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〚きみのかいとう〛

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「──本当にすみません!」

 近場の喫茶店に入り、仕方なくこちらの名刺を渡すと、それを両手で受け取った橘は再び頭を下げてくる。加減のできていない大声の謝罪は、周囲の興味を引くのに充分な声量だ。こちらへ向かう下世話な視線に、下品な野次馬め、と私は眉を寄せる。

「っ。……なんだ藪から棒に。大声を出すな、恥ずかしい」
「あっ……す、すみません。僕、あの日のことがずっと気になっていて……悟くんの前で突然あんなことを聞かされて、晦さんがショックを受けてしまったんじゃないかって……」
「な……」

 ……なにかと思えば、この男も悟の件を気にしていたとは。他人相手にご苦労なことだなと呆れるが、こんなにすぐ謝罪をするような性格だ、気に病むのも頷ける。実際、あの出来事はこの男の存在が引き金になったと言っても過言ではないのだから。
 だが、元を辿ればそれは私の問題だ。悟が遊び人であることを理解した上で、私は悟に抱かれていた。今更過去の経歴や相手のことを気にするほど、野暮な人間にはなりたくない。私は事実を突きつけ、橘を一蹴する。

「っ……ふ、ふん。お前が悟に抱かれていようが、関係ない。あいつが遊び人なのは、私だって承知の上だった」
「そ、それはそうかもしれませんが……でも、悟くん、あのときすごく驚いていて。僕らに何度も頭を下げてからあなたを追いかけていきましたし……ただ事じゃないって、僕も、真野くんも、すごく反省してしまって……」
「真野……お前と一緒に居た男か」
「は、はい。最近本社からtaQtaに異動してきた子で……あのときのことを、随分、申し訳なく思ってました」
「……そうか。まぁ、あの男が余計なことを言ったのがそもそもの原因だしな」
「うっ。そ、それはそう、ですが……っ。いえ、だから謝罪したくてっ。真野くんだけじゃなく、僕にも責任が、ありますし……っ」
「だから言っているだろう。お前が悟と寝ていたのはお前達の問題だ。お前が私に謝罪しても、何の意味もない」
「で、でも……その。ええと……っ」

 きっぱりと言い放てば、橘は迷いを帯びて口籠る。逡巡する眼差しがいかにも言葉を呑み込んでいるようで、その態度が鬱陶しい。半端に口を噤まれることが何よりも苛立つ私は、語気を強めて橘に食って掛かる。

「おい、言いたいことがあるならはっきり言え。わざわざこんな所まで私を連れてきておいて、肝心な所でだんまりか?」
「っい、いえ、そういうわけじゃ!その……悟くんの話、なんです。僕が勝手に話すと、告げ口みたいになっちゃうかなって……」
「悟の……?」

 ……悟の。
 橘は元々悟と仕事での関わりがあるようだし、肉体関係がなくとも悟と親しくしていたということか。先程までの態度を加味すると、何か重要なことを知っているのかもしれない。私は迷うことなく、その先を促した。

「……構わん。他言はしない、責任は私が取る。いいからお前は気にせず話せ」
「は……はい……分かりました。ええとっ……元々悟くんはうちの営業を担当していて、親しくしてくれていたんです。その流れで、僕と関係を持ってくれたんですけど……別の方が僕と親しくするようになってからは、夜を一緒にすることはなくなって。ただのビジネスパートナーに戻ったんですけど……」
「つまりお前に言い寄る輩が現れたから身を引いた、というわけか?悟らしいな」
「へっ!?い、言い寄るッ!?ちがっ、違いますよ!その、緋鷹さんとはっ、そ、そういう関係ではなくて……!」
「……何を勝手に動揺してるんだ?その緋鷹とかいう相手はどうでもいい。続きを話せ」
「あっ、は、はい……ッ。そ、それで、それから悟くんとは健全に接していたんですけど……悟くん、晦さんと関係を持ってからは以前とはどこか違う印象で。彼自身も、それを察していたみたいなんです」
「……」

 私と、関係を持ってから。悟自身も。……その、変化を。
 確かに聡いあいつなら、自身の些細な違和感でもすぐに勘付くだろう。つまりは悟もその変化を感じながら……私に接していたということだ。

