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1巻
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なるほど。弟さんは、お兄さんから背徳の夜食、温玉釜玉うどんの話を聞いて、自分も食べたくなったみたいだ。すぐにでも用意したいところだけど、ひとつだけ問題がある。
「釜玉うどんはまだメニューには載せていなくて、これから夜のメニューに追加する予定です。それで、今は卵がないから、作れないんです」
「そうか……」
弟さんの声が、弱々しくなる。実際、とても残念そうな顔をしている。
そんなに食べたかったのだろうか。
だが生憎、今は新鮮な卵のストックがない。朝になれば鶏さんが卵を産んでいるかもしれないけれど……
お兄さんは、私にぺこりと頭を下げた。
「無理を言ってしまって申し訳ありません。仕方がありませんね。レオ、部屋に戻りましょう」
「……ああ」
くるりと向きを変えてふたりが立ち去ろうとする。その背中には、哀愁のようなものが漂っていた。
「あの!」
私は、そんなふたりをついつい呼び止めてしまう。
何より、腹ぺこな人をそのまま部屋に戻すわけにはいかない。
「ちょっと、座って待っていてくれませんか? 何か作ってお持ちします。卵はないですけど、うどんはいっぱいありますから!」
精一杯の笑顔を作って「こちらにどうぞ!」と半ば強引に席に案内したあと、私は急いで厨房へと駆けた。
茹でた麺、切ったお野菜、ベーコン、胡麻。
食材を準備して、調理台に並べる。
「ミラ、ほらこれ。量は多くないが、以前試しに仕入れたものだ」
お父さんから受け取った小瓶に入っているのは、茶色がかったとろりとした液体。
蓋を開けてにおいを嗅ぐと、胡麻の芳ばしい香りがする。
やっぱり、これを作るときは、胡麻油のほうが美味しいもんね。
お父さんが厨房にいるのだから、彼らの分のお夜食を作ってもらうこともできたけど、私は自分で作りたかった。だから、お父さんにお願いして作らせてもらうことにした。
卵がない上に、いつものスープもこれから仕込むところだから、まだできていない。
スープを使わないとなると、私の頭に浮かんだうどんのレシピはひとつだった。
火にかけた鉄のフライパンに胡麻油とベーコンを入れると、じゅう、と小気味よい音がした。
ベーコンの脂身がふつふつと動き出したところで野菜を投入し、美味しい塩味と脂をしっかりとまとわせる。既にこの時点で、食欲をそそるいい香りだ。
「ほう。うどんを炒めるのか? うどんはスープに入れて食べるもの、という先入観があったが、確かにパスタも炒めることがあるなぁ」
「でしょう? うどんも炒めたら美味しいと思うの!」
感心して覗き込んでくるお父さんに、私は得意げに言う。
「まあミラ、すごいわ」
お母さんも、優しく褒めてくれた。
踏み台に乗って料理を作る私を、両親は後ろから見守ってくれる。
その温かい視線を感じながら、私は野菜に火が通ったところで麺を入れ、手早く混ぜる。
そこに醤油を回しかけると、鍋肌にあたったところがじゅうじゅうと焦げ、一気に醤油の芳ばしい香りが広がった。
「……最後に胡麻をかけて、と」
本当は鰹節をふわりとのせて、熱気に踊る様子を楽しみたいのだけど、この世界でそれは見たことがない。今度探すことにしよう。
とにかく今は、この出来立ての焼きうどんを、あの腹ぺこ兄弟に届けるのが優先だ。
出来立て熱々の焼きうどんを急いで運ぼうと思ったら、大皿をお母さんが持ってくれた。私はお母さんの後ろから、取り皿やお水などを持っていくことにする。
食堂に足を踏み入れた瞬間、腹ぺこ兄弟の視線が私に――というよりは、山盛りのうどんに集まるのを感じる。お母さんがテーブルの上に焼きうどんを置いたとき、ゴクリと唾を呑む音が聞こえた。
「さあ召し上がってください。特製の……あらミラ、これはなんていうお料理?」
「焼きうどんだよ」
腹ぺこふたりに取り皿を配膳しながら、お母さんの問いに答える。
お母さんはにっこり笑って、兄弟のほうに向き直った。
「そうそう、特製の焼きうどんです。どうぞ」
「やきうどん……」
「……さっきからしていたいい香りの正体はこれだったんですね。では、いただきます」
焼きうどんの名前を復唱するフードの弟さんを横目に、先にお兄さんがうどんに箸をつける。
彼はうどんの山から取り皿に少し麺を移したあと、パクリと口に運んだ。
「……! 美味しいです! レオ、レオも食べてみてください」
慎重にうどんを食べ始めたお兄さんは、驚いた表情をしたあと、急いで弟さんの分を小皿に取り分けて手渡す。
弟さんはその皿を受け取り、お兄さんと同じく、恐る恐るといった表情でうどんを口に入れた。そして何度か咀嚼したあと、お兄さんと同じく目を瞠る。
「美味しい……!」
そう小さく呟くと、彼はまたひと口食べる。
もぐもぐと頬張って呑み込むと、無言でまた次のひと口。
お兄さんも遠慮がちではあるけれど、また少し自分の取り皿に焼きうどんをのせたようだった。
ふたりの様子を見て、私は嬉しくなる。
「お口に合ったみたいで、よかったです。では、ごゆっくりどうぞ」
「食べ終わったら教えてくださいね」
