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Ⅰ章 紫月桜子との出会い

図書室の後輩

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 ――ただ一度、あなたがわたしを選ぶなら。世界から消えるまで、わたしはあなたを、

  ***

 最後の世界、四月七日の金曜日。ひとつ年下の彼女の入学式の日。
 練りに練った計画を胸に、嘘つきの化粧をした俺は世界でいちばん大好きな子と出会う。
 ――なにも思い出さないでいいよ。どうか、忘れたままでいてね。
 嘘つきは泥棒の始まり――この花泥棒という男の罪は、嘘から始まる。
 嫌われたって、いい。最後に泣かれても、失望されても。
 ひどく傷つけてしまっても、消えない痕になっても、それでも、俺は……
 ――この世界では、幸せになって。生きて。桜子ちゃん。
 桜に染めた髪を自らの手で梳き、鏡の中の自分に向けて、笑う。わらう。
 ――騙せ、貫け、最後まで……!
 彼女のいない通学路を歩き、俺を知らない彼女を祝う入学式に参列する。
 ――俺は、来年の桜を見たことがない。彼女が生きられる世界を知らない。
 放課後、想い人を待つ桜の樹の下で。
 台詞を書き連ねたメモを、そっと、密かに見直した。
 ――紙と、春の匂いが、する。

 初めて出会ったのも、四月のことだった。
 紙特有の匂いがする本棚の間を通って、移動式の黒板の前へと俺は向かう。
 ここは、空気がカラッと乾燥していて、おばけが出そうな雰囲気のある放課後の図書室。
 委員会のために用意された座席表の「2‐A」は、すぐそこにあるテーブルの右列、前から五番目の席に座れと言っていた。
 指定された席の隣には、「1‐F」の女子生徒がすでにいる。俺が近くに来たことにも気づかないほど夢中な様子で、その子は黙って文庫本を読んでいた。
 俺が席についても、1‐Fさんの様子は変わらない。この時はまだ名前も知らなかった女子生徒、彼女こそが〝きみ〟だった。
 四月十八日――俺は初めて、きみを見つけた。
 ぱっと見の印象は、小柄で平凡な女の子。どこにでもいる女子高生。きっちりと留められたブラウスのボタンや、たるんでいないリボンが、いかにも一年生らしくて初々しい。
 胸の下あたりまで伸びた髪は自然におろされ、顔には何の加工もされていない。
 清潔で、地味で、無害そう。
 黒い瞳でひたすらに文字を追い続ける彼女を、俺は、「普通」の女の子、とラベリングした。毒にも薬にもならない、そんな感じで。
 委員会が始まる頃になると、彼女は文庫本を鞄にしまう。
 配られたプリントや名簿を回す指は細く、爪は短く切り揃えられていた。司書先生のお話を姿勢正しく聞き、自己紹介の順番が回ってくると、すっと静かに立ち上がる。
「一年F組の、紫月桜子です。一年間よろしくお願いします」
 やわらかく爽やかな声が耳に届き、窓から入る控えめな風が頬を撫でた。
 ガラス細工の小さな鳥や、夏に飲む涼しいラムネのように、彼女の音は透き通っていた。
 想像よりも綺麗な声に驚きながら、俺は形式的な拍手をパチパチとする。机上の名簿に視線を落とすと、「紫月桜子」という名前を見つけた。
 紫の月、桜の子。しづき、さくらこ。……覚えやすい名前だと、思った。
「次は二年生、自己紹介お願いします」
 司書先生の声で、ハッと我に返る。
 彼女の後は俺の番だ。明朝体をいつまでも見つめているわけにはいかない。
 幾人もの女子生徒からの熱っぽい視線を感じつつ、いつもの微笑を浮かべて立ち上がる。
「二年A組、花咲薫です。よろしくお願いします」
 拍手の音は先ほどよりも大きく、頬を赤らめる女子生徒の姿も見えた。また誰かに惚れられたのかな、と思いながら腰を下ろす。ため息をつきたくなったのをグッとこらえて、代わりに隣の紫月桜子を見やった。深い意味はなく、なんとなく。
 彼女の頬は染まらずに、ぽんやりとした無表情でこちらを見つめている。
 今この瞬間に、初めて俺の存在に気づいた、みたいな瞳をしていた。
 ――まるで、名乗らなきゃ、認知さえしてもらえないみたいじゃないか。この俺が。
 俺が反射的に愛想笑いを浮かべると、彼女もぎこちなく微笑みを返してくれる。淡紅色うすべにいろの唇の端っこが、ほんのちょっとだけ持ち上がった。
 次の人の自己紹介が始まると、交わした視線はどちらともなく離れる。
 その後の当番決めのくじ引きで、彼女と俺は同じ火曜日の当番になった。
 紫月桜子と、花咲薫――委員会の座席と同じように、当番表でもふたり隣り合う。
 今年の図書委員会メンバーのなかで、いちばん心に残る声をしていた子。紫月桜子。
 この日の彼女のラベルは、「声が綺麗」な「普通」の女の子だった。
 ――きみと俺の関係は、こんな春の日から始まった。

