依存の飴玉

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22 めざせ『普通の恋人』(幸 視点)

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「…………いない」

 夕方、バイトを終えていつも通りメッセージを送ったのに、午後八時の今になっても既読になっていない。
 どんなに仕事が忙しくても合間を縫って返事をくれる日高が、こんなに長い時間それを怠ったのは初めてだ。
 急に引っ越したりしたから拗ねているんだろうか。もしかしたらこうして俺が心配して会いに来るのを狙っているのも、なんて思いながら電車に乗って日高の家へ来たのだけど、合鍵で開けたドアの中は真っ暗だった。
 シンと静まりかえった部屋には、いつものご飯の匂いがしない。炊飯器を開けてみたが中は空だった。冷蔵庫の中を見ても、先週の作り置きが少し残っているだけで、今夜の夕飯らしき物は見当たらない。
 自分一人に戻ったから、また弁当や外食に頼るつもりなのか。
 日高が自分で作った方が絶対美味しいのに。節約の気持ちが全く無い日高らしいといえばらしいのだけど、俺がいなくなった瞬間からこうでは、健康面でやや不安になるじゃないか。

「……仕方ないなぁ」

 明日の朝食の分だけでも作っておいてあげよう。
 日高のものより数段味は落ちるけれど、今の日高ならきっと喜んで食べてくれるに違いない。
 出会った当初の日高が俺の作るご飯を食べていた時の何とも言えない、言いたいけど言えない、というような表情を思い出し笑う。
 気を遣う時、日高はいつも同じ笑い方をする。目を細めて唇を少しだけ開いて、ふんわりと。安心させる為か声もいつもより柔らかくて、ひなたぼっこしている猫に話し掛けられたみたいに警戒心が湧かなくなる。
 最初はあの笑顔に何度も騙されていたっけ、とさほど悪い気もせず手早く調理を進め、ついでとばかりに弁当まで詰めてやった。季節的に冷蔵だと悪くなるかもしれないから、少し冷ましたら冷凍庫に入れよう。職場に電子レンジくらいある筈だ。
 片付けをしてから手を洗ってスマホの時計を見れば、もうそろそろ九時前。残業でこの時間になるのは珍しくないが、一通も返事が無いのはやはりおかしい。
 もしかして、どこかで行き倒れてたりするんじゃないよな。
 前に二度、俺が出て行くと言った時の日高の恐慌ぶりを思い出して心配になる。初めて会った時の痩せ細った幽鬼のような日高を思い出し、会社に電話を掛けてみようかと考えるも、そもそも番号を知らないと気付いて日高のベッドに寝転がった。
 まだまだ、日高の事は知らないことばかりだ。
 もっと知りたい。
 日高が『依存相手』じゃなく『恋人』として俺を見る目とか、俺を呼ぶ声とか、そういうのを、もっともっと。
 一昨日告白した時はさほど反応が無かったから、正直肩透かしをくらった気分だ。
 土曜の一件を思い出し、きっかけになった光景を思い出して思わず舌打ちが出る。

「……あの野郎、次に顔見せたら刺してやる」

 目の前で日高とのキスを見せつけられ、俺の心を占めたのは人生で一番苛烈な怒りだった。
 母親の彼氏が俺の口にチンポを突っ込もうとしてきた時より、それを母親が見て見ぬフリをした時より、彼氏を目覚まし時計で殴り殺して少年院に入っている間に母親が失踪したと聞かされた時より、──ずっとずっと強い怒りだった。
 矛先は同僚だという男と、そして奴からのキスに抵抗しなかった日高へ向いた。
 俺を好きと言いながら、他の男に簡単に抱き締められて、キスまでされて平然としていた。「迷惑してるんですよ」と口では言うが、本気で拒絶していないのは明白だった。
 あいつは俺の後釜候補だ。
 気付かないわけがない。だって、日高は興味の無い人間への扱いがすさまじく雑に丁寧だから。不要と判断した人間をここと決めた一線から絶対に近付けない日高が近寄ることを許している時点で、それは他の人間とは違う『特別枠』だ。
 ──日高の特別は、俺だけでいい。
 湧き上がった瞬間に、自分の胸の内からのその言葉で怒りが鎮火した。
 『誰かの唯一の特別でありたいと思ってしまうこと』。
 それが『好き』という感情だと教えてくれたのは、夏実さんだったか。俺が『ペット』として女の所を転々とするようになってから、初めて本当の意味で俺を救おうと拾ってくれた人。正論ばかり言うのが耳に痛くて耐えきれずに俺が逃げ出してしまったけれど、過去に関わった人間の中で顔まで思い出せるのは彼女だけだ。
 もう少し彼女の言うことを真面目に聞いておけば良かった。
 そうすれば、まともな人間がどんなものなのか悩む回数が少しは減っただろうに。
 いっこうに既読のつかないメッセージアプリの画面を眺め、日高の匂いのする枕に顔をうずめて掛け布団を抱き締める。シャンプーもトリートメントもボディソープも一緒のを使ってるのに、何故か日高からする日高の匂い。優しい日だまりみたいな、あったかい匂い。

