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10. 自覚
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土曜日、桜井が駅に着くと、すでに広瀬が立っていた。広瀬はいつも通り片手に『異邦人』を持ち、本に夢中になっていた。
「広瀬くん、やっぱり早いね」
桜井は片手をあげて近づいた。それまで本に注がれていた視線が桜井に向く。
「家にいてもやることがない」
広瀬は不愛想に答えた。桜井はふと、広瀬の家庭事情が気になった。広瀬は自分から話をしない。そんな彼だが、家ではどう過ごしているのだろう。桜井は気になって仕方なかった。
「そう言えば、広瀬くんって家ではどう過ごしているの?」
そう言うと、広瀬の顔が一瞬こわばった。一体どうしたのだろうか、と桜井は考えを巡らせる。やがて、広瀬の地雷を踏んだのか、と悟り、全身の血の気が引いた。まずい。やってしまった。そう思い、慌てて話題を変えようとしたが、言葉が出る前に、広瀬は静かに溜息をついた。
「家にはできるだけいないようにしている。居心地が悪すぎるから」
広瀬の様子からして、あまり踏み込んでほしくはない話題だったようで、これ以上聞くなという、圧力のようなものを醸し出していた。だが、圧力を感じながらも、桜井は心の中で共感していた。自分の家も居心地が悪い。片親の母は放埓としていて、自分を愛してはくれない。家は寂しい空間だ。
「僕と同じだね」
桜井の口から、するりと言葉が出てきた。広瀬は予想もしていない答えに、目を丸くした。
「僕の家は、母親が全く帰ってこなくて。家にいるとなんだか寂しいから。放課後は時間をつぶして、なるべく遅くに帰るようにしてる」
桜井は自嘲するように笑みを浮かべた。きっと広瀬のことだから、無関心そうに相槌を打つだろう。だが、思い浮かべた予想はすぐに裏切られた。
「今は、寂しくないか?」
今度は桜井が、予想もしていない答えに目を丸くする番だった。
「俺は冷たいって、よく人から言われる。こんな俺といても、つまらないだろ」
桜井の脳裏に、並木道での思い出がよみがえる。
『お前は、俺を、冷たいと思わないのか?』
脳内で声がリフレインし、桜井は気付いた。あの時の広瀬の声はぶっきらぼうだったが、もしかしたら、心の中で苦しいと感じているのではないか。ずっと抱えていた霧がかった気持ちが晴れ、ようやく腑に落ちた。
広瀬は無関心を装っている。無関心の仮面の下に、彼の優しい性格が隠れている。秋山が言っていたのは、このことだったのだろう。なぜ無関心を装うか、理由は分からない。ただ、家にいたくないという理由から、何となく家庭事情が絡んでいるのだろう。
桜井は笑いがこらえきれず、口を大きくあけて笑った。さながら、漫画の裏切りシーンのように、腹を抱えて笑った。一方、広瀬はいきなり笑い始めた桜井に、戸惑いを隠せなかった。
しばらく笑ううち、笑いすぎて腹が痛くなった。桜井は目じりに浮かんだ涙を拭った。
「ごめん。馬鹿にするつもりはないんだ。ただ、やっと分かった。広瀬くんがどういう人なのか。広瀬くんは冷たくなんかないよ。無関心そうに見えて、実はそうじゃない。誰よりも優しい」
広瀬は驚いた。いつもの無愛想な表情が崩れていく。
「だって、誰よりも先に待ち合わせ場所に着いている。それに、『寂しい』って言った僕を心配してくれるでしょう?」
「気遣いも心配もしていない」
広瀬はそう言うが、そうじゃないことは桜井には分かっていた。
「していなくても、無意識にそうしている」
広瀬はあからさまに目を逸らした。やはり、自分の考えは間違っていない。桜井は確信した。
その時、「おーい」と遠くから声が聞こえ、声のする方を向くと、高山さんと高山さんの友人がやってきた。
二人はラベンダー色のおそろいのワンピースを着ていた。双子コーデというものだろうか。
「お待たせ。待った?」
「ううん。そんなに待ってないよ」
