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そもそもの始まり
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スパンと小気味のいい音が球団トラーズの二軍練習場に響く。
どうでも良い少し昔の話だ。最高149キロのストレート、ストレートと約40キロ近い差が出るカーブ。スプリットとフォークの中間のような落ちる球。キレのあるスライダー。それらを武器に活躍するだろう、と思われていた若手の投手がいた。
その選手の名は伊藤 純。高校からドラフト5位で入団した経歴の持ち主である。しかし彼は未だに一軍としてマウンドに立てていない。こうして彼は二軍で燻り続けていた。気づけば6年近く時は経っており彼は24歳になった。
このまま終わるわけにはいかない、そう強く思った。うだつが上がらないままでは夢を叶えるどころか食っていくこともできない。
そんな状況を打破しようと彼は肉体改造に取り組んだ。栄養学やスポーツ医学を学び、藁にもすがる思いで他にも資格を取ってみたこともあった。しかし彼はまだ一軍にはなれない。現実は非情だ。彼はまた一軍に昇格することは叶わなかった。
まだだ、まだ諦めるわけにはいかない。それだけは決して出来ない、やってはいけない。この道を選んだからには成し遂げなければいけない。その意思は強かった。
彼は様々な伝手を利用して一軍の選手と友達になり変化球や制球のコツを聞き回った。選手にもコーチにもなにかといいようにこき使われたが収穫は確かにあった。
どんなに少しだっていい、強くなる為にはどうしたらいい。
その想いを胸に、ただひたすらに貪欲だったその甲斐もあり彼は技術的に向上していく。しかしとあることがネックとなり一軍には採用されなかった。その一つの欠点。それは彼の基礎体力が低さだ。つまりスタミナがあまりにもなかった。それは幼少期の食わず嫌いや生活習慣の乱れに由来するものであった。
そんな彼の体は全力で3イニング投げるのが限界になってしまっていた。肉体改造に取り組んでなお、それが限界だった。それ以上は体を痛めたり制球が乱れてしまうし、加えて体が回復するのも遅かった。
しかし、まだ諦めるわけにはいかなかった。まぁ、他の道が無かったというのもあるが、彼は今年こそはといつも以上に熱心に練習に取り組んでいた。キチンと休み、いつも以上に努力した。
当然、その体質から練習時間を多く取ることはできない。効率と知識に救いを求めるようになったのは必然と言えるかもしれない。彼はスポーツ医学を学び、様々な知り合いに頼み込む形で協力を得て完成した汎用的だが効率的な練習メニューを行いはじめた。一般の選手達ならばそのスケジュールで練習したとしても問題なかったのだろう。
しかし、彼の体にとってそれは十分なオーバーワークであった。そして気づかぬままオーバーワークを続けた彼の肘は悲鳴を上げ始めた。だがそれに気づくことはついぞなかったのだ。
最初は小さな違和感だった。違和感に気づいた彼は練習を中止し水分を補給する。そこで少し休んでいたところその違和感はすぐに消え去った。
脱水症状かな、熱中症には気をつけないとな。そう軽く考えた。そういう不調が体からのサインだと学んでいたはずなのに。
ここでこの違和感をしっかりと確認していれば彼はまだ選手として生きられたかもしれないがそれは結果論だ。
体は全回復には程遠い状態でいつ壊れてもおかしくない状態であったというのに誰もそのことには気づけなかった。そしてとうとうその瞬間はやってきた。
いつも通りの練習のある日。準備運動を念入りにこなした彼はいつもより体が軽い状態でピッチングの練習を始めた。
今日は体が軽いな。調子いいじゃん。なんて上機嫌だったろうな。そんなことがあるはずもないとわかっていただろうに。
そうして何球か投げていた。そしてその中のなんの変哲も無い一投、その一投の際に彼の肘から異変が起きた。
なにかが切れた音がし、ボールは弱々しくあらぬ方向へ飛んでいった。
咄嗟に左手のグローブを地面に叩きつけるように脱ぎ捨て右手を抱えた。
