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8. 仮面
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二人はしばらく矢島と話し込んだ後、ギャラリーを出た。ギャラリーを出たのは14時過ぎで、解散するには少し早かった。どこに行こうか相談したが、お互いに特に行きたい場所も無かったので、とりあえず幌橋駅へと戻り、腹ごなしに散歩しようということになった。
桜井が話題を振り、広瀬は一言だけ返事をする。そんな会話を繰り返しながら、何となく行く当てもなく歩く。しばらく歩いていると、広瀬と初めて出会った並木道が見えた。
少し休憩しよう、と桜井は提案し、二人は並木道のベンチに腰を掛けた。
桜は満開の時期を過ぎて、すでに散っていた。花びらは地面にまだらに落ち、枝には葉が付き始めている。よく見てみると、赤いものがいくつかついていた。地面にもいくつか落ちている。普段は全く気にしなかったが、何故かその時は、あの赤いのは何だろうと、疑問を抱いた。
「広瀬くん、あの赤いの。何だか知ってる?」
「赤いの?」
桜井はベンチのそばに落ちている赤い何かを拾い、それを広瀬に見せた。
「桜蘂」
さくらしべ。桜井は全く聞いたことが無い単語に、ぽかんとした。
「さくらしべ、って何?」
「桜の雄蕊と雌蕊のこと」
「へえ。僕、今まで知らなかったよ。どうして知ってるの?」
そう聞くと、広瀬は「覚えていない」と答えた。
桜井は摘まんだ桜蘂をじっと見る。花びらよりも濃く、赤に近い桃色のそれを、桜井は捩じるようにくるくる回した。
「広瀬くんって博識だよね。もしかして、成績もいいとか?」
「さあな」
広瀬は肩にかけていたポシェットから、『異邦人』という本を取り出し、読み始めた。
前に高山と三人で出かけた時、広瀬はある男の一生について、この本に書かれていると言っていた。具体的にどんな話なのか、桜井はどうしても気になった。
「ねえ。前に水族館に行ったとき、ある男の一生について書かれてるって言っていたけど、具体的にどんな話なの?」
桜井は広瀬の持っていた本を覗き込んだ。一目見ても内容が分かるわけではないが、開いているページの文章を目で追った。
「何事にも無関心な男の話。……そんなに気になるのか?」
広瀬は不思議そうに尋ねた。
「うん。だってずっと読んでるから」
「なら、貸そうか?」
広瀬は本に着いた紐をページに挟めて閉じ、桜井に差し出した。だが、広瀬がずっと大切に読んでいる本を、そう簡単に借りるわけにはいかなかった。
「いいよ。自分で買う。あとで本屋に寄ってもいい?」
広瀬は食い下がることなく、「分かった」と頷いて、再び本を開いた。
温かな風が吹き抜け、頬を撫でる。桜井は静かに春の風に浸り、広瀬は黙々と本を読んでいる。二人の間には沈黙が流れたが、その沈黙は決して不快ではなく、むしろ居心地が良かった。あまりの居心地の良さに、眠気すら感じる。
「……お前は」
ふと広瀬が呟いた。
「何?」
「お前は、俺を、冷たいと思わないのか?」
桜井は目を丸くした。急にどうしたのだろうか、と少し心配すら覚えた。
「……忘れてくれ」
広瀬は何事も無かったかのように、ページをめくった。
そういえば、今日の広瀬はいつもと違うように見えた。いや、広瀬の新しい一面を知ったから、違って見えるようになった、といった方が正しい。
広瀬は、空気である桜井と話したり、一緒に出掛ける時も、人を待たせないようにしていたり、自分が絵を好きだってことを見ていたり、それから、オムライスが好きだったり。最初は表情が全く無いから、何を考えているのか分からず、感情がないと思っていた。
だが、一緒に出掛けてみて、広瀬には確かに感情はあるのだと分かった。単に、それを表情や言葉にして出さない。どうしてそうなったか、理由は分からない。だが、そんな広瀬の事を冷たいとは、出会ってから一度も思ったことは無かった。
「冷たいとか、思ったことないよ。確かに、最初は何考えているのか分からなくて、解説のない絵画みたいだって思ったけど、でも、冷たいとは思ってなかった」
広瀬は何も反応しない。桜井は思い切って、高山のことを話そうと思った。