「そっか」と高山は乱れた前髪を整えながら笑った。そして、紹介するね、と隣の女性の肩に手を置いた。
「私と同じクラスの山岸あかね。私の親友なんだ」
山岸は「よろしくねー」と手を軽く振った。ウェーブかかった長い黒髪は艶がかり、すらりとした姿勢と、きつめの吊目は、したたかな強さを感じさせる。一目見ただけでも、気の強そうな人だと分かる。
「で、聖奈。この男子たちは?」
「広瀬くんと桜井くんだよ。前に話したでしょ?」
ふうん、と山岸は桜井と広瀬の顔をまじまじと見た。吊目のせいなのか、何だか蛇に睨まれたような感覚になり、桜井は体がこわばり、緊張した。
「まあ、いいわ。とにかく映画行こ」
山岸は髪をなびかせながら、高山とともに歩き出した。山岸から、きつめの香水の香りがして、桜井は顔をしかめた。
駅近くの大きなショッピングモールに併設された映画館に着くと、中は人であふれていた。
「きっと私たちが見る映画が公開初日だから、ファンの子たちが集まってるんだね」
よく見ると、映画館を訪れている人は殆どが女性だった。グッズをアレンジしたカバンを持つ女性や、高山と同じ、ラベンダー色の服を着ている女性たちでごった返している。
「主演が安達くんだからね。安達ファンが集まるのも当然でしょ」
山岸の言う安達くん、が誰なのか桜井には分からない。だが、高山と山岸もファンと同じラベンダー色の服を着ているということは、二人も安達くんのファンなのだろうか。
「もしかして二人も、安達くんのファンなの?」
思い切って聞くと、「そうそう!」と山岸は高山の肩に手を回した。
「私が安達くんのファンだから、ドラマを聖奈に見せたの。そしたら聖奈、そのドラマにハマってさ」
「まあ、私は安達くんが好きってよりも、ドラマが好きなんだけどね」
「だから今日は推しカラーで双子コーデってわけ。どう、桜井くん。似合う?」
山岸は体をねじる。動きに合わせてワンピースの裾がふわりと揺れる。それと同時にきつい香水の匂いが漂った。
桜井はその鼻につく匂いに耐えながら、それを表情に出さないように精一杯微笑んだ。
「うん。似合っているよ」
そう言うと山岸は、あははと笑って、桜井の腕を強くつかんだ。
「桜井くん、めっちゃ男前じゃん。うちら、チケット取ってくるから、聖奈と広瀬くんはポップコーン買ってきて。ドリンクは紅茶でよろしくー」
山岸はそのまま桜井の腕を引っ張り、桜井は強制的にチケット売り場へ連れていかれた。
チケット売り場には長蛇の列が並び、チケット発行までに時間がかかりそうだった。
「チケットは一応予約してるけど、発券しなきゃいけないのだるすぎ」
山岸は髪の毛の毛束をくるくると指に巻き付けている。その仕草から、桜井はぼんやりと母親の姿を思い浮かべた。
「ねえ。桜井くんって、聖奈から恋愛相談受けてたでしょ」
「うん」
「広瀬くんって、超冷たくない?『好きじゃない』とか、普通、恋人に言う?」
桜井はどきりとした。きっと高山から色々と聞いたのだろう。
「私も、聖奈から恋愛相談受けてたんだけどさ。広瀬くんってもしかしたら浮気してるんじゃないの?」
桜井の胸がずきりと痛む。そんな桜井をつゆ知らず、山岸は早口に捲し立てる。
「だってそうでしょ。『好きじゃない』ってことは、他に好きな人がいるってことでしょ? 私、聖奈が可哀そうで目も当てられない。あんな男とさっさと別れればいいのに」
違う、そうじゃない。桜井は叫び出しそうになる気持ちを堪えた。広瀬は確かに無愛想だけど、本当は優しいんだ。『好きじゃない』、『愛していない』と言って、愛に無関心だけれど、胸の内に秘めた愛を出そうとしていないだけだ。
「ま、聖奈のことだし、諦めが悪いんだろうね。浮気にいつ気付くんだか」
桜井は、広瀬と高山が傷つけられた気がして、無性に悲しくなった。何も分かっていないのは山岸の方だ。桜井は反論したかったが、山岸に何を言っても信じてもらえそうにない。その後も山岸は広瀬のことを批判し続けたが、聞いているうちに反論する気力すら湧かなくなり、桜井はだんまりを決め込んだ。