何が起こったがわからなかったが何かが壊れたことは理解できた。突如、感じたことのない痛みが襲ったのだから、何が起きたのか分かりたくはないが本能的にわかってしまった。
これで終わりなんだ、と。何が終わったのかと言われれば全てというべきだろう。積み上げてきた20数年はそこで終止符を打つことになった。
ある意味で死だ。1人の野球選手が死んだ。自分で自分を殺した。それがたとえ不慮の事故といえるようなものであったとしても。そのショックは大きかった。しばらくの間、自殺なんて考えが浮かびもしないくらいに。
肘に感じる痛みよりも胸が苦しかった。今まで積み上げてきたものが一瞬で壊れ、消えた。それに心が耐えれなかった。信じたくない、嘘や夢の類であってほしい、そう願った。
彼は肘を抱えて両膝をついた。彼は涙を流していた。周りがざわめき出す。肘を抱えうずくまる彼を見て直ちにチームメンバーがドクターを呼んだ。
「おい!伊藤!大丈夫か!」
心配な顔をして駆け寄るドクター。友達である彼に心配させまいと純は笑って言葉を返そうとした。何より、肘の故障を信じたくなかった。普通なら起きるはずのない場面での負傷。
「大……丈夫です……」
笑えるわけがなかった。肘からくる違和感が事実を明白に伝える。大丈夫じゃないことは1番自分でわかっていた。大丈夫だ、と言ったのは無意識なものだ。願望だった。
心の整理がつかなかった。人生の半分以上を捧げてきたものが急に崩れること、それをすぐに受け入れられるわけがない。
「何言ってんだ大丈夫じゃないだろう!誰か、病院に連れて行け!」
「お、俺は……ぁ……」
彼は病院に連れ込まれた。彼はその後のことをショックで覚えていない。覚えているのは医者が伝えづらそうに宣告した言葉だ。
『もう、投手として活躍するのは難しいでしょう。あなたがどうしてもというのであれば止めることは出来ませんが私はお勧めしません。肘だけじゃなくて他の場所も限界が近いですよ』
その言葉は彼の心を折るに十分なものだった。その直後、球団関係者の電話を偶然聞いた。
『リハビリをしても復帰は難しいでしょう。本当に残念なことですが、はい……体さえ丈夫だったらリリーフエースにもなれたでしょうに。えぇ、本当に大きな損失ですよ』
その言葉がトドメになった。
結局のところ最後まで自分は間違え続けたのだ。
心が完璧に折れた、そんな気がした。
それから20年の時が経った。悲劇に酔い、腐っていたままでは生きてはいけないから、こうやって仕事をしている。
幸運にも二軍の時に取った知識と資格、そして野球への執着が食い扶持に繋がった。自分の夢は潰えたがどうにかして野球に関わりたい、と続けた裏方の仕事……果たしてこれで良かったのか。
自分と同じ失敗を他の奴にはさせるものか。その思いはどこから湧いてきたものだったか。今では薄ぼんやりとしていて思い出せそうにもない。
この信念のもと数多くの投手を怪我から救ったと思っているし、チーム内のピッチャーで知らない人は多分いないだろう。そう自負するだけのことはやってきたはずなのに、この空虚な気持ちは満たされない。気持ちは未だにマウンドの上に向いている。
怪我の予防知識は勿論のこと、選手ごとに細かく調整した練習メニューを組むことが出来たり、応急処置の腕も持ち合わせており、何か困ったことがあれば親身に相談に乗ってくれる裏方として有名であった。
しかし彼にはタブーが一つだけある。何を聞いても大体彼は答えてくれるが、夢についての話になると彼はその場からいつも逃げ出す。だから彼に夢を語るのも彼の夢について聞いてもいけないという面倒な暗黙のルールが出来上がった。
いつも通り若手を見ている時、彼は悩んでいた。否、いつも悩んでいた。悩まない時なんてなかった。
本当に自分はこの道を選んで満足しているのか?と。
スパンと小気味のいい音がなる。投げているのはもちろん彼ではない。彼は投げる人物の隣に立って指導をする立場なのだから。皮肉にも選手としては花開かなかったが指導する者としての才能は開花したらしい。
「どうですか?コーチ」
若手の選手が軽く額をぬぐいながら彼に話しかける。彼は壮年になり白髪が目立つようになっていたが彼の目は衰えてはいない。
「少し力みすぎだと思うな。腕からもう少し力を抜いてもっと重心移動を使うイメージでな。あとまだコーチじゃない」
「でも話は来てるんでしょう?」
「無駄口叩かない、お前のチェンジアップは格別なんだからストレートしっかり磨けよ。ほら」
「ありがとうございます」
選手が再びボールを投げた。心なしかノビが良い球がキャッチャーのミットに収まる。再び選手がボールを投げミットから音が鳴る。
こうやって選手の成長を感じられるだけでもういいじゃないか。そう誤魔化すのはもう何度目だろうか。
本当の想いなど忘れてしまわなければいつまでたっても自分の諦めきれない夢に苦しまされるとわかってはいるが、それができれば苦労しないというものだ。
私の夢は彼らが継いでくれた、だからもういいんじゃないか? そんな言葉で自分を誤魔化す。何度も何度も言い聞かせる。
そうやってここ数年、何度も同じように自分を誤魔化そうとしてきた。しかし考えるたびに心が疼く。本当は違うと叫ぶのだ。私は指導者になりたかったわけじゃない、と。
だから決定的に自分の中で何かが変わってしまうのを恐れて意味もなく決断を先延ばしにしている。
真剣に汗水流しながらボールを投げる選手達を応援している。それは本心だ。しかし、心のどこかで嫉妬してもいる。これも事実。本当は自分がそのマウンドに立っていたかった。もし過去に戻れたら、もしやり直せることができるのなら。今日もそんな無意味なことを考える。
何度願ったって叶いやしない、そんなことはわかっている。そうわかっていても願わずにはいられなかった。自分を偽り騙し続けていた。いつのまにか表情は能面のごとく変わりにくくなっていた。
「じゃあ私はこれで上がるよ。そうだな、後10球くらい投げたら練習をやめてアイシングするように。試合も近いんだから頑張り過ぎるなよ」
「了解です、コーチ」
何を思っていても顔には出ない。嬉しくたって悲しくたってムカついたって顔には出ない。口にも出さない。後輩の邪魔なんてしない、それだけは絶対にしない。
彼らという存在は眩しすぎる。スターと呼ばれる存在のなんと羨ましいことか。
彼は練習場から出てすぐの場所に止められているワゴン車に乗り込む。キーを差し込み回すとエンジン音が鳴り始めた。ライトを点けて、ゆっくりとアクセルを踏む。道に出るために右ウインカーを点灯させ、車の通りが少なくなったところで道に出た。
何度も通い慣れた道をワゴンで進む。赤信号で止まり青に変わったらアクセルを踏むとゆっくりと車は加速し始める。彼はずっとボヤっとしていた。走っていたのは覚えているがいつのまにか家に着いたような感覚を覚えた。駐車場に着いたときにハッとする。
誰かを轢いてはいないかと不安になりワゴン車に凹みが無いか確認する。
こんなことをここ数日繰り返している。気分は最悪だった。いつものように玄関の鍵を開け靴を脱ぎ、家の中に入っていく。
小さい頃もこんな感じだったな。そんな意味もない懐かしいことを思い出す。
家には誰もいない。彼は独身だ。リビングから誰かの声や生活音など聞こえるはずはない。しかし今日は違った。
独身生活が長すぎて気が狂ってしまったのだろうか。彼の耳には生活音が聞こえるような気がした。なぜか感じ始めた焦燥感を抑えきれずリビングに駆け込む。
「ただいま!」
小さいあの頃に戻ったのではないかとバカな考えをしたのだ。
もちろん、そこには誰もいない。ただのシンプルな部屋があるだけだ。
ゴミは散らかっておらず余分なものはほとんどない。綺麗といえば聞こえがいいが、単に物がないのだ。
それこそ生活感を全く感じさせないほどに殺風景だった。
「はぁ……くそっ」
彼は悪態をつきながら持っていたカバンをソファーの上に投げる。妙に酒が飲みたい気分だった。もう酔って夢も仕事も全部忘れてしまいたい……そう思った。
使いもしないワインセラーに飾ってある年代もわからないワインを開ける。いつもらったのかもわからない贈答品だ。どうせ安物だろうと普段あまり飲まない酒をしこたま飲んだ。現実から目を背けるように、どうせなら記憶が飛ぶくらいに飲もうと思った。
