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9、婚約の危機

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「なによ、なによなによ。私だって、こんなつもり」

部屋の隅でぶつぶつと膝を抱えながら呟く伊織に最早艶は見られなかった。大切に手入れしていた爪もガリガリと噛んでボロボロになっている。

「姉様…しっかりしてください。母様はああ言いましたが本当は姉様をずっと心配してたのですよ。だからちゃんと謝りましょう」
「うるさい!」
「っ、姉様……」

本気で睨みつけられて怯んだ僕の肩に後ろから手を置かれる。振り返るとそこには静かに冷徹な顔をした父が立っていた。

「何をしている」
「お父様! 伊織は騙されたのです! もう出てったりしませんわ!」
「そんなことはどうでもいい。何故祈里に八つ当たりしているんだ。お前の事を心配しているのに」
「だ、だって」
「だっても何もあるか。いつもお前の尻拭いをさせられている祈里に申し訳ないと思わないのか。お前の我儘に振り回されて苦労を掛けて…私達がいくら怒っても許してくれる祈里になんて口の利き方だ」

あまり多くを語らない父が捲し立てる。伊織もいつもと違う父の様子に顔を青ざめた。

「な……によ!なによ!お父様もお母様も祈里ばっかり!私の事なんてちっとも気にしないじゃない!」
「お前のことも同じくらい目にかけてきた。縁談もできる限りお前の意思に沿うようにしたはずだ。これ以上どうしろと?使用人と出ていき、苦労するのが目に見えていたはずの馬鹿なお前を受け入れろと?」
「っ、だ、だって」
「泣いたってどうにもならん。もう私達は何も言わんし何も望まん。勝手にしろ。お前の縁談は祈里が引き継いだし、この本家の跡継ぎも、分家からの養子が来る。お前の居場所はない」

そう言われ、一瞬絶望の眼差しを父に向けていた。伊織の手が震え、しかしそれでも気の強い姉は手を握りしめてもう一度父に口を開いた。

「では!私が、私がもう一度皇と婚約します!」
「え?」
「良いでしょう?祈里!許してくれるのよね?優しい祈里は!」
「何を馬鹿なことを。お前は祈里を馬鹿にしてるのか。皇家のことも馬鹿にしているのが分からんのか」

二度も婚約者をすげ替えて皇家が納得するとでも、と父は伊織を暗い瞳で見下ろす。けれど伊織は負けずに続けた。最後のチャンスと思っているのだろう。

「まだ番になってないじゃない!それに、男Ωより女Ωの私の方が先方だって嬉しいでしょう!」
「で、でも姉様…」
「祈里も!別に誰でもいいんでしょ! 霜永家の為だもの。お前は昔から良い子だったから、霜永家の為なら私に立場を変えられるでしょう!しかもお前、愛されてないじゃない!」
「え……?」
「は?お前は何を言ってるんだ。分からんのかこのαの執着のマーキングが」

愛されてない? 一瞬意味が分からなくて混乱する頭の中で何度も伊織の言葉を反芻する。

「そんなの、好きじゃなくたっていくらでも出せるわよ。私には分かる。祈里が抱かれてないのも、欲情されてないのもね」
「欲情…で、でも僕」
「Ωのフェロモンを嗅いでセックスしなかったなんて、ありえない。お前じゃダメなのよ。そんなんで皇家の跡取りなんか産めるわけないじゃない」
「伊織!お前と言うやつは……!本当にどこまでも腐って!」

この間の発情期の出来事を思い返した。
慧さんは僕の欲を何度も散らせてくれたけれど、三日間僕に対して欲情してる様子はなかったと思う。しかし朧気ながら覚えている彼の目は愛おしいものを見る目だったはず。けど…もし、それが。

「犬か猫だとでも思われてるんでしょ。どうせ」

愛玩動物のそれなら。

「お前……!祈里になんの恨みがあるんだ!祈里、そんなことは無い。慧さんは」
「うるさい!うるさいうるさい!お母様もお父様も祈里ばっかり良い思いさせて!コイツを甘やかして!なんで私ばっかり怒られるの!」
「うるさいのはお前だ伊織!不満があるなら出て行け!」
「嫌よ!何処も行く場所なんてない!ここに居場所がないなら祈里から取らなくちゃ……!」

伊織が父とまだ言い争っていたけれど、僕の耳には上手く入っていかなかった。
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