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第18話ー1 希望の光
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――1489年3月末。
冬が終わってすっかり雪が解け、春うららポカポカ陽気の日だった。
宮廷オルキデーア城の『中の中庭』では、いつも通りフラヴィオたちが走り込みをしていた。
隣国の女王と婚約してから、第二王子コラードが以前よりも張り切って鍛錬に励んでいる。
以前はフラヴィオ・フェデリコ・アドルフォの大人3人から少し遅れて付いて来ていたのが、今はすぐ真後ろを付いて来る。
その後には、負けじと王太子オルランドも付いて来る。
「大丈夫ですか、殿下たち。もう少し速度を落とされては……」
「甘やかさなくて良い、ドルフ。むしろ、へばったら叱ってくれ」
とフラヴィオが言うと、フェデリコが同意した様子で続いた。
「特にコラードは、もう妻子を持ち、王配だったとしても一国を担うことに決まったんだ。もう子供扱いする必要はない」
「そうそう!」
とコラードが肩で息をしながらも、気張って返事をした。
「オレを子供扱いしないでくれ、ドルフ叔父上! 強くならなきゃいけないんだ、オレは!」
と言った後に、「でも」と後ろのオルランドを見る。
「兄上は頑張りすぎなくても良いんじゃないか? そりゃマストランジェロ一族である以上、普通よりは力あるけど。どっちかといったら頭脳派なんだし」
「いや、将来弱い国王にはなりたくないから良いんだ。カンクロとの戦にだって出るしな」
「そうだけど……オレみたいにまだ結婚決まってないんだし」
と言った直後、コラードははっとして「ごめん!」と謝った。
失言だっただろうかと、オルランドの顔を覗き込む。
「良いんだ、気にするなコラード」
と言う割には、沈鬱とした表情をしている。
「今朝、50連敗を達成した私のことなど、気にしなくて良い」
「気になるっす……」
とコラードの顔が引き攣ってしまう。
つまりオルランドは、想いを寄せているベルに今朝50回目の愛の告白をし、振られたらしい。
「もしかしたら、ベルは私が弱いから振り向いてくれないのかもしれない。父上も頭脳派じゃなくて肉体派だし、頭脳派の私は好みじゃないのかもしれない」
「父上を馬鹿呼ばわりするんじゃない」
と、フラヴィオの口が尖る。
コラードが「てかさ」と続けた。
「もう諦めろ、兄上。ベルは無理だ、はっきり言って」
「やはりそうだろうか。ベルの頭の中は、すっかり宰相だ。最近私に、レオーネ国と――アヤメと婚姻するべきだと言ってくる。ベルには言ってないが、実はアヤメには好きな人がいるんだ。子供の頃からずっと思い続けているらしい。どうやら誠実な男のようだし、無事にアヤメの想いが成就してほしいと私は思っている」
言葉を失った一同の視線がオルランドに突き刺さった。
もはや正気か疑う。
アヤメのその想い人は他ならぬ、オルランド自身であることを、未だ本人だけが気付いていない。
フラヴィオが呆れた様子で口を開いた。
「父上がはっきり言おう、ランド。おまえはアヤメを選べ。愛らしいアヤメなら、皆が歓迎する。おまえだって、アヤメなら嫌じゃなかろう?」
「それはもちろんですが」
「だったらもうアヤメに決めるのだ。大丈夫だ、まずおまえが振られることは無い。ベルは諦めろ。やらんから」
一呼吸置いて、オルランドの眉間にシワが寄った。
「いや『やらんから』て、父上……誰と結婚するかは、ベルが決めることでしょう。何ですその、ベルは父上のものみたいな」
フラヴィオが「うん?」とオルランドの顔を見た。
でれでれの『酒池肉林王』の顔だったなら口論していたところだったが、それは『力の王』の顔だった。
下手に物を言ったらぶっ飛ばされる気しかしなくて、思わず閉口する。
