桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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10. 自覚

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 土曜日、桜井が駅に着くと、すでに広瀬が立っていた。広瀬はいつも通り片手に『異邦人』を持ち、本に夢中になっていた。

「広瀬くん、やっぱり早いね」

 桜井は片手をあげて近づいた。それまで本に注がれていた視線が桜井に向く。

「家にいてもやることがない」

 広瀬は不愛想に答えた。桜井はふと、広瀬の家庭事情が気になった。広瀬は自分から話をしない。そんな彼だが、家ではどう過ごしているのだろう。桜井は気になって仕方なかった。

「そう言えば、広瀬くんって家ではどう過ごしているの?」

 そう言うと、広瀬の顔が一瞬こわばった。一体どうしたのだろうか、と桜井は考えを巡らせる。やがて、広瀬の地雷を踏んだのか、と悟り、全身の血の気が引いた。まずい。やってしまった。そう思い、慌てて話題を変えようとしたが、言葉が出る前に、広瀬は静かに溜息をついた。

「家にはできるだけいないようにしている。居心地が悪すぎるから」

 広瀬の様子からして、あまり踏み込んでほしくはない話題だったようで、これ以上聞くなという、圧力のようなものを醸し出していた。だが、圧力を感じながらも、桜井は心の中で共感していた。自分の家も居心地が悪い。片親の母は放埓としていて、自分を愛してはくれない。家は寂しい空間だ。

「僕と同じだね」

 桜井の口から、するりと言葉が出てきた。広瀬は予想もしていない答えに、目を丸くした。

「僕の家は、母親が全く帰ってこなくて。家にいるとなんだか寂しいから。放課後は時間をつぶして、なるべく遅くに帰るようにしてる」

 桜井は自嘲するように笑みを浮かべた。きっと広瀬のことだから、無関心そうに相槌を打つだろう。だが、思い浮かべた予想はすぐに裏切られた。

「今は、寂しくないか?」

 今度は桜井が、予想もしていない答えに目を丸くする番だった。

「俺は冷たいって、よく人から言われる。こんな俺といても、つまらないだろ」

 桜井の脳裏に、並木道での思い出がよみがえる。

『お前は、俺を、冷たいと思わないのか?』

 脳内で声がリフレインし、桜井は気付いた。あの時の広瀬の声はぶっきらぼうだったが、もしかしたら、心の中で苦しいと感じているのではないか。ずっと抱えていた霧がかった気持ちが晴れ、ようやく腑に落ちた。
 広瀬は無関心を装っている。無関心の仮面の下に、彼の優しい性格が隠れている。秋山が言っていたのは、このことだったのだろう。なぜ無関心を装うか、理由は分からない。ただ、家にいたくないという理由から、何となく家庭事情が絡んでいるのだろう。
 桜井は笑いがこらえきれず、口を大きくあけて笑った。さながら、漫画の裏切りシーンのように、腹を抱えて笑った。一方、広瀬はいきなり笑い始めた桜井に、戸惑いを隠せなかった。
 しばらく笑ううち、笑いすぎて腹が痛くなった。桜井は目じりに浮かんだ涙を拭った。

「ごめん。馬鹿にするつもりはないんだ。ただ、やっと分かった。広瀬くんがどういう人なのか。広瀬くんは冷たくなんかないよ。無関心そうに見えて、実はそうじゃない。誰よりも優しい」

 広瀬は驚いた。いつもの無愛想な表情が崩れていく。

「だって、誰よりも先に待ち合わせ場所に着いている。それに、『寂しい』って言った僕を心配してくれるでしょう?」
「気遣いも心配もしていない」

 広瀬はそう言うが、そうじゃないことは桜井には分かっていた。

「していなくても、無意識にそうしている」

 広瀬はあからさまに目を逸らした。やはり、自分の考えは間違っていない。桜井は確信した。
 その時、「おーい」と遠くから声が聞こえ、声のする方を向くと、高山さんと高山さんの友人がやってきた。
 二人はラベンダー色のおそろいのワンピースを着ていた。双子コーデというものだろうか。

「お待たせ。待った?」
「ううん。そんなに待ってないよ」

「そっか」と高山は乱れた前髪を整えながら笑った。そして、紹介するね、と隣の女性の肩に手を置いた。

「私と同じクラスの山岸やまぎしあかね。私の親友なんだ」

 山岸は「よろしくねー」と手を軽く振った。ウェーブかかった長い黒髪は艶がかり、すらりとした姿勢と、きつめの吊目は、したたかな強さを感じさせる。一目見ただけでも、気の強そうな人だと分かる。

「で、聖奈。この男子たちは?」
「広瀬くんと桜井くんだよ。前に話したでしょ?」

 ふうん、と山岸は桜井と広瀬の顔をまじまじと見た。吊目のせいなのか、何だか蛇に睨まれたような感覚になり、桜井は体がこわばり、緊張した。

「まあ、いいわ。とにかく映画行こ」

 山岸は髪をなびかせながら、高山とともに歩き出した。山岸から、きつめの香水の香りがして、桜井は顔をしかめた。
 駅近くの大きなショッピングモールに併設された映画館に着くと、中は人であふれていた。