映画はドラマの番外編ということもあり、内容についてはさっぱりだったが、主演の演技が光っていたと桜井は素直に感じていた。高山と山岸は興奮冷め止まぬ様子で、二人で映画の感想を語り合っている。
「ラストの演出、すごく良かったよね!」
「分かる! 伏線の回収も完璧だったし……」
二人の声は弾み、会話が途切れることはない。その様子を、広瀬は退屈そうに見つめていた。
「あの二人、すごく仲がいいんだね」
桜井が思わず声をかけると、広瀬はあっさりと答えた。
「知ってる。よく、高山が山岸の話をするから」
「そうなんだ」
桜井は何気なく相槌を打った。きっと明るい高山のことだ。良好な友人関係を築けているのだろう─恋愛を除いては。
高山は広瀬との恋愛について、山岸から反対されている。高山はそのことをどう思うのだろう。きっと高山のことだから、思い悩んでいるに違いない。
「……桜井?」
不意に広瀬の声がして、ふと我に返った。広瀬は不思議そうに桜井を見つめていた。
「えっと、どうかした?」
「険しそうな顔をしていた。具合が悪いのか?」
広瀬に指摘され、桜井は無意識に眉にしわを寄せていたことに気が付き、慌てて笑みを浮かべた。
「ごめん、大丈夫だよ。何でもない。心配してくれてありがとう」
そう言うと、広瀬の顔が曇った。視線を落とし、小さく息を吐く。
「心配なんてしていない」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
広瀬は何も言わなかった。その沈黙が答えだった。言葉に詰まる広瀬を見て、桜井は思う。
──本当は優しいくせに。無関心を装っているだけなのに。
桜井は、口から出そうになる言葉を飲み込んだ。
二人の間に沈黙が流れる。その時ふと、高山と山岸の会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、今日の映画館、すごく乾燥してなかった?」
「あー、分かる! 化粧ヨレてるだろうし、帰る前に直さなきゃ」
「私も。リップ塗り直したい」
高山は、桜井と広瀬の方を向いた。
「あ、私たちトイレに行くから、二人は先に外で待ってて」
そう言い残し、二人はトイレへと向かった。
その時、広瀬の表情が、すっと無機質なものに変わる。たった今までの苦しげな表情が、何事もなかったかのように消えていくのを、桜井は見逃さなかった。その瞬間が、桜井には痛々しく思えた。
桜井と広瀬は映画館を出て、高山と山岸を待つ。広瀬は壁にもたれながら、ポシェットから『異邦人』を取り出した。
「そういえば、『異邦人』途中まで読んだよ」
広瀬は何も言わず、『異邦人』を開いた。
「ムルソーが恋人に『愛していない』って言うの、広瀬くんにそっくりだよね」
広瀬の指が、ページの上でぴたりと止まる。
「まだ途中までしか読んでないけど、秋山先輩が『ムルソーの仮面』って言ったこと、何となく分かる気がする。広瀬くんは無関心を装うけれど、本当は人のことをよく見ているし、心配して、優しくしてくれる」
ムルソーは無関心だ。母親の死も、恋人の愛も、何とも思っていない。だが、広瀬は無関心を演じても、隠しきれていないものがある。それが溢れている。
「なんで、そう思うんだ」
広瀬の声がワントーン低くなる。
「だって、僕が絵を好きなことも、体調を心配してくれたことも、人をしっかり見ないと分からないでしょう?」
広瀬は俯き、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと呟く。
「……こんなとき、ムルソーならきっと、何とも思わないんだろうな」
その低く細い声が、雑踏にかき消されそうになったとき─
「ママ-!!どこーーー!!」
子供の泣き声が響いた。入口の方を見ると、小さな女の子が涙をこぼしながら立ち尽くしている。それを見た周囲の大人たちは目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