夢中で焼きうどんを食べるふたりに、そう言ったお母さんと一緒に頭を下げて、私たちは厨房へと引っ込む。あのペースだと、すぐに食べ終わったという合図がありそうだ。
厨房に戻った私は、お父さんとお母さんと三人で、残しておいた焼きうどんを味見することにした。芳ばしい醤油の風味とベーコンの塩気、麺のもちもち食感をみんなで楽しむ。
そして十数分後、空っぽの大皿と取り皿、コップを持って、お兄さんが厨房の中に声をかけてきた。
「ご馳走様でした。一気に食べてしまいました」
思ったよりも、ずっと食べ終わるのが早かった。
スープで食べるうどんとはまた違って、焼きうどんには芳ばしさという武器があり、それがまたあとを引く。きっと、その魅力に抗えなかったのだろう。わかるわかる。
私は腹ぺこ兄がお母さんに食器を渡すところを見ながら、腕組みをしてふむふむと頷く。すると、お母さんと何やら話していたお兄さんは、ふいに私のほうを見た。
意味深なその眼差しと、私の視線が交差する。
「これを作ったのは、お嬢さんなんですよね?」
「あ、はい。一応……」
「昨日のたまごのうどんもですよね?」
「……そうです」
よくわからないまま、お兄さんの質問に答えると、彼は優しい微笑みを浮かべた。
「とても料理がお上手なんですね。シェフのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
その言葉を聞いて、私はお兄さんの前へと足を進める。
「ミラといいます」
「ミラさん……。君はきっと将来、素晴らしいシェフになれますね。今日のうどんも、とても美味しかったです」
背の高いお兄さんが、膝を曲げて私に視線を合わせてくれる。
薄暗い食堂とは違って明るい厨房にいる今、笑顔のお兄さんはとてもカッコいいことがわかった。
そんな人に褒められると、なんだかむずがゆい。
年甲斐もなく、いやまあ、外見の年齢的にはいいのだろうけど、テレテレと照れてしまう。
「あの……」
私が内心身悶えていると、お兄さんの後ろからフードの弟さんがひょこりと顔を出した。
「ミラ、ありがとう。やきうどん、初めて食べたけど、すごく美味しかった」
「よかったです。今度はたまごのうどんも用意しておきます。明日はきっと卵があるので」
そう言ったあとにお父さんのほうをちらりと見ると大きく頷いていたので、大丈夫ということだろう。宿泊者限定、温玉釜玉うどんは明日の夜から始まるようだ。
「本当か! やきうどん、美味しかったけど、やっぱりたまごのほうも気になってたんだ! ありがとう、ミラ!」
弟さんはフードを被ったままだったが、キラキラとした笑顔はしっかり見えた。
私の料理でこんなに喜んでくれるのなら、絶対にたまごのうどんを食べてもらいたい。
――そうして翌日の夕方、明らかにうきうきとした様子でお兄さんと共に食堂に来た弟さんは、念願の温玉釜玉うどんを口にした。
配膳の手伝いをしていた私は、彼が焼きうどんのときと同じように美味しさに感動している様子を見て、思わず笑顔になったのだった。
二 ヒロインにも事情がある
温玉釜玉うどんがメニューの仲間入りを果たしてから、暫く経ったある日。
「お手伝いもいいけれど、たまには遊んでおいで」とお母さんに言われた私は、今日は教会に遊びに来ていた。正確には、教会に併設された孤児院で、スピカの住まいでもある。
孤児院を訪ねると、早速スピカが出迎えてくれた。
「あれ、ミラ? 珍しいね。食堂は休み?」
「おはよう、スピカ。今日は私だけお休みをもらったの。ちょっと調べたいこともあったし」
「ふうん?」
不思議そうな顔のスピカに中に入れてもらって、他の子供たちにも挨拶をしたあと、私は本棚へと向かった。
「え、なになに? 勉強するの?」
驚いたような声をあげるスピカに、私は答える。
「うーん。ちょっとこの世界のことを知りたくて」
先日、約束どおりお母さんに見せてもらった地図は、私がイメージしていた日本地図や世界地図とはまるで違っていた。
簡素な図形の上にこの町が黒の点で示され、そこを起点として東西南北の街道が簡単な線で記されているだけだった。勿論、地形なんてものはわからず、『港町方面』とか『山』とか、そんな単語しか書かれていない。どのくらいの距離があるのかはわからないが、とりあえずこの町から東の街道に沿って行くと、王都に着くらしい。
他に何かこの国のことがわかるものがないかを探しに来てみたのだが、本棚には子供向けの絵本ばかりが並べられ、それらしい本はない。
この小さな町には図書館のような施設もないし、各家庭に本があることは稀だろう。
この町では勉強をする子供はほとんどおらず、みんな家の手伝いをしているから。
探している本があるとしたら教会くらいだろうと思っていたのだが、完全に当てが外れてしまった。
街道の休憩地点であるこの町は、それなりに旅人は来るし、物資も足りている。学校はないけど多くの商人や旅人たちと交流があるからか、識字率は低くないようなのに。
私は、この世界のことをもっと知りたい。それで、いろんなものを作りたいのだ。
「……なんかミラって、昔から真面目だよね。前世のこと思い出したのって、この前なんでしょ? だけどあんまり変わんないんだね」
私の隣で一緒になって本をめくりながら、スピカは頬杖をついてそう呟く。