「きっと私たちが見る映画が公開初日だから、ファンの子たちが集まってるんだね」

 よく見ると、映画館を訪れている人は殆どが女性だった。グッズをアレンジしたカバンを持つ女性や、高山と同じ、ラベンダー色の服を着ている女性たちでごった返している。

「主演が安達くんだからね。安達ファンが集まるのも当然でしょ」

 山岸の言う安達くん、が誰なのか桜井には分からない。だが、高山と山岸もファンと同じラベンダー色の服を着ているということは、二人も安達くんのファンなのだろうか。

「もしかして二人も、安達くんのファンなの?」

 思い切って聞くと、「そうそう!」と山岸は高山の肩に手を回した。

「私が安達くんのファンだから、ドラマを聖奈に見せたの。そしたら聖奈、そのドラマにハマってさ」
「まあ、私は安達くんが好きってよりも、ドラマが好きなんだけどね」
「だから今日は推しカラーで双子コーデってわけ。どう、桜井くん。似合う?」

 山岸は体をねじる。動きに合わせてワンピースの裾がふわりと揺れる。それと同時にきつい香水の匂いが漂った。
 桜井はその鼻につく匂いに耐えながら、それを表情に出さないように精一杯微笑んだ。

「うん。似合っているよ」

 そう言うと山岸は、あははと笑って、桜井の腕を強くつかんだ。

「桜井くん、めっちゃ男前じゃん。うちら、チケット取ってくるから、聖奈と広瀬くんはポップコーン買ってきて。ドリンクは紅茶でよろしくー」

 山岸はそのまま桜井の腕を引っ張り、桜井は強制的にチケット売り場へ連れていかれた。
 チケット売り場には長蛇の列が並び、チケット発行までに時間がかかりそうだった。

「チケットは一応予約してるけど、発券しなきゃいけないのだるすぎ」

 山岸は髪の毛の毛束をくるくると指に巻き付けている。その仕草から、桜井はぼんやりと母親の姿を思い浮かべた。

「ねえ。桜井くんって、聖奈から恋愛相談受けてたでしょ」
「うん」
「広瀬くんって、超冷たくない?『好きじゃない』とか、普通、恋人に言う?」

 桜井はどきりとした。きっと高山から色々と聞いたのだろう。

「私も、聖奈から恋愛相談受けてたんだけどさ。広瀬くんってもしかしたら浮気してるんじゃないの?」

 桜井の胸がずきりと痛む。そんな桜井をつゆ知らず、山岸は早口に捲し立てる。

「だってそうでしょ。『好きじゃない』ってことは、他に好きな人がいるってことでしょ? 私、聖奈が可哀そうで目も当てられない。あんな男とさっさと別れればいいのに」

 違う、そうじゃない。桜井は叫び出しそうになる気持ちを堪えた。広瀬は確かに無愛想だけど、本当は優しいんだ。『好きじゃない』、『愛していない』と言って、愛に無関心だけれど、胸の内に秘めた愛を出そうとしていないだけだ。

「ま、聖奈のことだし、諦めが悪いんだろうね。浮気にいつ気付くんだか」

 桜井は、広瀬と高山が傷つけられた気がして、無性に悲しくなった。何も分かっていないのは山岸の方だ。桜井は反論したかったが、山岸に何を言っても信じてもらえそうにない。その後も山岸は広瀬のことを批判し続けたが、聞いているうちに反論する気力すら湧かなくなり、桜井はだんまりを決め込んだ。

 映画はドラマの番外編ということもあり、内容についてはさっぱりだったが、主演の演技が光っていたと桜井は素直に感じていた。高山と山岸は興奮冷め止まぬ様子で、二人で映画の感想を語り合っている。

「ラストの演出、すごく良かったよね!」
「分かる! 伏線の回収も完璧だったし……」

 二人の声は弾み、会話が途切れることはない。その様子を、広瀬は退屈そうに見つめていた。

「あの二人、すごく仲がいいんだね」

 桜井が思わず声をかけると、広瀬はあっさりと答えた。

「知ってる。よく、高山が山岸の話をするから」
「そうなんだ」

 桜井は何気なく相槌を打った。きっと明るい高山のことだ。良好な友人関係を築けているのだろう─恋愛を除いては。
 高山は広瀬との恋愛について、山岸から反対されている。高山はそのことをどう思うのだろう。きっと高山のことだから、思い悩んでいるに違いない。