「……悟くん、言っていたんです。今は晦さんとしか、関係を持ちたくないって。でもそれを本人に伝えるのは、晦さんを傷つけてしまうかもしれないから、まだ答えは出せない、って。それを聞いて、僕は、悟くんにとって晦さんがとても大切な存在なんじゃないかって、そう思ったんです」
「……。」
「だから、悟くん……色々考えていたんじゃないでしょうか。悟くんはとても気遣いのできる子で、優しくて……思いやりのある子、ですから」

 そこで言葉を区切って俯く橘に、私も口を噤む。橘が悪意なく、純粋に見聞きした印象そのままに、悟や、その時の会話を語っているのが如実に伝わってきたからだ。

「あっ……す、すみません、勝手に、べらべら喋って……!でも、あの、お互いが気持ちを誤解したままなのは、僕も心苦しくて……っ。だ、だから。晦さんも。悟くんのこと……許して、あげられないでしょうか?」
「っ……。」

 許す。困ったように、慮るように、けれどどこまでも無自覚に放たれた言葉が、私の胸を穿つ。目を逸らしているままの私自身の弱さを突きつけられるようで、息苦しくてたまらない。
 許す。一体、何を言っている。何も知らないお前が、何を勝手に、私の気持ちを決めつけるんだ。私がどう思っているのかも知らないで。私が、どうしてこんなにも悩んでいるのかも知らないで。そんなに容易く、勝手に、お前は……っ!

「ッ……うるさい!私は、別に、悟を許していないわけじゃない!悟が望んだ生き方を許容できない、私自身が許せないだけだっ!!」
「あ……ッ。つ、晦さん」
「ッ……あいつが、どんなに優しくて思いやりのある人間か、私が一番よく知っている。悟がこれまでどれだけ私に気を遣って、私の機嫌をとろうとしてくれていたか、私が一番よく知っているんだ。そんな健気な男を、誰が、嫌いになれるんだ。許すまいと、できるんだ?」

 堰を切ったように溢れた言葉に、橘は戸惑いを顕わにして私を見る。けれど止まらない。もう、止まってはくれなかった。私の中に降り積もっていた不安と自己嫌悪が綯い交ぜになって、それを喚起させた男へ、八つ当たりのようにすべてぶつけてしまう。……私は。私が。私、自身が。

「狭量で頑固なのは私だ。意固地で傲慢なのは私なんだ。悟は何も悪くない。私が、自分自身を大嫌いなせいで。自分を、許せないせいで。悟を、信じられないんだ。あいつの気持ちを、信じてやれないんだ。それを、お前に……っ、お前などに、とやかく言われる筋合いはない!」

 橘は悪くない。橘だって、悪くない。この男もただの親切心で、思いやりで、私に提言をしてきただけだろう。だがそんな優しさが今はただ痛ましかった。お前にはわからない。お前には関係ない。悟が身を引くような相手を得たお前には、私の思いなど分からない。橘を拒絶するように、私は声を激しく荒げる。

「割り切って悟に抱かれていたお前には、どうせ分からんだろう!悟が身を引くような、そんなっ、恋人が居るっ、お前には……っ!っ私は、もう、そういう風には考えられないんだ!そんな風にっ、悟を、体の良い遊び人だと、優しく、都合の良い相手だと、そんな風には、考えられないんだっ!!私は……、私は……ッ。私だって、悟を。悟を……っ。」

 徐々にか細くなる声は、私の心の現れだ。どんなに強がっていても、どんなに虚勢を張っていても、私の奥で最も疼いているのは、その弱さ。自分を許せず、自分が大切に思う相手すら信じられず、誰にも縋れないまま蹲っている私自身。情けなくて。みっともなくて。不甲斐なくて。そんな無様な姿を、ほとんど初対面の相手に見せて。消えてなくなりたくなる思いに、俯く。
 ……ああ、そうか、私も同じだ。私も橘と同じように、悟の想いを決めつけていた。悟は自分の言葉で、自分の想いを、私に伝えてくれていたのに。私と一緒に居たいと、ずっと一緒に居たいと、そう、はっきりと、言葉にしてくれていたのに。
 私は。私の都合で。私が気持ちのいいように悟の心を決めつけて。悟を、遠ざけようとしてしまった。彼を手放すことで、私自身が、楽になろうとしてしまったんだ。

「っ……悪いのは、私だ。悟じゃない。悟を信じられない、私なんだ……」
「……。」

 ようやく理解した事実に、打ちのめされる。私がどれほど残酷なことをしてしまったのかを思い知らされて、奈落の底へ落ちたような心地になる。視界が揺らいで、感情が制御できなくなる。悟。私は。お前に。本当に。酷いことを……。

