矢島は広瀬の方を向いた。
「君のお友達と、こうして一緒に来ているじゃないか。絵に興味が無いと言いつつ、ギャラリーに来ている。桜井くんがいなかったら、間違いなくお友達は来ていないし、ここのギャラリーの存在なんて知ることも無かっただろう?」
「な?」と矢島が広瀬に尋ねると、広瀬は小さく頷いた。
その光景に、桜井は目を見開いた。
自分の存在を、広瀬が認めてくれたような気がした。広瀬は無関心そうに見えて、ちゃんと人を見ていた。絵が好きだという自分の気持ちを知ってくれた。空気だった自分を肯定した。そのことがひどく嬉しい。
「だから、桜井くんはちゃんと一本の線として存在している。まあ、君がはみ出し者になるかどうかは、これからってことなのかもしれないね」
矢島は淹れたてのコーヒーを二人に出した。そのコーヒーの苦みは、今までに飲んだどのコーヒーよりもずっと柔らかで、美味しかった。
1
あなたにおすすめの小説
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
あなたに捧ぐ愛の花
とうこ
BL
余命宣告を受けた青年はある日、風変わりな花屋に迷い込む。
そこにあったのは「心残りの種」から芽吹き咲いたという見たこともない花々。店主は言う。
「心残りの種を育てて下さい」
遺していく恋人への、彼の最後の希いとは。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる