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第三十四話
落ちない赤錆
しおりを挟むいつもなら迷うことなく妻の手を優しく握れるのに、今のマリセウスにはそれが出来なかった。
仮に今握ろうとすれば、怯えて母の手を握る幼子のような未知の恐怖に震えているようなものだ。不安を払拭してあげる側ではなく求める側になってしまう……純粋で無知な存在ではない男が、妻に助けを求めるような真似をしてはいけないと踏みとどまった。それが夫として歳上の男として最善の判断だと信じたからだ。
ヘルメスに添えたい手を引いて自身の膝に戻すも、藁をも掴みたいであろう手は落ち着きを無くして無意味に膝をさすった。
ヘルメスの告白に部屋の空気はガラリと温度変化する。
重く切なかったヘルメスから、薄らと凍える恐怖と不安を抱えたマリセウスに切り替わった。
「……それを、言われた君はどんな気分になった?」
「信じられないの一言に尽きます……マリス様がそのような真似をするはずがないって。」
だけども、とヘルメスは続けた。
「貴方が過去の話をするのに勇気がいる、という言葉を思い出していました。仮に……そのような事実が本当だとしたら、受け止めるべきだと……でも、踏み込んでいいものかとも悩みました。」
「……私が怖いから?」
「違います!それは断じてありません!でも……、聞かないままなら私自身が気持ちを封じて、今の幸せを壊さなくて済むという口実で逃げているだけなんです。こんな怖い気持ち、忘れたら楽になれるって。」
忘れれば楽になれる。場合によればそれは正しい判断かもしれない。だがヘルメスはそうとはならなかった。
見知らぬ男の言葉で翻弄され、しかも倒れるという始末で騒がせてしまった。心配して夫も駆けつけてくれた、それも責務の大きい立場だと言うのにだ。
逃げ出せたらどれだけ楽になれるのだろうか、抱え切れるかもわからない大きな不安を胸に閉じ込め切れることが可能性なのだろうか……夫が来るまで、ぼんやりとして一連の出来事を忘れ去ろうとしても断片が脳裏をよぎり、赤い錆がずっとこびりついているような感覚に苛まれる。
本音を言えば……「助けてほしい」のだ。
だがそれには、マリセウスが勇気を必要としている過去を問わなければいけない。自分の不安で苦しませてしまうのが酷い罪悪感を走らせる。だから気持ちを封じてしまえば、誰も傷つかないで済むのだ……悲しみは広がらなければ越したことはない。それがきっと最善なのだと信じるしかない、ヘルメスはそう考えていた。
「……ごめん。私のせいで、また君を追い詰めてしまって。」
「ぇ……?」
マリセウスの振り絞った声は、自分よりも不安に帯びていた。
『また』というのは、妃教育のストレスのせいでヘルメスが軽度ながらも円形脱毛症に罹ってしまったときの事を言っているのだろう。あの翌日に二人で浜辺を走って、「何かあったら共に悩んで共に答えを見つけたい」と話していたはずなのに……結局はまた追い詰めてしまっていたのだ。もっと早くに勇気を出していたら、こんな事にはならなかったのに。
本当は誰も悪くはない。過去は過去だ、決別しても構わないだろう。思い出として抱えても構わない。
しかしマリセウスは『罪』としてだけではなく、『癒えるとは断言できない傷』を負っていた。だから彼にとっての昔話は勇気がいる。そしてそれは最愛に話さなければならない事のひとつだ。
何故なら、その過去がなければ彼らは出会わなかった。
マリセウスの今が存在しなかった。
ヘルメスの世界は広がらなかった。
互いに救われた過去なのだ。
それをこんな形で、ヘルメスを傷つけてしまったのだ。余計に避けては通れないものである。
「……私が、まだ十八の時だ。あと数日で騎士学校を卒業出来る、その日の出来事だ。」
だからマリセウスは口にする。これは勇気という感情なのかはわからない。無理やり深淵から、黒い泥の塊である過去をサルベージするような真似であり決して称賛される言動ではない。
「あの日私は、同級生の一人に呼び出しを受けて……指定された場所に行ったんだ。何故呼び出されたのか理由はわからなかった。到着するなり、一騎討ちを申し込まれたよ……それも模造の剣ではなく真剣で。」
曽祖父は細剣を使っていたこともあり、マリセウスは適正があるとは言い難かったが騎士学校での血の滲む努力によりマスターした。
細剣……レイピアは本来なら両刃で先端が鋭利に尖っているものだが練習用の模造の場合は鋭利さや刃が削ぎ落とされており斬ることも刺すことも出来ない(力任せにやれば出来るが、そうすれば細剣は壊れるだろう)仕様になっている。あの時、鞘から抜いて見たレイピアは刃が太陽に照らされて悍ましく光り輝いていた。
「……まさか、その一騎討ちでお相手を?」
「それは違う、とは言い切れないかな……。だけど有無を言わさずに向こうが飛びかかってきてね……。なんとか応戦するも守る一方で、反撃もまともに出来なかった。」
状況が飲み込めなかった。
どうして自分が一騎討ちを、しかも真剣でしなければならなかったのか。相手は一体何者なのか?身を守りながら命の危機に晒され続けるも、その混乱の中で逃げ続けた。
だがマリセウスはついに捕まってしまう。
「足をもつれてしまった拍子に倒れて……起き上がれないように、踏みつけられて…………。」
「……マリス様?」
顔は青白く、冷や汗が多く流れていく。
震える両手を組んで自分で押さえようとするも余計に震えは大きくなる。
息が詰まる。呼吸も荒くなる。満足に肺に酸素が行き渡らない。
もう二十五年も前のことだと言うのに、何も補正も入らず鮮明にあの日の映像を思い出せてしまう……鮮烈な記憶だ。いいや、決して癒えない傷だからこそ色濃く残っているのだろう。
「あの時……あのとき…………、あのときに、いわれた、ことばが…………っ、」
アスター大陸には仄暗い歴史が無数に存在する。そのひとつにマリセウスは根強く関係していた。
それは『神海王国の王族に生まれたからこそ、乗り越えられた受難』と賛美を浴び、また『神海王国の王族に何故、お前のような奴が生まれた』と忌み嫌われた……両極の存在だった。
体重をかけて何度も踏みつけられ、肋が折れる感覚があった。
瞬間、マリセウスは幼かった日に味わった恐怖がフラッシュバックする。
背筋が凍り、恐怖が心が支配する。死が脳裏によぎる。
しかし、それは相手の言い放ったたった一言で無に帰した。
『お前の⬛︎の⬛︎、⬛︎く⬛︎れるそうじゃないか。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎がお喜びになる。』
下衆な笑みで放たれた言葉をマリセウスは鵜呑みにしてしまった。
浴びせられた言葉をヘルメスに口にする事が出来ないまま、恐怖で硬直したまま声を殺し大泣きしてしまい……気がつけば自分よりも小さな妻に泣き縋っていたのだった。
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