 毎週火曜日の昼休みと放課後に、彼女と図書室で会う。
 返却や貸出のカウンター業務を、彼女と協力してやっている。もうひとりいる当番の先輩はサボり魔で、やってきたためしがない。いつも俺らのふたりだけ。
 きみの仕事ぶりは真面目で、隣にいると、無類の本好きだってこともよくわかった。仲良しとまでは言えずとも、そこそこ良好な関係を築けた自負はある。
 六月八日、木曜日。
 彼女と出会った日から、一カ月半が過ぎた。今日は火曜日ではないけれど、俺と彼女は図書室にいる。一学期に一、二回ほど回ってくる、放課後の本棚整理の仕事のためだった。
 つまさき立ちをして、彼女が本棚の上の段へと手を伸ばす。ほっそりした指先が、届きそうで届かない。俺は別の棚を整理しながら、その姿を横目で見ていた。
 ときおり背表紙に触れることはあるが、掴めはしない。やっと届いたかと思いきや、疲れたのか、背伸びをやめてしまう。もう一度、とつまさき立ち。ふくらはぎがぷるぷるしている。
 あそこに並んでいるのは分厚い本だ、うまく取れずに落としたりしたら危ないだろう、と。一生懸命な姿に、俺はようやく意を決し、近づいて声を掛けた。
「高いとこは、俺がやるよ。紫月さん」
「あっ、ありがとうございます」
 彼女は本棚に視線を向けたままで返事した。
 すらりと伸びた彼女の細い腕を、俺は、なんの気なしに視界に入れる。いつものように袖で覆い切れていない左手首を、先ほどよりも間近で見た。
「あ」
「なんですか、先輩」
 彼女がこちらを振り返る。思ったよりも近くにいた俺に驚いたらしい。目を丸くした。その綺麗な黒の瞳は、次いで、俺がチラリと視線を向けた先を追う。
 蛍光灯の下に照らされた、左の手首を。
「あ、これは……っ」
 彼女はさらに目を見開いて、一瞬で顔を引きつらせた。
 後ずさった足首が、変な方向にクラっと曲がる。
 あ、倒れる。と思うのとほぼ同時、俺は華奢な体を抱きとめていた。ほのかなシャンプーの香りが漂って、距離の近さに気づかされる。――ドキリ、とした。
「……大丈夫? 紫月さん」
「だいじょばないです。左足、やっちゃいました」
 彼女は眉間にしわを寄せて、今にも泣きそうな声で答えた。
 潤んだ瞳に、何かを恐れるような色が浮かぶ。
「えっと、とりあえず保健室、行こっか」
 自分の拍動を強く感じつつ、俺は彼女に手を差し伸べた。
 湧き上がった醜い感情を必死に隠して、保健室へと連れていく。

