怪異探偵の非日常

村井 彰

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失せ物探しは専門外

2話 異界の町で

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  スニーカーの先にぶつかった小石が、軽い音を立てて転がっていく。
  薄暗くて狭い路地裏は、雨水で変色したコンクリートの壁に両側を挟まれて、晴れているのに湿ったカビの匂いがした。足元には潰れたタバコの空き箱や、見たことの無い虫の死骸がそこかしこに転がっていて、衛生的にも最悪だ。そのうえだんだん道幅が狭くなっているような気もする。
  自分はこのまま、この汚い壁に挟まれて死ぬのではないだろうか。そんな情けないイメージが早坂の脳裏を過ぎりだした頃、ようやく僅かに視界が開けた。
  ああどうか、この先に広がっているのが、見慣れた町の景色でありますように。
  なかば祈るようにして、薄汚れた路地から飛び出す。しかしその先の町並みを目にした瞬間、早坂の儚い希望は敢え無く打ち砕かれた。
「なんだ、ここ……」
  路地の先に広がっていたのは、ごく普通の住宅街のようで、一見した限りでは元いた町と大差ない。
  けれど、よくよく見てみれば、その町の異常は明らかだった。
  空が、あまりにも暗いのだ。
  夜だから、という訳ではない。空には星のひとつも無く、まるで黒い折り紙を貼り付けたかのように、のっぺりとして奥行きが無い。真っ黒な天井がどこまでもどこまでも続いているようで、閉塞感に息が詰まりそうだった。
  心臓が嫌なリズムで跳ねるのを感じながら、早坂は辺りを見回した。
  左右に伸びる道路の脇には、似たような外観の家が延々と並んでいる。だというのに、そのどれからも、人の気配を感じない。住人の姿が見えないとしても、普通はわずかな生活音や息遣いが感じられるはずなのに。
  これだけ不穏な条件が揃えば、もう分かる。明らかに、ここはまともな世界ではない。
  早坂は無意識に、わらびを抱きしめる腕に力を込めていた。間近に生き物の気配があることが、今はとても有難い。
「えっ、ちょ」
  だが、不安のあまり強く抱きしめ過ぎたのか、それまでおとなしかったわらびが突然、早坂の腕の中で暴れだした。
「ま、待て待て、危ないから!ちょっと落ち着けって!」
  必死で抱え直そうとするが、それよりも早くわらびは早坂の腕から飛び降りて、その巨体に似つかわしくない素早い動きで駆け出した。
「あいつ走れたのかよ……おい、待ってくれわらび!」
  逃げる猫を追いかけて、早坂は異界の町を走り出した。
  獣とは言え所詮は家猫。すぐに追いつけるだろうと思ったのに、その距離はなかなか縮まらない。まるで夢の中で走っているみたいに、もどかしく掴みどころのない感覚だった。
  どこまで行っても空は真っ暗で、道に並ぶ建物の群れにも変化はない。走りながら一瞬目を向けた家の窓に、人がいることに気がついた。けれど、ぼんやりと早坂を見つめるその人には、顔が無かった。
「わ、わらび……頼むから止まってくれ……」
  まさかこの無数に並ぶ家の全てに、今のやつみたいなのが暮らしているのか。冗談じゃない怖すぎる。
  泣きたい気持ちで呼びかける早坂の声を無視して、前方を走るわらびは吸い込まれるように一件の家の中へと入っていった。
「嘘だろ……」
  先ほど見た、顔の無い人間の姿がフラッシュバックする。あんなものが居るところに入れというのか。けれどわらびを放ってはおけない。
  家の前で立ち尽くす早坂の逡巡を打ち消すように、家の中から若い男の声が響いてきた。
「わらび?わらびじゃないか!」
  いかにも好青年っぽい爽やかなその声は、明らかにたった今入り込んだ猫の名前を呼んでいた。
  これは……一体どういうことだ。なぜここの住人が、わらびの名前を知っているんだ。
  不審に思いながら家の中を覗き込むと、嬉しそうにわらびを抱きかかえている青年と目が合った。良かった、ちゃんと顔がある。
「やあ、君がわらびを連れて来てくれたのかい。遠いところをわざわざありがとうね」
「え、あの……連れてきたって、どういう」
  男は早坂の問いには答えず、にっこりと笑って手招きをした。
「まあまあ、いいから上がって行くといい。寒い中、歩き続けて疲れただろう?お茶は出してあげられないけど、少し休むくらいなら大丈夫のはずだから」
  そう言って、男はわらびを抱えたまま家の中に入って行ってしまう。
「え?ま、待って。その猫返してください!」
  呼びかける間もなく、男の背中はあっという間に玄関へと消えて行く。
「ああ、もう……」
  なんなんだあの男。人の話を聞く気がまるでない。俺はこの手の人間に振り回される宿命なのか。
  家の前に突っ立ったまま、中の様子を窺ってみる。中に入ったら二度と出てこられないとかだったらどうしよう。けれどわらびは既に入ってしまっている。
  ちくしょう。そうだ決めただろ。何も出来ないなら進むしかないって。
  自分を奮い立たせるように深く息を吸い込んで、早坂は半ばやけくそ気味に、奇妙な家の中へと足を踏み入れた。


