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1巻
1-2
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アレ、と言ったお父さんの視線の先には、深夜に作ったスープと天かすの残りが置いたままになっていた。
……そうだ。昨夜作った分が少し余って、食べものを捨てるのはもったいなかったから、そのままにしていたんだった。
昨日まで目玉焼きを作るのが精一杯だった私がひとりで料理しただなんて、お父さんが驚くのも当然だ。私はいい言い訳を思いつくことができず、目を泳がせる。
「う……えと、勝手に厨房を使って、ごめんなさい」
「それはいい。いや、よくないが。そんなことより、あの味だ。何を入れた? ベースは俺の作ったスープだろうが、味が違う。うどんが一玉なくなっていたから、作ったのはうどんか? うどんのスープなんだろう。それにあの揚げカスのようなサクサクはなんだ?」
お母さんはまくしたてるお父さんを見ながら、くすくすと笑っている。
怒られると思っていたのに、料理のことについてあれこれ聞くお父さんの様子は、とても私を責めるようなものではない。
やっぱりお父さんは料理人なんだなあと思って、私も笑ってしまった。
「お父さん、これはね――」
そうして私は、お父さんに細かくスープと天かすの作り方について説明した。
そしてその日のお昼には、早速天かすうどんが食堂のメニューに加わったのだった。
「……なんだか大変なことになってるね」
うちの食堂の手伝いに来るなり、スピカは開口一番そう言った。
私とスピカがお互いのことを打ち明けてから、ひと月が経つ。
私たちは、以前よりもずっと仲良くなった。
「スピカ、おはよう」
笑顔で挨拶をしながら、私は手早くエプロンを身につける。スピカも私に倣った。
あの日、宿屋で出した天かすうどんが旅人や町の人の評判を呼び、お昼時になるとうちの食堂はすごく混むようになった。家族三人じゃ手が回らず、こうしてスピカや他の人たちにも手伝ってもらうことにしたのだ。
そうしたら、主に配膳を担当するスピカの美少女効果も加わり、客が客を呼ぶ状態となっている。毎日てんてこまいだ。
世の中、何がヒットするかわからないものだ。ただうどんに天かすをのっけただけなのに……
暫くしたら、他のお店でも真似されちゃうだろうけど、スープの味はなかなか真似できないだろう。
それに、思い返せばうどんのトッピングはいろいろあるし、また新しいものを作れば、この宿のオリジナリティは失われないはずだ。私は半熟卵の天ぷらをのせるのが好きだったから、それも近いうちにお父さんに言おうと思っている。
「ミラ、スピカ。お父さんが呼んでいたわ。また何か思いついたみたい。意見を聞かせてくれる?」
お母さんは忙しなくテーブルや椅子の準備をしながら、私とスピカに声をかける。
私たちは、お母さんに言われたとおりに厨房へと向かった。
「ああミラにスピカ、味見をしてみてくれ。今日のスープも傑作だぞ!」
お父さんに差し出されたスープを飲むと、以前のものよりも格段に美味しくなっていた。
「……うん、美味しい! きのこの風味がする~。やっぱりきのこは干すと旨味が凝縮するよね!」
「流石俺の娘だな! 大した味覚だ!」
子供の私の意見を無視することなく、取り入れてくれるお父さんに感謝したい。
私が天かすうどんを作って以来、お父さんは私にアドバイスを求め、こうして試作品を食べさせてくれる。怪しまれるはずの前世の知識を微塵も隠していないのに、何故こうも受け入れてくれるのかは不明だ。
「ふたりとも料理バカよね、きっと……。でも、このスープは本当に美味しい!」
盛り上がる私たちを呆れたように見ながら、スピカも舌鼓を打つ。
そうして味見や仕込みのお手伝い、食器の準備をしているうちに、あっという間にお昼時になった。厨房の手伝いが終わったので、私も配膳へとまわる。
「お待たせしました。かけうどん二つです」
注文どおりにテーブルにうどんを運ぶ。すると、そこにはこの町ではあまり見かけない綺麗な顔をした青年と、私と同い年くらいに見える少年が座っていた。
少年はフードを深く被っていてよく顔が見えない。兄弟なのだろうか。
「すみません。あの、これはなんですか……?」
うどんと共に運んだ山盛りの天かすと刻まれた香草を見て、青年はとても驚いている。
そうでしょう。きっとこの世界では、まだうちの宿屋でしか出していないもの。
「これは、天かすというものです。油で揚げてあるのでサクサクですよ。お好みの量をうどんに入れてくださいね。スープに浸すとぷわぷわになります。初めてなら、まずは軽くスプーン二杯程度入れるといいと思います。香草も味を確かめながら、好みに合わせてくださいね」
天かすは入れすぎると油っぽくなってしまうので、加減が必要だ。
山盛りに入れる人もいるけど、私はほどほどが好き。
私の説明を聞いた青年は、恐る恐るといった様子で、うどんに天かすと香草を入れて一口食べた。
「……! 美味しいです! でん……じゃなくて、レオも食べてみてください」
先に食べた兄がそう感想を述べて、自分が食べた器を弟に渡す。どうやらうどんを交換したようだ。
うどんを交換するなんて、なんだか不思議だなあと思ったけれど、そんなことを気にしている暇はない。まだ次々にうどんを運ばないといけないのだ。
