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第三十九話
小さな陽だまりのような
しおりを挟む「ヘルメス!やっぱりヘルメスだったのか!!」
喜ばしいのだが、こんな状況下での再会は望んでなかった。なんとしてでも妻を助けないと……焦るあまり足を大きく上げた際に掴んでいたドアノブから手が滑りそうになる。
しかし途端、外からまた轟音が響く。そのあまりにも大きな衝撃音で辛うじて掴んでいた手が滑り、せっかく掴んだというのに尻から落ちてしまった。
「今のは……クラーケンか!?」
しかも何やら船を傾けていたときよりも音が大きい。さらに直後、頭上から叩きつけるような音が船底に響く。
一体今度はなんだ、とは一瞬思ったが……マリセウスは当たって欲しくないことが脳裏をよぎった。出来れば的中しないでくれ、そう願ったが、『悪い予感ほど的中するのが人間』なのだ。
ガシャン!と音を立てたのは自分たちの背後にあった工具箱がすぐ隣にやってきて壁に衝突した。バラバラになってしまった工具たちも引き寄せられるかの如く、こちらに走って……いいや流れてきている。
クラーケンは深海に棲む神海獣。穏やかではあるものの、自身の領域を侵そうとする者と神秘を持ち去ろうとする者は情け容赦なく攻撃する。我が子がここにいる上に重傷を負わせられたのならば余計に攻撃的にもなるだろう。
的中した。
『船ごと海に引きづり込まれる』!
「ヘルメスっ!!」
しかし好機ではある。このまま傾斜が進めば、扉を開けられ外へ出られる。だがそれは危険な賭けでもあった。
船底は木材で散乱している……彼女が今どこにいるかはわからないが、それらに巻き込まれて最悪の場合下敷きになる恐れが十分に高いのだ。
今のマリセウスは守るものが多い。自分自身の身命はもちろんだが、懐にいるクラーケンの幼子、外にいるヘルメス。ついでに言うならポラリスの世間からの信頼……あとは王家の矜持。ここで誰かひとりでも欠けたら、大惨事は免れない。
誰一人、一匹も置いていかない。王太子として、大人としての責任だ。
徐々に傾斜は激しくなり、やがてマリセウスの眼前にある壁は厳しい坂路に様変わりする。これくらいの角度ならばいける。扉を破って妻を救出しにいかなければ!
マリセウスはもう一度駆け上がり、再び扉のノブを掴んだ。
「わっ!わわわっ!!!」
運良くヘルメスのいた場所は木材が少なく、もはや壁になりつつあるかつての天井にあったそれらに巻き込まれることはなく無事である。……とは言い難い状況。
恐らくは木材全てが坂の下に落ちたあたりから自身もゆっくりと下降すれば無事かもしれなかったが、何が正しいのかわからないこの状況でその決断をしなかった。咄嗟に照明が吊るされていたであろう鎖に手を伸ばし、落下は阻止したものの落ちるのも時間の問題。しかもこの後どのような展開になるかのもわからない。ヘルメスはまだ船が海中に引き摺り込まれるなどという考えには至っていないようだ。
先程避けた黒樫らも下に叩きつけられ、他の木材を破壊するような音ばかりを立てている。それを聞くたび、肩を窄めてあれに巻き込まれなくて本当によかったと心から思うが、それに伴って床はだんだんと垂直になってきている。魔法石の管理室はどうなっているのか、その様子を見たくてもヘルメスにはもはやそんな余裕はない。とにかく今は自分の身を優先しなければいけない。
「これじゃ、戻るしかない……!」
黒樫の山がなくなった出入り口に視線を移す。
船内は今度は九十度ほど構造が変わるが、逆転しているよりかはマシかもしれない。何より足がつけるのは大きい。
ヘルメスは壁に足を置き、握っている鎖で振り子の原理を活用して助走をつけて向こう岸へと壁走りに挑む。なけなしの体力をなんとか振り絞り、何度か往復をして勢いをつけて走り出した。
完全に垂直になる直前、僅かな傾斜を望みに壁を蹴り上げてスピードを上げる……が、もはや壁になってきた。
あと少し!残された力を全て使い、数メートル先にある出入り口の壁……今は床になってしまったそこ目掛けてジャンプを決めた。
滞空時間はものの数秒間、それがひどく長く感じる。
ヘルメスが伸ばした右足は、かかとまで無事に着地して体を前のめりにして、なんと無事に渡り切ったのだ。
「やっ……たっ!」
成功した安堵感、恐怖に打ち勝ったことへの不安が消え去り、前へ倒れ込んだまま達成した喜びを口にした。
全身に力が入らない、満身創痍そのもので、動けないままだ。それに加えて、心なしか視界が霞んできている……。
「ど……しよ、」
クラーケンの足が破ってくるまでの間、実は船内はヘルメスが思っている以上に危険な状態になっていた。
半分以上が海水で沈められ、酸素が少しずつ薄くなっている。それに気が付かずに休む事なく動き回ったせいもあり、陸上と呼吸そのままに探索をしていたため酸素不足に陥っていたのだ。こればかりは仕方ないとはいえ、知識不足が仇となった。
(マリス様……。)
ヘルメスは酸欠になった自覚もなく、そのまま目を閉じてしまった。このままでは意識を手放してしまうというのはなんとなく察したが、もはやこれ以上どうにも出来ない。今は無事だがら……そう思ったとき、土砂崩れがしたような激しい音が聞こえた。しかも下ではない、上からだ。
船内に入り込んだ海水が一気に押し寄せてきた。
落ちかけたヘルメスはハッと目を覚ましたときには既に手遅れ。ようやく渡り切った安全地帯から強制的に水流で落とされてしまった。……水流の勢いも強かったのか、ヘルメスの身体はあっけなく宙を舞った。
これで二度目だ、今回ばかりはもう助からない。
視界は暗闇、僅かな光は天高くある部屋から洩れる明かり。もう少しで会えたのに……。
後悔の念が押し寄せて恐怖すら感じない。届かない太陽を掴もうと手を伸ばしてみるも、当然届くわけがない。
(謝ってから、死にたかった。)
覚悟を決めて目を強く瞑る。
瞬間、体が冷えた。海水だと見なくても理解出来た。だが不思議なことに『落ちた』という感覚ではなかった。
……断言できる、『包まれている』のだ。
(何が……、)
覚悟したが目を開いてみる。
包まれているだけじゃない、押し上げられていた。
海水が優しくヘルメスを包み、手を伸ばしても届かなかった太陽へと近づけてさせてくれている。
……この事象、海や船の知識が不足しているヘルメスが、唯一理解できている事象だ。
それは太陽を背に手を伸ばしている彼ならば出来ることだからだ。
「ヘルメスッ!大丈夫か!!」
「マリス、様……っ!」
弱々しく伸ばした腕を、力強く掴み、その身をさらに強く抱きしめてくれたマリセウスとようやく邂逅出来たのだった。
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