「早く帰ってきてよ、日高ー……」

 日高が帰ってきたら、俺のご飯を食べる日高に後ろから抱き付いて、バイトの愚痴とか言うんだ。日高は結構辛辣だから、例え俺相手でも間違ったこと言ってたら諫めてくるに違いない。俺が拗ねてから慌ててフォローしてくるだろうから、そしたらお詫びに日高からキスしてもらおう。終電が近いから一緒にお風呂はまた今度かな。日高、絶対勃起するから嫌だって駄々捏ねるだろうな。直接触ってあげたりしたら半泣きで止めてくるかな。可愛いな。俺のがちゃんと勃ってくれればすぐにでも抱いてあげるんだけどな……。
 いっぱいしたいことがある。
 全く意味の分からなかった『普通の恋愛』は、今や俺の中でのスタンダードに変わった。興味の無かったあれもこれも、日高が相手だと思うだけで早く経験したくてたまらない。
 日高だけが、そのままの俺として生きることを喜んでくれた。
 日高だけが、俺から好意が返ってこないことを受け入れてくれた。
 だから好きになれた。
 俺から好かれる筈が無いと分かっていて好きでいてくれるから、そんな日高がいじらしくて可愛くて、大好きになった。
 だから今度は俺が返す番。日高に貰いっぱなしだった愛を、何倍もにして、行動として返してあげたい。
 帰ってきて俺がいたら日高今度こそ泣いちゃうかも、なんてほくそ笑みながら枕の中で深呼吸する。
 土曜にした初めてのキスの時も、今にも泣くんじゃないかってくらい目をうるうるさせてて、可愛くてもっとしたい気持ちを抑えるのが大変だった。
 手持ち無沙汰で微睡んできて、ふと悪戯を思い付いた。電気を消して、真っ暗な部屋の写真を撮る。映っているのは、暗闇にぼんやり光る目覚まし時計の時刻表示と電源の切れたテレビの赤いマーク。それだけでも、勘の良い日高ならどこで撮ったか、どこから送ったか察すだろう。
 その画像をメッセージアプリで送信して、早くスマホ見ろばか日高、と心の中で愛しく毒吐どくづいた。
 








 小さい頃から、「綺麗な子ね」と言われた。
 そして同じくらい、「お父さん似なのね」とも。
 物心つく前から父親の存在を感じたことの無かった俺は言われている意味が分からず、けれどそれを言われる度に手を繋ぐ母親の爪が刺さって痛いのが嫌だった。
 父親はいなかったが、家にはいつも男がいた。母親の彼氏らしい彼らは数ヶ月経つといつの間にか消えて、また新しい男が現れる。

「こんにちは、幸くん」

 ある日話し掛けてきた男の顔を見て、ものすごく驚いたのを覚えている。
 だって、ものすごく不細工だったから。
 シミと皺、赤いぶつぶつが浮く頬骨とまだらな汚い髭。太ってはいないが丸まった背とやたら膨らんだ腹。仕事着らしいスーツすら皺だらけで白っぽく薄汚れ、そのくせ時計だけがやたらとギラギラ光っていた。
 それまで母親の彼氏は顔の良い男ばかりで、だから本当に、心底驚いた。
 信じられない思いで母親の顔を見ると、ただ真っ白な顔をしていた。
 いつも吸っている細いメントールの強い煙草を吸いながら、何の感情も見えない目で俺と男を見ていた。
 男が寝ていた俺の布団に入って口にチンポを押し付けてきたのはその晩のことだった。
 暴れて逃げようとした俺は、半開きだった襖の隙間から覗き込んでいる母の目を見た。助けて、と声に出したはずなのに、襖は向こうから閉められた。
 気が付いた時には俺の手には目覚まし時計が握られていて、生ぬるい錆臭さが部屋に充満していた。
 男が死んでいると気付いたのは、静かすぎることを不審に思った母親が再び襖を開けたから。
 隣の部屋の電気が細く差し込んだ部屋には、頭のあちこちが陥没している男が倒れていた。
 プラスチックの目覚まし時計はあちこちが割れ、その破片が男の顔に刺さっていた。
 それが、小三の時。
 まだ十歳にも満たない子供だったこと、俺の記憶がおそらくは自己防衛の為に一部喪失してしまっていたこと、母親の証言が二転三転することから、俺は数日だけ少年院に預けられ、それから母親が失踪して行く宛てが無くなって施設に保護された。
 施設での生活は快適だった。
 人並み外れて容姿が良いこと、それが理由で不幸な目に遭ったことは職員には周知の事実だったんだろう。大人はみんな優しくしてくれて、生活を共にしている子供たちも優しくすればすぐに俺に懐いた。
 生い立ちはマイナススタートだったけれど、俺は顔のおかげで割と生きやすかった。
 通っていた小中学校でも先生に可愛がられたし、同級生に「施設育ち」と馬鹿にされても女子や良識のある男子は俺の味方になってくれた。
 俺がまた地獄に転がり落ち始めたのは、高校進学を控えた中三の秋口だった。

