天底ノ箱庭 白南風

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1章

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3.ヴィクトール視点
それが起きたのはまだ薄暗い早朝だ。
部屋の窓が割れる音で目が覚めた。ベッドから飛び起きると、誰かが窓から出ていくのが焦点の合わない目でぼんやりと確認できた。
部屋を見回すと野良犬がいたはずのベッドには抜かれた点滴チューブだけが残されていて、チューブを付けていた本人の姿がなかった。
思ってたより早い脱走だ。俺の顔面に拳を食らわせるくらい嫌がっていた点滴を受けたのだから、恐らく帰ってくるだろうが、脱走経路は知っておくに越したことはないだろう。
俺はベッドから抜け出すと、クロゼットに入ったワイシャツとベストを着込み、スキニーのジーンズに足を通す。髪をだらしなくない程度に簡単に結って、エンジニアブーツを履く。
腕時計から首輪のGPSを調べる。走っているとは思えないほどの速度であっという間に現在地から離れていくが、まだ焦るほど遠くはない。バイクもあるから大丈夫だろう。
ふと、サイドテーブルを見ると昨日の食べ残した夕飯が消えている。さすが長年盗っ人やってるだけある。持って行ったんだろう。
俺が部屋から出ると、廊下の向こうから数人の使用人たちがモップや刺股を手に走ってくるのが見えた。
「ヴィクトール様!今の音は!?」
ああ、めんどくせえな。俺は愛想笑いを作ると、手をヒラヒラと横に振る。
「ちょっとイライラしたから窓割った」
「え!?ヴィクトール様が!?」
「うん。だから窓直しといて。俺様、無敵だから怪我ないし」
左頬を怪我したばかりだが、俺は適当な言い訳を並べて玄関へ向かう。玄関を出てすぐ脇に置いてあるバイクに跨り、手の平を認証させてロックを解除する。
GPSの反応を追って、俺はスラム街の方へ出向いた。
ある程度の時間で、ふと野良犬の反応が止まる。家でもあるんだろうか。俺は傍にバイクを駐車させると、壁に背中をつけて顔だけ覗かせて野良犬の反応がある方を見る。
崩れた小さいビルを、ベニヤ板やブルーシートで何とか修復したような不格好な建物。そこからまだ小さいであろう子供の泣き声が漏れていた。
音を立てないようビニールシートを少しめくって中を覗くと、逃げ出した野良犬が5~10歳位の子供3人に囲まれている。
子供たちは目に涙を貯めていたり、わんわん声を上げていたり様々だが3人とも共通して泣いているように見える。
「ベロアお兄ちゃん捕まっちゃったの?売られて遠くに行っちゃうの?」
「やだやだ!ベロアは強いんだ!ハンターなんかに負けないもん!!」
「いい子に隠れてるから…遠くいかないで…」
泣きながら腕に足にしがみつく子供たちをあやしながら、ベロアと呼ばれた野良犬は見覚えのある籠からバケットや果物を取り出して見せながら強気に答える。
「遠くになんていかない、用事を済ませたらすぐに戻ってくる。それまで2人のこと頼むぞ」
彼は3人の子供達の中で1番年上であろう10歳くらいの気の弱そうな少女の頭を撫でながら穏やかに笑った。
「果物切ってやるから、ちょっと待ってろ」
そう言ってベロアはボロ布を積み兼ねて作った寝床から錆びてボロボロのナイフを手に取る。
あんなので果物切ったら果肉にサビがつくし、何よりあんな不潔な場所に刃むき出しで置いていたあったナイフだ。そんな物で切り分けた果物を子供に食わせるなんて、俺からしたら有り得なさすぎる。
「だーめだって!そのナイフはなし!」
本当はしばらく観察して、ベロアが子供から離れてから声を掛けるつもりだったのに、俺は思わず飛び出して声をかける。
ベロアは驚いた顔をしながらも、3人の子供達を庇うように前に出て錆びたナイフを握り直した。
「お兄ちゃん誰…?」
突然の俺の登場に1番小さな子供が不安そうな瞳でこちらを見上げた。
「ベロアの友達。お腹減ってんなら、もっと良いもん買ってきてやる。だから、そんな不潔なナイフで切った果物は食べるな。腹壊すぞ」
友達なわけがないが、無難な言い訳が思いつかずに口から出任せを吐く。
目を釣り上げて怒っているような表情を浮かべて俺を見ているベロアに、俺は小さくウィンクする。
「新しいナイフと、新しい食いもん持ってくるから家の中で待っとけ」
俺は軽く手を振って小屋を出ると、停めたバイクの元へ足早に戻る。バイクのエンジンをかけて発進させた。
「待て」
バイクのバックミラーに目をやるとベロアが追いかけてくるのが見えた。
少しスピードを落としただけで簡単にバイクに併走してきたそいつは、走りながらだというのに殆ど呼吸を乱さないままエンジン音に負けない少し大きめの声で俺に話しかけてきた。バケモンかよ。