そっか、私はこの前のスピカの発言のおかげで前世のことを思い出したけど、スピカは違うのか。
「そういえば、スピカはいつから記憶があるの?」
軽い気持ちで問いかけたが、スピカの表情は悲しげなものに変わる。
「……お母さんが死んだときだから、三年前くらい」
「そっか。ごめん、無神経だったね」
三年前といえば、私たちはまだ五歳。両親が健在で、今も帰る家があって、素朴ながらも温かい家庭で育った私とは違って、スピカはそのときから独りなのだ。
申し訳ない気持ちになって謝る私に、スピカはふるふると首を横に振った。
「ううん。お母さんが死んだことはショックだったけど、乙女ゲームのことを思い出せたから、よかったの。だって、この先天涯孤独だと思いながら暮らすことに比べたら、あとでお父さんが迎えに来て、楽しくて幸せになれる学園生活が送れると知れて、気が楽だったし」
「スピカ……」
「だって、ゆくゆくは王子様とだって出会えるんだよ? それに……お母さん以外にも本当の家族がいるって、まだわたしにはお父さんがいるって知ってたから、乗り越えられた」
淡々と話すスピカに、私は悲しいような切ないような、複雑な気持ちになった。
(……だからスピカは、乙女ゲームの展開を信じているのか)
それが、ヒロインに転生したスピカにとっての生きる希望で、糧なのだ。
私たちが暮らしていた現代社会に比べたら、いくら本当の中世ではない乙女ゲームの世界といっても、生活水準はかなり落ちる。
よくある悪役令嬢のように高位貴族に転生したならば少し違うのかもしれないが、便利な現代の記憶があるまま、この小さな町の小さな孤児院で暮らすことになったら、どうだろう。
藁にもすがる思いで、将来ここから救い出してくれる人を待つだろう。
それが、スピカにとっては十歳でお迎えに来てくれる伯爵家の使いであり、学園で出会う攻略対象者たちなのだ。この町でのスピカの振る舞いがこれまで高慢だったのも、『知っていた』からなのだと、唐突に理解した。
スピカはずっと知っていたんだ。いずれここを出ていって、二度と戻らないことを。
「――あ、でも」
パラパラと本をめくっていたスピカがふいに顔を上げる。
彼女はなんと声をかけていいかわからずにいた私を見て、花が綻ぶようにふわりと笑った。
「前はただ早く十歳になれって、そればっかりだったけど、ミラと過ごすようになってからは楽しい」
「スピカ……」
思わず感極まった私に、スピカはさらに続ける。
「わたしのことをちゃんと見てくれるし、怒ってくれるし。お姉ちゃんができたみたい」
「そういうことなら……私のこと、お姉ちゃんって呼んでくれてもいいんだよ?」
私がそう言うと、スピカは勢いよく大声をあげる。
「呼ばないよ! 同い年なのに変に思われるじゃん! でも、ミラ……ありがとう」
それだけ言うと、スピカは照れたようにぷいとそっぽを向いてしまった。
なんだろう、可愛い。
スピカはいろいろなことが重なって、少し視野が狭くなってしまってただけ。ゲームの展開に頼るのではなく自らの考えで歩いていけるようになれば、破滅的な未来は訪れない。そんな気がする。
現にスピカの態度は以前よりも丸くなり、彼女を毛嫌いしていた町の女の子たちは戸惑っているようだ。スピカを崇拝している男の子たちは……まあ男の子は放っておこう。最終的に大切なのは同性からの評価だと思う。
ひとりで納得した私は、雑然と並ぶ本棚から少しずつ本を取り出し、読書に没頭することにした。
それから暫くふたりで本を探したが、私が知りたい情報はあまりなかった。
まあでも、こんなにじっくり本を読むことはなかったから、字の勉強にはなった。
だからかは知らないが、隣にいるスピカはぐったりしている。
「スピカ、この世界のことについて、ちょっと聞いてもいい?」
「いいよ。でも終わったらご飯食べたい」
質問をすると、切実な言葉が返ってきた。一生懸命に頑張ってくれたスピカは、お腹が空いているらしい。確認し終わったら昼食作りのお手伝いに行かなくては。
早くスピカにご飯を食べてもらうためにも、ぱぱっと聞いてしまおう。
「ここが乙女ゲームの世界、っていうのは間違いない?」
「勿論! わたしの名前もそうだけど、ヒロインの幼少期と同じ顔だし、境遇も一緒だもん。町の名前も」
スピカが自信満々に言い切るので、これは間違いないのだろう。
「じゃあさ、そのゲームの中に、食べものとかは出てきた? ここは魔法のある世界とかじゃないよね? 私も生まれてから、魔法は一度も見たことないし」
「食べものに注目してゲームやってなかったからわかんないけど……クッキーはあったって言ったよね。あ、あとはピクニック的なデートイベントがあったけど、サンドイッチみたいのが背景に映ってた。カップケーキみたいなやつとか。ゲームのシナリオに魔法はなくて、純粋な恋愛要素だけ」
「なるほど……。あ、海のシーンはなかった? 魚料理とかあった?」
「んー、港町にお忍びデートするイベントはあったけど、料理はどうだろ? でも海の側なんだから、魚料理もあるんじゃない」
「そっか……!」
一通りスピカの回答を聞いて、私は身を乗り出す。
ゲーム内にも海がある町はやはり存在しているらしい。いつか絶対に行きたい。
