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第1章 世界くん降臨
3話
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「以上で、営業第一エリアチームが主に扱っているわが社の看板である衛生陶器の便器・タンクそしてウォシュレットについての商品説明を終わります」
マイク片手にTONTON株式会社の主力商品についての説明を終えると男が生真面目にお辞儀をする。研修会場は盛大な拍手に包まれた。
(こいつか、ボスの言ってた殿村伊織ってのは……)
俺は長机でノートにメモを取りながら、くるりとボールペンを回した。
殿村はくっきりとした二重瞼に柔らかい物腰、高身長、高学歴、おまけに会社の花形である営業第一エリアチームの部長だ。事前に組織図で調べたが今年確かまだ三十五歳だったはずだ。地毛なんだろうが、色素の薄い茶髪と薄茶色の瞳はハーフにも見える綺麗な顔立ちをしている。
(コイツがボスのお気に入りか……気に入らねぇな)
「では、次の見積課の講義は、課長の源が来るまで五分休憩と致します」
殿村はマイクを置くと颯爽と研修会場をあとにする。すでに新入社員の数十人の女の目があっという間にハートになっていた。
(もっとぶっさいくなヤツだったらよかったのに顔も良いのかよ)
「面白くねぇ……」
俺はボールペンをぽいと放り投げた。
「せーかいっ」
後ろから甘ったるい声と香水と共に花田心奈の腕が絡みついてくる。あまりにも面倒で俺は視線だけを心奈に向けた。今年の新入社員はちょうど百名。研修会場の長机にあいうえお順に座らせている新入社員の何名かが俺たちの方をチラ見した。
「何? 」
「今日も好きー」
(あり得ない、マジでネジ一本足りねーな)
「いま新入社員研修の五分休憩だろ、女はトイレでもいけよ」
「世界が一緒に来てくれるなら行くー」
俺は盛大にため息を吐くと今度は視線だけで心奈の大きな瞳を睨んだ。
「マジで、いいかげんにしろよ。てゆうか何で職場まで一緒なんだよ!」
俺と心奈とは幼稚園から大学まで同じエスカレーター式の学校に通っていた時からの腐れ縁だ。
「そんなの世界が好きだからに決まってるじゃん」
「よく、就職許してもらえたな。あの安堂不動産と並ぶ大手中の大手、花田不動産の一人娘のくせに」
心奈は俺から手を離すと、今度は目の前に回り込んでしゃがむと俺と視線をばっちり合わせてくる。
「パパに頼んで世界と同じ職場にしてもらったんじゃん。見積課じゃなくて営業サポート課だけど。あ。ちなみにパパも花嫁修行しておいでって」
「花嫁修行とか他の男の為に他でやれっ」
「ひどい……パパも大賛成だし、勿論陶山社長からもお墨付きもらったもん」
(ボスのやつ、また勝手に……)
「ね、世界の配属、見積課だよね?営業じゃないのは何で?」
心奈は、指先で髪の毛先をくるくる回しながら小首を傾げた。
「大学で経営学は学んだからな。それに俺は営業じゃなくて経営がしたいわけ!会社を俺の掌の上で転がしたいわけ!その為にはまず、見積課で会社の商品知識を徹底的に身につけ、さらにトイレ周りの配管や設置に必要な間口、部品、施工についても学ぶ。さらには商品納品時の利益率についても学べるしな。ようは見積課は俺にとってトップにたつのに必要な場なんだよっ。俺は、いつかこの会社のトップになる。だからな、」
「さすが世界!カッコよすぎ……」
「あのさ、俺は心奈に会社に遊びで来んなって言いたいんだけど?」
「遊びじゃないもん、世界を公私ともに支えたいだけー」
げんなりとした俺を更にうっとりとした瞳で、心奈が見つめている。
(めんどくせぇ、マジで話が通じねー)
「ね。世界、いまフリーでしょ?そろそろ私とヨリ戻そうよー」
「は?」
(話の脈絡もクソもねぇな)
「ほら、私って見た目は可愛いでしょ? おまけにお嬢さまだよー?」
俺は久しぶり真正面から心奈の顔をじっと眺める。
淡い栗色のウェーブのかかった長い髪に白い肌、大きな瞳、少しぽてっとした唇。はっきり言って見た目は綺麗な顔をしていると思うし100人いたら100人可愛いという生き物ではないだろうか。
ただ物心ついた時から気づけば常に俺にべったりで、ボスから俺の許嫁を言い渡されたことをいいことに、ところ構わず好きを連発してくる心奈は、正直目の上のたんこぶだ。心奈から押しに押されて高校の時、盛りのついていた俺は心奈と一度付き合ったが勿論長続きしなかった。それ以来俺は、心奈に一度も色恋の感情を抱いたことはない。