「あの子たちには手を出すな、子供を殺して何になる!」
俺はバイクを更に減速させ、ゆっくりと停車させる。軸足にバイクを軽く寄せて支えた。
「あのさあ、お前からしたら俺は殺人鬼なんだろうけど、俺は別に殺しを楽しむサイコパスじゃねえから」
「それで10人も殺すわけがない」
「それには理由があんだよ…お前にゃ分かんねえだろうけどさ」
深くため息を吐きながら、俺は頭をがしがしと掻く。そりゃあ、犬だろうと何だろうと10人も人間を殺めてりゃサイコパス予備軍だろうよ。俺が無自覚なだけってこともなくはない。
でも、ただのサイコパスだったら、もうちょい人生謳歌してるだろ。ベロアの言い分はもっともだが、苛立つ俺の気持ちも分かって欲しい。
「…俺、最初に言ったよな。依頼したいって」
息を落ち着けると、俺は彼に振り返る。
「まだ言うのか、あいにくだか暇じゃない。他を当たれ」
少し呆れたようにため息をつく彼をとりあえず無視し、至って真面目に話を押し進めた。
「お前が協力してくれんなら、報酬にあの子たちの食事と今の環境より良い場所と安全を保証してやれる。もちろん、お前自身の生活も、飯も保証する」
「…依頼内容は何なんだ」
子供たちの話を出したとたん、取り付く島もなかった彼が怪しみつつも耳を貸し、俺はニッと口元を釣り上げる。
あの子供たちは良い交渉材料になりそうだ。強力なカードとして手札に加えておくか。
「正式に俺の飼い犬になってくれ。別に犬らしくしなくていい。お前は今まで通り自由に振舞って、暴れて、好き勝手に行動すればいい」
「なら、俺である必要はないだろう」
「あるんだよ」
俺はベロアの胸板を軽く中指の背でノックする。鉄板でも入ってんじゃねえかってくらい硬くてちょっとビビったが、その方が頼りがいがあるってもんだ。
「俺の飼い犬でマナーがなっていないヤツらは、総じて俺の父親のターゲットになる。場合によっちゃ命を狙われるし、捕まればどうなるか分からねえ。だけど、お前の逃げ足と腕っ節は確かだろ?買ってんだよ、お前のこと」
「なるほどな、お前が俺にこだわる理由はそれか」
ようやく俺の意図を理解するに至ったベロアは「フン」と鼻を鳴らして目を細める。  
やはり馬鹿ではないと思っていただけあって、飲み込みが早い。
「俺もお前が死んだり、怪我しないように頭使って防げるものは防ぐし、守る。だから、脳みそしかない俺の手足になってくれよ」
「本当にお前に買われて生き延びるだけでいいんだな?俺は生まれた時から野良だ、難しいことは出来ないぞ。なによりあの子たちは育ち盛りでよく食べる」
そう言えばこいつは自分が満足に食っていくだけでなく、そんな育ち盛り3人も抱えて食わせてきたのか。嬉しい誤算だ。
「たかが16歳の高校生ですがね、これでもブラウンシュヴァイク家の長男だぜ。金も権力も七光り程度にはあるし、一応は神童って呼ばれてたんだぜ?」
俺は自分の頭を指先でつついて見せる。まあ、神童は4歳まででしたがね。今じゃブラウンシュヴァイクの成金ドラ息子だが、伏せておこう。
「もし引き受けてくれんなら、まずは新しい家を借りる。1Rでも子供3人なら暮らせるだろ。お前は今度から俺の飼い犬として通え。子供たちの存在は絶対に誰にも悟られるな」
「言われなくとも」
「あとはお前が生き延びて、好き勝手やれ。何も生活スタイルは変えなくていいが、俺と親しいフリだけ頼みたい」
俺の要求に首を傾げたが、考えることはあまり得意ではないのかベロアはすぐに首を縦にふる。
「そういう依頼っていうなら、そうする。その代わり子供たちの前でもそれは貫け、心配はかけたくない」
そう言うとベロアは我がものヅラで俺のバイクの後ろに足をかけて飛び乗る。
「盗み聞きの通りだが俺はベロア。お前みたいな長ったらしい名前は無い。血縁なんて居ないからな」
バイクの乗り方はさすがに知っているのか。俺は彼を乗せたまま、バイクのエンジンをふかす。
「分かった、話が早くて助かるよ。改めてヴィクトールだ。よろしく頼むぜ、相棒」
バイクを発進させる。ナイフと食料を調達するにも早朝すぎて店もやっていない。地下の商業の弱点は朝にどこもやってない所だと思う。
「屋敷のキッチンに寄る。食料と調理器具を調達して戻るぞ。荷物は持ってくれるんだろうな」
「お前は力なさそうだもんな。歳聞いたときに思ったけど本当に16歳?体が小さすぎやしないか?」
「うるせー、お前がデカすぎなだけだ。俺だって、これでもモテんだぞ」
大体はネームバリューだし、身長低めは認めるどさ。理由はなんであれモテてるのは事実だし、それなりに声をかけられているだけの魅力はあると思ってる。嘘ではない。
