桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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11. 醜状

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 それからというもの、桜井は、広瀬と高山にはなるべく近づかないようにした。昼休みに高山が誘っても、その都度、適当な理由を付けて断った。最初は高山も納得していたが、断る回数が増えると、高山が寂しげな顔をするようになった。
 桜井は見ないふりをして、何とかやり過ごす。
 これでいい。これが正解なんだ。そう心に言い聞かせる。
 何より、広瀬のそばには行きたくない。自分が広瀬に抱く感情は間違っている。高山にも合わせる顔がない。だからこそ、あの二人を遠ざけなくてはならない。
 当然、部活にも顔を出さなかった。放課後は、以前のように図書室の隅で静かに過ごす。
 桜井は深く息を吐いた。そして、適当に借りた画集を開く。
 絵の世界に浸っていれば、きっとこの想いもすぐに消える。大丈夫。
 桜井は絵を凝視する。桜井の好きなモネの『散歩、日傘をさす女』。桜井は前に思い浮かべたストーリーの続きを妄想する。午後三時、腹ごなしにカミーユとその子供が散歩する。生暖かい風に心地よさを感じながら、目線の先にいたモネを見て微笑む。モネはその微笑みに愛おしさを感じて……。
 ─ああ、僕と同じだ。
 そう思ってしまった瞬間、一気に現実に引き戻されてしまった。自分が想像するカミーユの微笑み。それが広瀬と重なってしまう。あの温かな微笑みを忘れることなんて、出来るものだろうか。いや、忘れなければならない。でも……。
 桜井は溜息をつき、画集を閉じた。何をする気も起きず、窓の外をただ眺めていた。
 しばらく時間が経った頃、隣の椅子が引く音がした。誰かが隣に座ってきたのだろう。だが、桜井はその音を無視して、無心で外を眺め続ける。
 窓の外には誰もいない。校門があるだけだ。それでも桜井は、その風景をただ見続けた。

「……物思いに耽る君も、素敵だね」

 ふと声がして振り向くと、秋山が頬をつきながら桜井に笑いかけた。

「しばらく部活に来てくれないから、心配したんだ。何かあったのかい?」

 穏やかな口調で桜井に問いかける。だが、話すわけにはいかない。

「いいえ、何でもありません。大丈夫です」

 桜井は作り笑いを浮かべた。
 その時、秋山の顔が一瞬にして無表情に変わった。

「優しさでも、嘘はついてほしくない。前にそう言ったはずだ」

 秋山の冷たい視線が、桜井を突き刺した。

「嘘を重ねる君は嫌いだ」

 桜井はぐっと歯を食いしばる。自分が持つ醜い感情を、他人に話せるはずがない。他人を傷つけるだけの愛は、何としても隠さなければならない。

「本当に、大丈夫ですから」

 桜井は精一杯、声を絞り出した。掠れて、弱弱しい声だった。
 嘘をつき続ける桜井に、秋山は目を見開いた。

「……そんなに、言いたくないのか?」

 秋山の声が震える。桜井の心が鋭く痛む。

「君は、私を信用していないのか? 君の瞳を誰より見ている私を、信じてくれていないのか……?」

 桜井の息が詰まる。

「君の瞳に誰よりも惹かれて、君の観察眼の虜となり、何より君を好きになった私を……。君はなぜ信じてくれないんだ……!」

 今まで見たこともない、秋山の苦しげな表情。普段の秋山とは全く違う様子に、桜井は困惑を隠せなかった。こんなに、感情を露にする人だっただろうか……?
 秋山は静かに溜息をつくと、桜井の腕を強引に引っ張った。
 そしてそのまま席を立ち、桜井を何処かへ連れていく。まるで、逃がさないと言わんばかりに、秋山が桜井の腕を強い力で握る。あまりに強く掴むものだから、桜井の腕が軋むように痛んだ。
 何処かへ連れていかれる間、秋山は一言も話さなかった。桜井はその秋山の様子に、ただならぬ恐怖を覚えた。
 そして、二人が美術室に着くと、秋山はそっと腕から手を離した。

「あまりこんなことはしたくなかったが……」

 そう言って、秋山は桜井の肩を押した。不意の出来事に、桜井は、思わず「うわ」と声を上げる。
 そうして桜井は壁に追い詰められた。壁に背が付き、正面には秋山が被さる。逃げ場はどこにもない。