  男に案内された家の中は、見た限りではごく普通の一軒家のそれだった。
  玄関を入ってすぐの居間には暖かそうなコタツがあり、その周囲にはブラウン管テレビや石油ストーブといった、やけにレトロな家具が並んでいる。
「さあほら、入って入って」
  男は猫を抱いたままコタツに入り、その向かいを早坂にも勧めてきた。ここまで来て断る理由もないので、勧められるまま座布団に腰を下ろしてコタツの中に足を突っ込む。
「あ、ちゃんとあったかい……」
  寒さに冷えきっていた足に、じんわりと暖かさが広がっていく。気づけば強ばっていた表情も自然と緩んでいた。
「ふふ、少し落ち着いたかな」
  猫に似た目を細めて男が笑う。よく見ると中性的な顔立ちをした、なかなかのイケメンである。
「あ、はい。あの、ありがとうございます……?」
  あまり気を許すべきではないのかも知れないが、こんな異常な状況で出会った唯一まともそうな人間だ。……いや、本当に人間なのかどうか分かったものではないが、少なくとも話は通じる相手だ。向かい合っていると、どうしても気が緩んでしまう。
  男は黙って微笑みながら、わらびの頭を優しく撫でている。わらびの方にも警戒する様子はない。
「あの、その猫のこと知ってるんですか」
  ずっと気になっていたことを訊ねると、男は少し首を傾げた。
「まあね、この子は家族だから。……家族だった、かな」
「家族だった?」
  早坂が訊ねると男は小さく頷いて、どこからともなく古い万年筆を取り出した。
「これはね、ぼくとこの子が家族だった時に使っていた物なんだけど、ぼくとした事がうっかりに持ってきてしまって。彼女にあげるって約束してたのに」
「あの……?」
  いきなり話が飛んだ事に困惑して、早坂は眉を寄せた。家族と万年筆に何の関係があるんだろう。それに彼女って誰のことだ。
  そんな早坂には構わず、男は先を続ける。
「ぼくはもう向こうに行けないから諦めるしか無いと思っていたのに、まさかわらびが君を連れて来てくれるなんてね。……ここまで来られるヒトって、そう多くはないんだよ」
  ごろごろと喉を鳴らすわらびを撫でながら、男は少し寂しそうに笑った。
「ねえ君。悪いんだけど、ひとつ頼まれてくれるかな?ここから帰ったら、彼女にこれを渡して欲しいんだ」
  そう言いながら、男は早坂に万年筆を手渡してきた。
「それは別にいいですけど、彼女って誰ですか?ていうか俺、帰り方分からないんですけど……」
  情けなく萎れる早坂を見て、今度は可笑しそうに男が笑う。
「大丈夫。そもそも君はここでは異端者だ。ここの物を口にしたりしなければ、嫌でも帰れるよ」
「はあ……」
  どういう理屈なんだろう、それは。
  首を傾げる早坂に、自分の膝でくつろいでいる猫と古い万年筆を押し付けて、男が少し真面目な顔で言う。
「この家を出て左に真っ直ぐ行くと、そのうち細い路地に行きあたる。そこを通って行けば、来たのと同じ場所に出られるよ。たぶんね」
「たぶんって」
「ごめんね、曖昧な言い方しか出来なくて。なにしろぼく自身で試すことが出来ないものだから」
  そう言って、男は早坂の肩を軽く押した。
「さあ、もうそろそろ行って。生きている人は、あまり長居しない方がいいと思うから」
  男に促され、猫と万年筆を持った早坂は、再び玄関へと向かう。そうして家を出る直前、男に声をかけられた。
「ねえ君。彼女に会ったら伝えておいて。……いつまでだって、君たちのことを愛しているよって」
  それを聞いた早坂は一瞬足を止め、男の方を振り返った。
「……わかりました。絶対伝えます」
  そう答えて、小さく頭を下げる。
  一瞬見えた男の表情は、微笑んでいたけどどこか泣きそうにも見えて……ああそうか、それら全てひっくるめて、『愛おしい』と言うのだろう。