「では、失礼しますね」
過保護な兄なんだろうと結論づけて、私は急いで厨房へと戻った。
やはり食堂は大盛況で、夜の宿屋営業まで混雑し続けた。スピカは遅くまで手伝ってくれたので、今日もお泊まりだ。
スピカがいると余計にお店が混む気もするが、意外と客のあしらいがうまく、接客慣れしている。
もしかしたら、前世で接客業のアルバイトでもしていたのかもしれない。
お互いに疲れきってはいるが、この話を外ですることもできないから、お泊まりの日のチャンスは逃せない。例のゲーム世界について、スピカに尋問の続きをしよう。
「そういえば聞いてなかったけど、具体的にどんな攻略法を試す予定だったの?」
私が問うと、スピカは少し照れ臭そうに口を開く。
「えーと、まず王子様はぁ、確か入学式のときにわたしが迷子になってるところを助けてくれるの。それで、そのお礼に手作りクッキーを作って……そこからちょこちょこ発生するイベントで、どんどん仲を深めていく感じ」
「わあ……」
その回答に、思わず変な声が出た。
(ええ……王子様ちょろすぎない? 手作りクッキーをもらって、恋に落ちるなんて。ちょろ甘すぎる)
ああでも。そういえば、乙女ゲームものの小説でも、ダメな王子は割とちょろい感じでヒロインに靡いて、婚約者の悪役令嬢を蔑ろにしてるパターンは多かった。
天真爛漫な姿がいいとか、新鮮だとかなんとか。
そういう場合は大体、ヒロインも王子もみんなまとめて『ざまあ』されていたように思う。
違うパターンは、王子は悪役令嬢のはずの婚約者に惚れ込んでいて、そのことに気付かずに悪役令嬢に悪さをした転生ヒロインを懲らしめる。
この世界がどっちに転ぶのかはわからない。私が知っているのは小説の展開だし、もしかしたらこの世界ではみんないい人かもしれない。その逆だってあり得る。
とはいえ、ゲーム展開に執着したままだと、破滅する可能性が高い。だって、現実に置き換えるとありえない行動が多すぎるから。地に足をつけて生活するのが一番だろう。
「うん……多分だけど。王子様って普通、毒見とかあるから、知らない人の手作りクッキーはもらわないと思う」
私が当たり前のことを伝えると、スピカは目を見開いた。
「ええ⁉ 手作りお菓子って、攻略アイテムとして王道じゃん!」
「……というか、そもそもスピカってクッキー作れるの? これまでの孤児院のバザーでも売り子をしてたから、作る側じゃなかったでしょ?」
「そ、それはほら、ヒロイン補正ってやつで、やってみたらちゃっちゃっとできるのよ……!」
「スピカ、『ざまあ』だよ」
お花畑な言い分を聞いたあと、冷えた目でスピカを見ると、彼女はぶるぶるっと身を震わせる。
「いや、なんなの『ざまあ』って。なんかわかんないけど怖いんだってば! フケイザイとかも……」
そういえばまだ『ざまあ』と『不敬罪』についてちゃんと説明していなかった。
「あのねスピカ、ざまあというのは――」
真剣な表情で私を見つめるスピカに、二つの単語の意味をこんこんと説明する。
小説では悪役令嬢が主人公の場合が多い。
転生し、前世の記憶を持っている悪役令嬢は、ゲームのストーリーとは全く異なる性格となり、本来であれば悪役になるはずの立ち位置にはおらず、攻略対象者たちと良好な関係を築いている。
それに気がつかずに、転生先が自分のための世界と信じて疑わないこれまた前世の記憶持ちのヒロイン――いわゆる電波ヒロインは、散々学園中をかき乱す。その挙句、悪役令嬢が断罪されるはずの場で大どんでん返しが起きて、ヒロインはこれまでの行いを咎められ、断罪される。
いわゆる、『ざまあ』をされるのだ。
攻略対象者たちは本当にヒロインに攻略されているパターンと、そうではないパターンがあるけど、どちらにしろヒロインが断罪される結果になる。
その説明が終わる頃にはスピカはうつろな目をして、「ミラ、うどん……」と夜食を求めてきた。身につまされる話だったようだ。
確かに私は、スピカの『ざまあ』を回避したいとは思っている。
だけど、ヒロインを餌付けしてまるまると大きくして戦線離脱させようという計画ではないから、この夜食の習慣は早々にやめさせないといけない。
スピカを戒めないと、と思いながらも、私は試作品の温泉卵の釜玉うどんを作り上げてしまった。
彼女は目を輝かせて、すぐに食べ始めている。いつもどおり、幸せそうな笑顔だ。
(うーん。この笑顔に弱いんだよね……)
そんな顔をされると、「たくさん食べていいよ!」と言いたくなってしまう。
スピカの満足そうな笑みと出来立てのうどんに抗えず、結局私も彼女と一緒に座って麺をすする。
今日は一日頑張ったし、明日もいっぱい働けば、帳消しだよね。そういうことにしておく。
つるりとした温泉卵の白身の部分と、まったり濃厚な黄身をまとった麺は、醤油をひとかけするだけで美味しい。さらに自分好みに薬味や天かすを追加すれば、もっと美味しくなる。
本当に当時の第二王子様々だ。この世界に醤油があるなんて、素敵すぎる。
塩でも勿論美味しいけど、醤油独特の深みのある芳ばしさは、元日本人にはたまらない。
眼前では、スピカも同じように身悶えしながら食べている。
この世界には、他にも何か日本風なものはあるのだろうか。
(豆腐があれば、お揚げを作れるから、じゅっと甘い味のきつねうどんができる……!)
人気のない食堂に、私たちが一心不乱に麺をすする音だけが響く。
そのとき、ことり、と物音が聞こえた。
私は食べるのをやめて、音のしたほう――客室へと続く扉に目を向けた。
「あ……宿屋の子たちでしたか」
暗くてうすぼんやりとしか見えないが、ゆっくりと開く扉から現れたのは、声色からして若い男のようだった。その人の手元が、きらっと光ったように見えたが、気のせいだろうか。
「お客様、どうしましたか? 私たち、うるさかったでしょうか……申し訳ありません」
私はぺこりと頭を下げながら言った。できるだけ物音を立てないようにしていたが、それでも人が移動する音や調理の音は、静かな建物に響くのだろう。
ここは宿屋であって、普通の家とは違うのだから、もう少し考えるべきだった。
私が反省していると、その男性客は逆に申し訳なさそうに、灯りがついている私たちのいるテーブルへと近寄ってくる。
「あ、いえ。僕が勝手に起きているだけなので、気にしないでください。階下から物音がしたので、何かあったのかと思いまして」
ようやく顔が見え、彼がお昼に食堂に来ていた客のひとりだということがわかった。
前世は小さなケーキ屋で接客もするパティシエ、今世では宿屋の娘だから、私は職業柄、人の顔を覚えることが得意だ。だからこの人が、兄弟で天かすうどんを仲良く食べていた人だということも覚えていた。
綺麗な顔立ちの人だったし、何よりそのときの行動が不思議だったから、という理由もある。
礼儀正しい人だなあと思いながらそのお兄さんを見ていると、ふと腰元に目がいった。そこには美しい装飾が施された剣がぶら下がっている。
(……やっぱり、さっき何かが光っていたのは見間違いじゃなくて、刃物の反射光だったんだ……)
一瞬それが怖くなったが、私はすぐに思い直した。
深夜の宿の階下から灯りが漏れていて、近づくとズルズルという音が聞こえたら、ちょっとしたホラーだ。事情を知らない人にとっては、武器を持っておきたくなるレベルに違いない。
納得しながらお兄さんを眺めていると、ぐうぅ、という音が聞こえてきた。
まず向かいに座るスピカに視線を向ける。すると、彼女は焦ったように首を横に振って、秒で否定した。
「いや、今回はわたしじゃないから!」
それはそうか。彼女のお腹は今、釜玉うどんで満たされているはずだ。
「す、すみません……僕です」
見上げると、お兄さんが眉尻を下げて、申し訳なさそうにはにかんでいる。どうやら、夜食が一人前追加になるらしい。
幸い、材料はまだある。温泉卵を作るのが楽しくて一気に四つ作ったから、問題はない。
沸騰したお湯に水を少し足して、その中に卵を暫く放置するだけであんなに素晴らしいものに変貌するなんて、最初に気付いた人は天才なんじゃないだろうか。
「ちょっと待っていてください。すぐに用意します。そこに座っていてくださいね」
「えっ、あの……!」
私はお兄さんに席につくように促すと、急いで厨房へと戻った。
お腹が空いている人がいるのだもの。満腹にしてあげないと気が済まない。
再度茹でたうどん麺に卵を落として、他の具材をのっける。
できるだけ急いで作り上げたそれをお兄さんの前に差し出した。彼は最初は遠慮していたが、食べ始めると一気に平らげてしまう。
「……ごちそうさまでした。すみません、僕までご馳走になってしまって。おいくらでしょうか?」
最後にお水を飲んで一息ついたお兄さんは、ようやく落ち着いたのか胸元から財布を取り出した。
それにしても、こんなに綺麗な美青年とうどんって、ギャップがすごい。
そんな関係ないことが脳裏を掠めながらも、私はその申し出を断った。
「試作品なので、無料です。ついでですし」
食堂の価格設定に私は携わっていないから、この食材で、お客さんからいくら取っていいものかわからない。今度、お母さんに帳簿を見せてもらいながら勉強しないといけない。
だが、お兄さんはそれでは納得できないのか、お財布をしまおうとしない。
「そんなわけにはいきません……材料費のこともありますし」
「いいえ、今回は本当に大丈夫です。……あ、では、また機会があれば、うちの宿に泊まっていただけると嬉しいです」
頑なに財布からお金を取り出そうとするお兄さんに、私は笑顔でそう告げる。宿屋の娘らしく、営業もしておく。
それに私にとっては、お腹が満たされたあとのみんなの笑顔が見られるのが、何より嬉しい報酬なのだ。
「そうですか……。ありがとうございます。僕は二日ほどこの宿に滞在する予定なので、何か困ったことがあったら言ってくださいね」
私は、あのときお兄さんと一緒にうどんを食べていた、フード付きの外套を着た少年のことを思い出した。
「そうなんですね。あの弟さんもご一緒ですか?」
「弟……? あっ、ああそうです」
私が尋ねると、一瞬戸惑ったような顔をしたお兄さんだったが、すぐに笑顔に戻る。
「そうですか。ふたり旅なんですね」
「ねえねえ、なんの話~?」
お兄さんと話していると、スピカが割って入ってくる。
既に自分のうどんを食べ終えた彼女には、知らない話は退屈だったのだろう。
そしておそらく満腹になって、また眠くなってきたと思われる。
中身は大人でも、私もスピカもまだまだ子供の体だ。睡眠は大切にしないと。
「なんでもないよ。片付けて部屋に戻ろう」
「んー、そうね、眠い……」
スピカは素直に頷き、目を擦っている。
「それ、僕がやりますよ」