「うちの施設では高校まで出せないのよ」

 本当に申し訳無さそうな顔の施設長の言葉が嘘だと知ったのは、ずっと後のことだ。

「幸くんは成績も良いし、とても勿体ないと思うの。だからね、もし良ければ、おばちゃんの子にならない?」

 施設長をしている中年の女は、あまり施設には顔を出していなかったけれど全く知らない人でもなくて、他にも里親が現れて貰われていく子は結構いたからそういう事だろうと疑うことなくその提案を飲んだ。
 中学卒業と同時にそれまでの施設から施設長の家に引っ越すことになって、兄弟みたいな子たちと離れるのは寂しいけど仕方ないと思った。高校に行く年頃まで施設に残っていたら俺みたいに施設長に引き取られてくるかも、なんて、そんな甘い期待すら抱いていた。
 それが打ち砕かれたのは、高校三年、十八歳の誕生日。
 毎年のようにケーキとご馳走で祝ってくれた×××さん──思い出せないけど、「母さん」じゃなく名前で呼びなさいって何度もしつこかった──は、俺が風呂に入っているところへ裸で乱入してきて、そしてその醜悪な身体を押し付けた。

「もう十八歳だからね、我慢しなくていいのよ」

 まるで俺の方が我慢していたような言い方に怖気が走って、でもさすがにもう殴り殺すのは出来ないと我慢してどう逃げようか考えていたら、俺の手にぬめる部分を押し付けられた。
 それが愛液で濡れた性器だと気付いた瞬間、気色の悪さに嘔吐した。
 夕飯に食べたものをゲエゲエと吐く俺を見て、×××さんは甲高い声で何か喚き散らしていたように思う。
 女がバスルームから逃げていったのを見計らってゲロを洗い流して風呂を出て、服を着てその晩のうちにその家を出た。
 荷物は財布だけ。
 持たされていたスマホで行方を追われたくなかったし、着替えを持って行くなんて頭も回らなかった。
 ただあの女の所には二度と戻りたくなかった。
 蝉の声が支配する夜の公園のベンチで行く宛てなく座っていたら、一人の女に声を掛けられた。

「行くところ無いならうちに来る?」

 一言目がそれだった。
 どうしたの、でも、迷子になったの、でもなく。心配する言葉ではなく、女が俺に投げ付けたのは、顔の良い男を家に連れ込みたいという率直な欲求。
 うるせえとか消えろとか、そんな言葉で一人目を追い払った気がする。
 けれど、結局その晩、俺は四人目に声をかけてきた女の家に上がり込んだ。
 誰も親に連絡をとろうとか警察に保護してもらおうと言い出さなかった。
 後でその四人目に聞いたところによると、あの公園は家出した少年少女が拾ってくれる大人を待つ場所として有名なんだと言っていた。「今日はこんなに綺麗な子拾えてラッキーだよ~」と笑う女に、薄汚い人間に男も女も関係無いんだなと思った。
 やはりその女も俺の身体を欲しがって上に乗ってきて、だけれどそれは不発に終わった。
 理由は単純、俺が勃起しなかったから。
 翌日に女の家を追い出され、また公園で女に拾われ、そしてまた勃起することなく夜が明ける。
 同じことを数週間続け、そして俺は諦めた。
 俺は──いや、俺も結局、母に種付けだけして捨てられた俺の父親と同じように、女の一時の慰み物になって生きるしか道がないんだ、と。
 飽きたら捨てられるペットとしてしか生きられないなら、せめて性処理用ではなく愛玩用として大事にしてくれそうな飼い主を探そう、そう決めた。
 それからは、拾われる前に『可哀想な男の子』としての身の上話をすることにした。中年女からのレイプ未遂で勃起不全になった、そう言っても俺を拾って帰ろうとしてくれる人は大抵が小金持ちの女ばかりだった。セックス用のペットは他にいるから、とにかく俺には甘えたり甘やかしたり連れ回して自慢したり、『顔の良いペット』としての有用性と、顔の良い男に愛される心地よさを期待された。
 生きる為に懐く演技をしているのに、女が本気になって俺を好きだと言い始めたらサクッと次の飼い主へ。
 そうやって何年も生きていた。