「悪いけど、俺もう一回会いたい女いるから無理。諦めろ」
心奈と顔の距離を取るために、額を人差し指でツンと弾いてやれば心奈が頬を染めた。
「素敵……やっぱ世界しかやだー」
(まじか、逆効果かよ)
「はぁ……あんな、お前マジで馬鹿だろ。俺なんかより、女から見ればさっきの第一エリアの殿村とかいうヤツのが、よっぽど素敵で色気のある大人の男じゃねぇの?」
(俺はあぁいう、なんでももってるヤツは心底嫌いなタイプだけどな)
心奈が天井を見上げながら人差し指を顎に添えた。
「確かにカッコいいし、あの年で部長とかスペックも間違いないし、背も世界より少し高いし好物件だとは思うけどね。あ、殿村部長って殿村の殿からとって『お殿さま』って呼ばれてるらしいよー」
「は? なんだそれ」
「更衣室で制服に着替えたときに知らない先輩方が話してたの聞いたの」
「……お殿さまね……ますます面白くねぇ……」
思わず眉間に皺を寄せた俺を見ながら心奈が笑った。
「ふふっ……拗ねた世界もかっこいいー」
「は?……そう。そりゃどうも」
俺は心奈の相手をするのが面倒くさくなって長机に肘を突いた。
その瞬間研修会場の扉が開き、スーツ姿の女が入って来る。その女の姿に俺は一瞬で釘付けになった。
──嘘だろっ!
思わず俺の肘から顎がずり落ちていた。慌てて体勢を整えると俺はその女を凝視する。朝は下ろしていた長い黒髪を一つに束ねているが間違いない。
(間違いねぇ、五円玉女だ!まさか同じ会社とは……)
女はホワイトボードに黒のマジックでさらさらと所属と名前を書いてルビを振った。
──『TONTON株式会社 見積課 源梅子』
その文字を見た瞬間、俺の思考はあっという間に停止する。
(え?……う、めこ……そんなまさか……)
俺は昔の記憶を瞬時に辿っていく。大きな黒い瞳に長い黒い髪。その名前の通り昔話にでてくるお姫さまみたいな綺麗な顔だった。
──『舌打ちすんなっ!ガキンチョめ!』
俺の頭の中にあの日の声が聴こえてくる。そうだ、なんで忘れてたんだろう。あの日も梅子は俺をガキンチョと呼んでいた。間違いない。俺がもう一度会いたいと思っていたお姫さまみたいな名前の女。
(まちがいない!)
「梅子だっ!」
両手で机を叩きながら思わず名前を呼んで立ち上がった俺に、九十九人の新入社員の視線が一斉に集まる。
「えっ!?」
今度は梅子が大きな黒目を見開いて俺を指さした。
「え?……あ、朝の……が……ガキンチョ?」
俺を見たまま、梅子が何か言いかけたが、すぐに大きく深呼吸すると名簿を見ながら静かにマイクを口元に当てた。
「御堂君、着席してください」
「あ、すいません……」
俺も黙って着席する。
心奈が小さく「世界、知り合い?」と囁いてくるが今はそんなことどうでもいい。俺の鼓動はあっという間に外からでも分かるほどの音を立てていた。
(嘘だろ……まさか……梅子に……もう一回会えるなんて)
俺はメモもそこそこに目の前の五円玉女改め、もう一度会いたいと思っていた俺の初恋の梅子に思わず見惚れていた。スラックスに中の五円玉を手繰り寄せて掌に握る。
小学六年生だった俺は、あの日梅子に恋をした。
生まれて初めての恋だった。
そしてその時約束したんだ。
もし俺が梅子との約束を守ってもう一度会えたなら……。
(五円玉はマジでご縁を引き寄せんだな)
俺は十年ぶりに再会した梅子を見つめながらゆっくりと口角を上げた。
※※
私はデスクに戻ると、明菜が淹れてくれた湯飲みの中の緑茶を見つめた。
珍しく茶柱が一本立っている。
「梅将軍、茶柱ですね、いい事あるかもですね」
「そうね……ありがと」
あんなに動揺しながら講義をしたのは初めてだった。講義を終えるとすぐに次の経理課の事務的な説明が始まったため、あのガキンチョと会話することはなかったが本当に驚いた。
(てゆうか、驚いたからって私を呼び捨てにするなんてどういうつもりよ)
まさか朝マンション前で会ったガキンチョが、自分の会社に新入社員として入社してくるなんてまだ信じられない。おまけにさっきでパソコンで確認したらガキンチョの配属は見積課になっていた。それも急遽うちへの配属が決まったらしく、社長承認の日付は今日付けだった。
(……なんで見積課?)