お兄さんはそう言って三人分の器をひょいと持ち上げると、「こっちですね」と厨房へと運んでくれた。慌てて追いかけてお礼を言ったあと、手早く洗いものをする。
お兄さんは、食器を拭く作業も手伝ってくれた。とってもいい人だ。
「スピカ、部屋に……」
部屋に戻ろう。食堂に戻ってそう言おうとした私が見たのは、テーブルに突っ伏してすうすうと寝息を立てるスピカの姿だった。
今日はずっとお手伝いをしてくれたから、疲れていたのだろう。
だけど、どうしよう。私じゃ彼女を屋根裏部屋までなんて、とても運べない。
でも、ここで朝まで寝たら体がバキバキになって、逆に疲れてしまうだろう。
(――あ)
ひとつの考えが頭を過って、私はお兄さんを見上げる。
「あの、お客様……さっき言ってた『困ったこと』なんですけど、今お願いしてもいいですか?」
「はい、勿論です」
「じゃあ、この子を部屋まで運んでくれませんか?」
「お安い御用です」
私がお願いすると、お兄さんは笑顔で了承してくれた。
そして寝ているスピカを軽々とお姫様抱っこすると、私の部屋まで運んでくれたのだった。
次の日の朝、お父さんに温玉釜玉うどんを披露すると「お前は天才か……!」と褒められ、すぐに食堂のメニューに仲間入りすることが決まった。
ただ、お昼時に大量に作るとなると人手が足りないから、宿泊客限定の夜のメニューとして提供することになった。それも特別感があっていい。
すっかりうどん屋と化したうちの宿屋の厨房で、現在は夜の営業を終えたお父さんとお母さんが仕込みを行っている。今までは参加できなかったけど、天かすと温玉の功績が認められて、私もついに厨房入りを果たした。今日はスピカはお休みだ。
お父さんは、感心したように口を開く。
「しかし、ミラは随分と手際がいいなぁ」
「お父さんの仕事をいつもこっそり見てたからだよ」
勿論理由はそれだけではないけれど、『前世の記憶があるから』なんてことは言えるはずもなく、無難な回答をしておいた。
それ以上追及されることなく、お父さんのお古の小さめの包丁をもらった私は、うっきうきだ。
その包丁を使って、お母さんと一緒に野菜の下ごしらえをする。その作業はとても大変で、前世のピーラーが切実に恋しくなった。
「ミラはお父さんに似て、料理の才能があるみたいね」
隣で優しく微笑むお母さんに、私も笑顔で返す。
「そうだったらいいなあ」
料理が好き。美味しいものが好き。
美味しいものを美味しそうに食べてくれる人を見るのが好き。
この世界のことをもっと知りたい。
そうしたら、もっと美味しい食材に会えるかもしれない。
そう思った私は、むくむくと大きくなる好奇心のままにお母さんに問いかけていた。
「ねえ、お母さん。この町って地図のどの辺にあるの? 海は近い? 特産品っていったら何かある?」
「地図ね……確か簡単なものがカウンターにあったと思うから、明日見てみる? この町の特産品ね、野菜が中心になるけど、一番はやっぱりレモンかしら。海は遠いわね。母さんはこの町から外に出たことがないのよ。いつか海を見てみたいわ」
「そうなんだ……」
食材についてリサーチをするために地図の話をしたところ、お母さんは困ったように微笑んだ。
そうか。この町から出ること自体、珍しいことなのかもしれない。
「親父さんの宿屋を継いでからはずっと休みなしだからなあ。どこにも連れて行ってあげられなくてごめんな、マーサ」
「いいえ。あなたがうちの宿屋を継いでくれたことが、何より嬉しいからいいんです」
「マーサ……」
「ふふっ。なあに、あなた」
……そして何故か最終的に、両親が見つめ合って頬を染める結果になってしまった。
でもまあ、家族の仲が良いのはいいことだ。うん。
この宿はお母さんの実家で、お父さんはお婿さんだったのか。
物心がついたときにはもう祖父母はなく、夫婦でこの宿を切り盛りしていたから、知らなかった。
「……私、ちょっと休憩してくるね」
視線を交わす夫婦を残して、私は厨房を出た。そして、閑散とした食堂でぐぐぐっと伸びをする。
(今日はスピカがいないから、夜食を作ることはないなぁ。……ちょっと残念かも)
私が何もない空間を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていたとき、客室に繋がる廊下のほうから誰かの声がした。
「お嬢さん、こんばんは」
その声が聞こえたほうを向くと、例の兄弟が扉からひょっこりと顔を出している。お兄さんはにこにこと笑っているが、弟さんは前と同じようにフードを目深に被っていて、顔が見えない。
「こんばんは。お客様、どうかされましたか?」
私は何食わぬ顔で、ぴんと伸ばしていた腕を下ろし、姿勢を正す。
深夜とまではいかないが、もう寝ていても不思議ではない時間だ。
こうして階下に下りてくるということは、宿に何か不手際でもあったのだろうか。
そう考えていると、お兄さんが笑顔のまま口を開く。
「あの、すみません。お願いがありまして」
「? なんでしょう。あ、お父さんを呼んできます」
クレームならばお父さんに対応してもらわなくては。
私が厨房に向かおうとしたとき、今まで黙っていたフードの弟さんが、がばりと顔を上げた。
「~~~、俺も、たまごのうどんが食べたい」
てんてんてん……と、三人の間に沈黙が落ちること数秒。
私はようやく気を取り直して、ふたりを見た。