  それから男の家を出て、言われた通り真っ直ぐ左へ進んで行くと、やがて行き止まりに辿り着いた。
  いや、正確には行き止まりではない。どこまでも続く板塀の間に、大人ひとりがギリギリ通れそうな幅の路地が伸びている。
  男の言葉を信じるのなら、この道を進めば帰れるということだが。
「今さら躊躇う理由なんてないよな」
  言葉が通じた訳でもないだろうが、わらびが「ブミィ」と不細工に返事をしたのを聞いて、早坂は少し笑った。
  不思議と、ここに来た時のような恐怖は感じなかった。大丈夫。きっと帰れる。
「行こうか」
  奇妙な同行者に声をかけて、早坂は路地の向こうへ一歩、足を踏み入れた。

  *

  時間にするとほんの数分だったような、数時間は過ぎたような、そんな曖昧な感覚の中歩き続けていると、不意に薄暗かった視界が開けた。
  今度こそ本当に帰ってこられたのだと、早坂は直感的に悟った。
  そうして辿り着いた道の先には、よく見慣れた日暮れ時の町並みが広がっていた。
  学校帰りの制服達の姿や、近くの家から聞こえてくる家族団欒の声。間違いない。ここはいつもの日常だ。
  何気なく振り返ってみたが、通ってきたはずの路地はもうどこにもなく、まるで全てが夢だったような気がしてくる。
  けれど夢ではない証拠が早坂の手の中にある。
  大きな猫と、古い万年筆。あの不思議な家は、確かにあの場所にあったのだ。
「……帰るか」
  ぐるぐると喉を鳴らすわらびの頭を撫でて、早坂は呟いた。帰って、約束を果たさなければ。