見積課は忙しいながらも人手は足りているし、新入社員のほとんどは花形の営業課への配属が圧倒的に多い。この女所帯の見積課に男子社員、それも新入社員が配属されるなんて前代未聞のことだ。
「梅将軍どうかされました?」
「う……ん」
私は昨日、見積課配属が決まった新入社員の名前をパソコン画面でもう一度確認する。
(間違いないな……)
「あ、わかった、梅将軍!もしかして社長の甥っ子さん見たんですか?イケメンすぎて放心状態とか?」
私はパソコンから顔を上げると、あわてて首を振った。
「ちがうちがう。朝会った生意気なガキンチョが新入社員でうちに入ったのよ、おまけに見積課配属」
「えぇっ!すっごい偶然ですね!世界級イケメンなんですよね!?」
「まあ……」
(性格は最悪だけどね……)
その時、事務所の扉が開くと殿村が顔を出した。
「あれ?殿村?」
私の声に明菜も首を捻る。
「あれ?お殿さま?」
長身の殿村に付き添われて、すぐに長身の男が入って来る。
「わ、嘘……すっごいイケメン……」
明菜が食い入るように殿村の後ろをじっと見つめている。そして見積課からすぐに歓喜の悲鳴があがる。当然だ、見積課には女子社員しか在籍していない。あちらこちらから聞こえてくる悲鳴をものともせずに黒髪を揺らすと、形の良い唇を持ち上げながらこちらに向かって真っすぐ歩いてくる。
明菜があわてて部下たちに業務に集中するよう注意しにいった。
「梅子、新入社員くんお連れしたよ」
「人事部の誰かが連れてくるのかと思ってたけど、殿村が連れてきてくれたんだ、ありがと」
「あぁ。ちょっと社長と話したついでにね、彼の見積課への配属が急遽決まったらしいから、驚いただろ?」
「まあね」
殿村が視線だけで合図すると、男が生真面目に一礼した。
「源課長、今朝は大変失礼しました。今日からお世話になります。社長の甥の御堂世界です」
「えっ?いま……なんて?」
「あ、梅子知らなかった?彼が社長の甥っ子さんだよ」
「噓でしょ!?」
私は思わず席から立ち上がっていた。世界は涼しい顔で私を見ると唇を引き上げた。
「あなたが……陶山社長の甥っ子?」
「はい。経営に活かしたくて見積課を志願致しました。源課長どうぞ宜しくお願い致します」
世界は斜め四十五度きっちりにお辞儀をしてみせる。
(なんなのこの子……朝とは打って変わって育ちの良さ全開のイイコちゃんじゃない、ホントに同一人物?)
「宜しく……」
「あと、源課長の朝のお忘れ物です」
世界はスラックスから五円玉を取り出すと、私の机にそっとおいた。
「あ、ありがとう」
私はすぐに置かれた五円玉をつまむと、デスクの上のお気に入りの馬の貯金箱に入れる。
「へぇ、源課長、馬好きなんですか?」
「まぁ、動物では一番好きかしらね」
私はそっけなく答えた。
「ん?梅子、御堂と知り合いなのか?」
私たちのやり取りを黙って眺めていた殿村が口を開いた。女子社員を宥めてようやく戻ってきた明菜は世界を横目に目がハートだ。
「えぇ、朝ちょっと小銭落とした時に偶然会って」
「あ、そうなんだ。びっくりした、梅子がこんな若い子と前から知り合いな訳ないよな」
「お言葉ですが殿村部長……なんで知り合いなわけないんですか?」
世界が殿村の真正面に立つと、やけに挑戦的な瞳で殿村の薄茶の瞳をじっと見つめた。
(なに……?殿村をライバル視……してるとか?なんで?)
「ん?梅子とは年が違いすぎるから。接点ないと考えるのが普通じゃないかな?」
「年が違っても接点ってあるとおもいますけどね」
「へぇ、なに?もしかして梅子に気でもあるのかな。入社早々、ふっ……キミみたいな若い子がまさかね」
世界はさらに殿村に顔を近づけると、私には聞こえない声で何かを殿村に囁いた。
途端に殿村の眉に皺が寄る。そしてすぐに顔を崩すとクククっと笑った。
「いいよ。お手柔らかに」
殿村の返事を聞くと世界はすぐに殿村から距離を取った。
「え?殿村?」
「梅子、今朝頼んだ見積宜しくね。営業から戻ったらここに寄るから。あと今度の誕生日も去年同様祝ってやるから何食べたいか考えておいて」
殿村の声色が心なしか、いつもより柔らかく感じるのは気のせいだろうか。
「う、ん……」
「じゃあまた夜に」
殿村の背中が扉に吸い込まれるとすぐに世界が口を開いた。
「すみません。源課長、俺の席ってどこですか?」
「あ、明菜ちゃんの隣の予定だけど」
私は課長デスクの斜め前を指さした。
「御堂くん、ご案内しますよ」
「あ、森川さんすみません。俺、源課長の仕事ぶりを間近でみて勉強したいんで、特別に源課長の隣の席にしてもらえないでしょうか?」
「え?ちょっと、何言って……」
「源課長は黙っててください。俺今、森川さんと交渉中なんで。ダメですかね?」
世界は背の低い明菜をのぞき込むようにして甘えるような声を出した。
(え?なに?どういうつもりなのよ……?)
