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〈ヒーロー〉と〈悪役令嬢〉編
【66】娼妓は −3− 兄様と上書き✕✕✕を。☆
しおりを挟む『シシリー……頑張って……いい子……』
ハッとして、目を開けた。
いつのまにか、意識を飛ばしてしまっていた。
(えっち、されちゃった? キス、は……?)
ぎゅっと誰かに抱きしめられて、身を強張らせる。
これは、誰?
「ユウ、兄、様?」
「ああ、そうだ、俺だよ」
「夢じゃない? 誰かの変身態じゃない? 本物?」
「正真正銘、ユースタス・セルナサスだ」
「えっと……ここ……」
「お風呂だ」
なるほど、たしかに、シシリーとユースタスは湯船にちゃぽんと浸かってぬくぬくしていた。ここはお風呂だ。
「どろどろだったから、洗ってやりたくて……でも、意識が……それで、抱きしめてた」
「そう、カルノ様は?」
「俺に四回殺されてそこで泣いてる」
「殺……?」
見ると――浴槽の隅っこにいる美少年魔法士カルノ(中身おじさん)は、めそめそしていた。
ちなみにこの浴室は、どうやら娼妓シエラとそのお客様で貸し切りだ。
「あれでも優秀な魔法士だからな、なかなか死なないんだ」
「ふつうの人なら死んじゃうことを四回やったってこと?」
「ああ。うちの従弟ならピンピンしているだろうが、従弟のお嫁さんなら無理そうなやつ。いや、まあ、あちらはあちらで保護魔法があるから大丈夫な気もするが」
「ふふ、ひどいわね」
「そんなことをする俺は、嫌いか?」
「……ううん。嫌いじゃない。ありがとう」
「ああ」
ユースタスはシシリーをぎゅううっときつく抱きしめ、その首筋に唇を寄せた。ちゅっとした。
「心配だった。シシリー」
「うん」
「距離を置こうなんて、言ってごめん」
「私も、嫌いって言ってごめんね」
「他の男に任せてもって、前に、言ったけど。こんなの……、未遂でさえ、無理だ。耐えられない」
「うん……」
ユースタスと裸で抱きあうのには、もう、慣れた。
この形は、ぬくもりは、しっくりとくる。
彼とのお風呂は気持ちいい。
「ユウ兄様」
「ん、なんだ」
ユースタスはシシリーの頬を包み、上向かせる。視線が絡む。
「どうして、初夜も、魔界も、今日も、来れてしまったの? こっちではフィルたちの協力があるにしても……」
「――おまえの〝兄様〟で〝旦那様〟だからな」
ユースタスはニコッと笑い、と同時に涙を流した。
「へ、ぇ?」
まさか泣かれるとは思わず、シシリーはびっくりしてしまう。それじゃ答えになっていないわと言いたかったのに、言い返す隙がもう見つからない。
水滴の見間違いかもしれない。そうだといい。
彼の涙を隠すように手を触れ、頬を撫でる。指先で眦の雫を掬う。
「おまえのことは、国中の花街に知られている。おまえは、この国の花街を変えた貴婦人シエラとして、慕われている」
「そこまでのことは、してないわ。私は、ただ、自分のために。生き残れても花街行きだって、わかってたから。覆面だし」
「……おまえにとって、望まぬ性交は、本当の本当に、ものすごく嫌なことだったんだな。だから、最後まではしない形の店をつくったり、代替の道具をつくったりした。そこで生活を営む人々にとって負にならないようにと気を遣い、むしろより豊かにできるように、頑張った。すごいことだ」
「そんなふうに言われると、むずがゆいわ、兄様。それに泣きながら言うことじゃないでしょ、それ」
貴婦人シエラこと公爵令嬢時代のシシリーが進めていた花街の事業は、性具の製造・販売と、新たな形のお店の展開だ。
既存の娼館の系列店の形で、いわゆる本番のないお店や、何かの趣に特化したお店をつくった。彼女のお小遣いから投資して、店を開かせたのだ。公爵令嬢様だからこそ成せた身勝手である。
また、彼女が開発した性具の製造・販売も花街の店に任せ、購入場所を娼館の系列店に限った。そうすることで、春を売る娼婦の仕事ができるだけ奪われないようにと工夫した。花街の外で売るようにしたのは、広告の役割も果たせる色本の類だけである。
二十歳そこそこで亡くなった前世の足りない知識を総動員して、今世の貴族令嬢としての勉強も活かして、なんとかやった。
これまでなら遊女とならざるを得なかったような女たちの働ける場や選べる道を増やしたかった。これくらいしか、できなかった。体をひらいた方がより稼げるのは、今も変わらない。
結果的に雇用を増やせ、うまくいっているのは、運も良かったからだと思う。
「おまえは、花街の女神、アイドル様だろう? 顔を隠していたって、おまえはおまえだ。愛されているんだ。おまえは、たくさんのひとに、もう大事に想われているんだよ。わかっている?」
「……ん」
かくいう自分も、兄のせいで色々おかしくなっているが、他の仕事でなく娼妓を選んだ人間である。それは仕方ないからではなく、続編云々のせいでもなく、心配してくれる皆さまには申し訳ないが、本当はもっと計算的な選択だったのだ。
(この刑の長さは、働き方によって変動する)
シシリーと母が科せられたのは、城下の花街での労役。最低でも二年は働かなければならず、それ以降は働きっぷり――最もわかりやすい形で表すと、稼いだ額で決まる。
法を犯すやり方で稼げばまた別の罪で刑期がのびたり罰せられたりするので、許される枠内で効率の良い仕事をしている。シシリーにとっては、それだけだ。
兄や従弟や可愛い姫君たちは、気にするけれど。シシリーだって、怖かった時もあったけれど。初夜の前には、今より思うところもあったけれど。
生き残れても花街行きだと、そういう運命だとわかって生きてきた身となれば、なんというか、割り切れる。たぶん、割り切れている。
(――なんて、どこまでが本音かしらね、私)
自分の言い訳の存在には、気づいている。見ないふりをしているだけだ。現実逃避しているだけだ。
「すぐにとは言わない。お茶やお酒の席は、他の男と一緒でもいい。でも、夜は、俺にくれ。添い寝をさせてくれ。抱きしめさせてくれ」
「ん」
「あと……娼妓と客らしく寝るのは……」
「追加項目を入れるのは、寝る時だけにしてくれる? まったく致されないのも居心地が悪いから……憂鬱になるから……」
「ああ、努力する」
「今日も、してくれる? 上書きして」
「……ああ」
ユースタスは泣き笑いで頷いて、シシリーの唇にキスをした。ほんのりと塩味のあるキスが、汗に濡れて口づける閨の行為を想起させる。
(そんなにキスが特別なのかしら? 私にとって)
自問する。答えは、まだ、わからない。
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