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8話ーおじさん、婚活をする①
しおりを挟む――参加したいと思ったらいつでも連絡くださいね
優しく微笑む前中と別れて帰路につく。
二人暮らしを始めて三週間経ち、雄大の脳内ナビは戸賀井と暮らす家を「自宅」と登録していて、ぼんやりと考え事をしながらでも足は勝手に戸賀井と住む家へと動く。
ものの数分でマンションのエントランスまで着いて、ズボンのポケットから部屋の鍵を取り出す。
キーホルダーも付いていないそれで施錠を解くと玄関で戸賀井の靴を確認する。
今日は休みだと言っていた。診察に付き合うと言われたが休みの日にまで勤務先に行きたくはないだろうと慮り断った。
「ただいま」
呟くと同時にリビングドアの向こうから「おかえりなさい」と声がする。雄大の帰宅の声が届いたわけではなく、玄関が開いたから反射的に発せられたであろう声は扉一枚隔てて籠って聞こえる。
反射的に手に持ったαとΩの出会いの場を斡旋するイベントのチラシを強く握り締めてしまう。
戸賀井に伝えて、相談して、決めた方が良い。
雄大が早期のヒートを迎えられるよう、一緒に暮らしているのだから内緒にするよりは明かしてしまった方が良い。
それなのにどうしてこんなに躊躇してしまうのか。
きっと戸賀井も賛成してくれるはず――と思っても戸賀井以外のαに頼ることを悪いことだと感じている自分がいる。
リビングに向かう足が重たい。一旦自分の部屋に入って、考えを纏めてから話をしようかと思ったが、そうする前にリビングのドアが開いて戸賀井が顔を覗かせた。思わず、「婚活」と大字で書かれたチラシを後ろ手に隠してしまう。
「夕飯なんにします? 今日は俺作ります」
まだ晩御飯の話をするには早い時間だ。会話を振って来るということは雄大にリビングに来て欲しいということなのだろう。
「プリン買って来たらから、夕飯のあとのデザートにしましょう」
リビングのドアを開け放ったまま、雄大の機嫌を取るように戸賀井が言う。先週からずっとこの調子だ。
戸賀井から「好きな人がいる」と告げられた日、正確には「制御出来ないような発情を起こせるのは、好きな人だけ」と言われた翌日から食事の用意から家事等、今まで以上に気遣われるようになった。
発情期や想い人の話は彼の中で何かしら気まずいことだったのかもしれないが、気を遣われると戸賀井と一緒に暮らしていること自体に罪悪感を覚えてしまう。自分こそが戸賀井や戸賀井の想い人のために、同居を拒否すれば良かったんじゃないかと思える。
好きな人がいるのに、Ωのヒートを誘発させないといけない仕事なんて――ああ、でも自分が発情してフェロモンが漏れ出ても戸賀井はラットを起こさないのだ。だって自分は戸賀井の想い人ではないのだから。彼は理性で発情を抑えられる。じゃあいいじゃないか、今まで通りで。それに三ヶ月経ってまだヒートが起きなければきっと同居も解消される。
明確なヒートさえくれば相手が戸賀井であろうがそうでなかろうがそんなことはどうでも良い。自分の体のためなのだ。
戸賀井の想う人への後ろめたさと、ヒートが来ない焦燥感、気持ちが伴わないまま相手探しをしても良いものかという不安感が綯い交ぜになって雄大の足先から上がってくる。
こういう時は何をしても上手く行かない。急いだって良いことはないというのを三十四年間生きて来て分かっているはずなのに、定められた解答時間があるかのように何かに急かされる。
「……戸賀井くん、ちょっと話があるんだ」
今はやめておいた方が良い、と誰かが耳元で囁く。それは紛れもなく、自分だった。
「なんですかこれ」
チラシを見せた戸賀井の反応は早かった。じっくりと眺めるでも、時間を掛けて参加要項を読むでもなく、雄大から直接説明を受けたいようでチラシに落とした視線をすぐに上げた。