「どーせ、だれも、おれをなげさせてもらえないもんな!」
酔いが回って支離滅裂な発言をしながらも偶々置いてあったリンゴを壁に向かって無駄に綺麗なフォームで投げた。リンゴは壁にあたり足元へ転がってくる。
「あー!もう!やりなおしたい!」
千鳥足でグラスを取ろうと一歩踏み出すと先ほど投げたリンゴが足元に転がってきており、それを踏んだ彼の視界は傾いていく。後頭部から鈍い音がなり肺から空気が吐き出されると、彼の視界は暗転した。
そしてしばらく時間が経った頃だろうか。彼に意識が戻った。理由は単純にして明快。
「痛っ……」
頭の鈍い痛み。その頭の痛さで意識が覚醒したのだが視界はぼやけたままだ。いよいよ本格的に老眼かと思いショックを受けた。しばらくじっとしていると視界に段々と光が戻ってくる。涙でぼやけたみたいになった視界は最近どうにも老眼気味だったのにも関わらず妙にはっきり見える。
「喉が渇いた……」
いつのまにかベッドで寝ていたようで掛けられていた布団をどかしつつベットから降りる……がバタっと音を立てて彼は地面に這い蹲ることになった。足でも滑らせたのだろうか?と思ったがどうにも目眩と吐き気を催す。
どうやら三半規管が狂っているらしい。
『あーまだ酔いが回ってるな……目眩も吐き気もやばい』
彼はふらつく体を壁に手を当てて支えつつ歩いていく。リビングに続くであろう扉が開いていたのでそのまま進むと見慣れた鏡が見えた。鏡を覗き込むと中にいる人物の瞳が大きく見開かれる。
「なんだ、これ……」
鏡に映っていたのは小さい時の自分だった。声も風邪をひいたかのようにガラガラではあるが声変わり前の自分の声だ。どういうことか現状がわからなくなり思考が止まる。周りを見渡すと幼少期の頃のわずかな記憶から実家であることを確認した。
『帰ってきたのか』
そうして気が緩んだその瞬間、彼の身体から力は抜けて視界は暗転した。
どうでも良い少し昔の話だ。最高149キロのストレート、ストレートと約40キロ近い差が出るカーブ。スプリットとフォークの中間のような落ちる球。キレのあるスライダー。それらを武器に活躍するだろう、と思われていた若手の投手がいた。
その選手の名は伊藤 純。高校からドラフト5位で入団した経歴の持ち主である。しかし彼は未だに一軍としてマウンドに立てていない。こうして彼は二軍で燻り続けていた。気づけば6年近く時は経っており彼は24歳になった。
このまま終わるわけにはいかない、そう強く思った。うだつが上がらないままでは夢を叶えるどころか食っていくこともできない。
そんな状況を打破しようと彼は肉体改造に取り組んだ。栄養学やスポーツ医学を学び、藁にもすがる思いで他にも資格を取ってみたこともあった。しかし彼はまだ一軍にはなれない。現実は非情だ。彼はまた一軍に昇格することは叶わなかった。
まだだ、まだ諦めるわけにはいかない。それだけは決して出来ない、やってはいけない。この道を選んだからには成し遂げなければいけない。その意思は強かった。
彼は様々な伝手を利用して一軍の選手と友達になり変化球や制球のコツを聞き回った。選手にもコーチにもなにかといいようにこき使われたが収穫は確かにあった。
どんなに少しだっていい、強くなる為にはどうしたらいい。
その想いを胸に、ただひたすらに貪欲だったその甲斐もあり彼は技術的に向上していく。しかしとあることがネックとなり一軍には採用されなかった。その一つの欠点。それは彼の基礎体力が低さだ。つまりスタミナがあまりにもなかった。それは幼少期の食わず嫌いや生活習慣の乱れに由来するものであった。
そんな彼の体は全力で3イニング投げるのが限界になってしまっていた。肉体改造に取り組んでなお、それが限界だった。それ以上は体を痛めたり制球が乱れてしまうし、加えて体が回復するのも遅かった。
しかし、まだ諦めるわけにはいかなかった。まぁ、他の道が無かったというのもあるが、彼は今年こそはといつも以上に熱心に練習に取り組んでいた。キチンと休み、いつも以上に努力した。
