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第2章 契約交際ってことで
第5話
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課長になった記念に自分へのお祝いで買った、手元のエルルスの時計を見れば二十二時をすぎている。
「んーーーっ、やっと最寄り駅まで帰ってきたわね」
私は夜空に向かって伸びをすると、自宅マンションに向かって真っすぐに歩いていく。世界は電車の中ではおとなしく、誰かから来たメールの返信に忙しそうだった。
(なんなの、結局彼女いるんじゃないの)
世界がなぜ会ったばかりの私に、あそこまで言い寄るのかまるで分からない。かといって世界は私より一回りも年下だ。さっきの行動のあれこれの理由をいちいち聞くのもおかしい気がして私は何も聞かなかった。
世界は私の隣に並ぶと、すぐに私の方に顔を向けた。
「あの、一個いいっすか?」
「な、なによ」
(180……センチくらいかな……)
世界は身長が高い。隣に並べば身長160そこそこの私は、世界を見上げるしかない。
「業務外は梅子さんって呼んでいいですか?」
「へ?……な、んで?」
「なんで?」
世界が途端に子どもみたいに口をとがらせている。
「あの、いい加減にしてもらえます?」
「なによそれ、こっちのセリフでしょっ。ちなみに上司だからって色仕掛けしたって評価は正当にしかしないからねっ!……きゃっ」
世界が私の腕を掴むと強引に自分の胸元へと引き寄せる。世界のジャケットから甘い世界の匂いがして瞬時に顔が火照る。全身の血液がドクドクと音を立てて、さらに身体と一緒に心臓まで抱きしめられたようにぎゅっと痛くなる。
「悪いですけど、評価とかどうでもいいです。でも業務を適当にするつもりないですし、経営に活かしたいんで真剣に学びます」
「わ……わかったから……離してよっ」
「あと再会したばっかですけど……梅子さんのことマジなんで、俺のこと恋人候補として考えてくれませんか?」
世界が私の顔をのぞき込む。その綺麗な瞳と真剣な表情に声が出なくなる。心臓の鼓動が最大限に加速して、無意識に呼吸を止めていた。自分の中から聞こえてくる心臓の跳ねる音が、世界に聞こえてしまいそうで私は世界の胸元をトンと突いた。
「やめて。ほんと離して……迷惑、だから……」
「……そんな嫌ですか?」
「一回りも年下のあなたとこんなこと……誰かに見られたら……困る……から」
「あっそ……じゃあ先に帰ります」
世界は小さくため息を吐き出すと、プイっと顔を逸らし、私に背を向けて歩き出す。
(あ……)
あっという間に世界の背中は小さくなっていった。その後ろ姿を見ていると、なぜだか胸の奥が小さく針で刺したように痛んだのはなぜだろう。
(なんで……あんな真剣な顔するのよ……)
浮かれてもいけない、うぬぼれてもいけない。自分を顧みなければいけない。私はもう何も考えずに恋できる年ではないのだから。
私がもやもやとした気持ちを抱えながら再び歩きだした、その時だった。
「あれ?もしかして源課長ですか?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、私の体がビクンと反応した。
「源課長だよね?圭太さん?」
「あ……そうだね」
──圭太さん。
私はなかなか振り返れない。あの時の光景が一気にフラッシュバックしてくる。
──『ごめん、梅子……子供が出来たんだ。別れてくれないか?』
「あれ源課長?私のこと忘れちゃいました?」
(彼氏を寝取られた女の名前忘れるわけないでしょ)
二つ年上だった学校教諭の圭太と付き合っていた時、たまたま近くに住んでいた後輩の里穂と食事を一緒にしたことがあったが、まさかそのあと、里穂が圭太を私から寝取り子供まで作るとは思ってもみなかった。私は鞄をぎゅっと強く握りしめる。
(大丈夫、もう五年も前じゃない)
私は、ゆっくり振り返ると無理やり口角を引き上げた。
「久しぶりね。里穂ちゃん」
「ほんとお久しぶりですねー、今日は圭太さんのお母様が子供みててくれて久しぶりに思い出のレストランに食事に行ったかえりなんです。源課長はもしかして残業がえりですかぁ?」
私はできるだけ、里穂の隣にいる圭太をみないように鼻にかかる甘えた声に返事をする。
「えぇ、相変わらず見積課いそがしくて」
「元同期から聞いたんですよ、源課長相変わらず仕事が完璧で男の影もなくお仕事に邁進されてるって。ほんとバリキャリってかんじですごいですよねー、圭太さんもそう思うでしょ?」
里穂は長い茶髪を耳にかけながら隣の圭太に腕を絡めなおした。その左手の指先には圭太とおそろいの指輪が光る。
「……そうだな……梅子は仕事が一番大切だからな」