明菜を見れば、うつ向きがちに背中を丸めながら顔を真っ赤にしている。
「……えっと、じゃあ特別にってことで……デスク移動で回線つなぎなおすと自動的に内線番号が変わってしまうので、あとで陶山社長に御堂くんの内線番号、私からメールでお伝えておきますね」
「森川さん、ありがとうございます。嬉しいです」
世界は爽やかに微笑みながら、すぐにデスクを無理やり移動させると私の横に座った。
「えっと。じゃあ梅将軍、私見積りあるんでデスクに戻ります。何かあったら呼んでくださいね」
「あ、明菜ちゃんありがと」
明菜が席に戻ると、すぐに私は右隣からの世界の視線に落ち着かなくなる。
「源課長、俺なにしたらいいですか?」
「商品カタログ持ってる?」
世界はパソコンを立ち上げると、鞄の中から商品カタログを取り出した。
「とりあえず初日だから、御堂くんは商品カタログ見ながら施工図だして、実際の現場施工でどのパーツが必要か勉強してくれるかしら?まずは見積書作成するには商品知識は勿論のこと、施工についても詳しくならなきゃ話にならないからね」
私は緊張を悟られないようにできるだけ淡々と説明する。世界はすぐに商品カタログを見ながら黙々と施工図と照らし合わせていく。
(へぇ……会社では素直に言うこときくんだ……)
朝の最悪な態度のイメージが強い私にとって、今隣にいる世界は借りてきた猫状態にみえる。
世界がくすっと笑った。
「な、なによ。気持ちわるいわね」
「いや、今俺のこと考えてましたよね?」
(こいつ何て言った?)
世界は商品カタログを片手にこちらに、ずいと身体を寄せてくる。また朝と同じ世界の甘い匂いが鼻をかすめて勝手に胸がドキドキしてくる。
「ちょ……近い……」
「こんくらいで動揺してたら俺の隣つとまりませんよ」
「それ、どういう意味よっ」
「まんまの意味です」
そして世界は、私のマウスを持つ右手に自身の左手を重ねた。
「なっ……」
ふいに包まれた大きな掌に驚いて、目を見開くことしかできない私に世界が意地悪く笑う。
「俺、左利きなんで」
(そんなこと聞いてない……なんで手……)
言いたい言葉は頭には浮かぶが口からは出てこない上に、暫く恋愛から遠ざかっている私はもはやこういう時の異性への対処方法も思い浮かばない。世界はパソコンの画面にスクリーンキーボードを表示すると、私の掌と重ねたままマウスで文字を入力していく。
「……え、ちょっと、何……」
ようやく声をだして世界から距離を取ろうとするが、世界は私の肩に自分の肩をピッタリつけてくる。
「見て欲しいのあるんだよね」
「な、によ……もう離して」
「焦らない焦らないっと」
私は世界の意図がまるでわからないまま、世界の打ちこむ文字を目で追っていく。
(は……や、く? お……れのこ……とす)
最後に文章に変換をかけると世界が子供みたいな顔でニッと笑った。
──早く俺のこと好きになって
何度その文字をなぞっただろうか?
心臓は世界に聴こえてしまいそうなほどに駆け足状態だ。展開についていけなくて、今この瞬間が夢のように思えてくる。
こんなまるで恋愛ドラマみたいなこと……それもこんな一回りも年下男子の……相手が私?