「今日さ。実は、高山さんに頼まれたことがあるんだ。広瀬くんが、自分のことを愛しているのか、聞いてほしいって。広瀬くんは、高山さんのことを愛しているの?」
「愛していない」
広瀬はあっさり答えた。
そう答えるのは、桜井にとって想定済みだった。だが、なぜか冷たいとは思えなかった。悲しい気持ちは確かにある。だが、広瀬は人をちゃんと見ている。高山のこともきっと同じだろう。
「そう言うと思ったよ。でも、僕は今の言葉を聞いても、冷たいとは思わなかった」
広瀬は目を大きく見開いた。そして、ゆっくり目を閉じて「そうか」と、蚊が鳴くような、聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの小さな声で呟いた。
「疑問に思ったんだけど、広瀬くんは、どうして感情を出そうとしないの?」
この際だから、どうしてそういう人間になったのか、ついでに疑問をぶつけよう。広瀬が一体どんな人物か、もっと深く聞いてみようと思った桜井の口は、無意識に動いた。
「感情を出したところで、何も変わらないだろう。同じことだ」
「どうして同じことだと思うの?」
「周囲の反応が変わるだけだろう。それだけのことだ」
「でもさっき、僕が冷たいかどうか聞いたよね。それはどうして?」
「それは、分からない。でも、分かったとしても、意味のないことだとはわかる」
「なぜ、広瀬くんは、そういう考え方ができるようになったの?」
広瀬は言葉に詰まった。聞きすぎたかな、と思い、桜井は謝ろうと思った。
「ごめん。なんでどうしてって、子供みたいだったね」
広瀬は本に紐を挟んで閉じ、桜井の方を向いた。無表情だが、その表情に怒りを含んでいるような気がして、怒らせてしまったと悟った。全身の熱が一気に冷める。持っていた桜蘂は、いつの間にか地面に落ちた。
「……それを知って、どうするんだ?」
広瀬の声は掠れていた。桜井は広瀬の方を向き、そして目を見開いた。広瀬の顔があまりにも辛そうな顔をしていたからだ。まるで、傷つくことを恐れる子犬のように、こちらを見つめている。
「君がそれを知っても、何も、何にもならない」
胸の奥がじわりと冷たくなり、針で刺されたような、小さな痛みが襲う。広瀬は怒っていない。悲しんでいる。だが、なぜ、広瀬がそんな表情をするのか、桜井には全く理解できなかった。
広瀬は立ち上がると、本をポシェットにしまった。広瀬の広い背中が、足元にまばらに落ちている、踏まれた桜蘂のようだった。
「本屋、行くんだろ」
広瀬は何事も無かったかのように、桜井の方を振り返る。先ほどの辛そうな表情は、一瞬にして消え、普段の無表情に戻っていた。どうしてあんなに悲しそうだったのか、正直に聞いてみたかったが、広瀬のあんな表情を見てしまった以上、聞くことは出来なかった。
本屋までの道のり、桜井と広瀬は互いに無言だった。何か話そうか、と話題を考えても、何も思いつかない。結局会話も無いまま、そのまま本屋に入った。
目当ての本はどこにあるのだろうか、と目を泳がせていると、本屋の店員に声をかけられた。店員に本のタイトルを教えると、店員はすぐに、その本が置いてある本棚まで案内した。店員は『異邦人』と大きく書かれた本を取って、桜井に渡す。桜井が礼を言うと、店員は何処かへ去っていった。
桜井が手にした本の表紙には、逆光の中、砂浜を歩く男が写っている。広瀬が持っている本と全く同じだが、実際に持って見ると案外薄い。これなら、3時間ほどあれば読み終わりそうだ。
「おや、こんなところで会うなんて奇遇だね」
声がして振り返ると、秋山が手を上げた。
「お疲れ様です。秋山先輩も買い物ですか?」
秋山が持っているかごには、5冊ほど本が入っている。
「まあね。自分は本を嗜むのが好きだからね。面白そうな本は、ついついかごの中に入れてしまう」
秋山は、桜井が手にしていた『異邦人』に視線を移した。
「アルベール・カミュの『異邦人』だね。桜井くん、カミュが好きなのかい?」
「いえ。好きというわけでは。ただ、広瀬くんがいつも読んでいる本なので、気になって読んでみようと」
「ふうん」
秋山はにやりと笑って、広瀬の方を向いた。
「はじめまして。広瀬くん。自分は秋山淳。君の噂は高山さんと桜井くんから聞いているよ」
「どうも」
広瀬は無表情のまま応対していたが、対照的に、秋山は好奇心に満ちた眼差しを広瀬に向けていた。そして、互いに無言のまま、数秒間目を合わせる。