それから間もなくのこと。
ヴァレンティーナの悲鳴が響き渡って来た。
「――ティーナ!?」
どこから声が聞こえて来たのかと、一同は辺りを見渡す。
「ベル、どうしたの!? 死んじゃ嫌っ!」
その声は上から――4階にあるヴァレンティーナの部屋からのようだった。
「ドルフ!」
フラヴィオが叫ぶや否やに、その胸倉辺りを片手で掴んだアドルフォ。
「いってらっしゃいませ」
の言葉と共に、フラヴィオを上空へと向かって放り投げる。
フラヴィオは宮廷の石造りの外壁を少し駆け上ると、ヴァレンティーナの部屋の窓の縁に片手で捕まった。
もう片手で窓を叩くと、少ししてベルが開けた。
「フラヴィオ様……」
「どうした、ベルっ……!」
よじ登ってヴァレンティーナの部屋に入り、慌ててベルの身体を抱き上げる。
その顔は絶望に染まり、ヴァレンティーナは未だ泣き叫んでいた。
「フラヴィオ様……どうやらもう、お別れのようです」
「え……!?」
「私はフラヴィオ様の手前、『生きること』と100歳越えの熟女になることを誓いましたが……申し訳ございません。長年に渡り無理をして来た私の身体では、ここまでだったようです」
「な……何を言っているのだ、ベル!」
ヴァレンティーナの悲鳴で駆けつけて来たヴィットーリアやアリーチェ、家政婦長ピエトラが部屋の中に入って来た。
落ち着いた様子で、ヴァレンティーナを宥めながら事情を聞いている。
その会話は、ベルの言葉に大衝撃を受けたフラヴィオの耳には届いていなかった。
ベルが下腹部を押さえて「う……」とうめいた後に続ける。
「よろしいですか、フラヴィオ様……私亡き後も、無駄遣いをしてはなりません。オルキデーア石を売買する際は、必ず上級1粒に付き中級を5粒、最上級なら10粒を一緒に売りつけてください。そのオルキデーア石に比べたら微々たる収入だからと、珠の湯を再び無料開放することもご遠慮ください。何度も申し上げておりますが、塵も積もれば山となるのですから。また、これからこの国の工芸品としてカメオを売り出すべきです。昔から宝石を扱って来たこの国では宝飾職人たちの技術が素晴らしく、きっと繊細で美しいカンメーオを作ることが出来ましょう。フラヴィオ様のこの国にはカンメーオのモデルにするに相応しい美貌をお持ちの方々がたくさんいらっしゃいますし、その辺に落ちてる巻貝を使いますから、なんと原材料無料……!」
「カ…カンメーオ……!?」
とフラヴィオがベルの胸元に目を落とす。
そこにいつもあったはずの、フラヴィオの横顔の彫られたそれが無くなっている。
「売り…ました……」
フラヴィオが再び衝撃を受ける一方、顔色の悪いベルが続ける。
「先ほど、他国の超富裕層の商人がオルキデーア石を求めて城にやって来た際、私のカンメーオに目を留められ、大変気に入られたようで、売ってくれと言われました。無論、私は売り物ではないからとお断りしました。そうしたら、商人の方が言ったのです――「1億オーロでどうだ?」。あれは私の宝物でしたから、私はこう返したのです――「お帰り下さい」。商人の方が焦った様子で言いました――「では3億オーロ出す」。私は返しました――「これは世界にただひとつの一点物ですよ?」。商人の方は納得した様子で言いました――「そうだな、5億オーロ出そう!」。私は身体がゾクゾクとする感覚を覚えました――「もっと出せるでしょう?」「では6億だ」「足りませんよ?」「ぐっ、では8億でどうだ!」「やはりお帰り下さい?」「分かった分かった、10億出そうじゃないか!」……そう、ベルナデッタはお金に目が眩んだのです」
と、ベルが「いたた……」と少し顔を歪めた。
「これは、きっとその代償なのですね……。ああ……フラヴィオ様、短い間でしたがありがとうございました。このベルナデッタ、フラヴィオ様のために生きられたことがとても幸せでございました。しかもこうして、フラヴィオ様の腕の中で最期を迎えられるとは……」