久しぶりに出す全速力で屋敷に戻ると、バイクを玄関先に停めてベロアを室内に招き入れる。
「キッチンは向こうだ。とりあえずどれくらい持って行きたい?」
「2、3日分あれば安心だが…」
「じゃあリュックかなんか必要だな。1回俺の部屋に戻る」
そこまで言ってから、今朝に俺の部屋の窓が割れて騒ぎになっていたことを思い出す。
ベロアはあの時すでにいなかったし、何か言い訳が必要だ。1度廊下に踏み入れた足でベロアに振り返り、彼にかがめと手招きする。
「おい、口裏を合わせるぞ。朝方にお前が俺の部屋にいなかった理由だ。1、俺の部屋の外に不審者がいたので追い払った。2、俺がイライラして窓を割ったので驚いて逃げた。3、部屋の外に世にも珍しい猫がいたので追いかけた」
「1くらいしかまともそうな理由がないじゃないか」
「お前が原始人すぎて行動理念が分かんねえんだよ。他に案があるなら合わせる。何かあるか?」
コソコソと小声で早口に伝える。
「普通に1でいいだろ。頭いいのになんでそういうの融通効かないんだ」
ベロアは憎たらしく俺を小ばかにしたように悪態をつく。
「詳しく知らない人間の性格まで把握出来るわけあるか。エスパーじゃねえんだぞ」
俺も舌打ちしてから再び部屋に向かって歩き出す。俺の部屋まで行くとまだ使用人が数人と、真っ白な髪の女性…俺の母親が立っていた。
「ヴィクター!」
駆け寄ってくる母親に俺は顔を背けるが、彼女は俺の両肩を掴んで顔を覗き込んでくる。
「使用人から聞いたわ。あなた、また自分で窓を割ったって…それにどうしたの、その頬」
俺の腫れたままの左頬に伸びてくる母親の手を俺は振り払う。
「あー、ごめんそれ嘘なんだ。本当は変な奴がいて、そいつが窓割って襲ってきてさ。頬はそん時に殴られた」
本当は俺のすぐ隣の犬にやられました。俺は視線だけでベロアをチラリと見ると、彼はなにか言いたげに渋い顔で俺を見つめるが小さなため息と一緒に目をそらした。
「で、コイツがそれを撃退してくれた。捕まえようと追いかけてくれたんだけど、さすがに逃げられちまったみたいだ」
ベロアの硬い胸をノックして見せると、母親は少し不安そうに彼を見上げる。
そんな母親をベロアは物珍しそうに見下ろして凝視していた。
「そう…あなたのおかげだったのね。息子を助けてくれて、ありがとう」
深々と頭を下げる彼女に彼は控えめに後ずさりながら「俺は何も」と答えた。
「ま、そういうことだから、俺の飼い犬はコイツで充分。他はいらねえから」
手をヒラヒラと振って、母親に帰れと仕草で促す。母親は何かを言いたげに何度か口を開け閉めしたが、またベロアに頭を下げて立ち去った。
「母親なのか?あんなに優しいのに、随分冷たくするんだな」
「優しいかもなー。でも、アイツは父親の言いなりだぜ」
俺は部屋の扉をくぐる。中にも何人か使用人が残っていたが、窓の修復は大体終わったようだ。
訝しげに俺とベロアを見つめると、修復作業の後片付けしている使用人たちが頭を下げる。俺は手を軽く上げて答え、クロゼットにしまわれて長い大きめの黒いリュックを出してベロアに渡した。
「ほい、これあげる。もう俺は使わんし」
「ああ…ありがとう」
俺たちの様子にちらちらと使用人たちの視線が注がれるが、俺はそれを無視して部屋を出る。
ベロアを連れて次はキッチンへ向かう。まだ早朝6時にもなっていないキッチンに人気はなく、俺は冷蔵庫を開ける。
切り分けられたメロンとぶどうとオレンジを順番に取り出して次々にベロアへ渡す。彼は何も言わずにそれを受け取ると、リュックに詰めていく。
「肉焼いたり出来る?」
冷蔵庫から鶏1羽そのまま精肉された鶏肉をベロアに出して見せる。
「薪があれば丸焼きに出来る」
「薪か~、さすがに薪は今すぐ用意できないから今度にすっか」
俺は肉を元の場所に戻す。部屋借りたら室内で薪で調理しないようにちゃんと注意しねえと、コイツ絶対室内キャンプファイヤーするだろうな。
「あとは日持ちしそうなパンと、野菜もまんべんなく貰って…炭水化物が少ないが、今は米が炊けてないしなあ」
ムムムと頭を悩ませながら冷蔵庫から次々に食べ物を取り出す。ベロアはそれを横から回収し、リュックに詰めた。
俺はふと、焼き菓子があるのを思い出す。子供はみんな焼き菓子は好きだろ。
キッチンに置きっぱなしの焼き菓子をカゴごと回収する。
「これ、この間作りすぎたから貰ってくれ」
ベロアはカゴに入ったチョコケーキポップとマドレーヌやマフィンを手に取り、手の中でくるくると回しながら目を丸くした。
「召使いが作りすぎることがあるのか?」
「違う、違う。俺が作ったの」
俺の言葉にベロアは理解が追いつかないと言わんばかりに目を点にして沈黙する。俺は眉をしかめて肩を竦めた。
「…なんだよ。意外か?」