 保健室の先生曰く、軽い捻挫ねんざだったらしい。
 俺が驚かせたせいかな、という罪悪感を追い風に、俺は彼女に申し出た。
「ねえ、紫月さん――」
 遠慮する彼女を説得して、一週間、登下校時の荷物持ちをすることにしたのだ。
 罪滅ぼしのためであり、彼女と関わる理由づくりのためでもある。――ただの口実だ。
「……先輩」
 帰り道。隣を歩く彼女が、蚊の鳴くような声で呟いた。
「なに、紫月さん」
「見ました、よね? ……リスカ痕」
「うん、まあ」
 嘘をつくことも誤魔化すこともできずに、歯切れ悪く肯定する。なんとも言えない気まずい空気が流れた。
 ふたりで歩く足音と自分の鼓動の音とが、やけに大きく聞こえる。
「すみません、先輩」
「ん?」
 長袖の白いブラウスの上から、彼女は自分の左腕をぎゅっと握った。化粧っ気のない顔に自嘲的な笑みを浮かべ、視線を合わす。――傷、痛くないのかな。
「見苦しいものをお見せして、すみません。なんでもないですので、お気になさらす」
「……そっか」
「はい。ただの……ただの、メンヘラ女の日課、なので」
 己の体に傷をつけるのが、彼女の日課。その気持ちは理解したくなかった。いっそ嘘であればいい。彼女の傷に共感と興味をおぼえたくせに、もっと知りたいと感じたくせに、そう思う。
 他人から切られるのだって怖いのに、自分で切るなんて、俺にはとてもできそうにない。
 ただ、責め立てる気も止める気もない俺は、ひどく安易な言葉を吐いた。
「なんかあったんなら、俺でよければ、話、聞くよ?」
 きみの瞳が、ハッとしたように見開かれ、ぱちりと瞬く。
 ゆっくりと、淡紅色の唇が弧を描いた。
 雪が溶けて芽吹きはじめた、小さな野の花のような……春の始まりのような笑みだった。
 愛想笑いでもなく、自嘲的な笑みでもなく、初めて見えた本当の笑顔だった。
 この瞬間ときに初めて、俺は、きみを「可愛い」と思った。
 だんだんと声を震わせて、彼女は言う。
「ありがとうございます、先輩。……こんなわたしに、優しくして、くれて」
 すん、と小さくはなをすすって、それきり黙った。