「おい、待ってくれ! 突然何だというのだ! 死ぬな、ベル!」
とここで、咳払いが割り込んだ。
フラヴィオが顔を上げると、そこにはヴィットーリアとアリーチェ、ピエトラの呆れ顔。
「なーにをやっとるのじゃ、お主らは……」
「死なないわよ……『月のもの』で」
フラヴィオとベルが「え?」と声を揃えた。
ピエトラが「着替えを取って参ります」と部屋から出て行く。
いつの間にか泣き止んでいたヴァレンティーナが、恥ずかしそうに口を開いた。
「ご、ごめんなさいベル、父上っ……私、かんちがいしちゃった。ベルのスカートに血が付いてたから、怪我してるのかと思っちゃってっ……! でも、そっか……ベル、大人の女性になったのね」
「――Oh……」
と、腕に抱いていたベルを床に下ろしたフラヴィオが、後退っていく。
窓枠にぶつかり、体勢を崩して後方に倒れ、中の中庭に向かって落下していった。
離れていくヴァレンティーナの部屋の窓を見つめる碧眼は、煌めきを放っていた。
(ベルが……)
中庭に直撃しようか直前、その身体を姫抱っこでフェデリコが受け止める。
「おかえりなさいませ、兄上」
ベルは無事だったのかと、中の中庭にいた一同が心配して寄って来る。
その答えは聞かずとも、フラヴィオの顔を見れば分かった。
「ベルが……ベルが、子供じゃなくなってしまった。そうだよな……最近、胴体に丘陵地帯が出来てきたし、バーチョしても腰抜かしてくれないし……もう子供じゃないのか」
と、フラヴィオが相変わらずヴァレンティーナの部屋の窓を見つめながら、染まった頬を両手で押さえる。
「――ということは、余の子が欲しいと言われてしまうっ……!」
一同が「は?」と間の抜けた声を揃える一方、フラヴィオがフェデリコの腕から転がり落ちた。
四つん這いで数歩進んだ後、立ち上がって1階にある将兵専用の風呂場へと駆けていく。
「汗を流しておかなければ! いやでも、あと一週間近くは無理か……っていやいや、これから誘惑されるのに汗だくのままなんていかん」
とフラヴィオが「ふふふふふ」と笑いながら途中で捕まえた使用人を引っ張って風呂場へと入ってから、程なく。
着替えて来たベルが、1階の廊下へと降りて来、『中の中庭』の前を素通りして『上の中庭』の方――北の方へと駆けていく。
どこに行くのかと、『上の中庭』が見えるアーチから見てみると、それは外へと出て行った。
どうやらアドルフォ・ベラドンナの別邸へと向かって行ったらしい。
そしてそれを、戻って来たフラヴィオに伝えると、眉をひそめて後を追って行った。
どうもよろしくない予感がすると、別邸の玄関の扉をそっと開けて中に入ったフラヴィオ。
そこに立ったまま、中から聞こえてくるベルとベラドンナの会話に耳を傾ける。
「思ったより早く来たわねー。良かったじゃない、おめでとうベル」
「ありがとうございます。これでいつでもムサシ殿下を頂くことが出来ますので、ご安心を」
「ってちょっとアンタ……このままワタシに子供が出来なかったときのこと、まーだ言ってんの?」
「はい。あんこの力でコニッリョとは急激に距離が縮まって来ましたが、ムサシ殿下を頂くには、ドルフ様がメッゾサングエの側室を迎えられることという条件があるのです。しかしその代わりとして、この私が純血モストロと結婚し、半々の強いメッゾサングエを産むという条件をもって、ムサシ殿下をドルフ様・ベラ様の養子に頂こうと――」
ベルの言葉を遮るように、フラヴィオの怒声が響き渡っていった。
「違うだろう! 悪い子め!」
居間にいたベルとベラドンナが振り返った。
眉を吊り上げ、頬を膨らませたフラヴィオが入って来る。
「何でそうなるのだ! 違うだろう!? 余のところに来るところだろう!? ていうか、まだそんなことを考えていたのか、この悪い子め!」