「貴方の『元・保護者』の所からうちに住所変えておいたからね。ここ出て行く時は住所もちゃんと変えるのよ」

 首を傾げる俺に国民保険証と住民票を渡してきたのが、夏実さんだった。
 どうやったのか全く分からないが、俺を里子として引き取った×××さんを探しだして里親の解消を求め、何年もそのままだった──諸々の発覚を恐れた×××さんは俺が引きこもりになっていると周囲に説明していたらしい──住所も夏実さんの家に書き換えられていた。
 俺がそれをして欲しいとお願いしたわけでは無かった。正直なところ、里親まで勝手に探し当てるなんて気持ち悪いと思った。
 けれど、×××さんとの縁が切れたことは素直に嬉しかったし、保険証のおかげで夏美さんの前の飼い主に付けられた根性焼きの跡に付ける薬を貰う為に病院に行けたのは助かった。

「あんたもそろそろイイ歳なんだから、顔だけで生きていけると思わない方がいいわよ」
「教えてあげるから料理くらい出来るようになりなさい」
「片付けと掃除も覚えなさい」
「顔写真付きの身分証が無いと色々不便だから免許とってきなさい」
「何事も経験よ、ハロワ行ってきなさい」
「中卒で何年も無職だと仕事が無いって言われた? だったら高認でも取りなさい。いくらでも暇はあるでしょ」

 夏実さんは常に高圧的で、命令口調だった。
 仕事でもかなり偉い立場にいるらしくて、指導する立場からの態度が染みついてるから全然男にモテないのよ、と酔う度に愚痴った。

「私を好きになってよ。そしたら結婚して、一生養ってあげるから」

 夏実さんは俺を好きじゃなかった。だけど、俺と結婚すれば周囲の『嫁ぎ遅れの仕事人間』というレッテルを挽回出来るから、周囲からの蔑みと嘲笑を鼻高々で笑い飛ばせるようになるから、そんな理由で俺からの愛を欲しがった。
 潮時だなと思った俺はすぐに次の飼い主を見つけて夏実さんの所を出て行くことにした。
 夏実さんは止めなかった。
 ただ、出て行く間際に小さなペンケースを渡された。

「これ、私がセンターの時も受験の時も資格試験の時も使ってきた物なの。全部受かったから、きっと御利益あるわよ。……必要になったら思い出して」

 紺色の布地にキャメル色のファスナーが付いただけの、シンプルなペンケースだった。握ってみるとペンが二本入っている感触がして、これくらいなら別に荷物にならないし、と受け取った。
 思い返してみれば、夏実さんが俺に言った事は全て俺の為だった。
 発端は『真人間にして結婚相手に育てあげよう』という魂胆だったんだろうけど、俺にとって彼女に教わった色々なことは人生で有利になりこそすれ、不利になる事は何も無かった。
 夏実さんは一度も俺に性行為を要求してこなかったし、それどころか抱き締める腕すら欲しがらなかった。
 ただいつも口煩く「もっと真面目に先のことを考えて生きなさい」と言っていた。
 当時の俺にはそういう真っ当な正論は耳に痛いだけで、結局彼女の所を出てからも何年も女のペットをして過ごし、そして最後の飼い主の所を「旦那が急に帰ってくることになったから」と追い出された。
 ……最後の飼い主。
 自分の中ではもうその認識なんだ、と少し胸の辺りが暖かくなる。
 日高は飼い主じゃないから、数に入れない。
 そう、日高。
 追い出されて、けど公園で神待ちするには寒すぎる気候だったから、あの日はネカフェに泊まっていた。色んな飼い主から貰ってきたお小遣いを貯めていたから半年は連泊出来るくらい手持ちはあったけど、住所変更の期限は待ってくれない。
 悩んだ俺は出会い系でさくっと見つけようとして、適当な女のプロフィールにコメントを残している中に『サツマ』というユーザーのアイコンを見つけた。
 口元をボヤかし、目元だけの顔写真。それほど美形ではない。けれど、どうしてか惹き付けられた。
 この人の隣は暖かそうだ、と思った。
 男から男会員へのメッセージは送れないようになっていたから、女として会員登録し直して『サツマ』のプロフィールを読んだ。