 紫月さんと俺は、共に電車通学だった。使う駅は一緒で、乗る電車は反対方向。
 彼女を送るため、今日はいつもと違う電車に乗る。
 隣り合って座り、しばしガタゴトと揺られた。電車で誰かの隣に座ると、すごく密着するんだな、と俺は気づく。普段は気にならない感触を、今は妙に意識していた。
 スカートとズボンという布の隔たりはあるとは言え、互いの太ももがぴったりとくっついている。慣れない感覚にドキドキして、いつのまにか微睡まどろんでしまった彼女の、肩に触れてくる女の子の繊細なやわらかさにも、胸が変にざわめいて。
 スマホゲームをして気を紛らそうと試みるもダメダメで。諦めて、窓の外へと視線をやった。面白くもない風景を、彼女の最寄り駅に着くまで、ずっと見ていた。
「――紫月さん、次の駅で降りるよ」
 声を掛け、彼女の左腕を軽く叩く。触れてから、生傷の存在を思い出す。痛くさせてしまったかと今さらに憂い、ぱっと離した。
 この左手首には、無数のリスカ痕があった。新しいのも、古いのも。腕に残っていた一筋、長い傷痕ひとつのことを思い、心臓がとくんと無粋に鳴る。俺はこの傷に惹かれた。
 眠ったきみは、まだ起きない。
 ――もう一度、見たい……。なんて、
 いやらしい好奇心がはたらき、慎重に触れ、袖をめくる。もうじき見えるという時――
「ん……」
 彼女が小さく身じろぎした。まずい、と慌てて離れる。
 いったい何をやっていたんだ、俺は。
「んっ? あれ? わたし……」
 眠たげに目元をこする彼女の声はあどけなく、甘えたような響きがあった。
 なんだか猫みたいで可愛い。
「あっ、すみません、先輩、寄りかかっちゃった!」
 真っ青な顔をして謝る姿も、いつもの真面目ちゃんで可愛い。――ああ、可愛いな……
「うん、大丈夫。疲れてたんだね」
「……本当、重ね重ね、すみません」
「ぜんぜん気にしないで。大丈夫? 立てる?」
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます、先輩」
 彼女の手をとり、席をたち、ふたりぶんの荷物を抱えて改札を出る。
 普段は降りない寂れた駅から、彼女の家へと歩いていった。
「ここ……が、わたしの家です。わざわざありがとうございました。先輩」
「ん、玄関まで運ぶよ?」
「いえ。ここまでで平気ですから。本当、ありがとうございました」
 薄汚れたアパートの前で、彼女が深々と頭を下げる。さほど親しくもない男を家にあげたくないのだろうと察し、俺はその場で鞄を返した。
「うん。どういたしまして。はい、鞄」
「はい。ありがとうございました。確かに受け取りました」
「じゃあ、また明日ね」
「はい、花咲先輩。また明日」
 小さく手を振り返してくれた彼女はわずかに口角を上げ、愛想笑いのような顔をつくる。俺の口角も勝手に上がる。
 本当の笑顔を見た後だと、こんな笑みでは寂しく思う。
 けれど、この笑みさえも、過去より好きになっていた。
 彼女に「また明日」と言えることが、言われることが、俺はとても嬉しかった。
 その日から彼女は、委員会が一緒の「可愛い」後輩になった。

