君のための最期を

藍色綿菓子

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再会

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 あの人に会ってから、何十回か太陽が昇ったり沈んだりした。僕は相変わらず一人で、森から森へと移動していた。
 その日僕が入った森は、特に木々が鬱蒼として、あまり光の差し込まない場所だった。身を隠す場所がたくさんありそうだ。そう思って、奥まで進んでいくと、丸く開けた場所があり、そこには明るい光が差し込んでいた。
 ちょこんと丸い切り株があり、その上に大きなカエルがいる。僕よりも大きな体だ。微動だにしないその姿は、森のオブジェクトのようにも見えた。
 捕食できるかどうか。こんなに大きければ、お腹がいっぱいになるだろう。もしかしたら僕も少しは大きくなれるかもしれない。いかにも鈍重そうなカエルだ。捕まえることができる、そう思って近付くと、なんとカエルが話しかけてきた。
 その言葉が、僕にも意味を理解できるように伝わったから、僕はとても驚いた。今まで僕は、自分以外の生き物と意志の疎通をしたことはない。言語など知らない。僕が知るのは、威嚇、攻撃、逃亡、それとその他の表現方法。
 世界は広い。なぜ突然僕が言葉をわかるようになったのか、このカエルが何なのか、わからなくても当然だ。知らないことはたくさんある。
「何じゃお前さんは。じっと見ても何もやらんぞ」
 そのカエルは瞬きすらも億劫そうにしていた。しわがれて醜い声がする。伝えようと思った言葉が、彼には届くようだった。
「大きな体の生き物は皆僕を襲うけど、君はとてものろそうだから、大丈夫だろうなと思って」
 僕が襲おうとしていたことは伏せた。
「失礼な奴じゃな……。こう見えても私は、元は偉大なる魔法使いだったのだから、ちと魔法を使えばお前に気付かれる前に襲いかかるくらいできるわ」
 それを聞いて僕は反射的に逃げる姿勢になった。疑う前に逃げる、これは僕の身につけた生存術だ。
 しかし離れようとした僕の様子を察して、カエルが焦ったように引き止めてきた。
「おいちょっと待て、襲ったりせんわ! 何の得もないじゃろが! まあ話を聞け小さいの」
 他の生き物との交流、それができる唯一の相手だと思うと、話を聞いてやろうかと思った。それに、魔法なんて嘘かもしれない。どう見ても鈍重な醜いカエルだ。

 そしてカエルは長々と、憐憫を誘うような口ぶりで話を始めた。
 彼の話によると、彼はいわれなき罪でカエルの姿に変えられた、元はものすごい魔法を使う人間だったらしい。
 宮廷魔術師、という国の偉い魔法使いに、森へ追いやられて、善行を積むことを強いられているのだそうだ。
 そうすると少しずつ奪われた魔力が戻ってきて、それが元の力にまで戻れば、あとは自力で人間に戻ることができるという。
 しかし、こんな人里離れた森の中では、善行を積もうにも相手がいない。だから通りすがりの魔物や小動物の、僅かな望みを叶え続けているのだと。
「時代が私に追いついていなかったのだ。魔法を知るためには、人体実験は必須であるといえる。誰かがやらなければ、いつまでも魔法の真理を究明できんではないか。誰もやらなかったからこそ、この私がやったのだ。倫理? 道徳? そんな物にどれほどの価値があるというんじゃ。むしろ褒賞物である筈ぞ、この私がどれだけ魔術の発展に貢献したことか。手段などどうでも良いではないか、なぁ? そう思わんか? 小さいの」
 カエルの話は難しくて、僕にはあまり理解できなかった。ただ、偉そうな態度に腹が立つ。
「小さいの小さいのって、さっきから心外だな。むっとする奴だ」
「事実小さいのだから、仕方あるまい。そうだお前、小さいの。何か望みはないか? 浅ましい欲の一つや二つ持っているじゃろ」
「一々勘に触るなぁ、わざとやってるのか? 今はないよ! さよなら!」
 僕は大きく跳ねながら後退した。
「おい、待て、そこの! チビ! 何かあればまた来い、ここにいるからな!」
 遠のいていくカエルの大声に、ふと、初めて他の生き物と会話をしたと思った。
 どうせならもっと、あんな横暴そうなカエルではなく、もっとずっと優しい生き物が良かった。
 ぼんやりと浮かんだのは、いつかのあの人。月夜を背負い、赤い手を水で濡らした、優しいあの人。

 とその時、僕の視界にそっと入り込んだ生き物がいた。白い肌、長い髪、柔らかそうな頬の、人間。
 何てタイミングだ! ちらっと考えたまさにその人が、今僕の目の前にいる。
 僕は勢い余って飛び出しそうになり、やっとの思いで自分を抑えた。何だかおかしい。僕がこんな風に他の生き物に執着したのは、初めてかもしれない。
 きっとそれは、あの時もう二度と会うことはないと、そう思っていたからだ。だから驚いて、つまりそういうことだ。
 自分の感情に戸惑って、僕は木の陰に隠れた。あの人は手に一枚の紙を持って、それを見ながら辺りに目を配る。何かを探しているようだ。
(手伝ってあげようか?)
 僕は思い切って飛び出した。僕は言葉を知らない。お互いの言いたいことはわからない。
 でももしかしてあの人は、僕を覚えているのではないか。
 背負っている弓、あれは僕を襲わない。だから僕は近づいた。
 あの人の足元に行って、跳ねて、跳ねて。あの人は首をかしげながら困ったように微笑んだ。
「どうしたの?」
 困惑の雰囲気から、どうやら僕を覚えてはいないらしい。僕は思いの外絶望して。
 一目散に川に飛び込んだ。
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