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第三十話
不器用たちは互いに悶える
しおりを挟むマリセウスとヘルメスが浜辺でトレーニングを始めて一時間ほど経過した頃、起床してからしばらくしたグレイが朝食までの散歩をしようとボンヤリしながら海岸までやってきていた。
妹と籍を入れた王太子はどのような人物なのか理解出来ていないから見定める、だが本当はもう二人の仲をほとんど認めてはいる。宣誓の儀のヘルメスの姿から始まり、結婚指輪を預ける王太子の姿は健気で純然そのものであり、引き裂くような真似などと行うつもりはないのだ。
だったらあの時に預かるのを拒めばよかったのにと言われてしまうだろうが、マリセウスという人物に対しての不信感が未だあることは否定出来なかった。
十五年前に二人は出会った。その時ヘルメスはまだ三歳の幼すぎる子供であり、それに対して恋愛感情を抱いたというわけではないのはわかった。今の妹に恋をしたのならば多少は理解出来よう。しかしだ、彼らの出会いと思い出が一体どういうものなのかグレイは知らない。
記憶が正しければ、グレイは当時カートン邸にはおらずに領内の子供達の集まりでキャンプへと出かけており、まだ三歳だったヘルメスは参加出来る年齢ではなかったので一緒ではなかった。恐らくはその時期だろう。
一体、当時の二人に何があったのか。そしてそれが元で二人は恋愛結婚する流れになったのか……謎は深まるばかりだ。まぁ尋ねてしまえば案外すぐに解決出来る謎だからか、深まっても構わないなどとグレイは思っている。そういった大雑把で楽観的なところは兄妹して似ている。
それにしても、海の匂いと音はどうも落ち着かない。
朝は鳥のさえずり、鶏の鳴き声で起きる環境下に育ったためか自然と隣り合っている共通点はあるとはいえ、簡単には慣れないのは当然だ。ここの住民が内地で過ごすことになったらきっと今の自分と同じく体がついてこれないだろう。
(……ヘルメスはここに、骨を埋めるのか。)
ふとした瞬間、本当に一瞬だけ寂しさが湧いた。
王太子に不信感があるのではなく、妹がいなくなるのが寂しい感情が強いのか。グレイの中で僅かな時間だけ天秤が現れた。が、それは光の速さで消し去られた。
「まーけーたぁああ~!!」
……聞き慣れた腕白な声。
砂浜に目をやれば、そこには動きやすそうな格好をして肩で息をしながら項垂れる妹がいた。とっとっとっ、と大きな歩幅でヘルメスに近寄る体格のいい男性。まさか、あんな野生児な妹を狙う男が王太子以外にもいるのか!?
無事に入籍を済ませたと昨晩聞いたが、その翌日にナンパをされているのではないかと思って突撃しようとグレイは思った。が、一昨日のことをすぐに思い出して……何者かもわからない上に返り討ちにされるかもしれない恐れがあるので、踏みとどまって様子を見ることにした。
グレイがそこにいる事を二人は知らない。
ヘルメスは息を整え終わると顔を上げてマリセウスに再戦を求めるも、首を横に振られる。
「駄目だよ、もうすぐ朝食になるからね。」
「でもまだ時間は、」
「湯浴みもあるし今後のスケジュールを考えると今日はここまでだよ。」
走り切ったヘルメスの鼻に自分の人差し指を軽く突っついて「めっ」と注意した。
前回の砂浜での五百メートル走に敗北したヘルメスはリベンジを申し込んだが、今回も負けてしまった。それも二度申し込んで二度も。
地元民(ただし王族)としてビーチでのスポーツ勝負は負けられない執念があったマリセウスも全力でそれに応えたわけだが、実のところはギリギリでの勝利であったことに肝を冷やしていた。これはこちらも鍛錬を積まねばいずれかはすぐに追い抜かれてしまう……。同年代の同性らが言う『子の成長は喜ばしいはずなのに、同時に寂しさもやってくる』の言葉がなんとなく理解した瞬間である。マリセウスの場合は子ではなく妻だが。
そんな歳の離れた妻がぐぬぬとした顔のまま、「わかりました……。」と悔しそうながらも素直に応じてくれる。結婚式の翌日からはしばらく休暇に入るわけだ、その時に発散させてあげようと決めた。
熱った体をクールダウンするストレッチに入ると、ヘルメスはあるものを目にした。
汗だくになった騎士が寄ってきた波に足首を浸からせ、海水で思い切り顔を濯いでいた。冷たっ!と声も離れていたとはいえ聞こえてくる。
(あれ、いいかも。)
やってみたい。
しかし『王太子妃がそんな事をしたら駄目でしょ!』と怒られるのが目に見えている。だが今はそんな事を言うキリコを始めとした侍女、目付役のターニャはここにはいない。いるとしたら王太子の夫のみ。幸い自分はまだ妃として認知されてはいないので周囲の騎士らも咎めるような真似はしてこないはず。
田舎の元気な子供スイッチが入ったヘルメスがここまで思案を巡らせてしまってはもう止まらない。チラリとマリセウスを見ると、運良く自分に背中を向ける形でストレッチをしている。絶好のチャンスである。ザクザクザクと足音を立ててしまっているが、波の音も砂を踏み締める音も環境音なのだろうかマリセウスはまるで気が付かない。ヘルメスは急いで波打ち際まで速歩きを続けた。
