マリンブルー リベンジ

アーケロン

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一 クジラの鳴き声

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 2気圧の空気を肺いっぱいに吸い込み、息を止める。さっき吐きだした空気の泡の音に混じって、ボートの微かなエンジン音が聞こえてくる。
 堪えるだけ息を堪えたが、船のエンジン音以外に何も聞こえてこなかった。息が苦しくなってきたので、肺の中の空気を水の中に一気に吐き出す。耳障りな音をたてて、レギュレターから排出された呼気が水面を目指して昇っていく。
 確かにクジラの鳴き声だった。湾の向こうには太平洋が広がっている。水平線の遥か彼方を泳ぐクジラの声が、この湾内に届いたとしても不思議ではない。それでも、ボートに戻ってクジラの鳴き声を聞いたといえば、あいつらはきっと笑うだろう。
 突然、目に眩い光が飛び込んできた。ゴーグルの向こうで、瑛太が水中ライトを回している。さぼるな、といっているのだろう。
 再び水中ライトで岩棚の下を探る。でかい伊勢海老が触覚を揺り動かしながら、こちらに警戒の目を向けている。あれ一匹で一万円はするだろう。東京に出荷すると、三倍くらいになる。
 針金を岩の隙間に差し込み、岩の奥に逃げないよう、曲げた先端を伊勢海老の背中に回す。素早く手前に引き、針金の先端を海老の甲羅に引っ掛ける。素早く岩の隙間から海老を引き出し、針金が外れる前に素早く甲羅を掴んで網かごに押し込んだ。今夜は大型の伊勢海老が五匹。それに、アワビとサザエも獲った。
 瑛太が寄ってきて、手に持った網かごを見せた。彼のかごの中にも大型の蝉海老が三匹と、伊勢海老が二匹が入っている。恭介が指先を水面に向けると、瑛太が手に持ったゲージを差し出してきた。まだボンベに七〇気圧ほど残っている。あと二〇分は潜れるが、浮上して海老をボートに揚げなくてはならない。早くかごから出して水槽に移さないと、海老の足が取れて商品価値を失ってしまうのだ。それに、今夜は大切な用がある。
 海面に浮かぶボートに向かってゆっくりと浮上していく。サメが出没する季節だ。人を襲うような外洋性のサメはこんな浅瀬にはやってこないが、警戒は怠らない。
 海面に出ると、ボートから将毅が手を伸ばしてきた。手に持った網かごを将毅に渡すと、船尾のラダーを登ってデッキに上がる。すぐにボンベを肩からおろし、腰に巻いているウエイトを外して身軽になった。
「御苦労」
 将毅が海水を張った水槽に網かごの中身をぶちまけた。三度の水揚げで、水槽の中は海老と貝で溢れていた。
「今夜は大漁だな」
「探せばまだまだいるぜ」
 恭介がファスナーを開いてウエットスーツを脱いだ。濡れた肌を潮風に撫でられ、思わず身震いする。
「いや、今夜はもういい。生簀もいっぱいになっているしな。次に置いておこう」
 将毅はペンションとダイビングショップを経営しているオーナーの息子で、夜間黙って店のボートを持ち出しては、恭介と瑛太と三人で秘密の内職に励んでいる。
 大きく息をつきながら、瑛太がデッキに上がってきた。
「聞いたか? 恭介」
「何を?」
「クジラの鳴き声だよ」
 瑛太のつぶらな瞳が、切なげに訴えてくる。この愛嬌のある目のおかげで、瑛太は今でも時々高校生に間違われることがある。
「クジラなんているわけないだろ」
 瑛太の網かごから海老を出しながら将毅が言った。
「本当に聞こえたんだよ。なあ、恭介」
「気のせいだろ」
 恭介は笑いながら瑛太の肩を叩くと、将毅の上着のポケットに手を突っ込み、タバコの箱を取り出した。
「仲買の連中はいつ来るんだ?」
 銜えたタバコに火をつけると、ライターを将毅に放り投げた。彼の横で、瑛太がクーラーボックスから取り出した缶ビールのプルトップを引いて口をつけた。