「良い――」
「悪い子だ! 今のは、間違っても良い子ではない!」
とフラヴィオがベルの言葉を遮ると、ベルがどこか誇らしげに「スィー」と返事をした。
「今日からベルナデッタは、良い『子』ではなく、良い『女』でございます」
「Oh……!」
と頬染めたフラヴィオの鼻息が荒くなりかけてしまったとき――
「ねぇ、フラヴィオ様」
ベラドンナが呼んだ。
「ごめんなさい……この別邸、建ててもらったのに。ワタシ、子供出来ずに終わるのかもしれない……」
フラヴィオとベルが一瞬、見つめ合った。
「ムネとの約束は1年だろう? たしかあれは去年の9月頭だったし、今年の8月いっぱいまでは頑張るのだ、ベラ。あと別邸のことは気にしなくて良い」
「そうです、ベラ様。まだ諦めるのは早すぎます。この別邸だって、あったらあったで何かと使いますから」
「ええ……そうね。ごめんなさい。ひとりでいるとき、ちょっと弱気になることあって」
と2人に笑顔を向け、涙を飲み込んだベラドンナ。
その顔付きは、宮廷にいる頃よりもすっかり穏やかになっていた。
こうして見ると、姉のヴィットーリアと雰囲気が似てきたように思う。
「あのね」と、話を続けた。
「昨日、アリーと話してたの。今はこういう時代だから、とても強い男の子を授かるといいねって。つまり、フラヴィオ様・フェーデ似と、ドルフ似の男の子よ。それで男の子が生まれたら、アリーは『レオナルド』って名付けるんだって。フェーデと話して決めたって言ってた。それでね、私とドルフは『ジルベルト』って名付ける予定なの」
そう幸せな未来を思い描き、幸せそうに語るベラドンナを、2人が微笑ましく思って見つめる。
「レオナルド・マストランジェロ様と、ジルベルト・ガリバルディ様ですか。素敵ですね」
「ああ、良い名だ。レオとジルは、きっと強い子になろう」
ベラドンナが「ええ」と微笑して、腹部を摩る。
(神様、どうか、私に……)
その約5カ月後――約束の期限ぎりぎりの、8月末のことだった。
冬が終わってすっかり雪が解け、春うららポカポカ陽気の日だった。
宮廷オルキデーア城の『中の中庭』では、いつも通りフラヴィオたちが走り込みをしていた。
隣国の女王と婚約してから、第二王子コラードが以前よりも張り切って鍛錬に励んでいる。
以前はフラヴィオ・フェデリコ・アドルフォの大人3人から少し遅れて付いて来ていたのが、今はすぐ真後ろを付いて来る。
その後には、負けじと王太子オルランドも付いて来る。
「大丈夫ですか、殿下たち。もう少し速度を落とされては……」
「甘やかさなくて良い、ドルフ。むしろ、へばったら叱ってくれ」
とフラヴィオが言うと、フェデリコが同意した様子で続いた。
「特にコラードは、もう妻子を持ち、王配だったとしても一国を担うことに決まったんだ。もう子供扱いする必要はない」
「そうそう!」
とコラードが肩で息をしながらも、気張って返事をした。
「オレを子供扱いしないでくれ、ドルフ叔父上! 強くならなきゃいけないんだ、オレは!」
と言った後に、「でも」と後ろのオルランドを見る。
「兄上は頑張りすぎなくても良いんじゃないか? そりゃマストランジェロ一族である以上、普通よりは力あるけど。どっちかといったら頭脳派なんだし」
「いや、将来弱い国王にはなりたくないから良いんだ。カンクロとの戦にだって出るしな」
「そうだけど……オレみたいにまだ結婚決まってないんだし」
と言った直後、コラードははっとして「ごめん!」と謝った。
失言だっただろうかと、オルランドの顔を覗き込む。
「良いんだ、気にするなコラード」
と言う割には、沈鬱とした表情をしている。
「今朝、50連敗を達成した私のことなど、気にしなくて良い」
「気になるっす……」
とコラードの顔が引き攣ってしまう。
つまりオルランドは、想いを寄せているベルに今朝50回目の愛の告白をし、振られたらしい。