 一週間とは意外に短く、彼女と登下校を一緒にする日々は、なんてことなく終わった。
 前よりちょっと親しくなれて、彼女の家の場所や仕草の癖を覚え、可愛いところもたくさん見つけたけれど。恋仲にまでは発展しなかった。
 彼女の捻挫はすっかり治り、俺らは火曜日にだけ会う先輩と後輩に、あっさり戻った。
「暇ですね、花咲先輩」
「うん、そうだね」
 七月十一日、火曜日。期末テスト明けで、みんな羽を伸ばしたいのだろう。
 図書室はいつにもましてガランとしていて、なんと来客はゼロだった。誰ひとりとして貸し借りに来ない。俺と彼女のふたりきり。
「てか紫月さん。目、どうしたの? さっきから気になってたんだけど……」
「ああ、これですか? えへへ、ただのものもらいですよー」
 今日の彼女は、左目に眼帯をつけていた。彼女は夏になっても長袖のブラウスを着ていて、あれ以来、図書室では薄手のカーディガンまで羽織っている。『クーラー効いてて寒いので』とのことだ。彼女の傷は、今日も見れない。
「今日、ポニーテールなんだね。爽やかでいい感じじゃん?」
「……ありがとう、ございます」
 本日の彼女の髪型は、ポニーテールだ。長い黒髪が、まさに尻尾のように、ときおり揺れる。ほんのりと頬を染めた彼女は、口角をすこしだけ上げて微笑んだ。
 ハーフアップ以外のヘアアレンジをしているのは初めて見た。色白のうなじが悩ましい。黒髪もいつもよりさらさらツヤツヤに見える。あけすけに言えば、性癖どストライクだ。
「……先輩って、好きな本とか、ありますか?」
 彼女が自分から声を掛けてくれるとき、俺はたいへん気分がよくなる。おまけに、暇さえあれば本を読んでばかりいる彼女が、今日は本を開こうともせずに俺を見てくれている。嬉しくないはずがなかった。ニヤニヤしたがる己の口元を心の中で叱責しつつ、答える。
「んー、なんだろ。小説の本、あんまり読まないんだよね。漫画は読むんだけど」
「そうなんですか……わたしは逆に漫画は読まなくて……広告は見たことあるのですが」
 彼女が、しゅんと落ち込んでしまったように見えた――いや、明らかに落ち込んでいた。俺の答えが悪かった、失態だ、とすぐに気づく。せっかく彼女が声を掛けてくれたのに、これでは会話が広がらないじゃないか。やらかした。
「紫月さんは、なんか好きなのあんの? 本、読まないから、逆に聞きたい」
 寂しそうな顔をこれ以上させ続けたくなくて、どうにか話を続けようと尋ねると。彼女の顔から曇りが消えた。ほんのちょっとだけ嬉しそうにして、彼女は本の話を始める。
 その表情が可愛くて、他のやつらには見せたくないな、なんて思った。
「ど定番ですけど、『人間失格』と『こころ』は好きですよ。最近は、『源氏物語』の現代語訳されたのを読んでます。訳者によって変わる表現とか、読み比べるのも楽しくて」
「へぇー」
 彼女が挙げた『人間失格』も『こころ』も、俺はちゃんと読んだことがなかった。
 明治や大正の文豪が書いた文章は堅苦しいイメージがあって、進んで読もうと思えなかったのだ。ただぼんやりと、どちらも暗い感じの話だった気がするな、ということは覚えていた。だから、その題名を聞いたとき、紫月さんらしいと思った。
 彼女の心の闇に触れられずに、けれど明るい笑顔が見てみたいと、楽観的に願っていた。
「先輩の好みに合うかはわかりませんけど、こういう文学作品を漫画にしたのって、最近よく出ているみたいですよ。わたしは『源氏物語』の漫画は特に気になってます!」
「なに、えっちな漫画?」
 からかってみた。好奇心が口を滑った。ちょっと、いや、すげぇキモい反応だったかも。
 なぜだろう、彼女といると、――変になる。平常心でいられない。
「もう、先輩ったら。たしかに性描写はあるでしょうけど、そういうのじゃないです……と、思いますよ? たしかに源氏はアレですが……」
 あんな単語だけで恥ずかしそうに頬を染めるから、本当に純粋な子なのだなと思う。穢れを知らない、無垢な女の子。
 そのいじらしい反応に、清浄さに、俺がどんなに救われたことか。
「せんぱい――」
 エアコンのせいで空気が乾燥している図書室で、控えめな声で彼女と話す。鈴が鳴るような声で、彼女がときどき可愛く笑う。――ねえ、紫月さん。俺…………
 友だちと馬鹿笑いする時間も楽しかったけれど、こんな穏やかな時間も好きだった。
  ほんとうに、心底、好きだったんだ。
「紫月さんって、声、キレイだよね。なんか、詩の朗読とかしてほしい声かも?」
「そうなんですか? 今まで声を褒められたことなんて一度もなかったですけど……朗読って、たとえば、どんな詩がいいと思います? 先輩」
「教科書に出てたのしか知らないけど、『レモン哀歌』とか?」
「あ、あれ、いいですよねー。……お望みでしたら、夏休み明けにでも、読みましょうか? 練習しときますよー?」
 なんて、ふざけたような調子で、彼女が尋ねるから。
「じゃ、楽しみにしとく」今ならリスカ痕なんてないのかもって馬鹿みたいに思った。
「あっ、冗談じゃなかったんですね」
 まるで普通の女子高生のようだった。自傷行為とは無縁そうな明るさを見た。
「じゃあ練習します!」俺もその感じを共有したいな、と思う。
 だから同じような調子で返した。
「ん! 期待して待ってるね」
「はい、待っててください! あっ、そういえば今日、夏休み前最後の当番でしたっけ」
 彼女がまた寂しそうな瞳で遠くを見つめるから、勘違いしそうになる。
 毎週火曜日の昼休みと放課後を、彼女も居心地よく思っているのではないかと。
 ふたりで話せるこの時間を、愛おしいと思っているのではないかと。
「うん。次に会えるのは、夏休み明けだ」
「そうなんですね。……先輩。今日、ご用事なかったら、一緒に帰ってもいいですか?」
「いいよ」
 そうして誰も来ないまま、当番の時間が、ふたりきりで終わった。
 戸締まりの確認のため、彼女が窓際へと寄る。俺も隣の窓を確認し、終えるとまた彼女を見る。まだ目は合わない。俺だけが視線を送って、輪郭の彼女をなぞっている。
 ――ああ、
 夏だから日は長いけど、明るさのピークはもう過ぎた。これから訪れるのは夕暮れ時。
 澄んだ薄青に別れを告げつつある空を見上げる横顔が、凛として、とかく美しかった。
 眼帯の紐が玉に瑕かなぁ、と思っていると、彼女が呟く。
「――……綺麗ですね」
 なんて、なんて、彼女が自称するはずないのに。
 こころの奥底をあてられたように恥ずかしくって、俺は、声も音も聞こえないふりをした。芽生えかけた感情に、見ないふりをしたんだ。――思い出補正かも、しれないけれど。

