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めめくらげ

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十三(三)

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「昔の新聞と……あと、ここに落ちてた貴正さんの日記に、ちょっとだけ書いてあったから。お父さんとお母さんはちょうどあのあたりの沖合で、船の事故で亡くなったって。それでお前はここの旦那さんに引き取られてきたんだろ。……ふたりとも、あんなとこには居ないよ。ひとりひとり顔を見れるわけじゃないけど、とにかくいない。もしもいたんなら、砂浜を渡ってお前のとこに来てたはずだ。」

恨みと心残りに縛られて、今この子は、たったひとりここに残されている。八雲さんでも難儀する手合いだ。力づくではここから離すことができない。
別れたくないけど、生きてる俺の独りよがりは無意味だ。もしも俺があっさり早死にしたら、すぐにアラタのもとにいって、貴正さんの目を盗んでたくさんデートしてやる。でも、もしごく普通の男として生をまっとうできるのなら……

「だから、なんにも心配しないでいい。もうなんにも悔やまなくていい。何の心残りもなく貴正さんに会いに行って、安心させてやれ。でもお前に2度と会えなくなるのは嫌だから、もし本当に生まれ変わりがあるんなら、また会おう。俺がじいさんになってボケちまっても、アラタのことなら絶対にわかるから。生きてるうちに会えなかったとしても、一生忘れない。」

死んでも会えないなら、来世で会おう。貴正さんから奪えないなら、親子でも兄弟でも親戚でも友達でもなんでもいい。だから絶対に、また会おう。

もうアラタの身体に触れられないのに、俺の胸に寄り添ってきたアラタの肌は、やっぱり冷たいのだとわかる。神様は余計な力を与えたものだ。もう一度だけでいいから、折れそうなほど強く抱きしめたい。けれどもう叶わない。夜明けとともに、この透き通る身体がさらに薄くなっていく。

(ああ・・・・・)

八雲さんの気配がする。屋敷の空気が変わったのを察して、またやってきたのだろう。あるいは、ずっと張っていたのか?キツネとはずるがしこく、目ざとい生き物だ。こんなヤツ、人間の中にもいくらでもいるけど。例えば、そうだな……




ー「おっと、踏み込むのが少し早かったようだ。」

ピアノの上にあぐらをかき、触れ合えないが寄り添いあって涙にくれる俺たちに、突如現れた八雲さんが冷やかすように言った。

「……山蕗アラタ。俺のことは分かるな?」

「ええ、存じてますよ。」

「先代からお前には手を焼かされてきたものだ。ようやく顔を拝めたのは、この男のおかげだ。」

「あなたが油揚げにつられなければとっくにカタはついてたでしょう。」

「お前までそれを言うか。」

ピアノから降り、アラタの腕をつかむ。だが警察のように乱暴ではなく、そっと立ち上がらせるとやさしく顎に手を添え、「元は人間のくせに、遠目からでもわかるほど、お前は見目麗しい。」とため息まじりに言った。ずいぶんキザな振る舞いだが、キツネは人間に化けるにも、絶世の美女や美男子になって人間を惑わせるのだとばあちゃんが言っていた。きっと彼らは、綺麗なものが好きなのだろう。

「八雲さん、俺の中のモノがほしいんなら差し上げますから、その代わり、どうかアラタを……」

「お前の中のモノ?その魚くさいやつか?」

「ええ。ですから、アラタをきちんと貴正さんのとこに送ってやってください。あの男を殺した罪を消せとは言いませんが、かと行って地獄行きはあまりにも酷だ。」

「なるほど、俺を買収しようということか。」

「モトキさん、それはあなたが持っているべきです。」

「いや、いい。お前とか八雲さんとかこの力の持ち主とか、それ以上の強力な霊なんてそうそう鉢合わせるもんか。俺はもう、門のヤツ程度ならなんにも怖くない。」

「ははは、そりゃあ言えてる。まあ……それを寄越すってんなら、アラタも悪いようにはせん。俺のもとに仕えさせてもいいしなあ。」

顔を覗きこみ、至近距離でまじまじと眺める。この色ボケ狐、違う意味でもアラタを狙ってたのか?

「何だその目は。お前、俺を疑ってるのか?」

「はあ……何となく胡散臭さがぬぐえなくて。」

そう返すと、アラタがようやく、ものすごく久しぶりの笑顔をほんの少しだけ浮かべた。

「ったく、最近の人間は平気で俺たちをナメくさりやがる。お前のばあさんやひいばあさんの頃は、祠を通りすがりる際にもこうべを垂れて毎日俺たちを敬ったものだ。なあアラタ。」

「いやあ……僕もお稲荷様は信仰していませんでしたから、なんとも……」

「何だと?チッ、見た目どおり生意気な餓鬼だ。そんなら、これから嫌でも俺を信奉してもらおう。貴正と共にな。」

「貴正様のもとに行けるのですか?」

「お前があんまり生意気なら連れていかないぞ。」

「………」

「……そういう蔑みの眼はやめろよ。地味に傷つく。」

さすがアラタだ。早くもマウントを取ったのが、アラタの目つきにたじろぐ八雲さんの様子からよく伝わってきた。八雲さん、これから苦労するぞ。俺は少し嬉しくなった。人間がキツネに勝った瞬間のように思えたからだ。
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