『極度の依存体質です。メッセージうざかったら無視してね』

 たったそれだけの一文。
 相手に自分を知ってもらおうと思っていない。依存したいという欲求はあるけれど、無理なら無理で構わない。
 相手への期待が微塵も無いその文面に心が躍った。
 この人なら、俺を好きにならないかもしれない。好きになったとしても、俺から好意が返ってくることを期待しなさそう。
 そう思って早速メッセージを送ったら、その日に会えることになった。
 深夜のファミレスには約束の時間の結構前に着いていて、日高が店に入っていく所からずっと見ていた。
 遠目から見ているだけで、泣きそうなくらい柔らかい光を放つ人だった。
 この人はきっと、俺を受け入れてくれる。
 確信にも似た気持ちで店に入って話をした。俺が男と知って警戒している様子だったけれど、自分の方がよほど痩せ細っているのに俺を気遣ってご飯を食べさせてくれて、そして家に連れていってくれた。
 それからの毎日は、不思議な感じだった。
 世間的にちょっとアレなバイトするのも快諾してくれて、家事もほとんど任されなくて、俺の仕事といえばただひたすらにメッセージを送ったり返したりするだけ。
 日高は俺の顔が好きらしくて家にいる間中じぃーっと見つめてきた。
 一度俺のことを知ろうとするような素振りがあったから軽く牽制したらそれ以降は全く聞いてこなくなって、だけど俺を見る目を見れば俺を好きなのは一目瞭然だった。完全に分かりきっていたけれど、日高がそう言わないから気付いていないフリをした。
 好意を返すことを強要してこない限り知らんぷりをしてあげるつもりだった。
 なのに、その均衡を崩したのは俺だった。
 だって日高が俺以外を可愛がるから。甘ったるい声で猫の名前を呼んで、仕事から帰ってくるとすぐに猫の面倒をみて、夜は猫の飼い主と話をしてから猫と一緒に眠る。
 俺っていうペットがいる筈なのに、と柄にもなく焦って、だから猫がいなくなってすぐ日高の気持ちを俺に戻す為にわざと怒ってみせた。
 俺の機嫌を取らないと出てっちゃうかもよ、とばかりに高圧的な態度をとれば、日高は面白いくらい怯えた顔で俺の前に膝をついた。組んだ足の先に日高の顔があったからなんとなく爪先で顔をつついてみたら、何故だか嫌がりもせず口に含んだ。
 口の中はあったかくて、日高が呼吸すると濡れた所が冷えてぞくぞくした。
 靴下を履いたままの俺の足を咥えて、日高は許しを求めるように俺を見上げていた。
 ──かわいい。可愛い、可愛い、可愛い。
 脳内で叫び回る声が囁いた。
 逆転させろ、このまま日高を俺のペットにしろ、って。
 戸惑ってる日高を強引に膝枕して、猫でも撫でるみたいに日高の頭を撫でてみた。
 柔らかくて細いけれど、まっすぐな髪。光に透かすと赤茶に見えるそれに何度も手櫛を通して、この人はきっと全部が暖かいもので出来てるんだ、って確信した。
 日高が俺の膝の上で大人しく撫でられて、俺の話を聞いてくれてる。正直言って最高の気分だった。今までの飼い主たちはこんな気持ちで俺を撫でてたのか、と心底びっくりした。
 日高は俺を好きなんだから、こうしてペット扱いしても喜ぶはず。俺に頭を撫でられて、きっとすごく喜んでいるに違いない。
 ……そう思っていられたのは数分だけで、日高は急に立ち上がって「やめましょう」と言った。
 怒った日高が『ペットと飼い主』の関係をやめようと言い出して一瞬ヒヤッとしたけど、それは俺に『ペットをやめろ』って意味だった。
 ペットとして媚びたりしなくても家に置くから、素のままでいいから、って。
 そんな事を言われたのは初めてで、八つ当たりも込めて何週間もめちゃくちゃ素っ気なくしてやったんだけど、日高の態度はそれ以前と何も変わらなかった。
 毎日ご飯を作って、俺の短いメッセージを心待ちにして、家に帰ってくると延々飽きもせず俺を眺めている。
 笑いかけなくても、話し掛けなくても、日高はそんなのどうでもよく俺を好きみたいだった。

「それさぁ、つまりはお前の顔だけが好きだから他はどうでもいいってことじゃん」
「うん、日高もそう言ってた」
「……お前、よくその生活嫌にならないね」
「今までで一番いい暮らし出来てると思うけど?」

 ユキトとはバイトを始めた当初からすごくウマが合って、雑談の合間にぽろっと今の生活環境なんかを話してしまったのだけど、引くでも同情するでもなく「俺も似たようなもん」と彼も身の上を話してくれた。
 独身だった親の再婚。義理の妹から寄せられた兄として以上の思慕。それに気付いた両親からの『妹を傷付けないように上手く躱しなさい』という圧力と、「義理の妹に言い寄られるとか完全にエロゲじゃん」と無責任に羨ましがる友人達。妹と出来ないような事しようよ、と誘ってくる女たち。
 自分の性質が人を惹き付けるのを逆手に取って俳優を目指すという夢を掲げて実家から逃げ出すことに成功したユキトは、けれど色々あって今は店長の波田と付き合っているという。