桜井は見かねて助けに入ろうとした。
─その瞬間、広瀬の足が先に動いた。
広瀬は少女の前にしゃがみ、穏やかに問いかける。
「どうかしたのか?」
「お母さんがいなくなっちゃった」
広瀬は少女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ。映画館の人に説明すれば、きっとお母さんも見つかる」
そう言って、広瀬は少女の手を取り、両手でそっと包んだ。少女の涙は止み、「うん」と声を震わせながらも返事をする。その時だった。
広瀬は笑っていた。
柔らかく、温かく、どこまでも優しい笑顔だった。
桜井はその光景に息をのんだ。
心臓の鼓動が強くなり、何かが胸の奥で崩れていく。
──違う、こんなはずじゃない。
広瀬と初めて出会ったときの高揚感とは、似ているようで違う。広瀬を知れば知るほど、惹かれていく感覚。それはもっと深く、もっと取り返しのつかないものだ。
広瀬の優しさを知っている今、こんなに惹かれる理由は、一つしかない。
息が詰まる。
ここにいたら、広瀬を見てしまう。これ以上、広瀬を見てしまったら。
気が付くと、桜井は全力で走り出していた。トイレの個室に入り、鍵をかける。そのまま個室の壁にもたれ、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
ああ、僕は広瀬が好きなのか。
そう認めた瞬間、喉の奥がひどく詰まった。呼吸が浅くなり、震える指先を握りしめる。
好きになってはいけないのに。高山という彼女がいるのに。ましてや、自分は男なのに。こんな思いを抱えてはならなかった。こんな不毛な恋心があるか。
「……馬鹿みたいだ」
桜井は両手で顔を覆いながら、乾いた笑いを浮かべた。
広瀬を『冷たい男』だと思えたら良かったのに。いっそのこと、広瀬を嫌いになれたら良かったのに。あんな優しさを見せられたら、もう無理だ。
惹かれてしまった自分が、何より醜くて、気持ち悪い。
桜井はしばらくその場から動けず、ただじっと嵐が過ぎるのを待つように身を丸めた。
「広瀬くん、やっぱり早いね」
桜井は片手をあげて近づいた。それまで本に注がれていた視線が桜井に向く。
「家にいてもやることがない」
広瀬は不愛想に答えた。桜井はふと、広瀬の家庭事情が気になった。広瀬は自分から話をしない。そんな彼だが、家ではどう過ごしているのだろう。桜井は気になって仕方なかった。
「そう言えば、広瀬くんって家ではどう過ごしているの?」
そう言うと、広瀬の顔が一瞬こわばった。一体どうしたのだろうか、と桜井は考えを巡らせる。やがて、広瀬の地雷を踏んだのか、と悟り、全身の血の気が引いた。まずい。やってしまった。そう思い、慌てて話題を変えようとしたが、言葉が出る前に、広瀬は静かに溜息をついた。
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広瀬の様子からして、あまり踏み込んでほしくはない話題だったようで、これ以上聞くなという、圧力のようなものを醸し出していた。だが、圧力を感じながらも、桜井は心の中で共感していた。自分の家も居心地が悪い。片親の母は放埓としていて、自分を愛してはくれない。家は寂しい空間だ。
「僕と同じだね」
桜井の口から、するりと言葉が出てきた。広瀬は予想もしていない答えに、目を丸くした。
「僕の家は、母親が全く帰ってこなくて。家にいるとなんだか寂しいから。放課後は時間をつぶして、なるべく遅くに帰るようにしてる」
桜井は自嘲するように笑みを浮かべた。きっと広瀬のことだから、無関心そうに相槌を打つだろう。だが、思い浮かべた予想はすぐに裏切られた。
「今は、寂しくないか?」
今度は桜井が、予想もしていない答えに目を丸くする番だった。
「俺は冷たいって、よく人から言われる。こんな俺といても、つまらないだろ」
桜井の脳裏に、並木道での思い出がよみがえる。
『お前は、俺を、冷たいと思わないのか?』