当然、その体質から練習時間を多く取ることはできない。効率と知識に救いを求めるようになったのは必然と言えるかもしれない。彼はスポーツ医学を学び、様々な知り合いに頼み込む形で協力を得て完成した汎用的だが効率的な練習メニューを行いはじめた。一般の選手達ならばそのスケジュールで練習したとしても問題なかったのだろう。
しかし、彼の体にとってそれは十分なオーバーワークであった。そして気づかぬままオーバーワークを続けた彼の肘は悲鳴を上げ始めた。だがそれに気づくことはついぞなかったのだ。
最初は小さな違和感だった。違和感に気づいた彼は練習を中止し水分を補給する。そこで少し休んでいたところその違和感はすぐに消え去った。
脱水症状かな、熱中症には気をつけないとな。そう軽く考えた。そういう不調が体からのサインだと学んでいたはずなのに。
ここでこの違和感をしっかりと確認していれば彼はまだ選手として生きられたかもしれないがそれは結果論だ。
体は全回復には程遠い状態でいつ壊れてもおかしくない状態であったというのに誰もそのことには気づけなかった。そしてとうとうその瞬間はやってきた。
いつも通りの練習のある日。準備運動を念入りにこなした彼はいつもより体が軽い状態でピッチングの練習を始めた。
今日は体が軽いな。調子いいじゃん。なんて上機嫌だったろうな。そんなことがあるはずもないとわかっていただろうに。
そうして何球か投げていた。そしてその中のなんの変哲も無い一投、その一投の際に彼の肘から異変が起きた。
なにかが切れた音がし、ボールは弱々しくあらぬ方向へ飛んでいった。
咄嗟に左手のグローブを地面に叩きつけるように脱ぎ捨て右手を抱えた。
何が起こったがわからなかったが何かが壊れたことは理解できた。突如、感じたことのない痛みが襲ったのだから、何が起きたのか分かりたくはないが本能的にわかってしまった。
これで終わりなんだ、と。何が終わったのかと言われれば全てというべきだろう。積み上げてきた20数年はそこで終止符を打つことになった。
ある意味で死だ。1人の野球選手が死んだ。自分で自分を殺した。それがたとえ不慮の事故といえるようなものであったとしても。そのショックは大きかった。しばらくの間、自殺なんて考えが浮かびもしないくらいに。
肘に感じる痛みよりも胸が苦しかった。今まで積み上げてきたものが一瞬で壊れ、消えた。それに心が耐えれなかった。信じたくない、嘘や夢の類であってほしい、そう願った。
彼は肘を抱えて両膝をついた。彼は涙を流していた。周りがざわめき出す。肘を抱えうずくまる彼を見て直ちにチームメンバーがドクターを呼んだ。
「おい!伊藤!大丈夫か!」
心配な顔をして駆け寄るドクター。友達である彼に心配させまいと純は笑って言葉を返そうとした。何より、肘の故障を信じたくなかった。普通なら起きるはずのない場面での負傷。
「大……丈夫です……」
笑えるわけがなかった。肘からくる違和感が事実を明白に伝える。大丈夫じゃないことは1番自分でわかっていた。大丈夫だ、と言ったのは無意識なものだ。願望だった。
心の整理がつかなかった。人生の半分以上を捧げてきたものが急に崩れること、それをすぐに受け入れられるわけがない。
「何言ってんだ大丈夫じゃないだろう!誰か、病院に連れて行け!」
「お、俺は……ぁ……」
彼は病院に連れ込まれた。彼はその後のことをショックで覚えていない。覚えているのは医者が伝えづらそうに宣告した言葉だ。
『もう、投手として活躍するのは難しいでしょう。あなたがどうしてもというのであれば止めることは出来ませんが私はお勧めしません。肘だけじゃなくて他の場所も限界が近いですよ』
その言葉は彼の心を折るに十分なものだった。その直後、球団関係者の電話を偶然聞いた。
『リハビリをしても復帰は難しいでしょう。本当に残念なことですが、はい……体さえ丈夫だったらリリーフエースにもなれたでしょうに。えぇ、本当に大きな損失ですよ』
その言葉がトドメになった。
結局のところ最後まで自分は間違え続けたのだ。
心が完璧に折れた、そんな気がした。
それから20年の時が経った。悲劇に酔い、腐っていたままでは生きてはいけないから、こうやって仕事をしている。