スピカが教えてくれたゲームの情報と私がこれまで暮らしてきた知識を合わせて、この世界のことを整理していく。
この国は、うどんブームのおかげかはわからないけれど、小麦の製粉技術は進んでいるらしい。うちの地下室に氷室のようなものがあるから、冷凍も問題なさそうだ。
電気やガスはないから、調理はかまどを使うのがメイン。うちは宿屋だから厨房が広くて、パン用のかまど以外にも火にかけられる場所があるけど、一般家庭ならもっと制限されるだろう。
やっぱりこの国は、現代日本のように進歩しているところと、そうでないところがあって、どうもちぐはぐだ。
乙女ゲーム自体が日本で開発されたからかもしれないけれど、もしかしたら、私たちのように前世の記憶を持つ人々がいて、持っている知識と技術で少しずつ進歩したのかもしれない。
(ああ、なんかこの世界のご飯の可能性は無限大な気がしてきた……! 王都に行ったら、どんな食材があるんだろう)
私が知っているのは、あくまでこの小さな町のことだけだ。スピカが連れて行かれるであろう王都での暮らしは、もっと豊かなものなのだろう。お貴族様だし。
スピカから得られた食材の情報に、私は思わずにまにましてしまった。すると私のワンピースの袖を、スピカが軽く引っ張る。
「ていうかミラって、乙女ゲームの攻略対象者がどんな感じとか、気にならないわけ? どんなイケメンが攻略対象者で、どう攻略するのかとか。さっきから食べもののことばっかりじゃん」
「え? ああ~うん、特には興味ないかな。二十年前にうどんを考案した第二王子には、会って話を聞いてみたい気はするけど」
彼女を見ると、呆れたような顔で私を眺めていた。
でも仕方がない。モブである私が気になるのは、今後一生出会わないであろうキラキラの攻略対象者のことよりも、食材のことなのだから。
「それよりやっぱり、王都とか港町の食材が気になるかなぁ。港町に行ったら鯖とかあるかな? 私が知ってる限りではヨーロッパにも鯖サンドの文化があったはずだから、あってもおかしくないと思うんだけど」
「ミラ、あんたね……」
スピカがじとっと見つめてくるけれど、私は思考に耽る。
鯖があったら、まずは焼き魚かなあ。ああでも、衣をつけて、フライにして、カリッと揚げちゃうのもいいよねぇ。焼き魚に大根おろしを添えて、それに味噌汁があったら……うん、白いご飯が欲しくなる。
だが生憎、白米は生まれてこの方見たことがない。
もしかしたら王都に行けばあるかもしれない。
きっと城下町の市場に行けば、この町よりもたくさんの食材が私を迎えてくれるだろう。
鯖から派生して、たくさんの食材に思いを馳せる私に見切りをつけたのか、スピカは黙って、広げた本の整理を始めている。
スピカが乙女ゲームが大好きなのと同じように、私だってお菓子作りや料理全般が大好きなのだから、どうしても思考回路がそちら寄りになるのは許してほしい。
(……そんな私が異世界ものの小説を読み始めたのは、何がきっかけだったんだろう)
たくさんの食材と便利道具に囲まれた豊かな前世では、今以上に料理に没頭していたはずだ。それなのに、私がお菓子や料理以外に興味を持ったきっかけはなんだったのだろう。
思い出そうとしても、そのあたりの記憶は相変わらず靄がかかったようにぼんやりとしている。
パティシエとして生計を立てていたのなら、忙しい日々だったはずだ。どこで、私は……
「……ラ、ミラ!」
「……スピカ?」
少し離れた位置で本の整理をしていたはずのスピカが、私の両肩を掴んでいた。
いつの間に移動したんだろう。全く気がつかなかった。
私がまだぼんやりしていると、スピカはそのまま私の肩を揺さぶる。
「なんなのよ、食べものの話しながらニマニマしてたかと思ったら、急に真顔になって黙り込んで……」
「あ……ごめん」
「呼んでもすぐ答えないし……どこか悪いのかと……! っ、ほら早くしてよ、お昼も何か作ってくれるんでしょう」
スピカは私のことを心配してくれたようで、必死の形相になっていた。けれど急に顔を背けてスタスタと歩き出してしまう。
だけど私には見えた。あちらを向く瞬間、ほんのり桃色に染まった彼女の頬が。
「ふふ、心配してくれてありがとう、スピカ! 今日はお母さんがたくさんパンを焼いてくれたから、うどんじゃなくてパンだけどいい?」
彼女を追いかけながらそう言うと、少し間を空けてから、「別にうどんだけが好きなわけじゃないし!」という元気な声が返ってきた。
先を進むスピカを追いかけるようにして孤児院の厨房に着くと、既にシスターたちが昼食の準備をしていた。
大きな鍋が火にかけられている。きっと野菜スープか何かを作っているのだろう。
教会への寄附金や支援物資で運営されているこの孤児院は、当然のことながらとても豊かな食生活ができているとは言えない。ただ、子供たちは飢える心配をする必要はない。
贅沢な暮らしはできなくても、今現在の安定した暮らしは保証されているのだ。
「ねえミラ、何を作るの?」
お母さんから預けられたパンが入った籠を持っている私に、スピカがそう問いかける。
使える材料は限られているし、孤児院でも普段から作れるような、簡単なメニューがいいだろう。
スープは出来上がっているようだから、工夫をするならパンのほう。となると……
「パン・コン・トマテって知ってる?」
