雨鴉(あめがらす)の隠れ家

遊羽(ゆう)

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第1話

雨の日の迷い猫

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深夜2時を回った頃、玄関のチャイムが一度だけ、短く鳴った。
その音は、静まり返った部屋の空気を鋭い刃物のように切り裂いた。朝霧あさぎり みなとは読んでいた文庫本を取り落としそうになりながら、慌ててソファから立ち上がる。
インターホンの画面を確認する必要はない。こんな時間に、しかもセキュリティの厳しいこのマンションのオートロックをすり抜けて、直接玄関の前に立てる人間は1人しかいないからだ。

震える指先で鍵を開け、ドアノブを回す。
重たい鉄の扉が開くと同時に、鉄錆てつさびのような匂いと、高級な煙草の香りが鼻をついた。

「...厳さん。」
「起きてたか。」

低い、地をうような声。
久藤くどう げんがそこに立っていた。仕立てのいい漆黒しっこくのスーツは雨に濡れ、肩のあたりが重く沈んでいる。
湊は息を呑んだ。厳の左のこめかみから頬にかけて、一筋の赤い線が走っていたからだ。まだ新しい、かすり傷。

「怪我...!また、何かあったんですか?」
「騒ぐな。ただのかすり傷だ。」
「でも、血が...」
「中に入れろ。廊下で話し込むつもりか?」

鋭い眼光がんこうに射抜かれ、湊は「すみません」と小さくなって道を譲る。厳は革靴を脱ぐと、慣れた様子でリビングへと歩を進めた。その背中はあまりに大きく、そしてどこかひど疲弊ひへいして見えた。

ここは、湊の部屋であって湊の部屋ではない。
久藤組組長、久藤 厳が「個人的に」借り上げているマンションの一室。湊はここで、ただ彼が帰ってくるのを待つだけの、かごの鳥だ。
厳がドカリとソファに腰を下ろすと、本革がきしむ音がした。彼はネクタイを乱暴に緩め、天井を仰ぐ。

「救急箱、持ってきます。」
「...いい。それより、こっちへ来い。」

湊がキッチンへ向かおうとした瞬間、太い腕が伸びてきて、手首を掴まれた。
抵抗する間もなく引き寄せられ、次の瞬間には厳の膝の上に座らされていた。スーツ越しに伝わる体温と、強烈な男の匂い。湊の心臓が早鐘はやがねを打つ。

「げ、厳さん、あの、血が服についちゃい、ます...」
「構わん。少し...このままにさせろ」

厳は湊の薄い背中に顔を埋めた。
組員の前では決して見せないであろう、力の抜けた姿。首筋に触れる厳の唇が熱い。
湊はおずおずと手を伸ばし、厳の濡れた髪を撫でた。ごわついた髪の感触。この男は数時間前まで、自分には想像もつかないような修羅場にいたのだ。もしかしたら、人を傷つけてきたのかもしれない。

そう思うと身体が強張こわばる。けれど、しがみついてくる腕の強さが、彼の中にある渇きのようなものを訴えていた。

「今日、若いのが1人、ヘマをしてな。」

背中に顔を埋めたまま、厳がぽつりと呟く。

「指を詰めさせるところだったが、止めた。...お前の顔が浮かんだからだ。」
「え...」
「お前なら、泣いて止めるだろうと思った。俺は、どんどん甘くなっちまってるらしい...」

自嘲じちょう気味に笑う声を聞いて、湊の胸が締め付けられる。
この関係は、いつか破綻する。
厳の立場を知った日から、ずっと覚悟しているはずだった。けれど、こうして体温を共有するたびに、湊はこの恐ろしくも優しい男から離れられなくなっていくのだ。

「...厳さん。」
「ん?」
「おかえりなさい。」

湊がそう告げると、厳は顔を上げ、肉食獣が獲物を見定めたような瞳で厳を見つめた。そこにはもう、先ほどの弱さはない。あるのは、くらい独占欲だけだ。

「ああ。...ただいま、湊。」

重なる唇が、鉄の味を消し去るように深く、甘く、湊の意識を奪っていった。



厳の熱い唇が離れると、湊は酸素を求めるように小さくあえいだ。
目の前にいる男は、裏社会の頂点に立つ人間だ。本来なら、湊のような平凡な書店員が一生関わるはずのない、別の世界の住人。
それなのに、なぜ自分は今、彼の膝の上にいるのだろうか。

湊は厳のこめかみににじむ血をガーゼで押さえながら、記憶の蓋を開けた。
全てが始まったのは、半年前にさかのぼる。記録的な豪雨が街を叩きつけていた、ある夜のことだった。