「俺だって波田と暮らすの嫌だったわけじゃないけどさ、片想いって辛いじゃん。身体の関係があるなら尚更」

 芸能事務所を辞めてしばらくの間、ユキトは波田の家で軟禁のうえ調教されていたらしい。「研修だから」と言いながら波田がしてくる行為はSMクラブでも始めるつもりかというような内容だった、と笑うユキトは、けれど波田が好きだったから耐えられたと言う。
 専属マネージャーがつくほどのランクではなかったユキトは事務所の中で一番親身になって話を聞いてくれる波田に惹かれ、波田の方もそれは同じだったらしく、紆余曲折ありつつも今は仲良くやっているらしい。

「俺と日高は身体の関係とか無いんだって」
「だからそれが辛いだろって言ってんの。なんだっけほら、前に預かってた猫の飼い主、そっちとはヤッてるっぽいんだろ?」
「……無理やりキスされてた、ってだけだよ」

 俺が苦い顔で反論すると、ユキトは呆れた風に肩を竦めてため息を吐く。
 猫を迎えにきた男と日高が言い争う声は、壁の薄いボロアパートじゃ筒抜け同然だった。いつもの丁寧な言葉遣いを崩していた日高を思い出し、心臓の辺りが痒くなる。
 ああいうのは、好きな相手にだけ見せるものじゃないのか。なんで俺じゃなくてあの野郎なのか。

「昨日会った感じ、めちゃ警戒心強いタイプじゃんあの人。キス許す時点でもう結構絆されかけてるって。一押し二押しくらいで簡単に落ちるって」

 ユキトと日高のデート翌日、土曜の定期配信の前に今日の段取りをしながら雑談していたらいつの間にか話題は日高のことになっていた。

「落ちない。日高は俺が好きなんだってば」
「お前の顔が好き、ね」
「同じことでしょ」
「一回抱かれたらそっちに気持ち移るかもよ? 本気で好きになると顔って割とどうでもよくなるし」

 俺も最初は波田の顔怖いから好きじゃなかったし、と言いながらユキトがチョコレートを口に放り込むのを見咎め、部屋の隅で機材の確認をしていた波田さんが「ユキト、配信前に歯磨きな」とボソリと呟く。
 小柄の狼みたいな印象の波田さんは、ユキトがどんな話をしていても止める素振りはない。ボサボサの長い髪を後ろで一つに括って、いつもヘッドホンをしているけれど煩いのが嫌いなだけで音楽を流しているわけじゃないらしい。
 事務所にいた頃はもう少し小綺麗にしてたのにとユキトは言うが、そんな垢抜けない外見でも気にならないらしくたまにバックヤードでキスやそれ以上の行為に及んでいるのをたまに目撃する。
 好きになったら顔なんてどうでもよくなる。
 暗に顔しか好かれていない俺は不利だぞというユキトの辛辣な言葉を気にしてない風に聞き流し、けれど胸が不愉快さでざわついた。

「早めに告ってまずは手に入れちゃった方が良いと思うけど~? 気持ちが離れてから俺も好きーなんて言っても何だ今さらって思われるだけだぞ?」
「……まだ無理」

 今俺が好きだのなんだの言ったって、日高はきっと信じない。
 ペットの名残の媚びで言っているか、はたまた追加の小遣いが欲しいのか、なんて思われるだけだろう。
 だからもう少し、俺が『まともな人間』になってからだ。
 俺はもうペットじゃなくてちゃんと人間として生きてて、だから俺のする事は俺がしたくてしてる事で、損得じゃなく対等の位置に立った状態で日高を好きだって言ってるって信じてもらいたいから。

「だったら尚更、早く一人暮らしするって言えって」
「言おうと思ってるけど、言ったら絶対泣くもん、日高。機嫌良くてちゃんと俺の話聞いてくれる時じゃないと、下手したら捨てられたって誤解しそうだから慎重にいかないと」
「めんどくせぇ~。一人暮らしくらいで捨てられたのなんだの誤解する程度ならさっさと捨てちゃえって~」

 ぐいー、と背伸びして椅子ごと後ろに身体を倒して呆れるユキトに、ほっとけ、と内心で毒吐いていると、歯ブラシとコップを持ってきた波田さんがまたもや小さく呟く。

「ユキトも一人暮らしするか?」
「……はっ?」
「俺の家から出て行くか」

 まあ同じマンションの別室になるが、とボソボソ言う波田さんにユキトは椅子ごと後ろに転げ、驚いて心配する間もなく飛び起きた彼は波田さんの足に飛び付いて「ふざけんな!」と叫んだ。

