耳をすませても

はまだかよこ

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耳をすませても

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 やわらかい春の日が射す洗面所で、俊夫は鏡の自分をぼんやり見た。髪が薄くなり額の面積も増大したが、これも勲章だ。昨日、四十三年間勤めあげた会社を無事退職した。
(さあ今日から自由の身だ)
 そう思いながら、大あくびを二つした。妻の幸恵が、キッチンで遅い朝食を整えている。干物とみそ汁の香りが、俊夫の健康な胃袋を刺激する。昨夜、送別会であれほど飲んだのに。
 食卓で、幸恵がご飯をよそいながら言った。
「あなた、ながい間大変だったのだから、しばらくのんびりなさってね」
「ありがとう、ちょっと体を休ませるよ。これからのことも考えながら」
 俊夫は、ご飯と幸せをかみしめながらそう言って、感慨に耽った。
(幸恵は、仕事一途に働き続けた俺をずっと支えてくれた。家事もていねいにこなし、親戚や近所付き合いもそつなくやってくれた。子供たちもそれぞれ一人立ちした。これからは夫婦仲良くのんびり過ごそう。幸恵もそう願っていることはよく分かっているんだ)

 七月の暑い日、久しぶりに顔を見せた息子の友哉のために、幸恵はいそいそとキッチンで夕食の用意をしている。俊夫はテーブルに着いて、新聞を読んでいた。
「ちょっとお茶をくれ」
 俊夫はそう言ったけれど、幸恵は知らない様子で、フライパンをゆすっている。
「おーい、お茶をくれ」
 俊夫は、換気扇に負けじと、大きな声で言った。通りかかった友哉が、幸恵に声をかけた。
「母さん、父さんがお茶だって叫んでるよ」
 幸恵は、びっくりしたように俊夫を見ると、言った。
「あら、ちょっと待って下さらない?今、手が離せないから」
「父さんもお茶くらい自分で入れなよ。暇なんだからさ」
 友哉はあきれたように、そう言うと、行ってしまった。

 いわゆる団らんの食卓、楽しそうに会話がはずむ、はずだった。
「肉、もう少し焼いた方がいいな。ビール、もう一本取ってくれ」
 そう言う俊夫の正面で、幸恵が不思議そうな顔をして、俊夫の口元を見つめている。俊夫は、いらいらとグラスを持ちあげて言った。
「ビールもう一本!しかし、どうかしたのか。俺の話しをちっとも聞いていないじゃないか」
「おかしいわねえ。さっきから、なんか耳がへんなのよ」
 そう言いながら、幸恵は、缶ビールを冷蔵庫から取って来た。
(おいおい、勘弁してくれよな)
 口に出さずに、俊夫はまずそうにビールを飲んだ。
 それでも、翌日、幸恵は耳鼻科に行ってきたが、どこも異常はないと言われ、帰って来た。

 幸恵の耳が聞こえなくなってから、二か月になろうとしている。いや、正確ではない。俊夫の声だけが聞こえにくくなってからといわなければならない。
 鳴き続けていた蝉の声も途絶え、ずいぶんしのぎやすくなった午後、俊夫は、ため息交じりにつぶやいた。
「これってストレス?まさかなあ、でもなあ」
 それから、洗濯物をたたんでいる幸恵の前に行くと、大きな声で言った。
「温泉にでも行かないか?前に友哉が言っていただろ、あそこなら近いし、のんびりできるぞ」
「なに?なんて?」
 乾いたTシャツを持ったまま、幸恵は首を傾けた。
「温泉!お!ん!せ!ん!」
 口を大きく開けて言った俊夫に
「あらまあ、まだ暑いですよ。どこもいっぱいでしょ……」
 幸恵はそう言うと、またせっせと洗濯物を片づけだした。
 「ハアー」
 大きなため息をついた俊夫は、郵便受けに入っていた『自治会便り』を手に取ってながめた。こんなもの、今まで気もつかなかった。紙面の《手話教室へのお誘い》という囲みに目がいった。
(幸恵とコミュニケーションを手話で?)
 そう思うと苦笑がもれるが、とりあえず時間も持て余していることだし、思い切って電話で申し込んだ。そして、近くの会館で週一回開かれる教室に行くことになった。
「いってきます」
 その日、俊夫はドアを開けて、つぶやくように言った。
「いってらっしゃい!」
 キッチンからの幸恵の声だ。
(うん?聞こえたのか?偶然だろうな。ドアの音で分かったんだな)
 俊夫はそう思いながらも、ちょっとうれしかった。教室は、難聴者のためのボランティア養成を目的としているようだが、途中入会の者にも親切で、あっという間に時間が経った。帰りに、『男の料理教室』も申し込んだ。
「ただいま」
 わずかに期待して、大きな声で帰った俊夫だったが、リビングで刺繍をしていた幸恵は、気づかなかった。
 それからも、幸恵は、手話教室に出かける俊夫に、機嫌よく声をかけてくれる。しかし「おかえりなさい」はまだないのだ。

 俊夫は、新聞記事や雑誌広告を見る度に、『退職後の生きがいづくり』とか『熟年夫婦の危機』といったコラムに目が向くようになった。
(幸恵の難聴も自分が家にいることが原因?)
 信じられない思いだが、それ以外考えにくい。できるだけ散歩に出るようにした。バス通りで、オープンする店の前に『経理できる方募集』というチラシをみつけ、応募してみた。あまり乗り気ではなかったが、即採用となりアルバイトを始めることになった。四十三年やってきたことのごく簡単なものだったから、気楽なものだ。結局、ほとんど毎日のように勤めることになった。幸恵は機嫌よく、おいしい弁当を持たせてくれる。まあ昼も帰ってくるなということでもあるが。

 初冬のよく晴れた今日、幸恵と俊夫は、何年かぶりにハイキングに出かけた。カサコソと音をたてる落ち葉を踏みながら、だまって歩く。急な道でつんのめった幸恵に、俊夫は手をかして支える。しばらく手をつないで歩く。幸恵の耳に、葉をゆする風と鳥の声、二人の足音だけが聞こえる。
「静かだなあ。空気がうまい」
 俊夫は、思わず言った。それに幸恵が答える。
「ほんとね!なんて気持ちがいいのかしら」
 驚いた顔の俊夫が、ちょっと照れながら言った。
「おれ、この間、教室で鶏のワイン煮ってのを習ったんだぜ。こんど作ってやるよ」
 幸恵は、笑顔を向けて言った。
「まあおしゃれなお料理、楽しみだわ」
 あんなに耳をすませても聞こえなかった俊夫の声が、今はこんなに心地よい。
(まあのんびりやっていけばいいわ)
 幸恵は、ちょっと冷たい風に心を乗せた。
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