「なるほど。君はムルソーのようだね」
広瀬はぴくりとわずかに眉を上げた。ムルソー、とは何のことだろう。桜井には分からなかった。広瀬の反応を見た秋山は、何かを悟ったようにふっと笑う。そして、好奇心に満ちた目が、何かを警戒するように僅かに鋭くなる。
「だが、今の反応見るに、ムルソーの仮面を付けていると言った方が正しかったかな」
仮面を付けている、とはつまり演じているということなのか。ムルソーとやらを、広瀬が演じている。一体、何のために演じているのだろう。
「初対面なのに、少し言い過ぎたね。では、私はこれで失礼するよ」
秋山は踵を返した。広瀬は神妙な面持ちで俯き、何も言わなかった。秋山の意味ありげな瞳と言葉が気になり、広瀬に声をかけようとしたが、とても質問できるような雰囲気ではなかった。
「会計、済ませてくる」
桜井はレジへ行こうと歩き出した。数歩歩いて、一瞬、立ち止まって後ろを振り返ると、広瀬は俯いたまま動かなかった。桜井は心配になったが、声をかけることすら躊躇い、そのままレジへ向かった。
本屋を出て、広瀬とはその場で別れた。
桜井は家路に着きながら、今日の一日を振り返る。
今日の広瀬は、目に見えるほどおかしかった。その分広瀬を深く理解できたが、理解しただけ、更に謎が増えた。
広瀬が時々悲しい顔をした理由、秋山が指摘した広瀬の演技のこと。どうしたら、その謎が解けるのだろう。もっと広瀬のことを知れば、いずれ解けるのだろうか。広瀬のことで頭が埋まった桜井には、目の前に広がる夕焼け空など、視界に全く入らなかった。
家に帰り、寝る前になって、桜井は本屋の袋から買った『異邦人』を取り出した。本をひっくり返して、裏を見る。本の右上に書かれたあらすじに目を通した。
そして、桜井の目にある単語が目に留まった。ムルソー、秋山が口にしていた単語だ。
ムルソーとは『異邦人』の主人公の名前だった。広瀬がムルソーの仮面を付けている、と秋山は言っていたが、この本を読めば、普段の広瀬の振る舞いや考え方について、理解できるのだろうか。
桜井は淡い期待を胸に、さっそく表紙をめくった。
─きょう、ママンが死んだ。
最初の文章は、桜井の目を引いた。冒頭、いきなり母親が亡くなり、ムルソーは、母親が晩年過ごした養老院へ向かう。始まりは唐突だが、その後の展開が気になり、桜井はすぐに『異邦人』の世界にのめり込んだ。
桜井が話題を振り、広瀬は一言だけ返事をする。そんな会話を繰り返しながら、何となく行く当てもなく歩く。しばらく歩いていると、広瀬と初めて出会った並木道が見えた。
少し休憩しよう、と桜井は提案し、二人は並木道のベンチに腰を掛けた。
桜は満開の時期を過ぎて、すでに散っていた。花びらは地面にまだらに落ち、枝には葉が付き始めている。よく見てみると、赤いものがいくつかついていた。地面にもいくつか落ちている。普段は全く気にしなかったが、何故かその時は、あの赤いのは何だろうと、疑問を抱いた。
「広瀬くん、あの赤いの。何だか知ってる?」
「赤いの?」
桜井はベンチのそばに落ちている赤い何かを拾い、それを広瀬に見せた。
「桜蘂」
さくらしべ。桜井は全く聞いたことが無い単語に、ぽかんとした。
「さくらしべ、って何?」
「桜の雄蕊と雌蕊のこと」
「へえ。僕、今まで知らなかったよ。どうして知ってるの?」
そう聞くと、広瀬は「覚えていない」と答えた。
桜井は摘まんだ桜蘂をじっと見る。花びらよりも濃く、赤に近い桃色のそれを、桜井は捩じるようにくるくる回した。
「広瀬くんって博識だよね。もしかして、成績もいいとか?」
「さあな」
広瀬は肩にかけていたポシェットから、『異邦人』という本を取り出し、読み始めた。
前に高山と三人で出かけた時、広瀬はある男の一生について、この本に書かれていると言っていた。具体的にどんな話なのか、桜井はどうしても気になった。
「ねえ。前に水族館に行ったとき、ある男の一生について書かれてるって言っていたけど、具体的にどんな話なの?」
桜井は広瀬の持っていた本を覗き込んだ。一目見ても内容が分かるわけではないが、開いているページの文章を目で追った。
「何事にも無関心な男の話。……そんなに気になるのか?」
広瀬は不思議そうに尋ねた。
「うん。だってずっと読んでるから」
「なら、貸そうか?」