「絶対出て行かねーから! 波田と別の家とかやだ! 波田のいない家とか帰る意味ねーし!」

 ぎゅっと波田さんの足に両手両脚を絡ませるユキトを見て、最近ガチャガチャでこんな形のフィギュアを見たな、と既視感が湧く。

「ヤスもそういう気持ちなんだろ。……ヤス、部屋はどうせ前から余らせてるだけだから、無理して引っ越さなくてもいいんだからな」
「はい」

 波田さんは芸能事務所で働いていた頃に貯めた金でマンションを一棟買っておいたとかで、今いるこの事務所もそのマンションの一室にある。波田さんとユキトが住んでいるのもここで、俺に社宅として用意してある部屋というのもここだ。
 家賃収入だけでも生活していけるくらいらしいが「ユキトは働かせないと際限なく自堕落になるから……」と愚痴っていたのはユキトには秘密だ。

「ほら、歯ァ磨け」
「……波田やって」
「弟分の前で甘ったれて恥ずかしくねぇんか」
「ない……」

 足にしがみ付いて駄々っ子モードに入ってしまったユキトを見下ろして波田さんが時計と俺とを見比べて困った顔をしたので、「オープニングトークは一人でもいけますよ」と親指を立てた。

「悪いが頼むわ。ユキト、ほら時間押してんだから急げって」
「担ぐなっ、優しく抱っこしろ!」

 指名率ナンバーワンの正体が、一皮剥けばこんな甘えん坊だと誰が思うだろう。
 外面は完全に甘えるより甘えさせる方で、客から『ユキトママ』なんてあだ名で呼ばれている男とは思えない。
 隣の部屋から漏れ聞こえてくるおよそ歯磨きをしているとは思えない物音を気のせいと聞き流しながら、機材の確認をして配信の準備に入った。









 ピンポンピンポンと耳障りな音が数十秒続いて、苛立ちながら目覚ましのスイッチを押した。
 が、押してからその音がアラームではないことに気付いて目を覚ます。
 冷えた肩を撫で、冷房付けっぱなしで寝ちゃったんだっけ、と風吹口の開いたエアコンを見上げた。
 ピンポンは一旦止み、けれどまた三回ほど続く。
 もう外は明るくなっているようだ。
 ……もしかして、鍵失くして探してたら終電過ぎちゃって、それで朝帰りしてきたとか?
 俺が部屋の中にいると分かっているってことは、スマホのメッセージを見たんだろう。日高もドジなところがあるんだなぁ、と寝ぼけながらベッドを降りて、玄関へドアを開けに行った。
 それにしても帰ってくるには遅い──目覚まし時計はもう十一時を指していた──ことに、寝起きでなければ気付いただろう。

「やっぱまだ居たか」

 鍵を回して開けたドアの向こうには、一昨日会ったクソ野郎が立っていた。
 今日はあのダサい私服じゃなくネクタイを締めたワイシャツとスラックスを着ていて、『マトモな人間』っぽさに苛立ちが加速する。

「日高なら」
「いないのは知ってる。俺の家からまっすぐ会社行ったからな」
「……は?」

 クソ野郎の家から?
 何がどうしてそんな事を、とまだ寝起きで上手く働かない頭で必死に『そうなっても仕方ない理由』を探そうとしていると、クソ野郎はやおら頭を下げてきた。

「もうあいつに会いに来ないでくれ」

 意味が分からず思考が中断される。
 日高に会いに来るな?

「なんであんたにそんな事言われなきゃなんないの」
「俺と付き合ってくれることになったからだ。筑摩が片想いしてた君に、いつまでも傍をうろちょろされたくないんだ」
「は? 付き合う? 冗談」
「あいつは俺に乗り換えた。昨晩のうちに俺に身体を許した。……これが証拠だ」

 馬鹿言ってんじゃねぇぞと凄んでやろうとした眼前にクソ野郎がスマホを差し出してきて、一つの動画を再生した。

『──……っ、あ、ぃ、いい、坂原ぁ、そこ気持ちぃ、もっと、もっと……っ』

 途端に流れ出した嬌声が誰のものなのか、数秒その動画に呆気にとられてから気付く。
 いつも凪いだように感情を上機嫌の一歩手前で保持している日高が、顔を真っ赤に染めて自ら腰を振っていた。目に涙の膜を張り、だらしなく開いた唇の端から涎を垂らしながら掠れた高い声で男に犯されるのを悦んでいた。

