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第三十九話
猶予は少なく
しおりを挟む「今の声は……ヘルメス?」
全く揺れていなかったことに対して油断していたマリセウスは危うく転倒しそうになるも一方的な傾斜だったため、壁に張り付きなんとか無事にやり過ごせた。部屋の外では木材がけたたましく崩れ落ちる音が鳴り響き……しかし喧囂とも思える音の中に、聴き覚えがある声が混ざっていたのだ。
そんな馬鹿なと言いたいが、どう考えてもあの悲鳴は妻の声だ。マリセウスはお世辞にも声の聞き分けがいいとは思えない男ではあるが、最愛の妻の声だけは絶対に間違えない。故に断言できる、幻聴でも都合の良い幻覚でもなく間違いなく外にいるのは妻だ。
「なんてことだ、まさか取り残されていたのか!?」
如何にして扉まで漕ぎつけようか悩んでいる最中の出来事。掲げていた燭台で無理やり壁登り出来るかもしれないと思った矢先だ。
外から激しく破壊にも似た衝撃音が響き、最悪の事態を想定せざる得なかった。悩んでいる暇などない、大急ぎで外に出なくては……!
「これ、しっかり持っていてくれるかい?」
『にぅ?』
懐にいるクラーケンに燭台を預けると、マリセウスは足首を慣らし脹脛を伸ばす、本当はこんな悠長にしているわけにはいかないが、確実に出る為には自分自身の身体を最大限に生かす必要性がある。
体を温めて終わり、扉から離れて距離を置く……息をひとつついて、歩幅をイメージ。そして一気に駆けた。
「ふっ!」
助走をつけて壁を蹴り上げる。一歩、二歩、三歩と岩肌の突起物があるかのように軽快に蹴り続け、なんとあっという間にドアノブに手をかけることに成功した。これにはさすがの本人も驚くも「ふん、私も甘く見られたものだな!」と何故かドヤ顔を披露してしまった。……達成感はいいものの、あまりふざけてはいけない。気を取り直して扉を開放することに尽力する。
しかし忘れてはいけない、船の扉というのは簡単には閉じない上に開かない。何せ波に揺れるのだから日常の建造物と異なり扉は重く、それも磁石も入り込んでいる。普通に開閉するだけでも多く力を入れるのだが、今は上下逆転状態。足をかけられる箇所も猫の額ほど、十分に力が入れられるほどの面積はない。
「ヘルメスがいるんだ……迷っている暇はない。」
幸いなのは外開きだ。ドア枠の数センチの面積に足をかけて体重をかければいけるはずだ、宙吊りになっているマリセウスは必死に足をあげた。
そんな事とは露知らず、ヘルメスはぐったりと座り込んでしまい、酷い疲労感に襲われていた。
いつもならあれくらいの運動量はなんともないはずなのに、どうしてこんなにも息切れしてしまっているのだろうか?
「へっくちっ!!……あっ。」
なるほどとようやく自分の容態に理解した。
体そのものは元気ではあるものの、何度も溺れかけてしまったことから服に海水がずっしりと染み込んでいた。夢中になって捜索していたため、この状態になっていたことにようやく気がついたのだ。ブラウスは透けないような物にしていたため、このままでもマリセウスに見せても平気だなと、いらない心配にも気がついた。しかし予想以上にここは寒い。陽が差さないのはかなり痛手だ。
だがそれを除いても妙に息苦しい。暗い上に狭くて不安になっているからだろうか?だが、もしかしたら夫も同じように不安になっているのかもしれない。いくら彼が強くても、この非常な状況下。
(早く助けに行かなきゃいけないのに……。)
ヘルメスは床になっている天井に片手をついてふらふらと無理に立ち上がった。しかし彼がいると思われる部屋は頭上遥か上……。ここまで来ておいて声を上げて呼びかけることぐらいしか出来ないなんて、なんて非力なのだろうか。
「はぁ……っ、マリス様……!マリス様ーっ!!」
精一杯の声量で呼びかける。届いてくれと願う、この声に応えてほしい……だが無情。再び轟音が鳴り響く。それもすぐ近く。
「えっ……!?」
ヘルメスは驚愕しながら音の方向、背後を振り向くと甲板で見かけた白い柱のようなものが一体。船体を突き破ってこちらに伸びてきた。
しかしヘルメスの元にまでこない。びたんっ!と強い音で床を叩きつける。すると白いそれは動きが止まった。さらに天井も似たような叩きつける音が鳴り響く。
「何?なに?」
未知の恐怖よりも今何が起ころうとしているのか、全身が強張り野生動物のように激しく警戒しその場から動けずに眼前のそれを注視した。
ヘルメスのかかとに何かぶつかる。たまらず「ひっ!」と声を上げて恐る恐る確認すると……木材を固定していたベルドの金具だ。すっかり破壊されてしまい、ただの鉄屑となっている。……なんでこんな小さなものが?先程まで座っていたここら辺りにはなかったのに?
そう疑問に感じると、その金属片はヘルメスの先へと音を立てて進んでいく……だがその音ひとつだけではない。
カランカラン、ざらぁ、ズルズル……じゃらぁあ……。
ヘルメスは横に灯りを向ける。それなりの距離まで照らすそれが捉えたのは鎖、ベルトの金属片、照明だったランプ、女性でも持てそうな大きさの木箱……みんな、白い柱のいる方向へと勝手に走っているのだ。
「な、なんで……!?」
ヘルメスはたまらず後退りするも、踏ん張れずに軽く滑りそうになる。
……なんで滑りそうに!?
足に関しては自信が強い彼女はたまらず足元に再び目を落とす。甲板に一時脱出するときに散々味わったものだ。
傾斜。この時ようやく理解した。だが遅かった。
クラーケンはついに脚で穴を開けて、海に引き摺り込もうとしていたのだ。
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