心臓がえぐられたように痛い。
仕事は大事だ、でも圭太と付き合っていた五年間、私は圭太との恋も仕事と同じくらい大切だった。学校で数学を教えている圭太は、テスト期間になると忙しくて食事をおろそかにしがちだったため、平日も料理アプリ見ながら慣れない食事を作りにいったことを思い出す。交際三年目あたりからは穏やかで優しい圭太とのふたり寄り添う未来を私はどこかで夢見てた。
──もう最後の恋だと思ってたから。
「えぇ……仕事は好きだし、裏切らないから……」
「あはは。確かにそうですね、とられちゃうことないですもんね」
思わず目に涙の膜が張りそうになる。
私は何も悪いことしてない。
それでも心が空しくて、みじめで呼吸が苦しくなる。
「……じゃあこのあたりで……」
(早くこの場から離れたい)
もう自分の意志に反して涙が転がる寸前だ。
「はい、お気をつけて。あ、でもあんまりお仕事頑張りすぎてたら結婚できませんよ。気をつけてくださいね」
──「ふっ……ほんと、大きなお世話っすね」
ふいに頭上から降ってきた言葉とともに私の背中があったかくなって、長い腕が首元に絡みついた。知っている甘い香りが鼻をかすめる。
「おまたせ。梅子さん」
「え?御堂……くん」
「マンションで待ってたけどなかなか帰ってこないから迎えに来た。かえろ」
世界は私の首元から腕を解くと掌を握った。
「……え?源課長、まさか……そんな若い子と付き合ってるんですか?」
世界が怪訝な顔の里穂にずいと顔を寄せる。
「そうなんです。俺が梅子さんにどうしても付き合って欲しくてやっと付き合ってもらったんすよね。梅子さんってすごく魅力的なんで。誰かに取られる前に俺のものにできてよかったです」
世界との顔の距離に里穂の顔がほんのり赤くなるのを見ると、世界が意地悪く笑った。
「それにしても浮気なんて絶対しそうもない、真面目そうで素敵な旦那さんですね。計算高い貴方にピッタリだと思いますよ」
「なっ……」
里穂の顔が引きつり圭太の顔も青ざめる。
「てことで梅子さん、もう行かなきゃ。明日朝早いし。俺の伯母さんである陶山社長と三人で会食でしょ」
「え……嘘……陶山社長の甥?そんな子がなんで源課長と……」
里穂は口元を覆うとわずかに震えている。そして里穂の綺麗な顔がこれでもかと歪むのが分かった。
「ふ……あんたらみたいにどうしようもない浅はかな人間には梅子さんの良さなんて一生わかんねぇと思うけど」
「なっ……」
「ということで俺らは、失礼します」
世界はそういうと私の掌を強く握ったまま、開いた口が塞がらない二人を置いてその場をあとにする。その掌は大きくてあったかくて、私は掌から伝わる久しぶりの温もりに戸惑いながらも、ひどくほっとした。
「んーーーっ、やっと最寄り駅まで帰ってきたわね」
私は夜空に向かって伸びをすると、自宅マンションに向かって真っすぐに歩いていく。世界は電車の中ではおとなしく、誰かから来たメールの返信に忙しそうだった。
(なんなの、結局彼女いるんじゃないの)
世界がなぜ会ったばかりの私に、あそこまで言い寄るのかまるで分からない。かといって世界は私より一回りも年下だ。さっきの行動のあれこれの理由をいちいち聞くのもおかしい気がして私は何も聞かなかった。
世界は私の隣に並ぶと、すぐに私の方に顔を向けた。
「あの、一個いいっすか?」
「な、なによ」
(180……センチくらいかな……)
世界は身長が高い。隣に並べば身長160そこそこの私は、世界を見上げるしかない。
「業務外は梅子さんって呼んでいいですか?」
「へ?……な、んで?」
「なんで?」
世界が途端に子どもみたいに口をとがらせている。
「あの、いい加減にしてもらえます?」
「なによそれ、こっちのセリフでしょっ。ちなみに上司だからって色仕掛けしたって評価は正当にしかしないからねっ!……きゃっ」
世界が私の腕を掴むと強引に自分の胸元へと引き寄せる。世界のジャケットから甘い世界の匂いがして瞬時に顔が火照る。全身の血液がドクドクと音を立てて、さらに身体と一緒に心臓まで抱きしめられたようにぎゅっと痛くなる。
「悪いですけど、評価とかどうでもいいです。でも業務を適当にするつもりないですし、経営に活かしたいんで真剣に学びます」
「わ……わかったから……離してよっ」
「あと再会したばっかですけど……梅子さんのことマジなんで、俺のこと恋人候補として考えてくれませんか?」
世界が私の顔をのぞき込む。その綺麗な瞳と真剣な表情に声が出なくなる。心臓の鼓動が最大限に加速して、無意識に呼吸を止めていた。自分の中から聞こえてくる心臓の跳ねる音が、世界に聞こえてしまいそうで私は世界の胸元をトンと突いた。
「やめて。ほんと離して……迷惑、だから……」
「……そんな嫌ですか?」