「そのまんまの意味なんだけど、婚活」
デカデカと書かれた文字を指差して「田口先生に番を探したらどう? って提案されて、前中さんって人に会った。それで番を探すイベントを紹介された」と事実を伝える。
「ヒートが来ないからですか?」
「それもあるし、Ωとして人生を送るならαと番った方が良いって」
雄大が言うと、戸賀井もこの意見には同意なようで言葉にはせず頷く。
「でも、俺がいるのに……必要ないですよね」
「……俺の話、聞いてた?」
感情的になりたくないが、話が通じていない気がする。
αだと思い込んでいた時期に飲んでいた薬を断って三週間、戸賀井と暮らしても何の変化もない。
三十四まで明確なヒートを迎えずに来てしまった自分の体にどんなことが起きるのか、αだと思っていたのがΩだった、という事実は頭では受け入れられてもいざその時が来た時に心はついてくるのか、それに加えてヒート後の生活や寿命の心配もある。
この憂いごとを全て言葉で説明しなくてはいけないのか。口にするだけで今まで我慢して来た黒い塊がドロドロに溶けて体内から溢れ出そうだ。
「聞いてました。その上で俺がいるから大丈夫だと言ってます」
「……不安なんだよ、俺は!」
大きな声が出て、自分でも驚いた。それ以上に戸賀井が驚愕していて、瞬きの量が増えている。
「君は大丈夫って言うけど、いつヒートは来るの? 君が俺のヒートを誘発してくれるんだよね? それはいつ? どれくらい待てばいいの? 三ヶ月このまま変化がなければ強い薬を使うって言われたよ。君はいいよね、関係ないから。全部俺の身に起こることだ。君は俺のヒートを誘発出来なくても、すいませんでしたって謝ってればいい、でも俺は違う。このままヒートが来なかったら……ヒートが来ても番う相手が居なきゃ寿命にまで関係してくる……不安で不安で仕方がない」
「先生、門村先生」
戸賀井から腕を掴まれた。彼の手が腕に重なると、標準的だと思っていた自分の手首が妙に華奢に見える。
「離して」
望んだ言葉とは反対に引き寄せられて、戸賀井に抱き締められた。
けれど大人しくしていられる気分ではない。怒りが湧いて、感情が制御出来ない。
雄大は元々落ち着きのある性格をしているが、正しいバース性がΩと判明してからは更に穏やかさが増している。自分の中で怒りの感情だけが突出して現れるなんて、こんな経験は初めてだ。
戸賀井の胸の中でバタバタと暴れて「離せ、離せ」と訴える。一瞬だけ戸賀井の力が緩んで、目元に何かが触れた。
戸賀井の唇だとすぐに分かったが、好きな相手がいるのに自分にそんなことをしてくることが信じられなかった。
戸賀井は優秀なαだ。携わる仕事を遂行したいと思っている。そうだ、戸賀井にとって自分は「仕事」なのだ。
虚しい。
雄大は戸賀井の腕の力が緩んだ隙に彼の顔を手で払って、後ろに数歩下がる。戸賀井は諦めていないようで腕を伸ばしてくる。
あとほんの少しで自分に触れそうな戸賀井の指先から、何か、香った。
未だ消えぬ新居の香りでも、洗剤の香りでもない。甘い匂い。
花の蕾が今目の前で開いたような、微かな命の匂い。けれどそれが何か追及する余裕がない。
「君は好きな人が居るんだろ!? その子に悪いとは思わない? 俺は思う。……君には頼れないから番を探すよ」
強く息を吐くと、頭の芯が熱くなる。音がするような呼吸を何度か繰り返していると今度はスーッと冷えて来る。
戸賀井の手は宙で止まったまま、雄大に触れることはなかった。
目元に当たった唇の感触は事故だと思うことにして、雄大はもう一歩後ろに下がってから戸賀井に背を向けリビングを出た。
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