「……」
「理解出来たか? もうあいつは俺のもんになった。これ以上あいつを振り回さないでやってくれ」

 俺が言葉に詰まって何も言えないでいるのを見て動画を停止させたクソ野郎は、そう言うと足早に立ち去っていこうとした。
 勝ち誇るでもないその態度に少しの違和感を覚え、ああそうか、とその背に向かって嘲笑をぶつけた。

「ふられたんだろ、あんた」
「……!!」

 さっきまでの無表情と打って変わって、視線で射殺そうとしているかのような形相で振り返ったクソ野郎の顔を見て疑念は確信に変わる。

「ほんとに日高と付き合うことになったんならさぁ、こんな根回ししなくても日高は勝手に切るんだよ俺なんか。俺を警戒して遠ざけようとしてるってことは、日高はあんたを選ばなかったんだろ」

 くす、とわざと挑発するように子供っぽく笑うとクソ野郎は俺を睨みながらスマホを揺らしてみせてきた。

「この動画が嘘だとでも?」
「あはっ、俺はそんなことしなくてもいつも日高に好き好き言われてるけど? セックスまでしたのに選ばれなくて残念だったねー!」

 手を叩いて笑うとさすがにキレたらしいクソ野郎がこちらへ踵を返したけれど、奴が戻ってくる前にドアを閉めて鍵を掛けた。
 ドンドンドン、と外から激しく叩かれるのを無視して日高の部屋へ戻り、メッセージアプリを起動させる。
 昨夜送ったメッセージが全て既読になっているのに、今朝の九時半頃にそれらを無視するように『おはようございます。今日はお休みだからまだ寝ているんですか? 昨日からずっと連絡がなくて心配です。死にそうです。会いたいです。声が聞きたいです。仕事終わりにそちらに寄っても構いませんか?』という文が入っていた。
 ……やっぱり。
 おそらく昨日送ったメッセージは日高ではなくあのクソ野郎が見たのだ。そして俺が送った画像がこの部屋のものだと気付いて、メッセージを全て消した上で俺を排除すべくこの部屋まで来た。
 なんという執着。気色悪い。何度も拒否られているのに、どうして諦めないのか。

『おはよー。枕が違うからか熟睡出来なかった。これから日高の家で寝直す~』

 返信は既読にしてから三分以内、ととりあえず思考を中断して日高へメッセージを返すと、数秒で既読になってすぐに親指を立てた絵文字が日高から送られてきた。
 ふふ、かわいい。
 これで今日の日高はご機嫌で仕事をしてまっすぐ帰宅してくるだろう。……そう、まかり間違っても、昨晩のように誰かの家に寄ってセックスして朝を迎えたりはしない。

「……さて、どうしてくれようかな、日高ったら」

 身体を交わしてもそれに流されず俺を選んだのは喜ばしいことだ。クソ野郎の動向を鑑みれば依存先としてはかなり優良物件だろうに、依存することより俺への恋心を大事にしたというならいいこいいこと撫でくり回して褒めてやりたい。
 けど、そもそも身体を許したの自体は許せない。
 俺とは軽く触れた程度のキスしかしていないのに、どうして付き合っている俺を差し置いて他の男とセックスなぞしたのか。
 理由は分かっている。分かりきっている。俺が出て行ったから寂しかったんだろう。心のバランスを崩して弱っていたんだろう。そこにあのクソ野郎がつけ込んだ。本当に、底無しのクソ野郎だ。
 イライラと爪を噛み、何をどうしたら日高に昨晩のことを後悔させつつ俺を嫌わせないかを考える。
 ──波田のいない家とか帰る意味ねーし!
 駄々を捏ねるユキトの言葉がふと脳裏に蘇って、その様を見て愛おしげだった波田の表情を思い出した。
 ……うん。いいな、いいかも。
 一回離れてみて、だけどやっぱり無理だった。日高のいない家なんて寂しくてやっぱりヤだった。
 俺がそんな風にしがみついたら、きっと日高は感激しながら抱き締め返してくれるだろう。そして罪悪感に苛まれる。だって、俺が寂しがっていたのに自分はちゃっかり他の男とよろしくやっていたんだから。
 もう二度としない、今後はずっとおれ一筋でいよう、そう思わせたら勝ちだ。
 セックスなんか出来なくたって、もっとずっと深い関係になってやる。
 そう、セックスするよりずっと難易度が高くて、愛が無きゃ絶対出来ないようなことをしよう。罪悪感につけ込めば、前回失敗した『日高ペット化』もいけるかもしれない。
 うん、うん。
 癖でボールペンを出そうとして持ってきていなかったのに気付いて、指で空中に書くフリをしながら脳内に日高にしたい事をメモしていく。
 前夜作った弁当を冷凍庫に入れるのを忘れて腐臭を放っているのを発見したのは、夕飯の準備をする為にシンクの前に立った夕方のことだった。

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