するりとマウスから手を離しながら世界が囁いてくる。
「早く思い出してくださいね。梅子さん」
囁かれた耳は奥まで熱くなる。
私は思いっきり世界の足を踏んづけた。
「痛って」
「ばかっ、揶揄わないで!こんなことする暇あるなら商品品番一つでも覚えなさいっ」
上司らしく一喝すると私は猛ダッシュ状態の心臓を隠すように、黙々とパソコンに向かって指先を動かしていく。
「俺……揶揄ってないんすけどね」
世界は小さく呟きながら私から離れると、ボールペン片手に商品カタログにようやく視線を向けた。
(もう、何なのよ、このガキンチョ……それに私もガキンチョ相手にドキドキして……何なのよっ)
跳ね続ける鼓動を鎮めるように手を当てて深呼吸する。
今思えばもうこの瞬間から私は恋に落ちてしまっていたのかもしれない。世界の果てまで続く無限の恋愛ドツボにはまって、抜け出せなくなるとも知らずに、私は後戻りできない恋をはじめていたのだ。
マイク片手にTONTON株式会社の主力商品についての説明を終えると男が生真面目にお辞儀をする。研修会場は盛大な拍手に包まれた。
(こいつか、ボスの言ってた殿村伊織ってのは……)
俺は長机でノートにメモを取りながら、くるりとボールペンを回した。
殿村はくっきりとした二重瞼に柔らかい物腰、高身長、高学歴、おまけに会社の花形である営業第一エリアチームの部長だ。事前に組織図で調べたが今年確かまだ三十五歳だったはずだ。地毛なんだろうが、色素の薄い茶髪と薄茶色の瞳はハーフにも見える綺麗な顔立ちをしている。
(コイツがボスのお気に入りか……気に入らねぇな)
「では、次の見積課の講義は、課長の源が来るまで五分休憩と致します」
殿村はマイクを置くと颯爽と研修会場をあとにする。すでに新入社員の数十人の女の目があっという間にハートになっていた。
(もっとぶっさいくなヤツだったらよかったのに顔も良いのかよ)
「面白くねぇ……」
俺はボールペンをぽいと放り投げた。
「せーかいっ」
後ろから甘ったるい声と香水と共に花田心奈の腕が絡みついてくる。あまりにも面倒で俺は視線だけを心奈に向けた。今年の新入社員はちょうど百名。研修会場の長机にあいうえお順に座らせている新入社員の何名かが俺たちの方をチラ見した。
「何? 」
「今日も好きー」
(あり得ない、マジでネジ一本足りねーな)
「いま新入社員研修の五分休憩だろ、女はトイレでもいけよ」
「世界が一緒に来てくれるなら行くー」
俺は盛大にため息を吐くと今度は視線だけで心奈の大きな瞳を睨んだ。
「マジで、いいかげんにしろよ。てゆうか何で職場まで一緒なんだよ!」
俺と心奈とは幼稚園から大学まで同じエスカレーター式の学校に通っていた時からの腐れ縁だ。
「そんなの世界が好きだからに決まってるじゃん」
「よく、就職許してもらえたな。あの安堂不動産と並ぶ大手中の大手、花田不動産の一人娘のくせに」
心奈は俺から手を離すと、今度は目の前に回り込んでしゃがむと俺と視線をばっちり合わせてくる。
「パパに頼んで世界と同じ職場にしてもらったんじゃん。見積課じゃなくて営業サポート課だけど。あ。ちなみにパパも花嫁修行しておいでって」
「花嫁修行とか他の男の為に他でやれっ」
「ひどい……パパも大賛成だし、勿論陶山社長からもお墨付きもらったもん」
(ボスのやつ、また勝手に……)
「ね、世界の配属、見積課だよね?営業じゃないのは何で?」
心奈は、指先で髪の毛先をくるくる回しながら小首を傾げた。
「大学で経営学は学んだからな。それに俺は営業じゃなくて経営がしたいわけ!会社を俺の掌の上で転がしたいわけ!その為にはまず、見積課で会社の商品知識を徹底的に身につけ、さらにトイレ周りの配管や設置に必要な間口、部品、施工についても学ぶ。さらには商品納品時の利益率についても学べるしな。ようは見積課は俺にとってトップにたつのに必要な場なんだよっ。俺は、いつかこの会社のトップになる。だからな、」
「さすが世界!カッコよすぎ……」
「あのさ、俺は心奈に会社に遊びで来んなって言いたいんだけど?」
「遊びじゃないもん、世界を公私ともに支えたいだけー」
げんなりとした俺を更にうっとりとした瞳で、心奈が見つめている。
(めんどくせぇ、マジで話が通じねー)
「ね。世界、いまフリーでしょ?そろそろ私とヨリ戻そうよー」
「は?」
(話の脈絡もクソもねぇな)
「ほら、私って見た目は可愛いでしょ? おまけにお嬢さまだよー?」
俺は久しぶり真正面から心奈の顔をじっと眺める。
淡い栗色のウェーブのかかった長い髪に白い肌、大きな瞳、少しぽてっとした唇。はっきり言って見た目は綺麗な顔をしていると思うし100人いたら100人可愛いという生き物ではないだろうか。
ただ物心ついた時から気づけば常に俺にべったりで、ボスから俺の許嫁を言い渡されたことをいいことに、ところ構わず好きを連発してくる心奈は、正直目の上のたんこぶだ。心奈から押しに押されて高校の時、盛りのついていた俺は心奈と一度付き合ったが勿論長続きしなかった。それ以来俺は、心奈に一度も色恋の感情を抱いたことはない。
「悪いけど、俺もう一回会いたい女いるから無理。諦めろ」
心奈と顔の距離を取るために、額を人差し指でツンと弾いてやれば心奈が頬を染めた。
「素敵……やっぱ世界しかやだー」
(まじか、逆効果かよ)
「はぁ……あんな、お前マジで馬鹿だろ。俺なんかより、女から見ればさっきの第一エリアの殿村とかいうヤツのが、よっぽど素敵で色気のある大人の男じゃねぇの?」
(俺はあぁいう、なんでももってるヤツは心底嫌いなタイプだけどな)
心奈が天井を見上げながら人差し指を顎に添えた。
「確かにカッコいいし、あの年で部長とかスペックも間違いないし、背も世界より少し高いし好物件だとは思うけどね。あ、殿村部長って殿村の殿からとって『お殿さま』って呼ばれてるらしいよー」
「は? なんだそれ」
「更衣室で制服に着替えたときに知らない先輩方が話してたの聞いたの」
「……お殿さまね……ますます面白くねぇ……」
思わず眉間に皺を寄せた俺を見ながら心奈が笑った。
「ふふっ……拗ねた世界もかっこいいー」
「は?……そう。そりゃどうも」
俺は心奈の相手をするのが面倒くさくなって長机に肘を突いた。
その瞬間研修会場の扉が開き、スーツ姿の女が入って来る。その女の姿に俺は一瞬で釘付けになった。
──嘘だろっ!