湊が勤める「あやめ古書店」は、駅前の喧騒けんそうから離れた路地裏にひっそりと佇んでいる。
客など滅多に来ない。特にその日は台風の影響で、夕方から誰も来店していなかった。古紙とほこりの匂いが充満する店内で、湊は帳簿をつけながら、早く店を閉めようと考えていた。

カラン、コロン。

不意にドアベルが鳴った。
風の音にかき消されそうなほど弱々しい音ではなく、何かがぶつかったような乱暴な響きだった。
「い、いらっしゃいませ......」
湊が顔を上げると、入り口に黒い塊が立っていた。
長身の男だ。高級そうなスーツはずぶ濡れで、水滴が床に黒い染みを作っている。男は肩で息をしながら、鋭い視線で店内をーーいや、店の外の様子をうかがっていた。

ーー怖い。

湊の本能が警鐘けいしょうを鳴らす。男から発せられる威圧感は、明らかに堅気かたぎのそれではない。
男がゆっくりとこちらを向いた。整っているが凶悪な顔立ち。その腹部を抑えた指の間から、どす黒い液体がにじみ出しているのを見た瞬間、湊の喉がひきつった。

「け、警察、呼びますか...!?」
「.......声を出すな。」

男ーー久藤くどう げんが、低くうなった。
その一言だけで、湊の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。殺される。そう思った。

「裏口はどこだ?」
「え、あ、あっちの、突き当たりです...。」
「誰も入れるな。客が来ても『閉店だ』と言え。」

厳はそれだけ言い捨てると、ふらつく足取りで店の奥、書棚の影にある死角へと倒れ込むように座り込んだ。
湊はパニックに陥った。どう見てもヤクザだ。抗争か何かで追われているに違いない。今すぐ逃げ出して交番に駆け込むべきだ。それが正しい市民の行動だ。
けれど、湊の目に焼き付いて離れなかったのは、男の苦痛にゆがんだ表情と、濡れた野良犬のような孤独な瞳だった。

(このままじゃ、あの人、死んじゃうかもしれない)

気弱で、いつも損ばかりしている性格。捨て猫を見れば放っておけず、親にも「お前は優しすぎるのが欠点だ。」と言われて育った。
湊は震える手で店のシャッターを下ろすと、「本日休業」の札をかかげた。
そして、店の奥にある救急箱と、自分のタオルを掴んで、その男の元へと歩み寄った。

「...何をしている。」

棚にもたれかかり、荒い息を吐いていた厳が、怪訝けげんそうに眉をひそめる。

「て、手当...させてください。血が、すごいんです。」
「放っておけ。お前、俺が誰だか分かってんのか?」
「わ、わかりません....っ!」
「なら失せろ。関わると死ぬぞ。」

ドスの利いた声に、涙が出そうになる。それでも湊は、タオルを差し出した。

「でも...ウチのお店で死なれるのは、困ります。」
「...は?」
「本が、汚れますから。」

精一杯の強がりだった。
厳は呆気あっけにとられたように目を丸くし、やがて「くくっ」と喉の奥で低く笑った。傷が痛むのか顔をしかめながらも、その笑みには微かな色が宿っていた。

「...変なガキだ。」
「ガキじゃありません、24です...」
「俺からすりゃガキだ。...貸せ。」

厳は乱暴にタオルをひったくると、傷口に押し当てた。
湊はおずおずと隣に座り込み、消毒液の蓋を開ける。外ではサイレンの音が遠く響いていたが、不思議と、この古びた本棚の隙間だけは、世界から切り離されたように静かだった。

それが、2人の出会いだった。
本来ならそこで終わるはずの関係。だが、手当を終えた厳が去り際に残した「借りは返す」という言葉が、まさかあんな形で実現されるとは、その時の湊は知る由もなかったのだ。

「...あの時も、厳さんは怪我をしていましたね。」

回想から戻り、湊はつぶやいた。
厳は目を閉じ、心地良さそうに湊の手当を受けている。

「ああ。お前が震えながらタオルを渡してきた時は、正気かと思ったがな。」
「怖かったですよ。今だって怖いです。」
「嘘つけ。怖がってる奴は、ヤクザの膝の上には乗らない。」

厳が揶揄からかうように腰を引き寄せると、湊は顔を赤くしてうつむいた。
半年前の雨の日、拾ったのは傷ついた野良犬ではなく、自分をらう狼だったのだ。それでも湊は、この温もりを手放せずにいる。
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