「明後日」
「いくらぐらいになるかな」
 瑛太が唇についたビールの泡を右手で拭いながら、水槽を覗きこんでいる。
「生簀の中のものが全部売れれば、ひとり十万はあるだろうな」
「十万か」
 恭介は満天の夜空に向かって煙を噴き上げた。目標額にはまだまだ遠い。
 三人でビールを飲んでタバコをふかし、他愛の無い話で盛り上がった。中学で知り合って以来十年の付き合いになるが、三人の会話に進歩はない。中学の時はいつも喧嘩の話で盛り上がっていた。何組の誰かがどこかの中学の不良をぶちのめしたとか、コンビニにたむろしていた暴走族を袋にしたとか、真偽も確かでないどこの誰のものかもわからない武勇伝に夢中になっていた。とにかく、ムカつく不良や先輩たちに囲まれていたので喧嘩相手にも不自由せず、海と温泉しかない退屈な田舎の学校に通っていたにしては、エキサイティングな中学生活を送ることができたと思っている。
 高校に上がると、話題は女とバイクが中心になった。学校に黙ってバイクの免許を取り、いつ壊れてもおかしくない中古のボロバイクを買って、仲間たちと田舎の道を走り回った。夏になると毎日浜に出て、都会からやってきた若い女に片っ端から声をかけて回った。
「阪下とうまくいってんのか?」
 四本目の缶ビールを開け、恭介が将毅に訊いた。阪下美優は高校の同級生で、ソフトボール部のキャプテンを務めた気の強い女だ。高校卒業前に、美優と付き合うことになったと将毅から聞かされた時、三月は持たないだろうと瑛太と二人でよくからかったが、今年で五年になる。
「今更、うまくいってるかどうかなんて問題じゃないだろ」
「ここまでくれば次期女将決定だな」
 瑛太が空になったタバコの箱を握りつぶした。
「お前こそ、俺の妹とうまくやってるのか?」
 将毅が恭介を見た。彼の目から一瞬、微笑みが消えた。
「俺の女じゃない」
「当たり前だ。お前はまだ俺の試験に合格していない」
「試験って?」瑛太が訊く。
「まともな仕事に着くってことさ」
「恭介にインストラクターを辞めろって言ってんのか?」
 瑛太が新しい箱を開け、二本目のタバコに火をつけた。風に乗ってくる煙が目に沁みた。
「いつまで俺に使われる気なんだ?」
「一生ついていく気だよ、社長さん」
「お前は俺の下で燻っているような男じゃない」
「別に燻っているわけじゃない。今の生活に十分満足しているのさ」
 正直な言葉だった。将毅に勧められるままスキューバーダイビングを始めたのは、高校に入った年だった。将毅にしてみれば、一緒に潜る気の知れた友人が欲しかっただけだったのだろう。機材は将毅がただで貸してくれた。そして高校を出ると同時にインストラクターの資格を取った。将毅の店でダイビングのインストラクターとして働きながら、仲間たちと過ごす気ままな生活を大切にしている。
「いいじゃねえか。この先も三人で面白おかしくやっていこうぜ」瑛太が将毅の肩を叩いている。
「それと、片っ端から女を抱くな」瑛太を無視して将毅が言った。
「お前がそれを言うか」
 美優と付き合っていても、将毅は女をとっかえひっかえだった。今にして思えば、遊びたい盛りの恭介と瑛太に、将毅が付き合っているだけなのかもしれない。
「今日からペンションに泊まっている女たちも美味そうだったな」
「やめとけよ、早紀子が悲しむ」
 将毅がタバコの吸い殻を海に放り投げた。妹の早紀子が恭介のことを好きだと知ってから、将毅の恭介への監視が厳しくなった。妹の本心を知ったこの兄貴が、何とかその思いを成就させてやろうと気を回しているのがわかる。どうやって知ったのかは知らない。早紀子は日記をつけている。こっそり読んだのかもしれない。だとすれば、とんだシスコン野郎だ。
「もう俺たちも落ち着く頃だ。俺も落ち着くから、お前もそうしろ」