よく通る声だったし、聞き間違いではないと思う。
薄暗いのでよく見えないが、弟さんがとても真剣なのはわかる。
「たまごのうどん……ですか。あ、昨日の夜にお兄さんが食べた、あのうどんですか?」
私が確認のために尋ねると、お兄さんが頷く。
「はい。僕がいただいた夜食の話をしたら、弟のレオも興味津々で。お昼や夜のメニューに入っていたら頼もうと思っていたのですが、なかったので直接お願いに来てしまいました」
……そうだ。昨夜作った分が少し余って、食べものを捨てるのはもったいなかったから、そのままにしていたんだった。
昨日まで目玉焼きを作るのが精一杯だった私がひとりで料理しただなんて、お父さんが驚くのも当然だ。私はいい言い訳を思いつくことができず、目を泳がせる。
「う……えと、勝手に厨房を使って、ごめんなさい」
「それはいい。いや、よくないが。そんなことより、あの味だ。何を入れた? ベースは俺の作ったスープだろうが、味が違う。うどんが一玉なくなっていたから、作ったのはうどんか? うどんのスープなんだろう。それにあの揚げカスのようなサクサクはなんだ?」
お母さんはまくしたてるお父さんを見ながら、くすくすと笑っている。
怒られると思っていたのに、料理のことについてあれこれ聞くお父さんの様子は、とても私を責めるようなものではない。
やっぱりお父さんは料理人なんだなあと思って、私も笑ってしまった。
「お父さん、これはね――」
そうして私は、お父さんに細かくスープと天かすの作り方について説明した。
そしてその日のお昼には、早速天かすうどんが食堂のメニューに加わったのだった。
「……なんだか大変なことになってるね」
うちの食堂の手伝いに来るなり、スピカは開口一番そう言った。
私とスピカがお互いのことを打ち明けてから、ひと月が経つ。
私たちは、以前よりもずっと仲良くなった。
「スピカ、おはよう」
笑顔で挨拶をしながら、私は手早くエプロンを身につける。スピカも私に倣った。
あの日、宿屋で出した天かすうどんが旅人や町の人の評判を呼び、お昼時になるとうちの食堂はすごく混むようになった。家族三人じゃ手が回らず、こうしてスピカや他の人たちにも手伝ってもらうことにしたのだ。
そうしたら、主に配膳を担当するスピカの美少女効果も加わり、客が客を呼ぶ状態となっている。毎日てんてこまいだ。
世の中、何がヒットするかわからないものだ。ただうどんに天かすをのっけただけなのに……
暫くしたら、他のお店でも真似されちゃうだろうけど、スープの味はなかなか真似できないだろう。
それに、思い返せばうどんのトッピングはいろいろあるし、また新しいものを作れば、この宿のオリジナリティは失われないはずだ。私は半熟卵の天ぷらをのせるのが好きだったから、それも近いうちにお父さんに言おうと思っている。
「ミラ、スピカ。お父さんが呼んでいたわ。また何か思いついたみたい。意見を聞かせてくれる?」
お母さんは忙しなくテーブルや椅子の準備をしながら、私とスピカに声をかける。
私たちは、お母さんに言われたとおりに厨房へと向かった。
「ああミラにスピカ、味見をしてみてくれ。今日のスープも傑作だぞ!」
お父さんに差し出されたスープを飲むと、以前のものよりも格段に美味しくなっていた。
「……うん、美味しい! きのこの風味がする~。やっぱりきのこは干すと旨味が凝縮するよね!」
「流石俺の娘だな! 大した味覚だ!」
子供の私の意見を無視することなく、取り入れてくれるお父さんに感謝したい。
私が天かすうどんを作って以来、お父さんは私にアドバイスを求め、こうして試作品を食べさせてくれる。怪しまれるはずの前世の知識を微塵も隠していないのに、何故こうも受け入れてくれるのかは不明だ。
「ふたりとも料理バカよね、きっと……。でも、このスープは本当に美味しい!」
盛り上がる私たちを呆れたように見ながら、スピカも舌鼓を打つ。
そうして味見や仕込みのお手伝い、食器の準備をしているうちに、あっという間にお昼時になった。厨房の手伝いが終わったので、私も配膳へとまわる。
「お待たせしました。かけうどん二つです」
注文どおりにテーブルにうどんを運ぶ。すると、そこにはこの町ではあまり見かけない綺麗な顔をした青年と、私と同い年くらいに見える少年が座っていた。
少年はフードを深く被っていてよく顔が見えない。兄弟なのだろうか。
「すみません。あの、これはなんですか……?」
うどんと共に運んだ山盛りの天かすと刻まれた香草を見て、青年はとても驚いている。
そうでしょう。きっとこの世界では、まだうちの宿屋でしか出していないもの。
「これは、天かすというものです。油で揚げてあるのでサクサクですよ。お好みの量をうどんに入れてくださいね。スープに浸すとぷわぷわになります。初めてなら、まずは軽くスプーン二杯程度入れるといいと思います。香草も味を確かめながら、好みに合わせてくださいね」
天かすは入れすぎると油っぽくなってしまうので、加減が必要だ。
山盛りに入れる人もいるけど、私はほどほどが好き。
私の説明を聞いた青年は、恐る恐るといった様子で、うどんに天かすと香草を入れて一口食べた。
「……! 美味しいです! でん……じゃなくて、レオも食べてみてください」
先に食べた兄がそう感想を述べて、自分が食べた器を弟に渡す。どうやらうどんを交換したようだ。