「菓子は女が作るものだろう」
「見た目に似合わず、古い考え方だな~。スイーツ系男子って今日日珍しくないだろ」
彼の言葉にケタケタ笑いながら続けた。
「うちで焼き菓子作る人間なんかいないからさ。俺が作ったり、買ってこないと手に入らないんだ」
俺は飯をまともに食えなくなって長いが、不思議と菓子類は少し前から吐かなくなった。言うなれば、点滴以外の唯一の栄養で味覚の娯楽だ。
そうなると摂取量は増えるもんで、家から出たくないけど材料がある時は自分で作る。たくさん食うだろと作り置きして腐らせるのは、俺の中では結構あるあるだ。
「まあ、貰えるなら貰っていこう」
リュックがすでにいっぱいなので、ベロアは焼き菓子をカゴのまま受け取って脇に抱える。俺はその傍らで折りたたみの果物ナイフをポケットに入れた。包丁持ち出したらさすがにバレそうだ。
キッチンから出て、そのまま足早に玄関先に出てバイクに跨る。さも当然のようにベロアは再び後ろに足を掛けて乗ると、カゴを抱えてない方の手で俺肩を掴んだ。
「走るよ」
バイクを発進させ、先ほど通った道を行く。
子供たちの存在を隠蔽しきるなら、朝のうちにことを済ませるのが1番だろう。地下の街は12時くらいから賑わうので、この時間帯なら安心だ。
先ほどベロアが来ていた掘っ建て小屋の前でバイクを停める。大荷物を抱えているとは思えない軽やかな足取りでベロアはバイクから降りると、ビニールシートをくぐって中へと入って行った。
「おにーちゃん!!」
奥の暗がりから3人の子供たちが飛び出して、さっとベロアを取り囲む。
「ハンターやっつけた?」
「さっきのへんな顔の人だあれ?」
「いい匂いする…」
好き勝手に喋り出す子供たちをいなしながらベロアは俺を目で指すと、ベロアに向けられていた子供たちの視線が一斉に俺に集まった。
「よお、ガキんちょ。さっきぶり」
俺が軽く挨拶をすると、子供たちは大きく口を開けて俺を指さす。
「さっきのへんな顔だ!」
「お金持ちの人…やだな…」
「悪者?皆でやっつけるの??」
好き勝手言いやがる。今をときめくブラウンシュヴァイクの成金ドラ息子だぞ、舐めんな。なんて冗談を言っても通じないだろうから、俺は適当に笑い飛ばした。
ベロアは少し迷う素振りを見せてから、籠から焼き菓子を取り出し子供たちに手渡す。
「あいつが新しいおうちと美味いメシをくれるんだ、そのかわり俺はアイツのとこで働く」
「おにーちゃん働くの…?人間は危ないから近づいちゃだめっていつも…」
「ねえこれおいしい!!甘くてふわふわしてる!!」
「もっとほしい!いっぱいあるの?」
まとまらない子供たちのひとり、やんちゃそうな小学生くらいの少年が俺に近寄ってきてにかっとわらう。
「ありがと!へんな顔のおにいちゃん!」
「おい、変なは余計だ。嘘でもイケメンって言っとけ。人生得すんぞ」
少年の頭をわしわしと撫でる。彼を筆頭に一番年上の女の子とそいつと手をつないだ一番小さな子供もお菓子を片手に俺によって来る。
「ベロアおにーちゃんにいじわるしない?」
「またこれちょうだい!」
子供というのは順応が早くて警戒心も薄い。これだけ純真だと真っ直ぐに育って欲しいもんだ。ベロアが大事に守るだけのことはある。
「俺はベロアのファンみたいなもんだからさ。スポンサーとして大事にするよ」
「すぽんさ?」
「そそ、お金とか提供する相棒みたいな人」
ベロアの持っているカゴからチョコケーキポップを手に取って配り、俺はベロアに約束守ってるだろとアイコンタクトを送る。
ベロアは一瞬目を丸くしたが、少しは信用したのか俺に頷いて反応を返した。
「おにーちゃんあみあみとれちゃったの?」
一番年上らしい少女がベロアの伸びっぱなしのままになってる強いうねり毛を触りながら首をかしげる。
「ん?ああ…洗ったんだ」
「またあみあみしてあげる!」
そういうと少女は少し嬉しそうにベロアを横倒しにしたドラム缶の上に座らせ、ひっくり返したビールのケースを踏み台にベロアの髪を器用に編み込んでいく。
子供の手つきとは思えないほどするすると編み込んでいく少女に俺は思わず感心して目を見張る。
「お前、手先器用だな。編み物とか好きなの?」
「うん!」
「じゃあ、俺も教えてもらおっかな」
少女の隣であぐらをかくと、俺はわざと三つ編みの仕方が分からない振りをして教えを乞う。
「このくらいの束を三つに分けて、順番にあみあみするんだよ」
彼女が教えてくれるペースに合わせて、徐々にクオリティを上げる。
「おー、すげー。教わったらこんなに上手くなったぞ。お前らも教わったらどうだ?」
俺と少女を見ている少年2人に俺は手招きする。
「俺もベロアみたいに髪長くなったらおんなじにしてもらうんだ!」
「あみあみいっしょにやりたい」