 図書室を後にし、一緒に昇降口を出る。
 春には薄紅色の花を咲かせ、彼女とその同級生のご入学を祝った桜並木は、青々とした葉っぱで生い茂っていた。木漏れ日に照らされた彼女の顔をふと見、俺は息を呑む。
 ――ああ、本当に……
 出会った日には平凡だと思っていた顔が、今日はまるで違っていた。
 そもそも一緒に過ごした今日までの日々で、実は整った顔立ちをしているのではないかとは、気づいていた。あの日の表情や雰囲気が、暗くて地味な子のように見せていただけで。きみは明るく笑う時だってある。凛とした美しさや、思いがけない色っぽさを見せる時だってある。
 この瞬間のきみの顔は、ひどく嬉しそうにほころんでいて。過去最高に可愛く思えたのだ。今なら100パーセントの自信をもって言える、きみは可愛い。
 きみの前では、恥ずかしくて、言えなかったけど。
「紫月さん、なんか嬉しそうだね」
「はい、嬉しいです。なんでだと思いますかー?」
「……もうすぐ夏休みだから?」
「ぶっぶー、不正解でーす」
 いったいどうしたのかと一周回って心配になるくらい、彼女はケラケラ楽しそうに笑う。
 帰り道、彼女はずっと笑ったままだった。
「じゃあね、紫月さん。また九月に」
「はい、花咲先輩。送ってくれてありがとうございました。……またね、です」
 言って、彼女の家の前で手を振って別れた。
 しばらく歩いてから気まぐれに振り返ると、彼女はまだこちらを見て突っ立っている。
 長袖に包まれた細腕をぶんぶんと振って、「またね」と口パクした。
 ――これが、きみと会えた、最後だった。

 陽{ハナー、きょう休校だってね}
 九月一日の金曜日。朝の通学電車で、幼馴染の陽一から送られてきたメッセージ。
 スマホの通知欄を見ると、本当だ、学校からの連絡メールが送られてきている。
 ポップアップを見るかぎり、大した内容は書かれていなそうだ。俺はそのメールは開かずに、トークアプリのLIENから陽一に返信した。
 こうして連絡を寄越したということは、なにか有用な情報を入手したのだろう。学校内外の噂については、こいつに聞くのが一番だ。
 花{は? なんで?]
 花{もっと早く連絡きてれば、今日もっと寝坊できたのに笑}
 夏休み明けの学校なんて、はっきり言って面倒くさい。早起きしないといけないし、始業式のためだけに行くとか意味わかんないし。ダラダラしたかったなー。と思いつつ、返信を待つ。休校理由そのものに興味はないが、次の登校日で話題にのぼる可能性はある。何かあったら、みんな好き勝手に噂する。そのときノリに乗れないのは怖い。
 陽{それな}
 陽{なんか、学校で飛び降り自殺だって。警察とか来てるっぽい}
 ――自殺。まさか自分の学校で。とすこしだけ驚く。
 陽{ま、9月1日の自殺なんてあるあるか}
 同じ学び舎に通う、知らない誰かさんが死んだって、変わらず月日はめぐっていく。
 花{学校で自殺とか、めっちゃ迷惑じゃん}
 きっと俺は、みんなのノリに合わせて噂する。噂はすぐに風化する。
 花{で、誰が死んだん?}
 悲しみを引きずってつらいのは、その人と関わりがあった人だけだろう。
 そう、思っていた。