思わず俺の肘から顎がずり落ちていた。慌てて体勢を整えると俺はその女を凝視する。朝は下ろしていた長い黒髪を一つに束ねているが間違いない。
(間違いねぇ、五円玉女だ!まさか同じ会社とは……)
女はホワイトボードに黒のマジックでさらさらと所属と名前を書いてルビを振った。
──『TONTON株式会社 見積課 源梅子』
その文字を見た瞬間、俺の思考はあっという間に停止する。
(え?……う、めこ……そんなまさか……)
俺は昔の記憶を瞬時に辿っていく。大きな黒い瞳に長い黒い髪。その名前の通り昔話にでてくるお姫さまみたいな綺麗な顔だった。
──『舌打ちすんなっ!ガキンチョめ!』
俺の頭の中にあの日の声が聴こえてくる。そうだ、なんで忘れてたんだろう。あの日も梅子は俺をガキンチョと呼んでいた。間違いない。俺がもう一度会いたいと思っていたお姫さまみたいな名前の女。
(まちがいない!)
「梅子だっ!」
両手で机を叩きながら思わず名前を呼んで立ち上がった俺に、九十九人の新入社員の視線が一斉に集まる。
「えっ!?」
今度は梅子が大きな黒目を見開いて俺を指さした。
「え?……あ、朝の……が……ガキンチョ?」
俺を見たまま、梅子が何か言いかけたが、すぐに大きく深呼吸すると名簿を見ながら静かにマイクを口元に当てた。
「御堂君、着席してください」
「あ、すいません……」
俺も黙って着席する。
心奈が小さく「世界、知り合い?」と囁いてくるが今はそんなことどうでもいい。俺の鼓動はあっという間に外からでも分かるほどの音を立てていた。
(嘘だろ……まさか……梅子に……もう一回会えるなんて)
俺はメモもそこそこに目の前の五円玉女改め、もう一度会いたいと思っていた俺の初恋の梅子に思わず見惚れていた。スラックスに中の五円玉を手繰り寄せて掌に握る。
小学六年生だった俺は、あの日梅子に恋をした。
生まれて初めての恋だった。
そしてその時約束したんだ。
もし俺が梅子との約束を守ってもう一度会えたなら……。
(五円玉はマジでご縁を引き寄せんだな)
俺は十年ぶりに再会した梅子を見つめながらゆっくりと口角を上げた。
※※
私はデスクに戻ると、明菜が淹れてくれた湯飲みの中の緑茶を見つめた。
珍しく茶柱が一本立っている。
「梅将軍、茶柱ですね、いい事あるかもですね」
「そうね……ありがと」
あんなに動揺しながら講義をしたのは初めてだった。講義を終えるとすぐに次の経理課の事務的な説明が始まったため、あのガキンチョと会話することはなかったが本当に驚いた。
(てゆうか、驚いたからって私を呼び捨てにするなんてどういうつもりよ)
まさか朝マンション前で会ったガキンチョが、自分の会社に新入社員として入社してくるなんてまだ信じられない。おまけにさっきでパソコンで確認したらガキンチョの配属は見積課になっていた。それも急遽うちへの配属が決まったらしく、社長承認の日付は今日付けだった。
(……なんで見積課?)