俺に群がる子供たちの様子が気になるのかベロアがすこし後ろを振り返ろうと首を動かすと、髪を編み込んでいた少女に「うごかないの!」と叱られて申し訳なさそうに背中を丸める様子はちょっと笑える。
子供たちの相手をしながらとはいえほぼ二人がかりでも全部編み込むにはなかなか時間がかかった。
「変な顔のおにーちゃん、あみあみとっても上手だね」
はにかんだ様子で笑いかけてくる少女に俺は肩を竦めて笑う。
「俺、呼ばれんなら変な顔よりヴィクトールがいいな。ヴィクターでもいいぜ」
そこまで話してからふと俺は腕時計に目を落とす。時刻は8時40分を過ぎるあたりで、俺はベロアの手術を思い出して立ち上がる。
「やばい!ベロア、時間だ!」
ベロアに目を向けると、今まさにチョコケーキポップを食べようと手に持っていた彼からそれをさっと取り上げる。
「なんだよ急に」
「急じゃねえよ、目治すんだろ!あと、全身麻酔だから、述前2時間は絶食絶水!明日になるまで食べたらダメ!」
首根っこを掴んで軽く引っ張ると用事を思い出したのかしぶしぶ立ち上がって俺の後をついてくる。
「また明日来るよ。いい子にな。お菓子食べすぎちゃだめだぞ」
「おにーちゃんたち、いってらっしゃい」
小屋の中から3人の子供たちが手を振って見送る。見送りは小屋の中までのようだ。
俺はバイクに跨ると、ベロアが後ろに乗るのを待ってエンジンをかけた。
「あんなに懐っこいのに、外には見送りに来ないんだな」
バイクを発進させながら、ふと疑問に思ったことを口にする。
「子供の野良犬なんて見つかったらいい的でしかないだろ、ハンターにとっても他の野良犬にとっても。だから絶対に外には出ないって約束だ」
「ん?ハンターは分かっけど、他の野良犬に的にされる理由ってなんだ?」
確かに力も警戒心もないような子供の野良犬なら簡単に捕まえられるし、躾だって大人よりずっと入りやすいから狙われるのはまあわかる。けど野良犬に狙われるというのはどういう意味なんだろうか。
「子連れの親ってのは色々都合がいい。金持ちから気まぐれにおこぼれがもらえたり、情に訴えて見逃してもらえることだってなくはない。だからみんな…特に女は子供を連れたがる。そのために親を殺してでも奪いに来る」
ベロアは胸糞悪そうに鼻を鳴らす。
そんな文化が野良犬の中であるなんて知らなかった。確かにごく稀に子連れの野良犬が施されているのは見たことがある。
「こえー文化だな…お前、生まれついての野良犬なんだろ?貧困であろうと、血の繋がった母親や父親に愛されてこなかったのか?お前もあくまで利用されて生きてきたのか?」
俺はむしろ血縁関係に束縛されすぎて辟易しているが、野良犬の文化とどっちがいいかと言われりゃどっこいどっこいだ。
「てっきり、お前は自由気ままに生きてるのかと」
ベロアに目を付けたのは、確かに腕を見込んでのことだ。でも、さっき子供に話したことも嘘ではなかった。
自由自在に屋上を駆け回るあの姿が格好よくて、見ているのが好きだった。何にも縛られない、力強くて美しい生き物だと。
「自由か。どうなんだろうな?」
後ろでベロアがひとりごとのようにつぶやく。
「俺は野良犬の親から生まれた。首にバーコードがないからそれは間違いないんだろう。母親は俺が覚えてるだけで5回は変わった。実際はもっと多かったと思うけどそれ以上は記憶にない」
彼は悲しむでもなく、怒るでもなく、ただただ話をつづけた。
「どの母もそれなりに優しかった。だけど、どの母親も全員俺の親を殺した。俺の親になり替わってそんで次は殺される。たぶん産みの親なんて物心つく前に殺されたと思う」
最初の文化の説明で薄ら想像はしていたが、予想以上にハードだ。野良犬には生きるか死ぬかしかないのだから、汚くなって当然だが、相当恐ろしい世界だ。
「最初はそれなりにショックだったし泣きもしたけど、だんだん慣れて、子供に見えなくなったらいつの間にか親は居なくなってひとりで生きていくしかなくなった」
そこまで話すと今度は打って変わって、申し訳なさそうに声色が暗くなる。
「同じ思いをしてほしくない。それだけの理由だ。でもやってることは俺の親だった人たちと変わらない。争奪戦して勝ち取って、あんな狭い場所に閉じ込めてるんだからな」
バックミラーに一瞬うつったベロアの口元は笑っていたが、彼の声色は暗いままだった。
「でも、守ってんだろ」
「自己満足だ」
「幸せそうだったじゃねえか、アイツら。しかも、お前は自由のきく環境とは言っても、アイツらのために俺の奴隷になるんだ。危ないかもって説明を受けた上で」
俺は思わず笑う。
「いいじゃん、格好良くて痺れんね」
人生は舞台だって爺さんに言われたことがある。壇上に立つ人はみんなその舞台の主演だけど、誰かの力を借りないと、その舞台はあっという間に幕を閉じてしまうんだ。