 陽{1Fの紫月らしーよ}

「……は?」
 視認した「1F」と「紫月」の文字、すぐに思い浮かぶきみの顔。無意識に声が出た。周囲の気配が無になって、スマホだけが無遠慮に光り続ける。
「は、」
 自殺の件について、陽一はさらに詳しく教えてきて。嘘だったと否定してほしいのに、彼が寄越すのは根拠ばかりだ。学校からの連絡メールを開いて隅から隅まで読んでも、内容は当たり障りなくて役立たず。どんなに願っても、否定はスマホの中のどこにも見つからない。
 まだまだ夏の暑さが残る九月一日、スマホを握る自分の手を、妙に冷たく感じられた。血が通っていないようでいて、けれどいつもより重たい手。
 紫月さんが、死んだ? 学校で飛び降り自殺して? なんで? 
 ……いや、絶対に違う。なにかの間違いだ。嘘だ。勘違いだ。
 まったく意味がわからない。ああそうか、これは悪い夢なんだ。
 鼓動の音も汗も生々しいし、いつになっても目覚めないけど。でも、たぶん夢なんだ。
 そのまま電車に揺られて、俺はいつもどおりに学校へ向かう。休校なんてメールは誤作動で、普通に始業式があればいい。べつにぜんぜん、だるくない。始業式、超楽しみだ。たくさんの一年生のなかで、彼女も一緒に眠そうにして、校長先生のお話を右から左へ流せばいい。

「おう、花咲。連絡きてたの気づかなかったか? 今日な、突然だけど休校になったんだよ。詳しいことはまた後日。だからおとなしく帰ってな」
 学校に着くと、門の近くに、見知った化学の先生がいた。何人かの先生が、連絡に気づかずに来てしまった生徒への対応係をしているらしい。休校は事実だった。ヒソヒソと噂話をする近所の人たちも、それとなく帰るように言われていた。
 首を伸ばして窺うと、学園の敷地に警察車両がいる。見慣れない光景。明らかな異常事態。確かめたい。でも、知りたくない。
「ボーッとするなー、さっさと帰れー。野次馬にでもなるつもりか? 特進クラスなんだから、おまえらが模範――」
「紫月さん、本当に死んだんですか」
 低い声が無意識に問いを吐き出した。先生が小さく息を呑む。
「あのな、花咲。今日のところは早く帰ってくれ。先生方はみんな忙しいんだ。事情説明は、そのうちあるはずだから。な?」
「俺、紫月さんと委員会一緒なんですよ。またね、って言ったし。約束もしたし。だから休校理由、紫月さんは関係ないですよね?」
 しばらくの沈黙、気の毒そうな顔――ああ、やめてくれ。
「つらいと思うが、じきにわかる」
 違う。欲しい答えは、それじゃない。
「帰ります」と手短に告げて、俺は逃げるように学校を後にした。

 夕方の地域ニュースに、俺らの学校の映像が現れた。テロップに踊る文字は「自殺」。それ以上は見ていない。
 翌日。土曜日だけど臨時の登校日。緊急で全校集会が開かれた。話が耳に入ってこない。何もわからない。
 SNSアプリを開けない。学校の噂には参加しない。聞きたくもない。もう、誰も、「紫月」も「桜子」も口にしないでほしい。彼女の大事な名前を、軽々しく呼ばないで。
 ――消費するな。