脳内で声がリフレインし、桜井は気付いた。あの時の広瀬の声はぶっきらぼうだったが、もしかしたら、心の中で苦しいと感じているのではないか。ずっと抱えていた霧がかった気持ちが晴れ、ようやく腑に落ちた。
広瀬は無関心を装っている。無関心の仮面の下に、彼の優しい性格が隠れている。秋山が言っていたのは、このことだったのだろう。なぜ無関心を装うか、理由は分からない。ただ、家にいたくないという理由から、何となく家庭事情が絡んでいるのだろう。
桜井は笑いがこらえきれず、口を大きくあけて笑った。さながら、漫画の裏切りシーンのように、腹を抱えて笑った。一方、広瀬はいきなり笑い始めた桜井に、戸惑いを隠せなかった。
しばらく笑ううち、笑いすぎて腹が痛くなった。桜井は目じりに浮かんだ涙を拭った。
「ごめん。馬鹿にするつもりはないんだ。ただ、やっと分かった。広瀬くんがどういう人なのか。広瀬くんは冷たくなんかないよ。無関心そうに見えて、実はそうじゃない。誰よりも優しい」
広瀬は驚いた。いつもの無愛想な表情が崩れていく。
「だって、誰よりも先に待ち合わせ場所に着いている。それに、『寂しい』って言った僕を心配してくれるでしょう?」
「気遣いも心配もしていない」
広瀬はそう言うが、そうじゃないことは桜井には分かっていた。
「していなくても、無意識にそうしている」
広瀬はあからさまに目を逸らした。やはり、自分の考えは間違っていない。桜井は確信した。
その時、「おーい」と遠くから声が聞こえ、声のする方を向くと、高山さんと高山さんの友人がやってきた。
二人はラベンダー色のおそろいのワンピースを着ていた。双子コーデというものだろうか。
「お待たせ。待った?」
「ううん。そんなに待ってないよ」
「そっか」と高山は乱れた前髪を整えながら笑った。そして、紹介するね、と隣の女性の肩に手を置いた。
「私と同じクラスの山岸あかね。私の親友なんだ」
山岸は「よろしくねー」と手を軽く振った。ウェーブかかった長い黒髪は艶がかり、すらりとした姿勢と、きつめの吊目は、したたかな強さを感じさせる。一目見ただけでも、気の強そうな人だと分かる。
「で、聖奈。この男子たちは?」
「広瀬くんと桜井くんだよ。前に話したでしょ?」
ふうん、と山岸は桜井と広瀬の顔をまじまじと見た。吊目のせいなのか、何だか蛇に睨まれたような感覚になり、桜井は体がこわばり、緊張した。
「まあ、いいわ。とにかく映画行こ」
山岸は髪をなびかせながら、高山とともに歩き出した。山岸から、きつめの香水の香りがして、桜井は顔をしかめた。
駅近くの大きなショッピングモールに併設された映画館に着くと、中は人であふれていた。
「きっと私たちが見る映画が公開初日だから、ファンの子たちが集まってるんだね」
よく見ると、映画館を訪れている人は殆どが女性だった。グッズをアレンジしたカバンを持つ女性や、高山と同じ、ラベンダー色の服を着ている女性たちでごった返している。
「主演が安達くんだからね。安達ファンが集まるのも当然でしょ」
山岸の言う安達くん、が誰なのか桜井には分からない。だが、高山と山岸もファンと同じラベンダー色の服を着ているということは、二人も安達くんのファンなのだろうか。
「もしかして二人も、安達くんのファンなの?」
思い切って聞くと、「そうそう!」と山岸は高山の肩に手を回した。
「私が安達くんのファンだから、ドラマを聖奈に見せたの。そしたら聖奈、そのドラマにハマってさ」
「まあ、私は安達くんが好きってよりも、ドラマが好きなんだけどね」
「だから今日は推しカラーで双子コーデってわけ。どう、桜井くん。似合う?」
山岸は体をねじる。動きに合わせてワンピースの裾がふわりと揺れる。それと同時にきつい香水の匂いが漂った。
桜井はその鼻につく匂いに耐えながら、それを表情に出さないように精一杯微笑んだ。
「うん。似合っているよ」
そう言うと山岸は、あははと笑って、桜井の腕を強くつかんだ。
「桜井くん、めっちゃ男前じゃん。うちら、チケット取ってくるから、聖奈と広瀬くんはポップコーン買ってきて。ドリンクは紅茶でよろしくー」
