雨鴉(あめがらす)の隠れ家

遊羽(ゆう)

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第2話

氷の処刑人

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厳が帰った後の部屋は、いつもより寒く感じられた。
湊は早朝にマンションを出て、逃げるように「あやめ書店」へと向かった。厳からは「今日は休め」と言われていたが、一人で広い部屋にいると、昨晩の血の匂いを思い出して気が滅入りそうだったからだ。

古びた店舗のシャッターを開け、いつものように埃を払う。
文庫本の背表紙を眺めている時だけが、自分が「カタギ」の人間であることを実感できる時間だった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。

昼下がり、店先に一台の黒塗りのセダンが滑り込んできた。
厳の車ではない。もっと鋭利えいりで、冷たい威圧感を放つ車だ。
心臓が嫌な音を立てる。湊がカウンターの奥で身構えていると、ドアベルが静かに鳴り、一人の男が入ってきた。

「い、いらしゃいませ...」

震える声で挨拶をする。
現れたのは、30代半ばほどの男だった。
銀縁ぎんぶちの眼鏡をかけ、仕立ての良いグレーのスーツをすきなく着こなしている。厳のような荒々しい覇気はきはないが、その瞳は爬虫類のように冷たく、感情が読み取れない。
男は店内を無言で見回した後、ゆっくりとカウンターへ歩み寄ってきた。

「古い匂いだ。...だが、悪くない。」

男がカウンターに指を這わせる。その指には、厳と同じように無骨な指輪が光っていた。
湊は本能で悟った。この男も、あっち側の人間だ。

「あの、何かお探しでしょうか?」
「ああ、探しているものがある。」

男は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、レンズの奥から湊を射抜いた。

「ーーお前だ、朝霧 湊」

湊の喉がひゅっと鳴った。足がすくんで動かない。
男は懐から名刺を取り出し、カウンターの上に滑らせた。そこには『久藤組 若頭 霧島きりしまれん』という文字が刻まれていた。

「く、久藤組.......」
「親父ーーー久藤厳の様子が、最近おかしいと思ってな。」

霧島と名乗った若頭は、淡々とした口調で続ける。まるで事務報告でもするかのような静けさが、かえって恐ろしい。

「定例会を早退する。夜の会合も断る。そして何より、あの好戦的な男が、些細ささいな揉め事を穏便おんびんに済ませようとするようになった。.....らしくないと思わないか?」
「わ、私には....何のことだか....。」
「シラを切るな。親父が毎週水曜の深夜に通っているマンション。契約者は私の部下の名義になっているが、実質管理しているのは親父だ。そこの防犯カメラに、お前が映っているのを確認した。」

血の気が引いた。
厳は「セキュリティは完璧だ」「誰にもバレない」と言っていた。だが、身内であるNo.2の目はあざむけなかったのだ。

霧島はカウンター越しに身を乗り出し、湊の胸ぐらを掴むことなく、ただ言葉のやいばを突きつけた。

「親父は強い男だ。だが、今の親父には致命的な『弱点』ができた。....お前だ。」
「..........っ」
「敵対する組織がこの事実に気づけば、真っ先にお前を狙うだろう。お前を人質に取られれば、親父は判断を誤る。組全体が危険にさらされているんだ。」

霧島の言葉は正論だった。
湊自身、ずっと恐れていたことだ。自分が厳の足手纏あしでまといになること。自分の存在が、あの人を弱くしてしまうこと。

「単刀直入に言おう。親父の前から消えろ。」

霧島が懐から分厚い封筒を取り出し、カウンターに叩きつけた。中身が見えなくても、それが手切れ金であることは分かった。

「これは手付金だ。どこか遠くの街へ行け。二度とこの街の土を踏むな。.....それが、お前が親父のために出来る唯一のことだ。」
「.....で、できません。」

湊は蚊の鳴くような声で言った。
恐怖で膝が震えている。涙が溢れそうになる。それでも、首を横に振った。

「何だと?」
「厳さんに....別れるなんて、言えません。それに、勝手に消えたりしたら、あの人はきっと.....もっと無茶をします。」
「.....ほう」

霧島の目がすっと細められた。殺気のようなものが膨れ上がり、店内の空気が凍りつく。
湊はカウンターの下で拳を握り締め、必死に顔を上げた。

「私は....厳さんが『いらない』と言うまで、そばにいます。それが約束ですから。」

長い沈黙が流れた。
霧島は値踏ねぶみするように湊を見つめ続けていたが、やがてふっと鼻で笑い、カウンターの封筒を回収した。

「...愚かだな。だが、その愚かさが親父を狂わせたのか。」

霧島は背を向け、出口へと歩き出す。

「今日のところは帰る。だが覚えておけ。朝霧湊。お前の存在が組の害になると判断した時、俺は親父の命令を待たずに動く。....その首、洗って待っていろ。」

ドアベルの音と共に、黒い影が去っていった。
緊張の糸が切れ、湊はその場に崩れ落ちた。
心臓が早鐘を打っている。冷や汗が止まらない。

バレてしまった。
一番知られては行けない、厳の腹心ふくしんに。
けれど、湊の胸に去来きょらいしたのは恐怖だけではなかった。

(逃げないって、言っちゃった....)

あれほど恐ろしい男を前にして、自分は厳との関係を守ろうとしたのだ。その事実に、湊自身が一番驚いていた。
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