スピカに聞いてみると、「は? 何かの呪文?」という、ある意味予想どおりの返事があった。首を傾げる彼女に、私はその料理の説明をする。
「釜玉うどんはまだメニューには載せていなくて、これから夜のメニューに追加する予定です。それで、今は卵がないから、作れないんです」
「そうか……」
弟さんの声が、弱々しくなる。実際、とても残念そうな顔をしている。
そんなに食べたかったのだろうか。
だが生憎、今は新鮮な卵のストックがない。朝になれば鶏さんが卵を産んでいるかもしれないけれど……
お兄さんは、私にぺこりと頭を下げた。
「無理を言ってしまって申し訳ありません。仕方がありませんね。レオ、部屋に戻りましょう」
「……ああ」
くるりと向きを変えてふたりが立ち去ろうとする。その背中には、哀愁のようなものが漂っていた。
「あの!」
私は、そんなふたりをついつい呼び止めてしまう。
何より、腹ぺこな人をそのまま部屋に戻すわけにはいかない。
「ちょっと、座って待っていてくれませんか? 何か作ってお持ちします。卵はないですけど、うどんはいっぱいありますから!」
精一杯の笑顔を作って「こちらにどうぞ!」と半ば強引に席に案内したあと、私は急いで厨房へと駆けた。
茹でた麺、切ったお野菜、ベーコン、胡麻。
食材を準備して、調理台に並べる。
「ミラ、ほらこれ。量は多くないが、以前試しに仕入れたものだ」
お父さんから受け取った小瓶に入っているのは、茶色がかったとろりとした液体。
蓋を開けてにおいを嗅ぐと、胡麻の芳ばしい香りがする。
やっぱり、これを作るときは、胡麻油のほうが美味しいもんね。
お父さんが厨房にいるのだから、彼らの分のお夜食を作ってもらうこともできたけど、私は自分で作りたかった。だから、お父さんにお願いして作らせてもらうことにした。
卵がない上に、いつものスープもこれから仕込むところだから、まだできていない。
スープを使わないとなると、私の頭に浮かんだうどんのレシピはひとつだった。
火にかけた鉄のフライパンに胡麻油とベーコンを入れると、じゅう、と小気味よい音がした。
ベーコンの脂身がふつふつと動き出したところで野菜を投入し、美味しい塩味と脂をしっかりとまとわせる。既にこの時点で、食欲をそそるいい香りだ。
「ほう。うどんを炒めるのか? うどんはスープに入れて食べるもの、という先入観があったが、確かにパスタも炒めることがあるなぁ」
「でしょう? うどんも炒めたら美味しいと思うの!」
感心して覗き込んでくるお父さんに、私は得意げに言う。
「まあミラ、すごいわ」
お母さんも、優しく褒めてくれた。
踏み台に乗って料理を作る私を、両親は後ろから見守ってくれる。
その温かい視線を感じながら、私は野菜に火が通ったところで麺を入れ、手早く混ぜる。
そこに醤油を回しかけると、鍋肌にあたったところがじゅうじゅうと焦げ、一気に醤油の芳ばしい香りが広がった。
「……最後に胡麻をかけて、と」
本当は鰹節をふわりとのせて、熱気に踊る様子を楽しみたいのだけど、この世界でそれは見たことがない。今度探すことにしよう。
とにかく今は、この出来立ての焼きうどんを、あの腹ぺこ兄弟に届けるのが優先だ。
出来立て熱々の焼きうどんを急いで運ぼうと思ったら、大皿をお母さんが持ってくれた。私はお母さんの後ろから、取り皿やお水などを持っていくことにする。
食堂に足を踏み入れた瞬間、腹ぺこ兄弟の視線が私に――というよりは、山盛りのうどんに集まるのを感じる。お母さんがテーブルの上に焼きうどんを置いたとき、ゴクリと唾を呑む音が聞こえた。
「さあ召し上がってください。特製の……あらミラ、これはなんていうお料理?」
「焼きうどんだよ」
腹ぺこふたりに取り皿を配膳しながら、お母さんの問いに答える。
お母さんはにっこり笑って、兄弟のほうに向き直った。
「そうそう、特製の焼きうどんです。どうぞ」
「やきうどん……」
「……さっきからしていたいい香りの正体はこれだったんですね。では、いただきます」
焼きうどんの名前を復唱するフードの弟さんを横目に、先にお兄さんがうどんに箸をつける。
彼はうどんの山から取り皿に少し麺を移したあと、パクリと口に運んだ。
「……! 美味しいです! レオ、レオも食べてみてください」
慎重にうどんを食べ始めたお兄さんは、驚いた表情をしたあと、急いで弟さんの分を小皿に取り分けて手渡す。
弟さんはその皿を受け取り、お兄さんと同じく、恐る恐るといった表情でうどんを口に入れた。そして何度か咀嚼したあと、お兄さんと同じく目を瞠る。
「美味しい……!」
そう小さく呟くと、彼はまたひと口食べる。
もぐもぐと頬張って呑み込むと、無言でまた次のひと口。
お兄さんも遠慮がちではあるけれど、また少し自分の取り皿に焼きうどんをのせたようだった。
ふたりの様子を見て、私は嬉しくなる。
「お口に合ったみたいで、よかったです。では、ごゆっくりどうぞ」
「食べ終わったら教えてくださいね」
夢中で焼きうどんを食べるふたりに、そう言ったお母さんと一緒に頭を下げて、私たちは厨房へと引っ込む。あのペースだと、すぐに食べ終わったという合図がありそうだ。
厨房に戻った私は、お父さんとお母さんと三人で、残しておいた焼きうどんを味見することにした。芳ばしい醤油の風味とベーコンの塩気、麺のもちもち食感をみんなで楽しむ。