幸運にも二軍の時に取った知識と資格、そして野球への執着が食い扶持に繋がった。自分の夢は潰えたがどうにかして野球に関わりたい、と続けた裏方の仕事……果たしてこれで良かったのか。
自分と同じ失敗を他の奴にはさせるものか。その思いはどこから湧いてきたものだったか。今では薄ぼんやりとしていて思い出せそうにもない。
この信念のもと数多くの投手を怪我から救ったと思っているし、チーム内のピッチャーで知らない人は多分いないだろう。そう自負するだけのことはやってきたはずなのに、この空虚な気持ちは満たされない。気持ちは未だにマウンドの上に向いている。
怪我の予防知識は勿論のこと、選手ごとに細かく調整した練習メニューを組むことが出来たり、応急処置の腕も持ち合わせており、何か困ったことがあれば親身に相談に乗ってくれる裏方として有名であった。
しかし彼にはタブーが一つだけある。何を聞いても大体彼は答えてくれるが、夢についての話になると彼はその場からいつも逃げ出す。だから彼に夢を語るのも彼の夢について聞いてもいけないという面倒な暗黙のルールが出来上がった。
いつも通り若手を見ている時、彼は悩んでいた。否、いつも悩んでいた。悩まない時なんてなかった。
本当に自分はこの道を選んで満足しているのか?と。
スパンと小気味のいい音がなる。投げているのはもちろん彼ではない。彼は投げる人物の隣に立って指導をする立場なのだから。皮肉にも選手としては花開かなかったが指導する者としての才能は開花したらしい。
「どうですか?コーチ」
若手の選手が軽く額をぬぐいながら彼に話しかける。彼は壮年になり白髪が目立つようになっていたが彼の目は衰えてはいない。
「少し力みすぎだと思うな。腕からもう少し力を抜いてもっと重心移動を使うイメージでな。あとまだコーチじゃない」
「でも話は来てるんでしょう?」
「無駄口叩かない、お前のチェンジアップは格別なんだからストレートしっかり磨けよ。ほら」
「ありがとうございます」
選手が再びボールを投げた。心なしかノビが良い球がキャッチャーのミットに収まる。再び選手がボールを投げミットから音が鳴る。
こうやって選手の成長を感じられるだけでもういいじゃないか。そう誤魔化すのはもう何度目だろうか。
本当の想いなど忘れてしまわなければいつまでたっても自分の諦めきれない夢に苦しまされるとわかってはいるが、それができれば苦労しないというものだ。
私の夢は彼らが継いでくれた、だからもういいんじゃないか? そんな言葉で自分を誤魔化す。何度も何度も言い聞かせる。
そうやってここ数年、何度も同じように自分を誤魔化そうとしてきた。しかし考えるたびに心が疼く。本当は違うと叫ぶのだ。私は指導者になりたかったわけじゃない、と。
だから決定的に自分の中で何かが変わってしまうのを恐れて意味もなく決断を先延ばしにしている。
真剣に汗水流しながらボールを投げる選手達を応援している。それは本心だ。しかし、心のどこかで嫉妬してもいる。これも事実。本当は自分がそのマウンドに立っていたかった。もし過去に戻れたら、もしやり直せることができるのなら。今日もそんな無意味なことを考える。
何度願ったって叶いやしない、そんなことはわかっている。そうわかっていても願わずにはいられなかった。自分を偽り騙し続けていた。いつのまにか表情は能面のごとく変わりにくくなっていた。
「じゃあ私はこれで上がるよ。そうだな、後10球くらい投げたら練習をやめてアイシングするように。試合も近いんだから頑張り過ぎるなよ」
「了解です、コーチ」
何を思っていても顔には出ない。嬉しくたって悲しくたってムカついたって顔には出ない。口にも出さない。後輩の邪魔なんてしない、それだけは絶対にしない。
彼らという存在は眩しすぎる。スターと呼ばれる存在のなんと羨ましいことか。
彼は練習場から出てすぐの場所に止められているワゴン車に乗り込む。キーを差し込み回すとエンジン音が鳴り始めた。ライトを点けて、ゆっくりとアクセルを踏む。道に出るために右ウインカーを点灯させ、車の通りが少なくなったところで道に出た。