見積課は忙しいながらも人手は足りているし、新入社員のほとんどは花形の営業課への配属が圧倒的に多い。この女所帯の見積課に男子社員、それも新入社員が配属されるなんて前代未聞のことだ。
「梅将軍どうかされました?」
「う……ん」
私は昨日、見積課配属が決まった新入社員の名前をパソコン画面でもう一度確認する。
(間違いないな……)
「あ、わかった、梅将軍!もしかして社長の甥っ子さん見たんですか?イケメンすぎて放心状態とか?」
私はパソコンから顔を上げると、あわてて首を振った。
「ちがうちがう。朝会った生意気なガキンチョが新入社員でうちに入ったのよ、おまけに見積課配属」
「えぇっ!すっごい偶然ですね!世界級イケメンなんですよね!?」
「まあ……」
(性格は最悪だけどね……)
その時、事務所の扉が開くと殿村が顔を出した。
「あれ?殿村?」
私の声に明菜も首を捻る。
「あれ?お殿さま?」
長身の殿村に付き添われて、すぐに長身の男が入って来る。
「わ、嘘……すっごいイケメン……」
明菜が食い入るように殿村の後ろをじっと見つめている。そして見積課からすぐに歓喜の悲鳴があがる。当然だ、見積課には女子社員しか在籍していない。あちらこちらから聞こえてくる悲鳴をものともせずに黒髪を揺らすと、形の良い唇を持ち上げながらこちらに向かって真っすぐ歩いてくる。
明菜があわてて部下たちに業務に集中するよう注意しにいった。
「梅子、新入社員くんお連れしたよ」
「人事部の誰かが連れてくるのかと思ってたけど、殿村が連れてきてくれたんだ、ありがと」
「あぁ。ちょっと社長と話したついでにね、彼の見積課への配属が急遽決まったらしいから、驚いただろ?」
「まあね」
殿村が視線だけで合図すると、男が生真面目に一礼した。
「源課長、今朝は大変失礼しました。今日からお世話になります。社長の甥の御堂世界です」
「えっ?いま……なんて?」
「あ、梅子知らなかった?彼が社長の甥っ子さんだよ」
「噓でしょ!?」
私は思わず席から立ち上がっていた。世界は涼しい顔で私を見ると唇を引き上げた。
「あなたが……陶山社長の甥っ子?」
「はい。経営に活かしたくて見積課を志願致しました。源課長どうぞ宜しくお願い致します」
世界は斜め四十五度きっちりにお辞儀をしてみせる。
(なんなのこの子……朝とは打って変わって育ちの良さ全開のイイコちゃんじゃない、ホントに同一人物?)
「宜しく……」
「あと、源課長の朝のお忘れ物です」
世界はスラックスから五円玉を取り出すと、私の机にそっとおいた。
「あ、ありがとう」
私はすぐに置かれた五円玉をつまむと、デスクの上のお気に入りの馬の貯金箱に入れる。
「へぇ、源課長、馬好きなんですか?」
「まぁ、動物では一番好きかしらね」
私はそっけなく答えた。
「ん?梅子、御堂と知り合いなのか?」
私たちのやり取りを黙って眺めていた殿村が口を開いた。女子社員を宥めてようやく戻ってきた明菜は世界を横目に目がハートだ。
「えぇ、朝ちょっと小銭落とした時に偶然会って」
「あ、そうなんだ。びっくりした、梅子がこんな若い子と前から知り合いな訳ないよな」
「お言葉ですが殿村部長……なんで知り合いなわけないんですか?」
世界が殿村の真正面に立つと、やけに挑戦的な瞳で殿村の薄茶の瞳をじっと見つめた。
(なに……?殿村をライバル視……してるとか?なんで?)
「ん?梅子とは年が違いすぎるから。接点ないと考えるのが普通じゃないかな?」
「年が違っても接点ってあるとおもいますけどね」
「へぇ、なに?もしかして梅子に気でもあるのかな。入社早々、ふっ……キミみたいな若い子がまさかね」
世界はさらに殿村に顔を近づけると、私には聞こえない声で何かを殿村に囁いた。
途端に殿村の眉に皺が寄る。そしてすぐに顔を崩すとクククっと笑った。
「いいよ。お手柔らかに」
殿村の返事を聞くと世界はすぐに殿村から距離を取った。
「え?殿村?」
「梅子、今朝頼んだ見積宜しくね。営業から戻ったらここに寄るから。あと今度の誕生日も去年同様祝ってやるから何食べたいか考えておいて」
殿村の声色が心なしか、いつもより柔らかく感じるのは気のせいだろうか。
「う、ん……」
「じゃあまた夜に」
殿村の背中が扉に吸い込まれるとすぐに世界が口を開いた。
「すみません。源課長、俺の席ってどこですか?」
「あ、明菜ちゃんの隣の予定だけど」
私は課長デスクの斜め前を指さした。
「御堂くん、ご案内しますよ」
「あ、森川さんすみません。俺、源課長の仕事ぶりを間近でみて勉強したいんで、特別に源課長の隣の席にしてもらえないでしょうか?」
「え?ちょっと、何言って……」
「源課長は黙っててください。俺今、森川さんと交渉中なんで。ダメですかね?」
世界は背の低い明菜をのぞき込むようにして甘えるような声を出した。
(え?なに?どういうつもりなのよ……?)