そして十数分後、空っぽの大皿と取り皿、コップを持って、お兄さんが厨房の中に声をかけてきた。
「ご馳走様でした。一気に食べてしまいました」
思ったよりも、ずっと食べ終わるのが早かった。
スープで食べるうどんとはまた違って、焼きうどんには芳ばしさという武器があり、それがまたあとを引く。きっと、その魅力に抗えなかったのだろう。わかるわかる。
私は腹ぺこ兄がお母さんに食器を渡すところを見ながら、腕組みをしてふむふむと頷く。すると、お母さんと何やら話していたお兄さんは、ふいに私のほうを見た。
意味深なその眼差しと、私の視線が交差する。
「これを作ったのは、お嬢さんなんですよね?」
「あ、はい。一応……」
「昨日のたまごのうどんもですよね?」
「……そうです」
よくわからないまま、お兄さんの質問に答えると、彼は優しい微笑みを浮かべた。
「とても料理がお上手なんですね。シェフのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
その言葉を聞いて、私はお兄さんの前へと足を進める。
「ミラといいます」
「ミラさん……。君はきっと将来、素晴らしいシェフになれますね。今日のうどんも、とても美味しかったです」
背の高いお兄さんが、膝を曲げて私に視線を合わせてくれる。
薄暗い食堂とは違って明るい厨房にいる今、笑顔のお兄さんはとてもカッコいいことがわかった。
そんな人に褒められると、なんだかむずがゆい。
年甲斐もなく、いやまあ、外見の年齢的にはいいのだろうけど、テレテレと照れてしまう。
「あの……」
私が内心身悶えていると、お兄さんの後ろからフードの弟さんがひょこりと顔を出した。
「ミラ、ありがとう。やきうどん、初めて食べたけど、すごく美味しかった」
「よかったです。今度はたまごのうどんも用意しておきます。明日はきっと卵があるので」
そう言ったあとにお父さんのほうをちらりと見ると大きく頷いていたので、大丈夫ということだろう。宿泊者限定、温玉釜玉うどんは明日の夜から始まるようだ。
「本当か! やきうどん、美味しかったけど、やっぱりたまごのほうも気になってたんだ! ありがとう、ミラ!」
弟さんはフードを被ったままだったが、キラキラとした笑顔はしっかり見えた。
私の料理でこんなに喜んでくれるのなら、絶対にたまごのうどんを食べてもらいたい。
――そうして翌日の夕方、明らかにうきうきとした様子でお兄さんと共に食堂に来た弟さんは、念願の温玉釜玉うどんを口にした。
配膳の手伝いをしていた私は、彼が焼きうどんのときと同じように美味しさに感動している様子を見て、思わず笑顔になったのだった。
二 ヒロインにも事情がある
温玉釜玉うどんがメニューの仲間入りを果たしてから、暫く経ったある日。
「お手伝いもいいけれど、たまには遊んでおいで」とお母さんに言われた私は、今日は教会に遊びに来ていた。正確には、教会に併設された孤児院で、スピカの住まいでもある。
孤児院を訪ねると、早速スピカが出迎えてくれた。
「あれ、ミラ? 珍しいね。食堂は休み?」
「おはよう、スピカ。今日は私だけお休みをもらったの。ちょっと調べたいこともあったし」
「ふうん?」
不思議そうな顔のスピカに中に入れてもらって、他の子供たちにも挨拶をしたあと、私は本棚へと向かった。
「え、なになに? 勉強するの?」
驚いたような声をあげるスピカに、私は答える。
「うーん。ちょっとこの世界のことを知りたくて」
先日、約束どおりお母さんに見せてもらった地図は、私がイメージしていた日本地図や世界地図とはまるで違っていた。
簡素な図形の上にこの町が黒の点で示され、そこを起点として東西南北の街道が簡単な線で記されているだけだった。勿論、地形なんてものはわからず、『港町方面』とか『山』とか、そんな単語しか書かれていない。どのくらいの距離があるのかはわからないが、とりあえずこの町から東の街道に沿って行くと、王都に着くらしい。
他に何かこの国のことがわかるものがないかを探しに来てみたのだが、本棚には子供向けの絵本ばかりが並べられ、それらしい本はない。
この小さな町には図書館のような施設もないし、各家庭に本があることは稀だろう。
この町では勉強をする子供はほとんどおらず、みんな家の手伝いをしているから。
探している本があるとしたら教会くらいだろうと思っていたのだが、完全に当てが外れてしまった。
街道の休憩地点であるこの町は、それなりに旅人は来るし、物資も足りている。学校はないけど多くの商人や旅人たちと交流があるからか、識字率は低くないようなのに。
私は、この世界のことをもっと知りたい。それで、いろんなものを作りたいのだ。
「……なんかミラって、昔から真面目だよね。前世のこと思い出したのって、この前なんでしょ? だけどあんまり変わんないんだね」
私の隣で一緒になって本をめくりながら、スピカは頬杖をついてそう呟く。
そっか、私はこの前のスピカの発言のおかげで前世のことを思い出したけど、スピカは違うのか。
「そういえば、スピカはいつから記憶があるの?」
軽い気持ちで問いかけたが、スピカの表情は悲しげなものに変わる。
「……お母さんが死んだときだから、三年前くらい」