足首を掴んで後ろの方に持って行き、太腿の前側を伸ばすマリセウスは視界に入った女性騎士ふたりがビーチバレーボールで強めのキャッチボールをしている様子を見て、ああいう一見遊びのようなものも鍛錬になっているのかと感心して見ていた。
あれだけ楽しげなものなら、きっとヘルメスも喜ぶだろう。早速提案しようと振り向いた。
「ねぇヘルメス。彼女らのやっている……あれ?」
後ろにいたはずのヘルメスがいない。黙って帰るような彼女ではないのに、どこに行ったのだろうかとあたりを見回して見ると、波打ち際に立っていた。裸足でまだ冷たい海水を浸からせて、何をしているのだろうかと……まだ海が珍しくて観察しているのか、その様相は愛らしくてたまらない。と。
「ぎゃっ!!」
先程見ていたビーチバレーボールがすっぽ抜けてしまい、なんと事もあろうにヘルメスの背中に直撃してしまった。しかもクリティカルヒットだったのか、乾いた大きな音が響いた。
ヘルメスはその衝撃で正面にそのまま倒れてしまう。運悪く波が引いた瞬間だったので顔面がそのまま湿った砂にめり込んだ。
「ぶごぉお!!」
起きあがろうとしたタイミングで波が打ち寄せてきてしまい、浅すぎる場所とはいえヘルメスの全身は海水で沈められてしまい、軽くパニックを起こしそうになってしまう。こんな形で溺れるのかと思った瞬間、驚きを隠せないままのマリセウスが慌てて救助に向かう。
「ヘルメス!大丈夫かい!?」
「げほっ!ごほ、ぅええ~……。」
顔を濯ぎたかっただけなのに、潮水と砂が髪先から足裏までびっちり。『王太子妃がはしたい事をしようとした罰』と言われたら因果応報なのは確かである。しかし口の中にまで砂を入れるのはやりすぎでしょ!と抗議したいが、ぶつける相手がいないのでそれはできない。
口の中に入った砂を懸命な吐き出しているヘルメスを見て、女性騎士ふたりが駆け寄って自分たちが持っていた水筒から水を差し出してうがいをさせてもらっていた。
投げたボールを当ててしまって申し訳ないと何度も謝罪をしているが、わざとではなさそうだからそれ以上は……とマリセウスは止めようとしたが。
「それに運動着まで随分と濡らしてしまったようで……弁償もさせていただきたいのですが。」
「え?」
どのくらい濡れていたかと改めてヘルメスを見た。
運動着は随分と水を含んで彼女の肌にぴったりとくっついており、薄らと肌が見えてしまいそうなほどに透けていた。それどころか身につけている下着すらも見えている……これは、やばい。
何がやばいかと言うと、異性に免疫がない上に好きな人の素肌を見てしまうとイケナイ気持ちになってしまい、しばらくは悶えてしまった事を数日前に初めて経験したマリセウスにはかなり刺激的な姿なのである。
「ぅええ……顔も砂まみれぇえ……。」
「!!!」
そんなマリセウスの気持ちなど全く知らないヘルメスは運動シャツの裾で顔を拭い出した。
まだ妻になったばかりの彼女の肌を、他人に見せるわけにはいかない!あまりの突拍子もないヘルメスの行動に驚きを隠せないまま、大急ぎで自分のシャツを脱いだ。
「そ、それ以上は駄目!イケナイ!!」
「ぶほっ!?」
言葉になってはいるものの、どんな意味でその単語が出てきたのかヘルメスは理解する前に上から何か着せられてしまう。……濡れてしまって体を冷やしてしまうという心配からか、新しいシャツが着せられた。ヘルメスがそれを着せられたとわかったのは、頭を出してそれを目にしたとき。しかし、なんだかサイズが大分大きいような……。
「す、すみません。ありがとうございま…………」
着せてくれたであろう夫に礼を言おうとして彼を見ると、張りがある立派な大胸筋とバッキリ割れている腹筋、立派に盛り上がっている僧帽筋と丸みのある三角筋……男らしさを表す上腕二頭筋が露わになっていた。
彼の体格の良さは以前から知っていたが、その素肌までは見られずにいたのだが……それが堂々と間近で視界を占めている。……これは、やばい。
何がやばいかというと、ヘルメスは一度その厚い胸板に頬を密着させてしまった事と彼の甘い声でとてもおかしくて変な気持ちになってしまったのだ。それに異性の裸体を目にしてしまうのは……破廉恥であるという認識だけは強くある。
「ヘルメス?」
「ま、ま、ま……。」
「ま?」
「マリス様の破廉恥ぃいい!!!」
「ぇ?え?ぇえええ!?」
破廉恥、と叫んだヘルメスは両手で顔を覆いながら大急ぎでその場を走り出した。
突然破廉恥呼ばわりされたマリセウスは少しの間呆然とするも、すぐに我に返りヘルメスを追いかけ出した。
「待って!破廉恥って何!?ねぇ破廉恥って何がーっ!!」
「わ、わぁあああ!!!!」
……ダバダバのシャツを着た少女と上半身裸の中年が王宮へと超高速で走り去ってしまった奇妙な光景。
そんな一部始終を見たグレイはマリセウスの印象のひとつに『アホなんだ。』が付け加えられたのであった。
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