うどんを交換するなんて、なんだか不思議だなあと思ったけれど、そんなことを気にしている暇はない。まだ次々にうどんを運ばないといけないのだ。
「では、失礼しますね」
過保護な兄なんだろうと結論づけて、私は急いで厨房へと戻った。
やはり食堂は大盛況で、夜の宿屋営業まで混雑し続けた。スピカは遅くまで手伝ってくれたので、今日もお泊まりだ。
スピカがいると余計にお店が混む気もするが、意外と客のあしらいがうまく、接客慣れしている。
もしかしたら、前世で接客業のアルバイトでもしていたのかもしれない。
お互いに疲れきってはいるが、この話を外ですることもできないから、お泊まりの日のチャンスは逃せない。例のゲーム世界について、スピカに尋問の続きをしよう。
「そういえば聞いてなかったけど、具体的にどんな攻略法を試す予定だったの?」
私が問うと、スピカは少し照れ臭そうに口を開く。
「えーと、まず王子様はぁ、確か入学式のときにわたしが迷子になってるところを助けてくれるの。それで、そのお礼に手作りクッキーを作って……そこからちょこちょこ発生するイベントで、どんどん仲を深めていく感じ」
「わあ……」
その回答に、思わず変な声が出た。
(ええ……王子様ちょろすぎない? 手作りクッキーをもらって、恋に落ちるなんて。ちょろ甘すぎる)
ああでも。そういえば、乙女ゲームものの小説でも、ダメな王子は割とちょろい感じでヒロインに靡いて、婚約者の悪役令嬢を蔑ろにしてるパターンは多かった。
天真爛漫な姿がいいとか、新鮮だとかなんとか。
そういう場合は大体、ヒロインも王子もみんなまとめて『ざまあ』されていたように思う。
違うパターンは、王子は悪役令嬢のはずの婚約者に惚れ込んでいて、そのことに気付かずに悪役令嬢に悪さをした転生ヒロインを懲らしめる。
この世界がどっちに転ぶのかはわからない。私が知っているのは小説の展開だし、もしかしたらこの世界ではみんないい人かもしれない。その逆だってあり得る。
とはいえ、ゲーム展開に執着したままだと、破滅する可能性が高い。だって、現実に置き換えるとありえない行動が多すぎるから。地に足をつけて生活するのが一番だろう。
「うん……多分だけど。王子様って普通、毒見とかあるから、知らない人の手作りクッキーはもらわないと思う」
私が当たり前のことを伝えると、スピカは目を見開いた。
「ええ⁉ 手作りお菓子って、攻略アイテムとして王道じゃん!」
「……というか、そもそもスピカってクッキー作れるの? これまでの孤児院のバザーでも売り子をしてたから、作る側じゃなかったでしょ?」
「そ、それはほら、ヒロイン補正ってやつで、やってみたらちゃっちゃっとできるのよ……!」
「スピカ、『ざまあ』だよ」
お花畑な言い分を聞いたあと、冷えた目でスピカを見ると、彼女はぶるぶるっと身を震わせる。
「いや、なんなの『ざまあ』って。なんかわかんないけど怖いんだってば! フケイザイとかも……」
そういえばまだ『ざまあ』と『不敬罪』についてちゃんと説明していなかった。
「あのねスピカ、ざまあというのは――」
真剣な表情で私を見つめるスピカに、二つの単語の意味をこんこんと説明する。
小説では悪役令嬢が主人公の場合が多い。
転生し、前世の記憶を持っている悪役令嬢は、ゲームのストーリーとは全く異なる性格となり、本来であれば悪役になるはずの立ち位置にはおらず、攻略対象者たちと良好な関係を築いている。
それに気がつかずに、転生先が自分のための世界と信じて疑わないこれまた前世の記憶持ちのヒロイン――いわゆる電波ヒロインは、散々学園中をかき乱す。その挙句、悪役令嬢が断罪されるはずの場で大どんでん返しが起きて、ヒロインはこれまでの行いを咎められ、断罪される。
いわゆる、『ざまあ』をされるのだ。
攻略対象者たちは本当にヒロインに攻略されているパターンと、そうではないパターンがあるけど、どちらにしろヒロインが断罪される結果になる。
その説明が終わる頃にはスピカはうつろな目をして、「ミラ、うどん……」と夜食を求めてきた。身につまされる話だったようだ。
確かに私は、スピカの『ざまあ』を回避したいとは思っている。
だけど、ヒロインを餌付けしてまるまると大きくして戦線離脱させようという計画ではないから、この夜食の習慣は早々にやめさせないといけない。
スピカを戒めないと、と思いながらも、私は試作品の温泉卵の釜玉うどんを作り上げてしまった。
彼女は目を輝かせて、すぐに食べ始めている。いつもどおり、幸せそうな笑顔だ。
(うーん。この笑顔に弱いんだよね……)
そんな顔をされると、「たくさん食べていいよ!」と言いたくなってしまう。
スピカの満足そうな笑みと出来立てのうどんに抗えず、結局私も彼女と一緒に座って麺をすする。
今日は一日頑張ったし、明日もいっぱい働けば、帳消しだよね。そういうことにしておく。
つるりとした温泉卵の白身の部分と、まったり濃厚な黄身をまとった麺は、醤油をひとかけするだけで美味しい。さらに自分好みに薬味や天かすを追加すれば、もっと美味しくなる。
本当に当時の第二王子様々だ。この世界に醤油があるなんて、素敵すぎる。
塩でも勿論美味しいけど、醤油独特の深みのある芳ばしさは、元日本人にはたまらない。
眼前では、スピカも同じように身悶えしながら食べている。
この世界には、他にも何か日本風なものはあるのだろうか。
(豆腐があれば、お揚げを作れるから、じゅっと甘い味のきつねうどんができる……!)