「お前は血の繋がりもないのに、3人も手助けしてる。多少、手は汚しただろうけど、結果的にそいつらが成功してんならいいじゃんか」
後ろのベロアの表情は見えなかったが、俺の肩をつかんだ手に少し力が入った。
ちょっと力入っただけなのに力強いな。筋力わけて欲しい。
「…散々、手を汚して人を舞台から降ろすことしか出来なかった俺とは真逆だ」
思わず失笑まじりに言った言葉は、エンジンの音と合わさって消えた。彼の耳に届いたのか分からないし、分かりたくもなかった。
屋敷の玄関先まで走ると、またバイクを脇に駐車する。まだ午前中だってのに、バイクでこんなに走るの凄く久しぶりだ。
「手術の準備しねえと!早く部屋に行くぞ」
バイクから降りてベロアの肩を軽く叩く。俺に急かされるままに彼もバイクから飛び降りて駆け足の俺に早歩きでついてきた。
「そんなに急ぐ時間か?」
「急ぐよ!これから手術服に着替えてベッドに横になって待機すんだよ。多分、爺さんもう来てるんじゃねえかな…」
足早に自室に戻ると案の定、爺さんが1人がけのソファに小さく座って待っていた。
「ヴィクター坊ちゃん…どこへ行ってしまったのかと」
小さくため息を吐きながら立ち上がる爺さんに、俺は頭を下げる。
「わりぃわりぃ、今から準備すっから。服ある?」
「こちらに」
爺さんに差し出された手術服と靴下、紙オムツを渡される。それらを渡されて俺はベロアを手招きする。
「ほら、着替えて。てか、着方分かんねえか。俺が手伝う?爺さんがいい?」
ベロアは少し迷ってから俺の方を向き直ると「着せろ」と言わんばかりに堂々と腕を広げた。
「任せた」
昨日の一連の出来事であがくよりされるがままでいた方が早いことを学習したのと、今日の一件で多少は信頼度があがったらしい。
そういうことなら断る理由もない。ベロアの服を脱がせ、手術服に腕を通させて前を閉める。
「これ履かないとダメなのか?」
ベロアは手にパンツを持って渋い顔でそれを見つめる。
「全身麻酔だから身体の機能が一時的に止まるんだ。その時に糞尿垂れ流す場合もあるから付けないと後が大変。靴下は足に血がたまらないように少し締めておく必要がある。全部大事なことだよ」
パンツはさすがに自力で履いたが、術用の靴下は締め付けがキツくて、靴下に慣れている人間でも履くのが大変だ。ベロアをベッドに座らせると、足を出して貰って俺が履かせることにした。
「しかし、ヴィクター坊ちゃんがこんなに甲斐甲斐しく面倒を見る飼い犬さんは7年振りくらいですかね。仲良しなようで安心しました」
「お前がまともに面倒見た犬がいるのか?信じがたいな」
爺さんの話を聞いたベロアが、靴下に嫌そうな反応を見せながらも、不思議そうに俺に声をかける。
「お前の中の俺ってそんなサイコパスかよ」
笑いながら俺はベロアの靴下を履かせ終えると、足を軽く叩いて下ろさせる。
「いたよ。10歳だか11歳だったか忘れたけど、それくらいまでは大体みんな可愛がってたよ」
不思議そうに首をかしげてベロアは立ち上がった俺を見上げていたが、俺は眉を片方だけあげておどける。
「準備は大丈夫なようですね。安静になさっていてください。手術を始める時に、手伝いに呼んだ看護師を呼びに来させますゆえ」
爺さんは深々と頭を下げると、静かに部屋を出ていく。それをぼんやりと見送っていたベロアの肩を軽く押して、ベッドに寝るよう促す。
「ちょっと暴れ回った後だから休んどけ。また体力使うんだ」
「なあ」
ベッドに横になりながらベロアはこちらに目を向け、あの不思議そうにした丸い目のまま俺に話しかける。
「どうしてそんなに可愛がってたのに、そのあとは殺しまくった?」
殺しまくったってすげえ響きだ。完全にヤバいやつだよそれ。俺は笑ってしまう。
ああでも、聞いてくるってことは、快楽殺人者のサイコパス像から少しだけ離れたんだな。その質問は彼に聞いて欲しかったような、欲しくなかったような。どちらとも付かない重たい感情が胸に沸き起こる。
俺は彼の傍の一人掛けのソファに腰をおろした。
「…詳しくってなると、ちょっと長いぜ」
「構わない。聞きたくなくなったら言う」
「そうしてくれ」
相変わらずどっしりと構えている彼は、生まれついての野良犬だとはやっぱり信じ難いほど頼りがいがあった。俺は一呼吸つくと話を始める。
「野良犬には子供を奪い取る文化があるって、さっきお前は言ったよな。俺たち富裕層…A5ランクの中でも一握りの、特に豊かな層にも文化があるんだよ。子供の誕生日プレゼントに犬を贈るっていう文化。子供が躾のなった犬を連れているってのが、ステータスなんだ」
高額の税金を納め、良い土地と暮らし、勉学に励める上質な学園とカリキュラム、そして、その子供専属の素晴らしく出来た犬を贈る。それが金に汚い地下ではマウントになる。