「もしかしたら、ベルは私が弱いから振り向いてくれないのかもしれない。父上も頭脳派じゃなくて肉体派だし、頭脳派の私は好みじゃないのかもしれない」
「父上を馬鹿呼ばわりするんじゃない」
と、フラヴィオの口が尖る。
コラードが「てかさ」と続けた。
「もう諦めろ、兄上。ベルは無理だ、はっきり言って」
「やはりそうだろうか。ベルの頭の中は、すっかり宰相だ。最近私に、レオーネ国と――アヤメと婚姻するべきだと言ってくる。ベルには言ってないが、実はアヤメには好きな人がいるんだ。子供の頃からずっと思い続けているらしい。どうやら誠実な男のようだし、無事にアヤメの想いが成就してほしいと私は思っている」
言葉を失った一同の視線がオルランドに突き刺さった。
もはや正気か疑う。
アヤメのその想い人は他ならぬ、オルランド自身であることを、未だ本人だけが気付いていない。
フラヴィオが呆れた様子で口を開いた。
「父上がはっきり言おう、ランド。おまえはアヤメを選べ。愛らしいアヤメなら、皆が歓迎する。おまえだって、アヤメなら嫌じゃなかろう?」
「それはもちろんですが」
「だったらもうアヤメに決めるのだ。大丈夫だ、まずおまえが振られることは無い。ベルは諦めろ。やらんから」
一呼吸置いて、オルランドの眉間にシワが寄った。
「いや『やらんから』て、父上……誰と結婚するかは、ベルが決めることでしょう。何ですその、ベルは父上のものみたいな」
フラヴィオが「うん?」とオルランドの顔を見た。
でれでれの『酒池肉林王』の顔だったなら口論していたところだったが、それは『力の王』の顔だった。
下手に物を言ったらぶっ飛ばされる気しかしなくて、思わず閉口する。
それから間もなくのこと。
ヴァレンティーナの悲鳴が響き渡って来た。
「――ティーナ!?」
どこから声が聞こえて来たのかと、一同は辺りを見渡す。
「ベル、どうしたの!? 死んじゃ嫌っ!」
その声は上から――4階にあるヴァレンティーナの部屋からのようだった。
「ドルフ!」
フラヴィオが叫ぶや否やに、その胸倉辺りを片手で掴んだアドルフォ。
「いってらっしゃいませ」
の言葉と共に、フラヴィオを上空へと向かって放り投げる。
フラヴィオは宮廷の石造りの外壁を少し駆け上ると、ヴァレンティーナの部屋の窓の縁に片手で捕まった。
もう片手で窓を叩くと、少ししてベルが開けた。
「フラヴィオ様……」
「どうした、ベルっ……!」
よじ登ってヴァレンティーナの部屋に入り、慌ててベルの身体を抱き上げる。
その顔は絶望に染まり、ヴァレンティーナは未だ泣き叫んでいた。
「フラヴィオ様……どうやらもう、お別れのようです」
「え……!?」
「私はフラヴィオ様の手前、『生きること』と100歳越えの熟女になることを誓いましたが……申し訳ございません。長年に渡り無理をして来た私の身体では、ここまでだったようです」
「な……何を言っているのだ、ベル!」
ヴァレンティーナの悲鳴で駆けつけて来たヴィットーリアやアリーチェ、家政婦長ピエトラが部屋の中に入って来た。
落ち着いた様子で、ヴァレンティーナを宥めながら事情を聞いている。
その会話は、ベルの言葉に大衝撃を受けたフラヴィオの耳には届いていなかった。
ベルが下腹部を押さえて「う……」とうめいた後に続ける。
「よろしいですか、フラヴィオ様……私亡き後も、無駄遣いをしてはなりません。オルキデーア石を売買する際は、必ず上級1粒に付き中級を5粒、最上級なら10粒を一緒に売りつけてください。そのオルキデーア石に比べたら微々たる収入だからと、珠の湯を再び無料開放することもご遠慮ください。何度も申し上げておりますが、塵も積もれば山となるのですから。また、これからこの国の工芸品としてカメオを売り出すべきです。昔から宝石を扱って来たこの国では宝飾職人たちの技術が素晴らしく、きっと繊細で美しいカンメーオを作ることが出来ましょう。フラヴィオ様のこの国にはカンメーオのモデルにするに相応しい美貌をお持ちの方々がたくさんいらっしゃいますし、その辺に落ちてる巻貝を使いますから、なんと原材料無料……!」