「許してくれとは言わない。仕方のないことなんだ」

 秋山が自身のネクタイに手をかけて緩める。くいっと顎を上げ、白い首筋が張る。
 そして、桜井のネクタイを掴み、ゆっくりと解き始めた。その手はわずかに震えていた。

「何を……!?」

 桜井は身の危険を感じて、必死に抵抗する。だが、その抵抗は虚しく、桜井の手首を掴み、壁に押し付けられる。
 身の毛がよだち、桜井は恐怖から動けなくなった。そんな桜井を、秋山はじっと見つめていた。痛々しいほど冷たい視線に、桜井は凍り付く。
 そして、秋山のしなやかで細い指が、桜井のワイシャツのボタンに触れた。
 桜井はこれから起こるであろう出来事に、頭が真っ白になった。
 喉がひくつき、声すら出せない。体ががくがくと震えはじめる。
 桜井は無意識に目をきゅっと閉じた。その瞬間─

「……はあ」

 秋山は呆れるように息を吐いた。
 恐る恐る目を開けると、秋山は眉にしわを寄せながら、口角を上げた。

「気持ち悪いだろう? この感情を、誰にも見せたくはなかったんだ」

 ボタンから指が離れ、秋山は少し距離を取るように後ずさる。桜井は全身の力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。恐る恐る見上げると、秋山はまるで傷つき、悲しむような目で桜井を見ていた。

「君と同じだよ。君が今抱いている感情、私には分かる。そして、それがひどく醜いことも」

 桜井の感情が波立ち始める。秋山に乱暴にされ、挙句、勝手に同情された怒りと悲しみで、波は激しい嵐のように荒れ狂う。

「同じなんかじゃない!」

 気が付くと、桜井は無意識のうちに叫んでいた。秋山が抱く感情と、自分が抱く感情は全く違う。確かに、男が好きになった事実に受け入れられない気持ちは同じかもしれない。だが、広瀬には、高山という彼女がいて、自分は二人の幸せを願っている。そんな立場で、恋をするなど、何より許されない。

「僕の感情は、同情されていいものじゃない」

 桜井は溢れ出そうになる涙を、ぐっとこらえた。泣いてはいけない。泣いていい立場じゃない。桜井は必死に唇を噛む。乾燥した唇が割れ、鉄の味が口内に広がる。

「……私だって同じだよ」

 秋山がか細い声で呟いた。

「私だって、そうだ。君は広瀬くんが好きで、愛している。そして、彼と高山さんの幸せを願っているんだろう!? そんな君を……、私が純粋に愛せると思うか!」

 桜井ははっとした。秋山は見たことも無いような剣幕で桜井を睨みつける。

「どうして、それを……」

「君の瞳を見れば分かる。本屋で彼に向けていた君の目は、私たちに向けるような、何かを覗き込むような瞳じゃなかった。もっと、優しくて、切なくて、何より輝いていた」
 桜井は何も言い返せなかった。傍から見ても、桜井の感情が見え見えだった。その事実がひどく恥ずかしい。

「君のことだから、自分が許せないのだろう? その感情が不快で気持ち悪いんだろう? ……私だってそうだ。君に対してこんな感情を持ってしまった。君に惹かれてしまった。何より、君にその事実を知られてしまった。汚くて、恥ずかしくて、何より醜い。でも……」

 秋山は、桜井に手を差し伸べた。

「もっと、相手を知りたい。もっと、自分を知ってほしい。そう思わずにはいられない」

 秋山の手が、まだわずかに震えている。だが、秋山の表情は何かを決意したような、真剣な表情に変わっていた。
 ─ああ、そうか。
 ずっと広瀬を知りたかった。広瀬が何を思うのか。広瀬の中の優しさ、隠れた感情を。それは最初、単純な興味だった。でも、いつの間にかそれだけじゃなくなっていった。自分を見てほしい気持ちもあったのか。
 絵が好きだという自分、家で一人きりの自分。それを、広瀬は知ってくれた。それが何より嬉しかったんだ。
 桜井は、秋山の震える手を見つめた。掴んでしまえば、自分の醜い感情を認めてしまう気がして、ほんの一瞬ためらう。
 でも、広瀬のことをもっと知りたい。もっと知ってほしい。心の中で、そう願わずにはいられない。
 桜井はゆっくりと手を伸ばし、秋山の手を掴んだ。そして、秋山に引っ張り上げられ、すっと立ち上がる。秋山は、桜井の様子に安堵したのか、表情が次第に緩んでいった。
 桜井はまっすぐ秋山を見つめる。

「先輩が僕なら、どうしますか」

 秋山と目が合った。だが、互いに逸らすことはしない。

「どうもしない」

 秋山は静かに答える。そして、一呼吸置いて、言葉を続けた。

「ただ、もし相手が苦しんでいるのなら、その時は迷わず助ける」

 秋山はそう言うと、目をゆっくりと閉じて、深く息を吐く。そして、再び目を開けた。一瞬だったが、桜井には、それがスローモーションのように感じられた。
 窓から入る夕日が、秋山の瞳を照らす。それは少し眩しくも、どこか穏やかだった。
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