人気のない食堂に、私たちが一心不乱に麺をすする音だけが響く。
そのとき、ことり、と物音が聞こえた。
私は食べるのをやめて、音のしたほう――客室へと続く扉に目を向けた。
「あ……宿屋の子たちでしたか」
暗くてうすぼんやりとしか見えないが、ゆっくりと開く扉から現れたのは、声色からして若い男のようだった。その人の手元が、きらっと光ったように見えたが、気のせいだろうか。
「お客様、どうしましたか? 私たち、うるさかったでしょうか……申し訳ありません」
私はぺこりと頭を下げながら言った。できるだけ物音を立てないようにしていたが、それでも人が移動する音や調理の音は、静かな建物に響くのだろう。
ここは宿屋であって、普通の家とは違うのだから、もう少し考えるべきだった。
私が反省していると、その男性客は逆に申し訳なさそうに、灯りがついている私たちのいるテーブルへと近寄ってくる。
「あ、いえ。僕が勝手に起きているだけなので、気にしないでください。階下から物音がしたので、何かあったのかと思いまして」
ようやく顔が見え、彼がお昼に食堂に来ていた客のひとりだということがわかった。
前世は小さなケーキ屋で接客もするパティシエ、今世では宿屋の娘だから、私は職業柄、人の顔を覚えることが得意だ。だからこの人が、兄弟で天かすうどんを仲良く食べていた人だということも覚えていた。
綺麗な顔立ちの人だったし、何よりそのときの行動が不思議だったから、という理由もある。
礼儀正しい人だなあと思いながらそのお兄さんを見ていると、ふと腰元に目がいった。そこには美しい装飾が施された剣がぶら下がっている。
(……やっぱり、さっき何かが光っていたのは見間違いじゃなくて、刃物の反射光だったんだ……)
一瞬それが怖くなったが、私はすぐに思い直した。
深夜の宿の階下から灯りが漏れていて、近づくとズルズルという音が聞こえたら、ちょっとしたホラーだ。事情を知らない人にとっては、武器を持っておきたくなるレベルに違いない。
納得しながらお兄さんを眺めていると、ぐうぅ、という音が聞こえてきた。
まず向かいに座るスピカに視線を向ける。すると、彼女は焦ったように首を横に振って、秒で否定した。
「いや、今回はわたしじゃないから!」
それはそうか。彼女のお腹は今、釜玉うどんで満たされているはずだ。
「す、すみません……僕です」
見上げると、お兄さんが眉尻を下げて、申し訳なさそうにはにかんでいる。どうやら、夜食が一人前追加になるらしい。
幸い、材料はまだある。温泉卵を作るのが楽しくて一気に四つ作ったから、問題はない。
沸騰したお湯に水を少し足して、その中に卵を暫く放置するだけであんなに素晴らしいものに変貌するなんて、最初に気付いた人は天才なんじゃないだろうか。
「ちょっと待っていてください。すぐに用意します。そこに座っていてくださいね」
「えっ、あの……!」
私はお兄さんに席につくように促すと、急いで厨房へと戻った。
お腹が空いている人がいるのだもの。満腹にしてあげないと気が済まない。
再度茹でたうどん麺に卵を落として、他の具材をのっける。
できるだけ急いで作り上げたそれをお兄さんの前に差し出した。彼は最初は遠慮していたが、食べ始めると一気に平らげてしまう。
「……ごちそうさまでした。すみません、僕までご馳走になってしまって。おいくらでしょうか?」
最後にお水を飲んで一息ついたお兄さんは、ようやく落ち着いたのか胸元から財布を取り出した。
それにしても、こんなに綺麗な美青年とうどんって、ギャップがすごい。
そんな関係ないことが脳裏を掠めながらも、私はその申し出を断った。
「試作品なので、無料です。ついでですし」
食堂の価格設定に私は携わっていないから、この食材で、お客さんからいくら取っていいものかわからない。今度、お母さんに帳簿を見せてもらいながら勉強しないといけない。
だが、お兄さんはそれでは納得できないのか、お財布をしまおうとしない。
「そんなわけにはいきません……材料費のこともありますし」
「いいえ、今回は本当に大丈夫です。……あ、では、また機会があれば、うちの宿に泊まっていただけると嬉しいです」
頑なに財布からお金を取り出そうとするお兄さんに、私は笑顔でそう告げる。宿屋の娘らしく、営業もしておく。
それに私にとっては、お腹が満たされたあとのみんなの笑顔が見られるのが、何より嬉しい報酬なのだ。
「そうですか……。ありがとうございます。僕は二日ほどこの宿に滞在する予定なので、何か困ったことがあったら言ってくださいね」
私は、あのときお兄さんと一緒にうどんを食べていた、フード付きの外套を着た少年のことを思い出した。
「そうなんですね。あの弟さんもご一緒ですか?」
「弟……? あっ、ああそうです」
私が尋ねると、一瞬戸惑ったような顔をしたお兄さんだったが、すぐに笑顔に戻る。
「そうですか。ふたり旅なんですね」
「ねえねえ、なんの話~?」
お兄さんと話していると、スピカが割って入ってくる。
既に自分のうどんを食べ終えた彼女には、知らない話は退屈だったのだろう。
そしておそらく満腹になって、また眠くなってきたと思われる。
中身は大人でも、私もスピカもまだまだ子供の体だ。睡眠は大切にしないと。
「なんでもないよ。片付けて部屋に戻ろう」
「んー、そうね、眠い……」
スピカは素直に頷き、目を擦っている。
「それ、僕がやりますよ」
お兄さんはそう言って三人分の器をひょいと持ち上げると、「こっちですね」と厨房へと運んでくれた。慌てて追いかけてお礼を言ったあと、手早く洗いものをする。
お兄さんは、食器を拭く作業も手伝ってくれた。とってもいい人だ。
「スピカ、部屋に……」
