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第三話 呼び方ひとつ分の距離
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――近すぎる。
それが、レオンハルトの正直な感想だった。
彼女の隣を歩くたび、そう思う。
視線を交わすことはない。
それでも、彼女はいつも正確に、こちらを向く。
「……嬢」
口にするたび、意識して声を低く、淡々と保つ。
その二文字は、彼にとって境界線だった。
騎士として。
護衛として。
それ以上にならないための。
(名を呼べば、越えてしまう)
それほどまでに、彼女は近い。
今日も、彼女は静かに歩いている。
杖の先が芝をなぞる音。
そして――彼の剣の気配を、当然のように理解している。
「そこ、右に少し」
そう告げる前に、彼女はすでに足を運ばせていた。
「……どうして、わかるのですか」
思わず、そう口にしてしまう。
彼女は微笑んだ。
「剣が、そちらを向いていましたから」
冗談めかした声音。
だが、事実だと、彼はわかってしまった。
(この人は……)
見えていないはずの世界を、
誰よりも正確に捉えている。
段差の前で、彼はいつも通り手を差し出した。
「失礼します、嬢」
その手に、彼女の指が重なる。
何度目かわからない。
それでも、慣れることはない。
(離したくない)
そう思ってしまうこと自体が、問題だった。
「……レオンハルト様」
不意に、彼女が名を呼ぶ。
胸が、わずかに跳ねた。
「はい、嬢」
「いつも、ありがとうございます」
理由もなく、そんなことを言うから。
彼は、ほんの一瞬、握る力を強めてしまった。
(……まずい)
気づかれないよう、すぐに力を抜く。
彼女は何も言わなかった。
ただ、指先が少しだけ、絡む。
(気づいている……)
いや、気づいていないはずがない。
彼女は、見えない代わりに、
人の心の揺れに、あまりにも敏感だ。
「嬢」
名を呼ばずに済む、その呼び方に、彼は救われていた。
それ以上、踏み込まないための。
踏み込みたい気持ちを、抑えるための。
それでも――
噴水の音が遠ざかり、風が頬を撫でる。
「……嬢は」
言いかけて、止めた。
何を聞くつもりだったのか、自分でもわからない。
彼女は、何も急かさず、ただ待つ。
「……いえ」
結局、彼はそれだけ言った。
彼女は、くすりと小さく笑った。
「大丈夫ですよ」
「……何が、ですか」
「レオンハルト様が、思っているほど、私は弱くありませんから」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
(だから、困る)
守るべき相手に、守られてしまう。
――それでも彼は、今日も彼女を「嬢」と呼ぶ。
この距離を、守るために。
壊してしまわないために。
けれど、その境界線は、
もうすでに、彼の足元で揺らいでいた。
それが、レオンハルトの正直な感想だった。
彼女の隣を歩くたび、そう思う。
視線を交わすことはない。
それでも、彼女はいつも正確に、こちらを向く。
「……嬢」
口にするたび、意識して声を低く、淡々と保つ。
その二文字は、彼にとって境界線だった。
騎士として。
護衛として。
それ以上にならないための。
(名を呼べば、越えてしまう)
それほどまでに、彼女は近い。
今日も、彼女は静かに歩いている。
杖の先が芝をなぞる音。
そして――彼の剣の気配を、当然のように理解している。
「そこ、右に少し」
そう告げる前に、彼女はすでに足を運ばせていた。
「……どうして、わかるのですか」
思わず、そう口にしてしまう。
彼女は微笑んだ。
「剣が、そちらを向いていましたから」
冗談めかした声音。
だが、事実だと、彼はわかってしまった。
(この人は……)
見えていないはずの世界を、
誰よりも正確に捉えている。
段差の前で、彼はいつも通り手を差し出した。
「失礼します、嬢」
その手に、彼女の指が重なる。
何度目かわからない。
それでも、慣れることはない。
(離したくない)
そう思ってしまうこと自体が、問題だった。
「……レオンハルト様」
不意に、彼女が名を呼ぶ。
胸が、わずかに跳ねた。
「はい、嬢」
「いつも、ありがとうございます」
理由もなく、そんなことを言うから。
彼は、ほんの一瞬、握る力を強めてしまった。
(……まずい)
気づかれないよう、すぐに力を抜く。
彼女は何も言わなかった。
ただ、指先が少しだけ、絡む。
(気づいている……)
いや、気づいていないはずがない。
彼女は、見えない代わりに、
人の心の揺れに、あまりにも敏感だ。
「嬢」
名を呼ばずに済む、その呼び方に、彼は救われていた。
それ以上、踏み込まないための。
踏み込みたい気持ちを、抑えるための。
それでも――
噴水の音が遠ざかり、風が頬を撫でる。
「……嬢は」
言いかけて、止めた。
何を聞くつもりだったのか、自分でもわからない。
彼女は、何も急かさず、ただ待つ。
「……いえ」
結局、彼はそれだけ言った。
彼女は、くすりと小さく笑った。
「大丈夫ですよ」
「……何が、ですか」
「レオンハルト様が、思っているほど、私は弱くありませんから」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
(だから、困る)
守るべき相手に、守られてしまう。
――それでも彼は、今日も彼女を「嬢」と呼ぶ。
この距離を、守るために。
壊してしまわないために。
けれど、その境界線は、
もうすでに、彼の足元で揺らいでいた。
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