「そっか。ごめん、無神経だったね」
三年前といえば、私たちはまだ五歳。両親が健在で、今も帰る家があって、素朴ながらも温かい家庭で育った私とは違って、スピカはそのときから独りなのだ。
申し訳ない気持ちになって謝る私に、スピカはふるふると首を横に振った。
「ううん。お母さんが死んだことはショックだったけど、乙女ゲームのことを思い出せたから、よかったの。だって、この先天涯孤独だと思いながら暮らすことに比べたら、あとでお父さんが迎えに来て、楽しくて幸せになれる学園生活が送れると知れて、気が楽だったし」
「スピカ……」
「だって、ゆくゆくは王子様とだって出会えるんだよ? それに……お母さん以外にも本当の家族がいるって、まだわたしにはお父さんがいるって知ってたから、乗り越えられた」
淡々と話すスピカに、私は悲しいような切ないような、複雑な気持ちになった。
(……だからスピカは、乙女ゲームの展開を信じているのか)
それが、ヒロインに転生したスピカにとっての生きる希望で、糧なのだ。
私たちが暮らしていた現代社会に比べたら、いくら本当の中世ではない乙女ゲームの世界といっても、生活水準はかなり落ちる。
よくある悪役令嬢のように高位貴族に転生したならば少し違うのかもしれないが、便利な現代の記憶があるまま、この小さな町の小さな孤児院で暮らすことになったら、どうだろう。
藁にもすがる思いで、将来ここから救い出してくれる人を待つだろう。
それが、スピカにとっては十歳でお迎えに来てくれる伯爵家の使いであり、学園で出会う攻略対象者たちなのだ。この町でのスピカの振る舞いがこれまで高慢だったのも、『知っていた』からなのだと、唐突に理解した。
スピカはずっと知っていたんだ。いずれここを出ていって、二度と戻らないことを。
「――あ、でも」
パラパラと本をめくっていたスピカがふいに顔を上げる。
彼女はなんと声をかけていいかわからずにいた私を見て、花が綻ぶようにふわりと笑った。
「前はただ早く十歳になれって、そればっかりだったけど、ミラと過ごすようになってからは楽しい」
「スピカ……」
思わず感極まった私に、スピカはさらに続ける。
「わたしのことをちゃんと見てくれるし、怒ってくれるし。お姉ちゃんができたみたい」
「そういうことなら……私のこと、お姉ちゃんって呼んでくれてもいいんだよ?」
私がそう言うと、スピカは勢いよく大声をあげる。
「呼ばないよ! 同い年なのに変に思われるじゃん! でも、ミラ……ありがとう」
それだけ言うと、スピカは照れたようにぷいとそっぽを向いてしまった。
なんだろう、可愛い。
スピカはいろいろなことが重なって、少し視野が狭くなってしまってただけ。ゲームの展開に頼るのではなく自らの考えで歩いていけるようになれば、破滅的な未来は訪れない。そんな気がする。
現にスピカの態度は以前よりも丸くなり、彼女を毛嫌いしていた町の女の子たちは戸惑っているようだ。スピカを崇拝している男の子たちは……まあ男の子は放っておこう。最終的に大切なのは同性からの評価だと思う。
ひとりで納得した私は、雑然と並ぶ本棚から少しずつ本を取り出し、読書に没頭することにした。
それから暫くふたりで本を探したが、私が知りたい情報はあまりなかった。
まあでも、こんなにじっくり本を読むことはなかったから、字の勉強にはなった。
だからかは知らないが、隣にいるスピカはぐったりしている。
「スピカ、この世界のことについて、ちょっと聞いてもいい?」
「いいよ。でも終わったらご飯食べたい」
質問をすると、切実な言葉が返ってきた。一生懸命に頑張ってくれたスピカは、お腹が空いているらしい。確認し終わったら昼食作りのお手伝いに行かなくては。
早くスピカにご飯を食べてもらうためにも、ぱぱっと聞いてしまおう。
「ここが乙女ゲームの世界、っていうのは間違いない?」
「勿論! わたしの名前もそうだけど、ヒロインの幼少期と同じ顔だし、境遇も一緒だもん。町の名前も」
スピカが自信満々に言い切るので、これは間違いないのだろう。
「じゃあさ、そのゲームの中に、食べものとかは出てきた? ここは魔法のある世界とかじゃないよね? 私も生まれてから、魔法は一度も見たことないし」
「食べものに注目してゲームやってなかったからわかんないけど……クッキーはあったって言ったよね。あ、あとはピクニック的なデートイベントがあったけど、サンドイッチみたいのが背景に映ってた。カップケーキみたいなやつとか。ゲームのシナリオに魔法はなくて、純粋な恋愛要素だけ」
「なるほど……。あ、海のシーンはなかった? 魚料理とかあった?」
「んー、港町にお忍びデートするイベントはあったけど、料理はどうだろ? でも海の側なんだから、魚料理もあるんじゃない」
「そっか……!」
一通りスピカの回答を聞いて、私は身を乗り出す。
ゲーム内にも海がある町はやはり存在しているらしい。いつか絶対に行きたい。
スピカが教えてくれたゲームの情報と私がこれまで暮らしてきた知識を合わせて、この世界のことを整理していく。
この国は、うどんブームのおかげかはわからないけれど、小麦の製粉技術は進んでいるらしい。うちの地下室に氷室のようなものがあるから、冷凍も問題なさそうだ。