山岸はそのまま桜井の腕を引っ張り、桜井は強制的にチケット売り場へ連れていかれた。
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「チケットは一応予約してるけど、発券しなきゃいけないのだるすぎ」
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「ねえ。桜井くんって、聖奈から恋愛相談受けてたでしょ」
「うん」
「広瀬くんって、超冷たくない?『好きじゃない』とか、普通、恋人に言う?」
桜井はどきりとした。きっと高山から色々と聞いたのだろう。
「私も、聖奈から恋愛相談受けてたんだけどさ。広瀬くんってもしかしたら浮気してるんじゃないの?」
桜井の胸がずきりと痛む。そんな桜井をつゆ知らず、山岸は早口に捲し立てる。
「だってそうでしょ。『好きじゃない』ってことは、他に好きな人がいるってことでしょ? 私、聖奈が可哀そうで目も当てられない。あんな男とさっさと別れればいいのに」
違う、そうじゃない。桜井は叫び出しそうになる気持ちを堪えた。広瀬は確かに無愛想だけど、本当は優しいんだ。『好きじゃない』、『愛していない』と言って、愛に無関心だけれど、胸の内に秘めた愛を出そうとしていないだけだ。
「ま、聖奈のことだし、諦めが悪いんだろうね。浮気にいつ気付くんだか」
桜井は、広瀬と高山が傷つけられた気がして、無性に悲しくなった。何も分かっていないのは山岸の方だ。桜井は反論したかったが、山岸に何を言っても信じてもらえそうにない。その後も山岸は広瀬のことを批判し続けたが、聞いているうちに反論する気力すら湧かなくなり、桜井はだんまりを決め込んだ。
映画はドラマの番外編ということもあり、内容についてはさっぱりだったが、主演の演技が光っていたと桜井は素直に感じていた。高山と山岸は興奮冷め止まぬ様子で、二人で映画の感想を語り合っている。
「ラストの演出、すごく良かったよね!」
「分かる! 伏線の回収も完璧だったし……」
二人の声は弾み、会話が途切れることはない。その様子を、広瀬は退屈そうに見つめていた。
「あの二人、すごく仲がいいんだね」
桜井が思わず声をかけると、広瀬はあっさりと答えた。
「知ってる。よく、高山が山岸の話をするから」
「そうなんだ」
桜井は何気なく相槌を打った。きっと明るい高山のことだ。良好な友人関係を築けているのだろう─恋愛を除いては。
高山は広瀬との恋愛について、山岸から反対されている。高山はそのことをどう思うのだろう。きっと高山のことだから、思い悩んでいるに違いない。
「……桜井?」
不意に広瀬の声がして、ふと我に返った。広瀬は不思議そうに桜井を見つめていた。
「えっと、どうかした?」
「険しそうな顔をしていた。具合が悪いのか?」
広瀬に指摘され、桜井は無意識に眉にしわを寄せていたことに気が付き、慌てて笑みを浮かべた。
「ごめん、大丈夫だよ。何でもない。心配してくれてありがとう」
そう言うと、広瀬の顔が曇った。視線を落とし、小さく息を吐く。
「心配なんてしていない」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
広瀬は何も言わなかった。その沈黙が答えだった。言葉に詰まる広瀬を見て、桜井は思う。
──本当は優しいくせに。無関心を装っているだけなのに。
桜井は、口から出そうになる言葉を飲み込んだ。
二人の間に沈黙が流れる。その時ふと、高山と山岸の会話が耳に飛び込んできた。
「ねえ、今日の映画館、すごく乾燥してなかった?」
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高山は、桜井と広瀬の方を向いた。
「あ、私たちトイレに行くから、二人は先に外で待ってて」
そう言い残し、二人はトイレへと向かった。