明菜を見れば、うつ向きがちに背中を丸めながら顔を真っ赤にしている。
「……えっと、じゃあ特別にってことで……デスク移動で回線つなぎなおすと自動的に内線番号が変わってしまうので、あとで陶山社長に御堂くんの内線番号、私からメールでお伝えておきますね」
「森川さん、ありがとうございます。嬉しいです」
世界は爽やかに微笑みながら、すぐにデスクを無理やり移動させると私の横に座った。
「えっと。じゃあ梅将軍、私見積りあるんでデスクに戻ります。何かあったら呼んでくださいね」
「あ、明菜ちゃんありがと」
明菜が席に戻ると、すぐに私は右隣からの世界の視線に落ち着かなくなる。
「源課長、俺なにしたらいいですか?」
「商品カタログ持ってる?」
世界はパソコンを立ち上げると、鞄の中から商品カタログを取り出した。
「とりあえず初日だから、御堂くんは商品カタログ見ながら施工図だして、実際の現場施工でどのパーツが必要か勉強してくれるかしら?まずは見積書作成するには商品知識は勿論のこと、施工についても詳しくならなきゃ話にならないからね」
私は緊張を悟られないようにできるだけ淡々と説明する。世界はすぐに商品カタログを見ながら黙々と施工図と照らし合わせていく。
(へぇ……会社では素直に言うこときくんだ……)
朝の最悪な態度のイメージが強い私にとって、今隣にいる世界は借りてきた猫状態にみえる。
世界がくすっと笑った。
「な、なによ。気持ちわるいわね」
「いや、今俺のこと考えてましたよね?」
(こいつ何て言った?)
世界は商品カタログを片手にこちらに、ずいと身体を寄せてくる。また朝と同じ世界の甘い匂いが鼻をかすめて勝手に胸がドキドキしてくる。
「ちょ……近い……」
「こんくらいで動揺してたら俺の隣つとまりませんよ」
「それ、どういう意味よっ」
「まんまの意味です」
そして世界は、私のマウスを持つ右手に自身の左手を重ねた。
「なっ……」
ふいに包まれた大きな掌に驚いて、目を見開くことしかできない私に世界が意地悪く笑う。
「俺、左利きなんで」
(そんなこと聞いてない……なんで手……)
言いたい言葉は頭には浮かぶが口からは出てこない上に、暫く恋愛から遠ざかっている私はもはやこういう時の異性への対処方法も思い浮かばない。世界はパソコンの画面にスクリーンキーボードを表示すると、私の掌と重ねたままマウスで文字を入力していく。
「……え、ちょっと、何……」
ようやく声をだして世界から距離を取ろうとするが、世界は私の肩に自分の肩をピッタリつけてくる。
「見て欲しいのあるんだよね」
「な、によ……もう離して」
「焦らない焦らないっと」
私は世界の意図がまるでわからないまま、世界の打ちこむ文字を目で追っていく。
(は……や、く? お……れのこ……とす)
最後に文章に変換をかけると世界が子供みたいな顔でニッと笑った。
──早く俺のこと好きになって
何度その文字をなぞっただろうか?
心臓は世界に聴こえてしまいそうなほどに駆け足状態だ。展開についていけなくて、今この瞬間が夢のように思えてくる。
こんなまるで恋愛ドラマみたいなこと……それもこんな一回りも年下男子の……相手が私?
するりとマウスから手を離しながら世界が囁いてくる。
「早く思い出してくださいね。梅子さん」
囁かれた耳は奥まで熱くなる。
私は思いっきり世界の足を踏んづけた。
「痛って」
「ばかっ、揶揄わないで!こんなことする暇あるなら商品品番一つでも覚えなさいっ」
上司らしく一喝すると私は猛ダッシュ状態の心臓を隠すように、黙々とパソコンに向かって指先を動かしていく。
「俺……揶揄ってないんすけどね」
世界は小さく呟きながら私から離れると、ボールペン片手に商品カタログにようやく視線を向けた。
(もう、何なのよ、このガキンチョ……それに私もガキンチョ相手にドキドキして……何なのよっ)
跳ね続ける鼓動を鎮めるように手を当てて深呼吸する。
今思えばもうこの瞬間から私は恋に落ちてしまっていたのかもしれない。世界の果てまで続く無限の恋愛ドツボにはまって、抜け出せなくなるとも知らずに、私は後戻りできない恋をはじめていたのだ。
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