広瀬は本に着いた紐をページに挟めて閉じ、桜井に差し出した。だが、広瀬がずっと大切に読んでいる本を、そう簡単に借りるわけにはいかなかった。
「いいよ。自分で買う。あとで本屋に寄ってもいい?」
広瀬は食い下がることなく、「分かった」と頷いて、再び本を開いた。
温かな風が吹き抜け、頬を撫でる。桜井は静かに春の風に浸り、広瀬は黙々と本を読んでいる。二人の間には沈黙が流れたが、その沈黙は決して不快ではなく、むしろ居心地が良かった。あまりの居心地の良さに、眠気すら感じる。
「……お前は」
ふと広瀬が呟いた。
「何?」
「お前は、俺を、冷たいと思わないのか?」
桜井は目を丸くした。急にどうしたのだろうか、と少し心配すら覚えた。
「……忘れてくれ」
広瀬は何事も無かったかのように、ページをめくった。
そういえば、今日の広瀬はいつもと違うように見えた。いや、広瀬の新しい一面を知ったから、違って見えるようになった、といった方が正しい。
広瀬は、空気である桜井と話したり、一緒に出掛ける時も、人を待たせないようにしていたり、自分が絵を好きだってことを見ていたり、それから、オムライスが好きだったり。最初は表情が全く無いから、何を考えているのか分からず、感情がないと思っていた。
だが、一緒に出掛けてみて、広瀬には確かに感情はあるのだと分かった。単に、それを表情や言葉にして出さない。どうしてそうなったか、理由は分からない。だが、そんな広瀬の事を冷たいとは、出会ってから一度も思ったことは無かった。
「冷たいとか、思ったことないよ。確かに、最初は何考えているのか分からなくて、解説のない絵画みたいだって思ったけど、でも、冷たいとは思ってなかった」
広瀬は何も反応しない。桜井は思い切って、高山のことを話そうと思った。
「今日さ。実は、高山さんに頼まれたことがあるんだ。広瀬くんが、自分のことを愛しているのか、聞いてほしいって。広瀬くんは、高山さんのことを愛しているの?」
「愛していない」
広瀬はあっさり答えた。
そう答えるのは、桜井にとって想定済みだった。だが、なぜか冷たいとは思えなかった。悲しい気持ちは確かにある。だが、広瀬は人をちゃんと見ている。高山のこともきっと同じだろう。
「そう言うと思ったよ。でも、僕は今の言葉を聞いても、冷たいとは思わなかった」
広瀬は目を大きく見開いた。そして、ゆっくり目を閉じて「そうか」と、蚊が鳴くような、聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの小さな声で呟いた。
「疑問に思ったんだけど、広瀬くんは、どうして感情を出そうとしないの?」
この際だから、どうしてそういう人間になったのか、ついでに疑問をぶつけよう。広瀬が一体どんな人物か、もっと深く聞いてみようと思った桜井の口は、無意識に動いた。
「感情を出したところで、何も変わらないだろう。同じことだ」
「どうして同じことだと思うの?」
「周囲の反応が変わるだけだろう。それだけのことだ」
「でもさっき、僕が冷たいかどうか聞いたよね。それはどうして?」
「それは、分からない。でも、分かったとしても、意味のないことだとはわかる」
「なぜ、広瀬くんは、そういう考え方ができるようになったの?」
広瀬は言葉に詰まった。聞きすぎたかな、と思い、桜井は謝ろうと思った。
「ごめん。なんでどうしてって、子供みたいだったね」
広瀬は本に紐を挟んで閉じ、桜井の方を向いた。無表情だが、その表情に怒りを含んでいるような気がして、怒らせてしまったと悟った。全身の熱が一気に冷める。持っていた桜蘂は、いつの間にか地面に落ちた。
「……それを知って、どうするんだ?」
広瀬の声は掠れていた。桜井は広瀬の方を向き、そして目を見開いた。広瀬の顔があまりにも辛そうな顔をしていたからだ。まるで、傷つくことを恐れる子犬のように、こちらを見つめている。
「君がそれを知っても、何も、何にもならない」
胸の奥がじわりと冷たくなり、針で刺されたような、小さな痛みが襲う。広瀬は怒っていない。悲しんでいる。だが、なぜ、広瀬がそんな表情をするのか、桜井には全く理解できなかった。
広瀬は立ち上がると、本をポシェットにしまった。広瀬の広い背中が、足元にまばらに落ちている、踏まれた桜蘂のようだった。
「本屋、行くんだろ」