「カ…カンメーオ……!?」
とフラヴィオがベルの胸元に目を落とす。
そこにいつもあったはずの、フラヴィオの横顔の彫られたそれが無くなっている。
「売り…ました……」
フラヴィオが再び衝撃を受ける一方、顔色の悪いベルが続ける。
「先ほど、他国の超富裕層の商人がオルキデーア石を求めて城にやって来た際、私のカンメーオに目を留められ、大変気に入られたようで、売ってくれと言われました。無論、私は売り物ではないからとお断りしました。そうしたら、商人の方が言ったのです――「1億オーロでどうだ?」。あれは私の宝物でしたから、私はこう返したのです――「お帰り下さい」。商人の方が焦った様子で言いました――「では3億オーロ出す」。私は返しました――「これは世界にただひとつの一点物ですよ?」。商人の方は納得した様子で言いました――「そうだな、5億オーロ出そう!」。私は身体がゾクゾクとする感覚を覚えました――「もっと出せるでしょう?」「では6億だ」「足りませんよ?」「ぐっ、では8億でどうだ!」「やはりお帰り下さい?」「分かった分かった、10億出そうじゃないか!」……そう、ベルナデッタはお金に目が眩んだのです」
と、ベルが「いたた……」と少し顔を歪めた。
「これは、きっとその代償なのですね……。ああ……フラヴィオ様、短い間でしたがありがとうございました。このベルナデッタ、フラヴィオ様のために生きられたことがとても幸せでございました。しかもこうして、フラヴィオ様の腕の中で最期を迎えられるとは……」
「おい、待ってくれ! 突然何だというのだ! 死ぬな、ベル!」
とここで、咳払いが割り込んだ。
フラヴィオが顔を上げると、そこにはヴィットーリアとアリーチェ、ピエトラの呆れ顔。
「なーにをやっとるのじゃ、お主らは……」
「死なないわよ……『月のもの』で」
フラヴィオとベルが「え?」と声を揃えた。
ピエトラが「着替えを取って参ります」と部屋から出て行く。
いつの間にか泣き止んでいたヴァレンティーナが、恥ずかしそうに口を開いた。
「ご、ごめんなさいベル、父上っ……私、かんちがいしちゃった。ベルのスカートに血が付いてたから、怪我してるのかと思っちゃってっ……! でも、そっか……ベル、大人の女性になったのね」
「――Oh……」
と、腕に抱いていたベルを床に下ろしたフラヴィオが、後退っていく。
窓枠にぶつかり、体勢を崩して後方に倒れ、中の中庭に向かって落下していった。
離れていくヴァレンティーナの部屋の窓を見つめる碧眼は、煌めきを放っていた。
(ベルが……)
中庭に直撃しようか直前、その身体を姫抱っこでフェデリコが受け止める。
「おかえりなさいませ、兄上」
ベルは無事だったのかと、中の中庭にいた一同が心配して寄って来る。
その答えは聞かずとも、フラヴィオの顔を見れば分かった。
「ベルが……ベルが、子供じゃなくなってしまった。そうだよな……最近、胴体に丘陵地帯が出来てきたし、バーチョしても腰抜かしてくれないし……もう子供じゃないのか」
と、フラヴィオが相変わらずヴァレンティーナの部屋の窓を見つめながら、染まった頬を両手で押さえる。
「――ということは、余の子が欲しいと言われてしまうっ……!」
一同が「は?」と間の抜けた声を揃える一方、フラヴィオがフェデリコの腕から転がり落ちた。
四つん這いで数歩進んだ後、立ち上がって1階にある将兵専用の風呂場へと駆けていく。
「汗を流しておかなければ! いやでも、あと一週間近くは無理か……っていやいや、これから誘惑されるのに汗だくのままなんていかん」