「……分かりますよ。信じたいのに、自分の迷いが原因で、相手を信じ切れない。それがどんなに失礼で申し訳ないことなのか。僕にも少しは……分かります。」
「っ?橘……?」

 けれど、そんな私を掬い取るように、橘は声を発した。ゆっくりと視線を持ち上げれば、先程より落ち着いた声は毅然と澄んで、まっすぐに、私を見据えている。まだ頼りなく眉は下がったまま。それでもその瞳は強い覚悟を纏うように、淡く、光に瞬いていた。

「先程、晦さんは恋人、と仰いましたけど……僕と緋鷹さんは、まだ、お付き合いしていないんです。僕に、勇気がなくて。僕が緋鷹さんに見合う人間なのか、自信を、持てなくて……。まだきちんと、彼に……お返事できていないんです」
「な……っ。そう、なのか……?」
「はい。だから、僕も晦さんと似た気持ちに苛まれます。僕も緋鷹さんに優しくされて、居た堪れなくなる。愛情を向けられて、申し訳なくなってしまう。僕に自信がないばかりにお返事をしていないのに、彼に甘えてばかりで。自分が嫌になって、たまらなくなります」
「……」

 そう言ってか細く笑う橘の表情は、自嘲にも似ている。感情の迷い。自己への嫌悪。大人になればなるほど、様々なものに雁字搦めになって、身動きが取れなくなる。臆して、恐れて。確かなはずのものにも、手を、伸ばせなくなる。それは、この男も……同じだということか。

「だけど、僕も……。緋鷹さんを大事にしたいと、大切な存在だと、思っています。その気持ちに、嘘は、ありません」

 けれど橘はやはり硬く唇を結び、私を見つめる。
 私に伝えるべき言葉があるのだと、はっきりと、指し示す。

「だから、僕も。許したいのは自分、なんです。こんなにも僕を想ってくれる人が居る。その人を、僕も、想っている。そんなに、凄いことは、ないから。だから僕は、緋鷹さんのために、自分を許してあげたいと思うんです。僕を想ってくれる人のために。僕が想える人のために。自分を、ひとつずつでも。ひとつだけでも。認めてあげたいと、そう思うんです。そうやって、少しだけでも、ほんの、ちょっとでも……。緋鷹さんから貰えた分を。言葉や、態度で。お返しできたらって、思うんです……ッ」

 語尾に詰まった橘は、眼鏡を外してごしごしと腕で目をこする。赤くなる顔に、ずっ、と鼻をすする音がする。昂ぶってしまった感情に、橘も、揺さぶられていると、分かる。

「す……すみません。でも、そういうことだと、思うんです。自分が、どうしたいか、なんです。僕は悟くんのすべてを知らない。でも、僕だって、彼とは長い付き合いです。だから彼が、いつでも相手のことを最優先に考えてくれる子だと分かります。そのくらい優しくて、思いやりがあって。……相手を。晦さんを……蔑ろにはしない子だって」
「……」

 まだ赤い鼻のまま、深く息をついて、私に視線を合わせる橘。確かに、悟は私の前から去る際、何度も、何度も私に謝罪していた。私の言葉で傷ついて、それに心底戸惑っていたはずなのに、自分自身を押し殺して、なんでもないように振る舞おうとしていた。泣き腫らした顔で。どう見ても傷ついているのに。私を傷つけまいと、最後まで、必死に、自分自身と抗っていた。その顔を思い出す。鮮明に思い出せる。また手を伸ばしたくなって、何度でも、胸が痛む。ああ。悟は。あの時だって。自分ではなく、私のことを。

「そんな悟くんだから……晦さんも、悟くんのことを……都合のいい相手ではなく、大切な相手だと思うようになったんじゃないですか?そんな風に……想えたんじゃ、ないですか?」
「それは……」

 ……ああ。きっと、そうだろう。
 その相手が悟だったからこそ、私は今、こんな痛みを覚えている。こんな想いを、抱えている。橘に指摘され、改めてそう感じる。彼が東雲悟でなければ、私は、この感情にさえ、出逢わなかったのかもしれないと。