その時、広瀬の表情が、すっと無機質なものに変わる。たった今までの苦しげな表情が、何事もなかったかのように消えていくのを、桜井は見逃さなかった。その瞬間が、桜井には痛々しく思えた。
桜井と広瀬は映画館を出て、高山と山岸を待つ。広瀬は壁にもたれながら、ポシェットから『異邦人』を取り出した。
「そういえば、『異邦人』途中まで読んだよ」
広瀬は何も言わず、『異邦人』を開いた。
「ムルソーが恋人に『愛していない』って言うの、広瀬くんにそっくりだよね」
広瀬の指が、ページの上でぴたりと止まる。
「まだ途中までしか読んでないけど、秋山先輩が『ムルソーの仮面』って言ったこと、何となく分かる気がする。広瀬くんは無関心を装うけれど、本当は人のことをよく見ているし、心配して、優しくしてくれる」
ムルソーは無関心だ。母親の死も、恋人の愛も、何とも思っていない。だが、広瀬は無関心を演じても、隠しきれていないものがある。それが溢れている。
「なんで、そう思うんだ」
広瀬の声がワントーン低くなる。
「だって、僕が絵を好きなことも、体調を心配してくれたことも、人をしっかり見ないと分からないでしょう?」
広瀬は俯き、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと呟く。
「……こんなとき、ムルソーならきっと、何とも思わないんだろうな」
その低く細い声が、雑踏にかき消されそうになったとき─
「ママ-!!どこーーー!!」
子供の泣き声が響いた。入口の方を見ると、小さな女の子が涙をこぼしながら立ち尽くしている。それを見た周囲の大人たちは目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
桜井は見かねて助けに入ろうとした。
─その瞬間、広瀬の足が先に動いた。
広瀬は少女の前にしゃがみ、穏やかに問いかける。
「どうかしたのか?」
「お母さんがいなくなっちゃった」
広瀬は少女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ。映画館の人に説明すれば、きっとお母さんも見つかる」
そう言って、広瀬は少女の手を取り、両手でそっと包んだ。少女の涙は止み、「うん」と声を震わせながらも返事をする。その時だった。
広瀬は笑っていた。
柔らかく、温かく、どこまでも優しい笑顔だった。
桜井はその光景に息をのんだ。
心臓の鼓動が強くなり、何かが胸の奥で崩れていく。
──違う、こんなはずじゃない。
広瀬と初めて出会ったときの高揚感とは、似ているようで違う。広瀬を知れば知るほど、惹かれていく感覚。それはもっと深く、もっと取り返しのつかないものだ。
広瀬の優しさを知っている今、こんなに惹かれる理由は、一つしかない。
息が詰まる。
ここにいたら、広瀬を見てしまう。これ以上、広瀬を見てしまったら。
気が付くと、桜井は全力で走り出していた。トイレの個室に入り、鍵をかける。そのまま個室の壁にもたれ、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
ああ、僕は広瀬が好きなのか。
そう認めた瞬間、喉の奥がひどく詰まった。呼吸が浅くなり、震える指先を握りしめる。
好きになってはいけないのに。高山という彼女がいるのに。ましてや、自分は男なのに。こんな思いを抱えてはならなかった。こんな不毛な恋心があるか。
「……馬鹿みたいだ」
桜井は両手で顔を覆いながら、乾いた笑いを浮かべた。
広瀬を『冷たい男』だと思えたら良かったのに。いっそのこと、広瀬を嫌いになれたら良かったのに。あんな優しさを見せられたら、もう無理だ。
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「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
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