「お前はブラウンシュヴァイクなんて名前聞いてもピンと来ねえだろうが、俺はSの次に金持ちって言われてる家の一人息子なんだ。そんな子供が犬を持ってないなんて、富裕層からしたら恥ずかしいんだろうよ」
「変な文化だな」
彼の言葉に、俺は「全くだ」とソファに寄りかかりながら笑った。
「最初に犬が贈られてきたのは、俺が5歳になった誕生日だ。犬は俺より少し年上の少年だった。歌が上手くて、気さくで、俺はそいつを良い友達だと思っていっぱい遊んだ。大好きだったよ」
今思えば、彼は地上の人だったのかもしれない。綺麗な顔立ちをしていて、俺の住む世界を全く知らないから、本から出てきた妖精なんじゃないかって本気で思っていた。彼から聞く話の全てがまるでファンタジーのようで、どれも刺激的だった。
将来は歌手になりたいとおもちゃのマイクを握って離さなかった。ライブごっこは俺がいつも観客役をしていた。
「彼は俺と遊んだり、喋ったりするのが大好きだったから、俺の母親に喋らないよう注意をされても絶対にやめなかった」
「喋るから殺したのか?」
ベロアの質問に、俺は首を傾げながら手を広げた。質問の答えは急がなくてもすぐに出る。
「喋るのを止めない彼はある日、俺の父親に連れられてどこかへ消えた。数週間後に帰ってきたので喜んで出迎えたら、彼は酷く泣いていて、何も喋らなくなっていた」
ベロアは難しい顔のまま興味ありげに俺のことを見つめる。
同じ身分の犬が痛い目を見る話なんて、いざ聞いたらもっと嫌悪感を見せるんだろうと思っていたから、少し意外だった。
「俺は犬っていう奴隷が、犬らしくあることに意義を感じなかった。今もそうだ。だから当時の俺も、泣いてばかりで喋らなくなった彼に話しかけ続けた。そしたら、彼はペンと紙で教えてくれた」
ふうと俺は深い息を吐く。
「彼は声帯を取られたんだ。歌手になりたい夢も、大好きな歌も、喋ることも取り上げられた。だから、彼は紙に書いて俺に言ったんだ。もう生きていたくないって」
右手の親指と人差し指以外を折り、銃の形を作って俺は自分の頭に当てる。バンッと口で効果音を出しながら、俺は首を手と反対側に傾けた。
「理由をつけてせびった小遣いでリボルバーを買った。うんと強力な44マグナムだ。使い方を調べて、痛みもなく即死するって聞いたから彼の頭を撃った。反動で俺の肩は脱臼。大好きな友達は死んだ。撃った直後のことは何も思い出せないよ」
話の結末を聞いた彼は目を丸くする。何か言おうとしたのか口から息を吸うがその先の言葉は出てこずに、ため息混じりに視線を落とした。
「そんな感じ。他の犬の話も聞きたい?胸糞悪くなると思うけど」
俺はクククッと喉を鳴らすように笑う。本当に胸糞悪い話だ。それなのに、大体の犬のことは覚えてるんだ。
繰り返し繰り返し、何をやっても同じような結末ばかり。そして、それはベロアがいなくなったら再び繰り返されるんだろう。
「お前に話す気があるんなら聞く。依頼の役に…」
彼の言葉にかぶせるように扉をノックする音が響く。俺が声をかけると、扉の向こうから「処置室へ来て欲しい」との女性の声がした。
「おっと、思ってたより早かったな。じゃ、続きは寝物語にでもするか?悪夢しか見なさそうだけどな」
冗談まじりに言うと、彼は「別にいつでもいい」と呟いて、軽やかに起き上がった。
ベロアを連れて部屋を出ると、看護服に身を包んだ女性が待っていた。彼女に挨拶をし、別館の入り口まで3人一緒に処置室へと向かった。
「では、あとは私どもがやりますので、ヴィクトール様はお部屋で待機してくださいませ」
「分かった」
俺は口元だけで笑うと、ベロアへ視線を移す。
彼にはどんな手術をするのかだいぶ噛み砕いてではあったが説明した。どこまで理解したのかはわからない。途中で暴れたり抵抗したりしないか、正直だいぶ心配ではあった。
「爺さんぜってー上手くやるから、昼寝のつもりで行ってこい。ちゃんと暴れないで言うこと聞くんだぞ」
「俺は簡単にはやられない」
なんでコイツって未知の道具と対面すると臨戦態勢に入るんだろう。頼むから医療器具壊したりしないで欲しいと切に願う。
ベロアの手術が始まってからの1時間、俺はパソコンで子供たちを住まわせる部屋を物色していた。1Rでいいかと思っていたが、ベッドや家具の兼ね合いを考えたら結構狭い。狭いし、なんならベロアが泊まる日だってあるかもしれない。娯楽もないと人間、ダメになるだろうし…。
「手芸キットとかも買ってやりてえなあ」
あの少女の手先の器用さは本当に才能だろう。ああいう人材に、身分の関係でスキルアップさせないなんて勿体ない。原石を磨かずに、路地に放っておくから経済が滞るんだ。もっとスキルを持たせてやれば、犬だろうと輝ける場所があるだろう。