「……桜井?」

 不意に広瀬の声がして、ふと我に返った。広瀬は不思議そうに桜井を見つめていた。

「えっと、どうかした?」
「険しそうな顔をしていた。具合が悪いのか?」

 広瀬に指摘され、桜井は無意識に眉にしわを寄せていたことに気が付き、慌てて笑みを浮かべた。

「ごめん、大丈夫だよ。何でもない。心配してくれてありがとう」

 そう言うと、広瀬の顔が曇った。視線を落とし、小さく息を吐く。

「心配なんてしていない」
「じゃあ、どうして聞いたの?」

 広瀬は何も言わなかった。その沈黙が答えだった。言葉に詰まる広瀬を見て、桜井は思う。
 ──本当は優しいくせに。無関心を装っているだけなのに。
 桜井は、口から出そうになる言葉を飲み込んだ。
 二人の間に沈黙が流れる。その時ふと、高山と山岸の会話が耳に飛び込んできた。

「ねえ、今日の映画館、すごく乾燥してなかった?」
「あー、分かる! 化粧ヨレてるだろうし、帰る前に直さなきゃ」
「私も。リップ塗り直したい」

 高山は、桜井と広瀬の方を向いた。

「あ、私たちトイレに行くから、二人は先に外で待ってて」

 そう言い残し、二人はトイレへと向かった。
 その時、広瀬の表情が、すっと無機質なものに変わる。たった今までの苦しげな表情が、何事もなかったかのように消えていくのを、桜井は見逃さなかった。その瞬間が、桜井には痛々しく思えた。

 桜井と広瀬は映画館を出て、高山と山岸を待つ。広瀬は壁にもたれながら、ポシェットから『異邦人』を取り出した。

「そういえば、『異邦人』途中まで読んだよ」

 広瀬は何も言わず、『異邦人』を開いた。

「ムルソーが恋人に『愛していない』って言うの、広瀬くんにそっくりだよね」

 広瀬の指が、ページの上でぴたりと止まる。

「まだ途中までしか読んでないけど、秋山先輩が『ムルソーの仮面』って言ったこと、何となく分かる気がする。広瀬くんは無関心を装うけれど、本当は人のことをよく見ているし、心配して、優しくしてくれる」

 ムルソーは無関心だ。母親の死も、恋人の愛も、何とも思っていない。だが、広瀬は無関心を演じても、隠しきれていないものがある。それが溢れている。

「なんで、そう思うんだ」

 広瀬の声がワントーン低くなる。

「だって、僕が絵を好きなことも、体調を心配してくれたことも、人をしっかり見ないと分からないでしょう?」

 広瀬は俯き、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと呟く。

「……こんなとき、ムルソーならきっと、何とも思わないんだろうな」

 その低く細い声が、雑踏にかき消されそうになったとき─

「ママ-!!どこーーー!!」

 子供の泣き声が響いた。入口の方を見ると、小さな女の子が涙をこぼしながら立ち尽くしている。それを見た周囲の大人たちは目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
 桜井は見かねて助けに入ろうとした。
 ─その瞬間、広瀬の足が先に動いた。
 広瀬は少女の前にしゃがみ、穏やかに問いかける。

「どうかしたのか?」
「お母さんがいなくなっちゃった」

 広瀬は少女の頭を優しく撫でた。

「大丈夫だ。映画館の人に説明すれば、きっとお母さんも見つかる」

 そう言って、広瀬は少女の手を取り、両手でそっと包んだ。少女の涙は止み、「うん」と声を震わせながらも返事をする。その時だった。
 広瀬は笑っていた。
 柔らかく、温かく、どこまでも優しい笑顔だった。
 桜井はその光景に息をのんだ。
 心臓の鼓動が強くなり、何かが胸の奥で崩れていく。
 ──違う、こんなはずじゃない。
 広瀬と初めて出会ったときの高揚感とは、似ているようで違う。広瀬を知れば知るほど、惹かれていく感覚。それはもっと深く、もっと取り返しのつかないものだ。
 広瀬の優しさを知っている今、こんなに惹かれる理由は、一つしかない。
 息が詰まる。
 ここにいたら、広瀬を見てしまう。これ以上、広瀬を見てしまったら。
 気が付くと、桜井は全力で走り出していた。トイレの個室に入り、鍵をかける。そのまま個室の壁にもたれ、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
 ああ、僕は広瀬が好きなのか。
 そう認めた瞬間、喉の奥がひどく詰まった。呼吸が浅くなり、震える指先を握りしめる。
 好きになってはいけないのに。高山という彼女がいるのに。ましてや、自分は男なのに。こんな思いを抱えてはならなかった。こんな不毛な恋心があるか。

「……馬鹿みたいだ」

 桜井は両手で顔を覆いながら、乾いた笑いを浮かべた。
 広瀬を『冷たい男』だと思えたら良かったのに。いっそのこと、広瀬を嫌いになれたら良かったのに。あんな優しさを見せられたら、もう無理だ。
 惹かれてしまった自分が、何より醜くて、気持ち悪い。
 桜井はしばらくその場から動けず、ただじっと嵐が過ぎるのを待つように身を丸めた。
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