とフラヴィオが「ふふふふふ」と笑いながら途中で捕まえた使用人を引っ張って風呂場へと入ってから、程なく。
着替えて来たベルが、1階の廊下へと降りて来、『中の中庭』の前を素通りして『上の中庭』の方――北の方へと駆けていく。
どこに行くのかと、『上の中庭』が見えるアーチから見てみると、それは外へと出て行った。
どうやらアドルフォ・ベラドンナの別邸へと向かって行ったらしい。
そしてそれを、戻って来たフラヴィオに伝えると、眉をひそめて後を追って行った。
どうもよろしくない予感がすると、別邸の玄関の扉をそっと開けて中に入ったフラヴィオ。
そこに立ったまま、中から聞こえてくるベルとベラドンナの会話に耳を傾ける。
「思ったより早く来たわねー。良かったじゃない、おめでとうベル」
「ありがとうございます。これでいつでもムサシ殿下を頂くことが出来ますので、ご安心を」
「ってちょっとアンタ……このままワタシに子供が出来なかったときのこと、まーだ言ってんの?」
「はい。あんこの力でコニッリョとは急激に距離が縮まって来ましたが、ムサシ殿下を頂くには、ドルフ様がメッゾサングエの側室を迎えられることという条件があるのです。しかしその代わりとして、この私が純血モストロと結婚し、半々の強いメッゾサングエを産むという条件をもって、ムサシ殿下をドルフ様・ベラ様の養子に頂こうと――」
ベルの言葉を遮るように、フラヴィオの怒声が響き渡っていった。
「違うだろう! 悪い子め!」
居間にいたベルとベラドンナが振り返った。
眉を吊り上げ、頬を膨らませたフラヴィオが入って来る。
「何でそうなるのだ! 違うだろう!? 余のところに来るところだろう!? ていうか、まだそんなことを考えていたのか、この悪い子め!」
「良い――」
「悪い子だ! 今のは、間違っても良い子ではない!」
とフラヴィオがベルの言葉を遮ると、ベルがどこか誇らしげに「スィー」と返事をした。
「今日からベルナデッタは、良い『子』ではなく、良い『女』でございます」
「Oh……!」
と頬染めたフラヴィオの鼻息が荒くなりかけてしまったとき――
「ねぇ、フラヴィオ様」
ベラドンナが呼んだ。
「ごめんなさい……この別邸、建ててもらったのに。ワタシ、子供出来ずに終わるのかもしれない……」
フラヴィオとベルが一瞬、見つめ合った。
「ムネとの約束は1年だろう? たしかあれは去年の9月頭だったし、今年の8月いっぱいまでは頑張るのだ、ベラ。あと別邸のことは気にしなくて良い」
「そうです、ベラ様。まだ諦めるのは早すぎます。この別邸だって、あったらあったで何かと使いますから」
「ええ……そうね。ごめんなさい。ひとりでいるとき、ちょっと弱気になることあって」
と2人に笑顔を向け、涙を飲み込んだベラドンナ。
その顔付きは、宮廷にいる頃よりもすっかり穏やかになっていた。
こうして見ると、姉のヴィットーリアと雰囲気が似てきたように思う。
「あのね」と、話を続けた。
「昨日、アリーと話してたの。今はこういう時代だから、とても強い男の子を授かるといいねって。つまり、フラヴィオ様・フェーデ似と、ドルフ似の男の子よ。それで男の子が生まれたら、アリーは『レオナルド』って名付けるんだって。フェーデと話して決めたって言ってた。それでね、私とドルフは『ジルベルト』って名付ける予定なの」
そう幸せな未来を思い描き、幸せそうに語るベラドンナを、2人が微笑ましく思って見つめる。
「レオナルド・マストランジェロ様と、ジルベルト・ガリバルディ様ですか。素敵ですね」
「ああ、良い名だ。レオとジルは、きっと強い子になろう」
ベラドンナが「ええ」と微笑して、腹部を摩る。
(神様、どうか、私に……)
その約5カ月後――約束の期限ぎりぎりの、8月末のことだった。
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