部屋に戻ろう。食堂に戻ってそう言おうとした私が見たのは、テーブルに突っ伏してすうすうと寝息を立てるスピカの姿だった。
今日はずっとお手伝いをしてくれたから、疲れていたのだろう。
だけど、どうしよう。私じゃ彼女を屋根裏部屋までなんて、とても運べない。
でも、ここで朝まで寝たら体がバキバキになって、逆に疲れてしまうだろう。
(――あ)
ひとつの考えが頭を過って、私はお兄さんを見上げる。
「あの、お客様……さっき言ってた『困ったこと』なんですけど、今お願いしてもいいですか?」
「はい、勿論です」
「じゃあ、この子を部屋まで運んでくれませんか?」
「お安い御用です」
私がお願いすると、お兄さんは笑顔で了承してくれた。
そして寝ているスピカを軽々とお姫様抱っこすると、私の部屋まで運んでくれたのだった。
次の日の朝、お父さんに温玉釜玉うどんを披露すると「お前は天才か……!」と褒められ、すぐに食堂のメニューに仲間入りすることが決まった。
ただ、お昼時に大量に作るとなると人手が足りないから、宿泊客限定の夜のメニューとして提供することになった。それも特別感があっていい。
すっかりうどん屋と化したうちの宿屋の厨房で、現在は夜の営業を終えたお父さんとお母さんが仕込みを行っている。今までは参加できなかったけど、天かすと温玉の功績が認められて、私もついに厨房入りを果たした。今日はスピカはお休みだ。
お父さんは、感心したように口を開く。
「しかし、ミラは随分と手際がいいなぁ」
「お父さんの仕事をいつもこっそり見てたからだよ」
勿論理由はそれだけではないけれど、『前世の記憶があるから』なんてことは言えるはずもなく、無難な回答をしておいた。
それ以上追及されることなく、お父さんのお古の小さめの包丁をもらった私は、うっきうきだ。
その包丁を使って、お母さんと一緒に野菜の下ごしらえをする。その作業はとても大変で、前世のピーラーが切実に恋しくなった。
「ミラはお父さんに似て、料理の才能があるみたいね」
隣で優しく微笑むお母さんに、私も笑顔で返す。
「そうだったらいいなあ」
料理が好き。美味しいものが好き。
美味しいものを美味しそうに食べてくれる人を見るのが好き。
この世界のことをもっと知りたい。
そうしたら、もっと美味しい食材に会えるかもしれない。
そう思った私は、むくむくと大きくなる好奇心のままにお母さんに問いかけていた。
「ねえ、お母さん。この町って地図のどの辺にあるの? 海は近い? 特産品っていったら何かある?」
「地図ね……確か簡単なものがカウンターにあったと思うから、明日見てみる? この町の特産品ね、野菜が中心になるけど、一番はやっぱりレモンかしら。海は遠いわね。母さんはこの町から外に出たことがないのよ。いつか海を見てみたいわ」
「そうなんだ……」
食材についてリサーチをするために地図の話をしたところ、お母さんは困ったように微笑んだ。
そうか。この町から出ること自体、珍しいことなのかもしれない。
「親父さんの宿屋を継いでからはずっと休みなしだからなあ。どこにも連れて行ってあげられなくてごめんな、マーサ」
「いいえ。あなたがうちの宿屋を継いでくれたことが、何より嬉しいからいいんです」
「マーサ……」
「ふふっ。なあに、あなた」
……そして何故か最終的に、両親が見つめ合って頬を染める結果になってしまった。
でもまあ、家族の仲が良いのはいいことだ。うん。
この宿はお母さんの実家で、お父さんはお婿さんだったのか。
物心がついたときにはもう祖父母はなく、夫婦でこの宿を切り盛りしていたから、知らなかった。
「……私、ちょっと休憩してくるね」
視線を交わす夫婦を残して、私は厨房を出た。そして、閑散とした食堂でぐぐぐっと伸びをする。
(今日はスピカがいないから、夜食を作ることはないなぁ。……ちょっと残念かも)
私が何もない空間を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていたとき、客室に繋がる廊下のほうから誰かの声がした。
「お嬢さん、こんばんは」
その声が聞こえたほうを向くと、例の兄弟が扉からひょっこりと顔を出している。お兄さんはにこにこと笑っているが、弟さんは前と同じようにフードを目深に被っていて、顔が見えない。
「こんばんは。お客様、どうかされましたか?」
私は何食わぬ顔で、ぴんと伸ばしていた腕を下ろし、姿勢を正す。
深夜とまではいかないが、もう寝ていても不思議ではない時間だ。
こうして階下に下りてくるということは、宿に何か不手際でもあったのだろうか。
そう考えていると、お兄さんが笑顔のまま口を開く。
「あの、すみません。お願いがありまして」
「? なんでしょう。あ、お父さんを呼んできます」
クレームならばお父さんに対応してもらわなくては。
私が厨房に向かおうとしたとき、今まで黙っていたフードの弟さんが、がばりと顔を上げた。
「~~~、俺も、たまごのうどんが食べたい」
てんてんてん……と、三人の間に沈黙が落ちること数秒。
私はようやく気を取り直して、ふたりを見た。
よく通る声だったし、聞き間違いではないと思う。
薄暗いのでよく見えないが、弟さんがとても真剣なのはわかる。
「たまごのうどん……ですか。あ、昨日の夜にお兄さんが食べた、あのうどんですか?」
私が確認のために尋ねると、お兄さんが頷く。
「はい。僕がいただいた夜食の話をしたら、弟のレオも興味津々で。お昼や夜のメニューに入っていたら頼もうと思っていたのですが、なかったので直接お願いに来てしまいました」
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