「なんだ、やっと阪下と一緒になる気になったのか?」
「真面目に生活をしてりゃ、収まるところに収まるってもんだ」
「早紀子ちゃん、嫁入りにはまだ早いぞ」瑛太がひとりで笑っている。こいつは缶ビール一本でご機嫌になる。
 将毅が運転席に座ってボートのエンジンを始動させた。すっかり闇に包まれた凪いだ海面を、滑るようにボートが走る。水平線上に、集魚灯を灯した漁船がずらりと並んでいる。潮風にさらされ、髪がすっかり乾いてしまった。瑛太は水槽を覗きこんで、今夜の収穫を満足そうに眺めていた。
 港の傍で将毅がスロットルを絞ってボートを減速させた。船着き場に並んだ街灯が、周囲を明るく照らし出している。さらに速度を落として舵を切り、コンクリートの岸壁にボートの横っぱらを寄せていく。
 岸壁の杭にくくりつけてある車のタイヤに接触するかしないかのところで、将毅は船体を停止させた。相変わらず器用な男だ。いつ見ても、その腕前には感心してしまう。
 ボートの縁と岸壁との間に板を渡すと、恭介は二人分のスキューバーの機材を抱えてボートから降りた。スキューバーの機材を運んできたハイエースワゴンの傍に、機材を降ろす。ハッチを開けようとしたとき、車の陰から誰かが飛び出してきた。
 白いカーディガンを着た若い女が、長い髪を風に揺らしながら軽快な足取りでボートへ走っていく。
「早紀子!」
 恭介が後ろから声をかけたが、早紀子は立ち止まらずにまっすぐボートに向かっていく。恭介は機材をその場に残し、彼女のあとを追いかけた。
「ちょっと待てよ」
 恭介が早紀子の肩に手をかけたが、それを振り払うと、恭介を振り切るように一直線にボートに向かって走っていった。
 ボートに残っていた二人が早紀子の姿に気づいた。将毅がボートに渡してある板の前に慌てて立ち塞がった。
「ちょっと待て、早紀子」
 行く手を塞ぐ兄の身体を構わずに押しのけると、早紀子は板を踏み込んでボートに飛び乗った。
「ご免、早紀子ちゃん! 俺、ちょっとリラックスしちまってたから」
 いつの間にウェットスーツを脱ぎ棄てたのか、股間を両手で隠しながら瑛太が全裸で立ち上がった。早紀子が悲鳴をあげて瑛太に背を向けた。
「だから言っただろう」
 将毅が笑っている。
「お前、まだ本物を見たことないだろう。こいつのを見せて貰えよ」
「本当かい? どうせなら、大きくしてあげようか」
「最低」
 不機嫌そうに顔を顰めた早紀子が、足早にボートを降りてきた。そして、恭介と目を合わせようともせずに脇をすり抜けて、車の方に戻っていった。
 ナイスジョブ。
 ボートに戻った恭介が微笑んで瑛太に親指を立ててみせると、股間から手を離して瑛太がガッツポーズをとった。
「まさか、早紀子ちゃんが臨検に乗り込んでくるとはね」
 腰にバスタオルを巻きながら、瑛太が言った。
「あいつ、薄々気づいてるんだよ。この前、じいさんから借りている生簀を覗かれちまったし」
「そうか」恭介がため息をついた。「そろそろ潮時だな」
「いい稼ぎになるんだけどなあ」瑛太がそっと水槽の中を覗きこむ。
 恭介はデッキに置いてあったボンベを二本肩に担いでボートを降りた。車内を覗いたが、早紀子の姿はなかった。ハッチを開けて地面に置いてあった機材を荷台に載せ、最後に空のボンベを積み込んだ。顔をあげると、傍の自動販売機の陰から早紀子がこちらを覗き見ているのに気づいた。
「永原さん、服、着た?」
「腰にタオルを巻いているから大丈夫だよ。不愉快なものは見なくて済む」
 近寄ってきた早紀子が、拗ねた目を向けてくる。
「夜、海に入ると危ないよ。この季節、サメが出るんだから」
「湾内までは入ってこないよ」
「それに、ボートでお酒飲んだでしょ。お酒臭いよ」
 早紀子に睨まれ、恭介が苦く笑った。
「泥棒してたんでしょ?」
 早紀子が恭介に厳しい目を向けてくる。