俺は唸りながら思考を巡らせる。結局、部屋は3DKのものを借りた。家賃が高ぇ。俺だって貯金したいが、どうにも凝り性だから妥協できなかった。
家具も一揃注文して、明後日には借りた部屋に直接届くよう手配した。運び込む作業は業者とベロアがなんとかしてくれるだろう。
ハチドリたちを散歩に出しながら、あれこれと計画を進めていると部屋にノック音が響く。ドアを開けたら、爺さんと看護師たちがストレッチャーに眠ったままのベロアを乗せて運んできていた。
「無事、終わりました」
垂れた瞳をより細くして、爺さんが穏やかに笑う。
「知ってる。爺さんが失敗するわけないだろ」
ベロアを彼のベッド脇までストレッチャーで運び込むと、男の看護師2人がかりで彼をベッドに移動させた。さすがプロと言わずにはいられない手際の良さで医療器具をベロアの身体に付けていくのを見守った。
「いやあ、麻酔を打ったらどういう訳か起き上がって「絶対に寝ない、こんな針に負けるか」とふらふらになりながら逃げ出そうとして…あれは焦りました」
「元気な飼い犬さんですね」と爺さんが和やかに笑う。ちょっと予想はしていたが、またやらかしたな。そう思いつつも俺も笑ってしまう。飽きない奴だ。
「麻酔はもう切れますが、眠気と疲れが残りますから、よく寝かせてあげてくださいませ。体内が正常に稼働するまで時間がかかりますので、明日の朝までは絶食絶水です。呼吸器の関係で口が乾きます。ヴィクトール様、彼の口をすすいだりしてあげて貰えますか?それとも、誰かここに残しましょうか?」
大体は前にあらかた聞いたことのある内容だ。爺さんの話に耳を傾け、俺は首を振った。
「大丈夫、面倒見るよ。点滴も俺が変えていいの?」
「本当は無免許でやっては世間体に響きますから、内緒にしてくださいませ。私めがお屋敷の敷居を二度と跨げなくなってしまいます」
ふふふ、と爺さんは小さく笑う。それでも俺が点滴と友達すぎて1人で勉強したことを良く知っている彼は止めたりしない。そもそも止める気があるなら、昨日だって針を置いて帰ったりしなかっただろう。
爺さんたちを見送り、俺はベロアのベッド脇のソファに座る。
そういえば、義眼も発注しないといけない。爺さんが一応、有り合わせの義眼を置いていってくれたらしいが、薄い灰色の瞳の義眼だ。本来の彼の、ルビーみたいな深い赤色の瞳には不釣り合いだろう。
眠っているベロアの顔を見つめる。ゆっくり見る機会がなかったので、まじまじと見つめると結構整った顔をしている。いや、右目が潰れててこれだけ整っているのだ。義眼を入れたら化けるだろう。
「…めっちゃ鼻筋通ってんじゃん、ずりーな」
彫刻のように筋が通った高い鼻先を俺は人差し指でちょんちょんとつつく。なんならまつ毛もバッサバサだし、中東系っぽい厚い唇もセクシーだ。いや、女性に使うセクシーではなくて、たまらなくカッコイイ男性に使う意味のセクシーってやつ。完全に身分で損してるだろ。
彼の瞼がピクリと動きゆっくりと開かれる。焦点の合わない目でぼんやりとこちらをみつめているように見える。
「お、起きた?」
めちゃめちゃ至近距離で観察していたので俺は身体を起こす。コイツ、俺のこと嫌いなのに悪いことしたな。
「大丈夫?具合悪くない?」
「寒い…」
恐らく麻酔で身体の機能が止まっていたから、極度に体温が下がっているんだろう。普段の姿から想像もつかないほどに弱々しい声で身体を震わせる彼を見て、俺は少し迷ってから彼の手を取って両手で温める。
「俺は死ぬのか?」
「死なねえよ。これからすぐ温まるから大丈夫だ。明日になりゃあ、今日より元気だ」
俺は握ったままのベロアの手をしばらくさすっていたが、片手を繋いだまま立ち上がって自分のベッドの毛布を引っ張る。それを彼の身体に掛けると、ぽんぽんと身体をさすってやった。
「眠いだろ、寝とけ。今日は腹も減るし、喉も乾くけど点滴だけだ。寝てた方が時間の流れが速くていいぜ」
手を握っていない方の手で彼の頭を撫でる。寒すぎるせいか、ベロアは俺の手が肌に触れると安心したようにうつらうつらと目を閉じた。
それから俺はずっとベロアの傍にいて、たまに起きているのか寝ているのか分からないような「喉乾いた」という呟きで水を口に入れてやった。毎回飲み込もうとするので、むりやり器に吐き出させるのには骨が折れた。
点滴を変える時間にアラームを掛けて、時間になったらそれを交換する。暇な時間は読書でもしようと思っていたのに、思っていた以上に忙しくて後半は俺もずっとベロアの腹に突っ伏して一緒に眠っていた。
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