電気やガスはないから、調理はかまどを使うのがメイン。うちは宿屋だから厨房が広くて、パン用のかまど以外にも火にかけられる場所があるけど、一般家庭ならもっと制限されるだろう。
やっぱりこの国は、現代日本のように進歩しているところと、そうでないところがあって、どうもちぐはぐだ。
乙女ゲーム自体が日本で開発されたからかもしれないけれど、もしかしたら、私たちのように前世の記憶を持つ人々がいて、持っている知識と技術で少しずつ進歩したのかもしれない。
(ああ、なんかこの世界のご飯の可能性は無限大な気がしてきた……! 王都に行ったら、どんな食材があるんだろう)
私が知っているのは、あくまでこの小さな町のことだけだ。スピカが連れて行かれるであろう王都での暮らしは、もっと豊かなものなのだろう。お貴族様だし。
スピカから得られた食材の情報に、私は思わずにまにましてしまった。すると私のワンピースの袖を、スピカが軽く引っ張る。
「ていうかミラって、乙女ゲームの攻略対象者がどんな感じとか、気にならないわけ? どんなイケメンが攻略対象者で、どう攻略するのかとか。さっきから食べもののことばっかりじゃん」
「え? ああ~うん、特には興味ないかな。二十年前にうどんを考案した第二王子には、会って話を聞いてみたい気はするけど」
彼女を見ると、呆れたような顔で私を眺めていた。
でも仕方がない。モブである私が気になるのは、今後一生出会わないであろうキラキラの攻略対象者のことよりも、食材のことなのだから。
「それよりやっぱり、王都とか港町の食材が気になるかなぁ。港町に行ったら鯖とかあるかな? 私が知ってる限りではヨーロッパにも鯖サンドの文化があったはずだから、あってもおかしくないと思うんだけど」
「ミラ、あんたね……」
スピカがじとっと見つめてくるけれど、私は思考に耽る。
鯖があったら、まずは焼き魚かなあ。ああでも、衣をつけて、フライにして、カリッと揚げちゃうのもいいよねぇ。焼き魚に大根おろしを添えて、それに味噌汁があったら……うん、白いご飯が欲しくなる。
だが生憎、白米は生まれてこの方見たことがない。
もしかしたら王都に行けばあるかもしれない。
きっと城下町の市場に行けば、この町よりもたくさんの食材が私を迎えてくれるだろう。
鯖から派生して、たくさんの食材に思いを馳せる私に見切りをつけたのか、スピカは黙って、広げた本の整理を始めている。
スピカが乙女ゲームが大好きなのと同じように、私だってお菓子作りや料理全般が大好きなのだから、どうしても思考回路がそちら寄りになるのは許してほしい。
(……そんな私が異世界ものの小説を読み始めたのは、何がきっかけだったんだろう)
たくさんの食材と便利道具に囲まれた豊かな前世では、今以上に料理に没頭していたはずだ。それなのに、私がお菓子や料理以外に興味を持ったきっかけはなんだったのだろう。
思い出そうとしても、そのあたりの記憶は相変わらず靄がかかったようにぼんやりとしている。
パティシエとして生計を立てていたのなら、忙しい日々だったはずだ。どこで、私は……
「……ラ、ミラ!」
「……スピカ?」
少し離れた位置で本の整理をしていたはずのスピカが、私の両肩を掴んでいた。
いつの間に移動したんだろう。全く気がつかなかった。
私がまだぼんやりしていると、スピカはそのまま私の肩を揺さぶる。
「なんなのよ、食べものの話しながらニマニマしてたかと思ったら、急に真顔になって黙り込んで……」
「あ……ごめん」
「呼んでもすぐ答えないし……どこか悪いのかと……! っ、ほら早くしてよ、お昼も何か作ってくれるんでしょう」
スピカは私のことを心配してくれたようで、必死の形相になっていた。けれど急に顔を背けてスタスタと歩き出してしまう。
だけど私には見えた。あちらを向く瞬間、ほんのり桃色に染まった彼女の頬が。
「ふふ、心配してくれてありがとう、スピカ! 今日はお母さんがたくさんパンを焼いてくれたから、うどんじゃなくてパンだけどいい?」
彼女を追いかけながらそう言うと、少し間を空けてから、「別にうどんだけが好きなわけじゃないし!」という元気な声が返ってきた。
先を進むスピカを追いかけるようにして孤児院の厨房に着くと、既にシスターたちが昼食の準備をしていた。
大きな鍋が火にかけられている。きっと野菜スープか何かを作っているのだろう。
教会への寄附金や支援物資で運営されているこの孤児院は、当然のことながらとても豊かな食生活ができているとは言えない。ただ、子供たちは飢える心配をする必要はない。
贅沢な暮らしはできなくても、今現在の安定した暮らしは保証されているのだ。
「ねえミラ、何を作るの?」
お母さんから預けられたパンが入った籠を持っている私に、スピカがそう問いかける。
使える材料は限られているし、孤児院でも普段から作れるような、簡単なメニューがいいだろう。
スープは出来上がっているようだから、工夫をするならパンのほう。となると……
「パン・コン・トマテって知ってる?」
スピカに聞いてみると、「は? 何かの呪文?」という、ある意味予想どおりの返事があった。首を傾げる彼女に、私はその料理の説明をする。
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