「月が綺麗だったから、海に潜ろうってことになったんだ」
「何、それ」
「車を買ったら、お前を最初に乗せてやるよ」
「だから見逃せっていうの?」
 恭介は笑って誤魔化すと、助手席のドアを開けた。
「乗れよ」
「私を早くここから連れ出したいんでしょ? ボートの中のものを生簀まで運ばないといけないから」
 そういってボートから目を離さない。
「お願いだから、黙って車に乗ってください!」
 そういって頭を下げる恭介を見て、早紀子がようやく、くすっと笑った。助手席に早紀子を乗せると、エンジンをかけて車を船着場から出した。港には瑛太の軽トラックも置いてある。この隙に獲物を生簀に運んでくれるだろう。
「ここまで歩いてきたのか?」
「そうよ、お店からすぐだもん。風も気持ち良かったし」
「暗くなったら一人歩きはやめろと言っているだろ。この辺りは日が暮れると人通りがパタリとなくなるんだ。連れ攫われても誰も助けてくれないぞ」
「攫われたら、探してくれる?」
「お前は男の本当の怖さってのを知らないんだな」
 この辺りも夜になると物騒になる。地元には仕事もなく、憂さを晴らす店も少なく夜が早い。暗くなると多くの若者が暇を持て余す。人間、暇になると碌でもないことを考えるようになるのだ。
「美優さんが店で待ってるよ」
 走り出した車の中で、早紀子が指を組んだ手を前に伸ばした。
「怒ってなかったか?」
 約束の時間より、かなり遅くなってしまった。
「がっぽり稼いで帰ってくるはずだから、今度奢ってもらうって言ってたわ」
「どいつもこいつも、他人を泥棒扱いしやがる」
「だって、泥棒だもん」
 そういって早紀子が口を尖らせたまま漆黒の海を見た。視線を遠くに向ける物憂げな早紀子を見て、胸が少しざわついた。
「お前、最近また綺麗になったよな」
 何気なく言葉が口をついた。正直な言葉だった。早紀子が驚いた表情で恭介を見た。
「そんなこと言ったって、誤魔化されないもん」そう言って、慌てて正面を向く。
「本心から言ったんだよ」
「ふん」
 早紀子が戸惑った表情で口を尖らせた。そんな子供っぽい仕草は、昔から変わっていない。三つ下の早紀子は、先月二十一歳になったばかりだ。将毅と知り合い彼の家で遊ぶようになった頃、まだ小学生だった早紀子は恭介を見ると恥ずかしそうに自分の部屋に引っ込んだ。一緒にトランプをやろうといって早紀子を誘ったのは、将毅の家に通うようになって二月ほど経ってからだった。
 船着場からダイビングショップまで、車だと五分もかからない。「八代ダイビングショップ」の看板にはまだ明かりが灯っていた。将毅と早紀子の父親はペンションの経営者だが、ペンションの別棟で息子にマリンスポーツサービスを任せている。
 ショップの駐車場に車を入れた。四輪駆動車が一台停まっている。阪下美優の車だ。店のドアが開き、中から美優が姿を現した。
「遅い!」
 車から降りてくる恭介を、美優が腕を組んで睨んだ。そろそろ夜は涼しくなる時期だったが、半袖のTシャツに短パンの夏の装いだった。
「文句は次期社長に言ってくれ」
 車から降りて後ろに回り、ハッチを開ける。二人分のダイビングギアを抱えると、真水の張った水槽の中に放り込んだ。中でギアを手早く洗い、塩気を抜いた機材を水槽から出すと、ホースで流水にさらした後、壁のフックに吊るした。スタッフはダイビング終了後、自分がシャワーを浴びる前に機材を洗わなければならない。それがこの店のルールだ。
「手が空いているなら手伝えよ」
 車のハッチから空になったタンクをおろしていると、美優が寄ってきた。
「どう、大漁だった?」
 美優が車内を覗きこむ。店の看板を店内に運んでいた早紀子が、恭介を見て眉根を寄せた。

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