「もしも、そうなら……悟くんを想う晦さん自身の気持ちを、許してあげてもいいと思うんです。ひとつずつでも。ひとつ、だけでも。許して。認めて……それを悟くんに伝えてあげてからでも、遅くはないと、思うんです。」
「……」
「僕も、弱い自分が嫌いです。臆病で。優柔不断で。いつも、自己嫌悪してばかりです。でも、大切な人を想うとき、その人のために頑張りたいと思える。その人のために尽くして、どんなことでも、してあげたいと思える。その気持ちが、自分のことを少しだけ、好きにさせてくれる。自分へ、向き合わせてくれる。自分を……許してあげられるんです」

 許す。先程胸へと刺してしまったその言葉をゆっくりと引き抜いて、その傷を塞ぐように、橘は言う。表情は優しく穏やかで、悟とは別種の、深い人間性を感じさせる。決して悪意を持てない、どこまでもお人好しの善人。呆れてしまうほど他人への施しを厭わない、愚かなほどに、優しい、人間。

「だから、晦さんも、どうか……。悟くんを好きな自分を。どうか……大事に、してあげてください。」
「っ……。」

 けれどそんな相手だからこそ、同じ言葉が、違う重さで、私へ届く。
 まっすぐに見つめ返す。橘を見る。
 私と同じ想いを抱える。私と同じ。
 あまりにも不器用に。
 恋を。している──。
 
「──。……あッ!ご、ごめんなさい!僕、不躾なこと……!なんだか晦さんが似た境遇で、共感、しちゃって……っ。も、もしかしたら僕と同じ気持ち、なのかなって……ご、ごめんなさいッ!」

 そこで我に返ったように、またぺこぺこと頭を下げ始める橘。その態度に私も理性が戻り、毒気を抜かれた気分になってしまう。けれど胸の底では凝っていたはずの感情が柔和して揺らめき、ゆっくりと撹拌されてゆく。それは間違いなく、橘の言葉が私へと作用した証なのだろう。
 けれどそれを素直に言葉にするのはどうにも抵抗があり、思わず私は大声で橘を一喝してしまう。

「に、似ているわけがあるかっ!お前のように気弱でいかにも押しが弱そうな男と、一緒にされたら迷惑だっ」
「あっ。そ、そうです、よねっ。僕なんかと一緒にされたら、ご迷惑、ですよね。す、すみません……僕、本当にっ、気が利かなくて……っ。」
「っ……。」

 私の言葉に、また情けなく橘は自虐を繰り返す。その態度に私は自分の言動に苦さを覚え、そして橘にも、苦さを覚える。先程はあんなにも整然と私へ語り掛けていたのに、どうしてそうもプライドなく振る舞えるのかと。もどかしく焦れた苛立ちが浮かぶ。お前はそんな間抜けな卑下を繰り返すほど、劣った人間ではないだろう、と。

「っ……ふ、ふん。その情けない性格で曲がりなりにも工場の経営を維持しているんだろう?野暮なことに首を突っ込む程度の意志と誠意はあるんだ。もう少し自信を持ったらどうだ?」
「えっ?で、でも。僕……」
「うじうじと鬱陶しいな!お前はお前できちんとやっていると言っているんだ!文句があるのか!?」
「ひゃっ!な、ないです……っ。ほ、褒めていただいたのに、気づかず、すみません……っ!あ、ありがとう、ございますっ。嬉しい、ですっ」
「っ。べ、別に褒めてはいないッ!!!いちいち大袈裟にうるさいな、お前はッ!!!!」
「あ、あははっ、はは……っ。す、すみません……っ」

 今度は私の言葉を濁し、恐縮するように顔を紅くして縮こまる橘。図体は私よりでかいが、こうして見るとまるで小動物だ。なんだか巨大なモルモットかハムスターにでも見えてくる。脅えて、片隅でぷるぷると震えているような……。
 だが、私の胸はいつの間にか落ち着き、淀んでいたものが廻り出すように、ゆっくり、ゆっくりと、私の中へ混じり合ってゆく。少しだけ呼吸がしやすくなって、私の奥底を、静かに開いてゆく。それは橘の言葉があったからだ。それは、間違いがない。
 まだへらへらと笑う橘に、やはり、感謝を言うべきかと逡巡する。そんなことをするような男ではないだろうが、おかしな借りを押し付けられでもしたらたまらない。私は自分にあれこれ言い訳をしつつ、口を開こうとする。しかしその前に、橘は照れ臭そうに、私を見て……。

「あ、あの……っ。」
「っ……?何だ、橘」
「つ、晦さんって……。案外、可愛い方っ、なんですね……っ?」
「はぁ───────ッ!?!?だから何を言ってるんだ、お前は!?!?!?」
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