 九月十二日、火曜日。
 図書室に来た当番は俺ひとり。返却や貸出のカウンター業務を機械的に行う。
 いつまで待っても、きみは来ない。
「当番、変えた方がいいかしらねぇ」
 司書先生がぽつりと呟く。火曜日の当番は三人。
 三年生はサボり魔で、二年生は俺で、一年生は――……
「べつに、このままで良いっすよ」
 カウンターに置かれた当番表。「花咲薫」の隣には「紫月桜子」の名が残っている。紙の上に眠るその文字を、指先でなぞった。
 黒いインクの明朝体。紫月桜子。
 図書委員会のメンバーで、俺が最初に覚えた名前。当番編成を変えたら、彼女が、ここから消えてしまう。きみが、どこにもいなくなる。……ああ、そうだ。本当はわかってるんだ。当番表を直したら、彼女の名前はもう現れない。紫月桜子は、もう図書委員の当番になれない。彼女が俺の隣に座ることは、ない。
 九月一日。金曜日。紫月桜子は、命を絶った。
 通夜も葬儀もひっそりと終わった。そう噂に聞いている。
 目を覆っても耳を塞いでも現実は変わらない。見ても聞いても変化なし。
 この目が彼女を映すことはない。彼女の綺麗な声が鼓膜を震わせることもない。

 紫月桜子は、もうどこにもいなかった。冷房が効いて乾燥した図書室にも、桜並木の木漏れ日の下にも、外壁の薄汚れたアパートにも――彼女は、いない。

『花咲先輩。……またね、です』

 どこまでも白い空間に立つ彼女が、可愛らしい笑みを浮かべて、俺に手を振る。
 引きとめようと手を伸ばしても、水のようにすり抜けていく。
 黒い髪が、白いブラウスが、すべてが俺から離れていく。
 駄目だ、いかないで。紫月さん――……
 次に見えるのは、血みどろの女子生徒の死体。手足が変な方向に折れ曲がっている。
「    」
 虚ろな目をした彼女は、何かを言った。
 ……ハッと目が覚めて、俺は、彼女が本当に死んでいることを思い出す。
 そうやって、彼女のことを何度も夢に見た。
 憎たらしい。憎たらしい。詩の朗読も、また会うことも、楽しみにしていたのは俺だけだった。もてあそばれたみたいだ。彼女にとって俺はどうでもいい存在だった。切ない。胸が苦しい。腹立たしい。なにが「またね」だ。ふざけんな。
 最後に会った日には、あんなに笑っていたのに。ふざけんな。どうして、こんなにあっけなく死ねるんだ。なんで自殺なんてできるんだ。ふざけんな。ふざけんな!
 ――彼女が死んだのは、二、三週間前。
 学校中を飛び交っていた、彼女に関する噂も、そろそろ落ち着いてきた。今は昼休み。ここには俺ひとり。食欲がないので、昼ごはんは食べていない。石畳の上をうろうろと歩いている。血の匂いはしない。彼女が死んだ場所を踏みつけても、彼女の幽霊が怒ってくれたりはしない。
 後悔は、ある。ありきたりな後悔をしている。自分なら気づけたのかも、とか。助けられたかも、とか。あとは、死ぬ時、痛くなかったかな。と心配もする。無意味だけど。
 九月一日の朝。紫月桜子は、学園の敷地内に併設されている付属大学に忍び込み、最上階から飛び降りた。即死だった。この場所には、直後は凄惨な光景が広がっていたと聞く。血まみれドロドロ。けれども今は穏やかだ。血痕たちは、綺麗さっぱり掃除された。
 彼女がここで命の灯火を消したという過去が、まるで無かったかのように思える。
「紫月さん……なんで?」
 ぴたりと立ち止まり、呟く。返事は来ない。意味はない。わかっている。
 ざぁあっと風が吹いて、伸びた前髪が乱された――――――…………
 そして、
「こんにちは、花くん」
「……先生? どうして学校に?」
 紅い瞳の〝先生〟は、俺に、悪魔の囁きを仕掛けたのだ。
「――桜子ちゃんとやり直せる方法があるって言ったら、どうする?」
 ふたりの黒髪が、秋風に、揺れる。
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