広瀬は何事も無かったかのように、桜井の方を振り返る。先ほどの辛そうな表情は、一瞬にして消え、普段の無表情に戻っていた。どうしてあんなに悲しそうだったのか、正直に聞いてみたかったが、広瀬のあんな表情を見てしまった以上、聞くことは出来なかった。
本屋までの道のり、桜井と広瀬は互いに無言だった。何か話そうか、と話題を考えても、何も思いつかない。結局会話も無いまま、そのまま本屋に入った。
目当ての本はどこにあるのだろうか、と目を泳がせていると、本屋の店員に声をかけられた。店員に本のタイトルを教えると、店員はすぐに、その本が置いてある本棚まで案内した。店員は『異邦人』と大きく書かれた本を取って、桜井に渡す。桜井が礼を言うと、店員は何処かへ去っていった。
桜井が手にした本の表紙には、逆光の中、砂浜を歩く男が写っている。広瀬が持っている本と全く同じだが、実際に持って見ると案外薄い。これなら、3時間ほどあれば読み終わりそうだ。
「おや、こんなところで会うなんて奇遇だね」
声がして振り返ると、秋山が手を上げた。
「お疲れ様です。秋山先輩も買い物ですか?」
秋山が持っているかごには、5冊ほど本が入っている。
「まあね。自分は本を嗜むのが好きだからね。面白そうな本は、ついついかごの中に入れてしまう」
秋山は、桜井が手にしていた『異邦人』に視線を移した。
「アルベール・カミュの『異邦人』だね。桜井くん、カミュが好きなのかい?」
「いえ。好きというわけでは。ただ、広瀬くんがいつも読んでいる本なので、気になって読んでみようと」
「ふうん」
秋山はにやりと笑って、広瀬の方を向いた。
「はじめまして。広瀬くん。自分は秋山淳。君の噂は高山さんと桜井くんから聞いているよ」
「どうも」
広瀬は無表情のまま応対していたが、対照的に、秋山は好奇心に満ちた眼差しを広瀬に向けていた。そして、互いに無言のまま、数秒間目を合わせる。
「なるほど。君はムルソーのようだね」
広瀬はぴくりとわずかに眉を上げた。ムルソー、とは何のことだろう。桜井には分からなかった。広瀬の反応を見た秋山は、何かを悟ったようにふっと笑う。そして、好奇心に満ちた目が、何かを警戒するように僅かに鋭くなる。
「だが、今の反応見るに、ムルソーの仮面を付けていると言った方が正しかったかな」
仮面を付けている、とはつまり演じているということなのか。ムルソーとやらを、広瀬が演じている。一体、何のために演じているのだろう。
「初対面なのに、少し言い過ぎたね。では、私はこれで失礼するよ」
秋山は踵を返した。広瀬は神妙な面持ちで俯き、何も言わなかった。秋山の意味ありげな瞳と言葉が気になり、広瀬に声をかけようとしたが、とても質問できるような雰囲気ではなかった。
「会計、済ませてくる」
桜井はレジへ行こうと歩き出した。数歩歩いて、一瞬、立ち止まって後ろを振り返ると、広瀬は俯いたまま動かなかった。桜井は心配になったが、声をかけることすら躊躇い、そのままレジへ向かった。
本屋を出て、広瀬とはその場で別れた。
桜井は家路に着きながら、今日の一日を振り返る。
今日の広瀬は、目に見えるほどおかしかった。その分広瀬を深く理解できたが、理解しただけ、更に謎が増えた。
広瀬が時々悲しい顔をした理由、秋山が指摘した広瀬の演技のこと。どうしたら、その謎が解けるのだろう。もっと広瀬のことを知れば、いずれ解けるのだろうか。広瀬のことで頭が埋まった桜井には、目の前に広がる夕焼け空など、視界に全く入らなかった。
家に帰り、寝る前になって、桜井は本屋の袋から買った『異邦人』を取り出した。本をひっくり返して、裏を見る。本の右上に書かれたあらすじに目を通した。
そして、桜井の目にある単語が目に留まった。ムルソー、秋山が口にしていた単語だ。
ムルソーとは『異邦人』の主人公の名前だった。広瀬がムルソーの仮面を付けている、と秋山は言っていたが、この本を読めば、普段の広瀬の振る舞いや考え方について、理解できるのだろうか。
桜井は淡い期待を胸に、さっそく表紙をめくった。
─きょう、ママンが死んだ。
最初の文章は、桜井の目を引いた。冒頭、いきなり母親が亡くなり、ムルソーは、母親が晩年過ごした養老院へ向かう。始まりは唐突だが、その後の展開が気になり、桜井はすぐに『異邦人』の世界にのめり込んだ。
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