「こんにちは……ご依頼いただいた、井ノ原の助手ですけども」
  遠慮がちに声をかけながら、仏具店の扉を開ける。打ちっぱなしの無愛想なコンクリートの外壁とは一転、店内は想像していたより明るく、清潔感に溢れていた。
  猫を抱えたまま早坂が入り口で立ち尽くしていると、小さな仏壇や色とりどりの香炉が並んだ棚の奥から、小柄な老女がパタパタと駆け寄ってきた。
「あらまあ、圭ちゃんのところの子?よく来てくれたわねぇ」
  井ノ原をまるで近所の子供のように呼んだ彼女は、巨大な猫の姿を見るなりパッと目を輝かせた。
「わらび!まあまあまあ……こんなに早く見つけてくれるとは思ってなかったわ。おいで、わらびちゃん」
  老女に名前を呼ばれたわらびは、早坂の腕から颯爽と飛び降りて、彼女の足元に甘えるように擦り寄った。そんな愛猫を撫でながら、老女は早坂に向かって丁寧に頭を下げる。
「本当にありがとうねぇ。この子ももう年寄りだから、もしかしたらもう帰ってこないんじゃないかって思っていたのだけれど、こうしてちゃんと見つけてくれて」
「あ、いえそんな。見つけられたのは本当にたまたまなので……あ、お預かりしていた物お返しします」
  ぺこりと頭を下げて、わらびのおやつとおもちゃを手渡す。
「あの、ごめんなさい。猫じゃらしの鈴が取れてしまって」
「あらいいのよ。もう古かったし、そろそろ新しいのを買ってあげようと思っていたの」
  にこにこと笑うおばあさんに恐縮しつつ、早坂はポケットからもうひとつの預かり物を取り出した。
「これもお返しします」
  早坂が差し出した物を見て、シワだらけの彼女の目が大きく見開かれた。
「まあ、これ……うちのおじいさんの万年筆だわ!おじいさんが亡くなってからどこにも見当たらなくて、圭ちゃんにも探してもらったのに、ついに出てこなかったのよ。これもあなたが見つけてくれたの?」
「いえ、その。俺が見つけた訳じゃなくて……あ、えっと、わらびくんが咥えてたんですよ!不思議ですね!」
  苦しい言い訳かと思ったが、おばあさんは「そうなの?わらびちゃん偉いわねえ」などと言いながら、猫の頭を撫でている。どうにか誤魔化せたのだろうか。
「……あの、わらびくんを探している途中で男の人に会って、その人に伝言を頼まれたんですけど」
「あら、何かしら」
  おばあさんが首を傾げる。妙に思われるかも知れないけれど、これだけはちゃんと伝えなくては。
「その人言ってました。『いつまでだって、君たちのことを愛しているよ』って」
  自分はどう思われたって構わない。ただ、この思いだけは伝わって欲しい。
  そんな早坂の気持ちを知ってか知らずか、おばあさんは見開いた目をぱちぱちと瞬いて、
「そう……そうなのね。ありがとう、よく伝えてくれたわね」
  確かに、そう言った。
  その言葉に驚いて顔を上げた早坂の腕を優しく摩りながら、彼女は柔らかく微笑んだ。
  ……自分は、上手く伝える事が出来たのだろうか。
「まあ本当に、寒い中よく頑張ってくれたわねぇ。そうだわ、ちょっとこっちにいらっしゃい。お金はもう圭ちゃんに渡してあるけれど、万年筆のお礼もしなくちゃいけないわ」
「え、いやそんな」
  困惑する早坂の袖を引いて、老女は店の奥へと向かって行く。そして、「ちょっと待ってね」と言い残し、カウンターの向こうの扉へと入って行った彼女は、なんと両手に溢れんばかりのミカンを持って戻ってきた。
「こんな物で申し訳ないけれど、良かったら圭ちゃんと一緒に食べてちょうだい」
  そう言いながら、早坂の返事を待たずに手近にあった小桜模様のエコバッグへと、どんどんミカンを放り込んでいく。
「いや、あの、こんなにたくさん貰っちゃっていいんですか」
「いいのよ、私ひとりじゃ食べきれないから」
  そう言ってにこにこと微笑みながら、パンパンに膨らんだエコバッグを早坂へと手渡してくる。
「圭ちゃんにもよろしく伝えておいてね」
「あ、はい。ありがとうございます」
  ぺこりと頭を下げた早坂を見て、彼女は少しだけ悪戯っぽい表情になって言った。
「ねぇ、これは圭ちゃんには内緒よ?……あの子ね、うちのおじいさんの若かった頃に、少しだけ似てるの。あの人、近所でも評判のハンサムだったんだから」
  そう言って笑う彼女は、まるで幼い少女のようで、きっと二人はお似合いの夫婦だったのだろうなと、早坂はそう思った。
「それじゃあね。また困ったことがあったらお願いするわ」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
  店先まで見送ってくれた一人と一匹に再び頭を下げて、早坂は事務所の階段を登った。
  彼女がまた依頼をしてきたら、本業に関係ないと言って井ノ原は怒るかもしれない。だから、その時はまた早坂が引き受けようと思う。
  といっても、出来ればもう、訳の分からない町には行きたくないけれど。

  一瞬だけ吹き抜けた風の中に、小さな鈴の音が聞こえたような気がした。
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