何度も通い慣れた道をワゴンで進む。赤信号で止まり青に変わったらアクセルを踏むとゆっくりと車は加速し始める。彼はずっとボヤっとしていた。走っていたのは覚えているがいつのまにか家に着いたような感覚を覚えた。駐車場に着いたときにハッとする。
誰かを轢いてはいないかと不安になりワゴン車に凹みが無いか確認する。
こんなことをここ数日繰り返している。気分は最悪だった。いつものように玄関の鍵を開け靴を脱ぎ、家の中に入っていく。
小さい頃もこんな感じだったな。そんな意味もない懐かしいことを思い出す。
家には誰もいない。彼は独身だ。リビングから誰かの声や生活音など聞こえるはずはない。しかし今日は違った。
独身生活が長すぎて気が狂ってしまったのだろうか。彼の耳には生活音が聞こえるような気がした。なぜか感じ始めた焦燥感を抑えきれずリビングに駆け込む。
「ただいま!」
小さいあの頃に戻ったのではないかとバカな考えをしたのだ。
もちろん、そこには誰もいない。ただのシンプルな部屋があるだけだ。
ゴミは散らかっておらず余分なものはほとんどない。綺麗といえば聞こえがいいが、単に物がないのだ。
それこそ生活感を全く感じさせないほどに殺風景だった。
「はぁ……くそっ」
彼は悪態をつきながら持っていたカバンをソファーの上に投げる。妙に酒が飲みたい気分だった。もう酔って夢も仕事も全部忘れてしまいたい……そう思った。
使いもしないワインセラーに飾ってある年代もわからないワインを開ける。いつもらったのかもわからない贈答品だ。どうせ安物だろうと普段あまり飲まない酒をしこたま飲んだ。現実から目を背けるように、どうせなら記憶が飛ぶくらいに飲もうと思った。
「どーせ、だれも、おれをなげさせてもらえないもんな!」
酔いが回って支離滅裂な発言をしながらも偶々置いてあったリンゴを壁に向かって無駄に綺麗なフォームで投げた。リンゴは壁にあたり足元へ転がってくる。
「あー!もう!やりなおしたい!」
千鳥足でグラスを取ろうと一歩踏み出すと先ほど投げたリンゴが足元に転がってきており、それを踏んだ彼の視界は傾いていく。後頭部から鈍い音がなり肺から空気が吐き出されると、彼の視界は暗転した。
そしてしばらく時間が経った頃だろうか。彼に意識が戻った。理由は単純にして明快。
「痛っ……」
頭の鈍い痛み。その頭の痛さで意識が覚醒したのだが視界はぼやけたままだ。いよいよ本格的に老眼かと思いショックを受けた。しばらくじっとしていると視界に段々と光が戻ってくる。涙でぼやけたみたいになった視界は最近どうにも老眼気味だったのにも関わらず妙にはっきり見える。
「喉が渇いた……」
いつのまにかベッドで寝ていたようで掛けられていた布団をどかしつつベットから降りる……がバタっと音を立てて彼は地面に這い蹲ることになった。足でも滑らせたのだろうか?と思ったがどうにも目眩と吐き気を催す。
どうやら三半規管が狂っているらしい。
『あーまだ酔いが回ってるな……目眩も吐き気もやばい』
彼はふらつく体を壁に手を当てて支えつつ歩いていく。リビングに続くであろう扉が開いていたのでそのまま進むと見慣れた鏡が見えた。鏡を覗き込むと中にいる人物の瞳が大きく見開かれる。
「なんだ、これ……」
鏡に映っていたのは小さい時の自分だった。声も風邪をひいたかのようにガラガラではあるが声変わり前の自分の声だ。どういうことか現状がわからなくなり思考が止まる。周りを見渡すと幼少期の頃のわずかな記憶から実家であることを確認した。
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命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
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ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
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