もう騙されない私になる――相談できなかった50代、はじめての再出発――

あめとおと

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第5話 戻らないものと、残ったもの

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 電話を切ったあとも、しばらく耳の奥に声が残っていた。

 ――今できることを、一緒に整理していきましょう。

 由紀はノートを開き、相談員に言われたことを書き写していた。

・振込記録を残す
・銀行へ連絡
・警察への相談も検討
・これ以上の追加送金は絶対にしない

 どれも特別なことではない。

 難しい言葉もなかった。

 けれど、「何をすればいいか」が初めて形になった気がした。

 これまでは、ただ後悔の中に座り込んでいただけだったから。

 ペンを止める。

 相談の最後に言われた言葉を思い出す。

『正直にお伝えすると、お金が戻る可能性は高くありません』

 その瞬間の静けさを、由紀ははっきり覚えていた。

 覚悟していたはずだった。

 分かっていたはずだった。

 それでも、胸の奥がすうっと冷えた。

「……やっぱり、そうなんだ」

 誰もいない部屋で呟く。

 不思議と、涙は出なかった。

 代わりに浮かんだのは、別の感情だった。

 ――終わった。

 やっと、現実が終止符を打ったような感覚。

 曖昧な期待が消えたことで、足場ができた気がした。

 由紀は通帳を取り出した。

 何日も触れられなかったもの。

 ページを開く。

 並ぶ出金記録。

 見るたびに胸が締め付けられていた数字。

 けれど今日は、少し違った。

「……私、本当に怖かったんだな」

 怒りでもなく、自己嫌悪でもなく。

 ただ、怖かったのだと理解した。

 老後の不安。

 将来の孤独。

 誰にも頼れない気持ち。

 そこに差し出された「安心」に、手を伸ばしただけだった。

 それは愚かさだったのだろうか。

 しばらく考えて、由紀は首を横に振った。

「……安心したかっただけだよね」

 その言葉は、誰かをかばうようでもあり、自分を許すようでもあった。

 ノートを開く。

 新しいページ。

 少し考えてから書く。

 『お金は戻らないかもしれない』

 ペンが止まる。

 けれど、次の一行は自然に出てきた。

 『でも、私はまだいる』

 書いた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。

 失ったのはお金だ。

 時間でも、人生でもない。

 呼吸もできるし、歩けるし、働ける。

 明日も来る。

 当たり前だったことが、急に現実的な希望に見えた。

 スマートフォンが震える。

 パート先からのシフト確認だった。

 画面を見つめる。

 数日前までは、人と顔を合わせるのが怖かった。

 けれど今は――少しだけ違う。

『出勤できます』

 そう返信していた。

 送信ボタンを押したあと、小さく息を吐く。

 大きな決意ではない。

 ただ、日常に戻る一歩。

 それでも確かに、自分で選んだ行動だった。

 窓の外では、夕方の光がやわらかく街を照らしている。

 由紀は立ち上がり、久しぶりに部屋の窓を大きく開けた。

 冷たい空気が入り込み、カーテンが揺れる。

 深く息を吸う。

 胸が少し痛んだが、嫌な痛みではなかった。

 失ったものは戻らない。

 それは変えられない。

 でも。

 ここから先をどう生きるかは、まだ決まっていない。

 由紀はノートを閉じ、静かに思った。

 ――明日も、やってみよう。

 それだけで十分だった。


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