「一回りも年下のあなたとこんなこと……誰かに見られたら……困る……から」
「あっそ……じゃあ先に帰ります」
世界は小さくため息を吐き出すと、プイっと顔を逸らし、私に背を向けて歩き出す。
(あ……)
あっという間に世界の背中は小さくなっていった。その後ろ姿を見ていると、なぜだか胸の奥が小さく針で刺したように痛んだのはなぜだろう。
(なんで……あんな真剣な顔するのよ……)
浮かれてもいけない、うぬぼれてもいけない。自分を顧みなければいけない。私はもう何も考えずに恋できる年ではないのだから。
私がもやもやとした気持ちを抱えながら再び歩きだした、その時だった。
「あれ?もしかして源課長ですか?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、私の体がビクンと反応した。
「源課長だよね?圭太さん?」
「あ……そうだね」
──圭太さん。
私はなかなか振り返れない。あの時の光景が一気にフラッシュバックしてくる。
──『ごめん、梅子……子供が出来たんだ。別れてくれないか?』
「あれ源課長?私のこと忘れちゃいました?」
(彼氏を寝取られた女の名前忘れるわけないでしょ)
二つ年上だった学校教諭の圭太と付き合っていた時、たまたま近くに住んでいた後輩の里穂と食事を一緒にしたことがあったが、まさかそのあと、里穂が圭太を私から寝取り子供まで作るとは思ってもみなかった。私は鞄をぎゅっと強く握りしめる。
(大丈夫、もう五年も前じゃない)
私は、ゆっくり振り返ると無理やり口角を引き上げた。
「久しぶりね。里穂ちゃん」
「ほんとお久しぶりですねー、今日は圭太さんのお母様が子供みててくれて久しぶりに思い出のレストランに食事に行ったかえりなんです。源課長はもしかして残業がえりですかぁ?」
私はできるだけ、里穂の隣にいる圭太をみないように鼻にかかる甘えた声に返事をする。
「えぇ、相変わらず見積課いそがしくて」
「元同期から聞いたんですよ、源課長相変わらず仕事が完璧で男の影もなくお仕事に邁進されてるって。ほんとバリキャリってかんじですごいですよねー、圭太さんもそう思うでしょ?」
里穂は長い茶髪を耳にかけながら隣の圭太に腕を絡めなおした。その左手の指先には圭太とおそろいの指輪が光る。
「……そうだな……梅子は仕事が一番大切だからな」
心臓がえぐられたように痛い。
仕事は大事だ、でも圭太と付き合っていた五年間、私は圭太との恋も仕事と同じくらい大切だった。学校で数学を教えている圭太は、テスト期間になると忙しくて食事をおろそかにしがちだったため、平日も料理アプリ見ながら慣れない食事を作りにいったことを思い出す。交際三年目あたりからは穏やかで優しい圭太とのふたり寄り添う未来を私はどこかで夢見てた。
──もう最後の恋だと思ってたから。
「えぇ……仕事は好きだし、裏切らないから……」
「あはは。確かにそうですね、とられちゃうことないですもんね」
思わず目に涙の膜が張りそうになる。
私は何も悪いことしてない。
それでも心が空しくて、みじめで呼吸が苦しくなる。
「……じゃあこのあたりで……」
(早くこの場から離れたい)
もう自分の意志に反して涙が転がる寸前だ。
「はい、お気をつけて。あ、でもあんまりお仕事頑張りすぎてたら結婚できませんよ。気をつけてくださいね」
──「ふっ……ほんと、大きなお世話っすね」
ふいに頭上から降ってきた言葉とともに私の背中があったかくなって、長い腕が首元に絡みついた。知っている甘い香りが鼻をかすめる。
「おまたせ。梅子さん」
「え?御堂……くん」
「マンションで待ってたけどなかなか帰ってこないから迎えに来た。かえろ」
世界は私の首元から腕を解くと掌を握った。
「……え?源課長、まさか……そんな若い子と付き合ってるんですか?」
世界が怪訝な顔の里穂にずいと顔を寄せる。
「そうなんです。俺が梅子さんにどうしても付き合って欲しくてやっと付き合ってもらったんすよね。梅子さんってすごく魅力的なんで。誰かに取られる前に俺のものにできてよかったです」
世界との顔の距離に里穂の顔がほんのり赤くなるのを見ると、世界が意地悪く笑った。
「それにしても浮気なんて絶対しそうもない、真面目そうで素敵な旦那さんですね。計算高い貴方にピッタリだと思いますよ」
「なっ……」
里穂の顔が引きつり圭太の顔も青ざめる。
「てことで梅子さん、もう行かなきゃ。明日朝早いし。俺の伯母さんである陶山社長と三人で会食でしょ」
「え……嘘……陶山社長の甥?そんな子がなんで源課長と……」
里穂は口元を覆うとわずかに震えている。そして里穂の綺麗な顔がこれでもかと歪むのが分かった。
「ふ……あんたらみたいにどうしようもない浅はかな人間には梅子さんの良さなんて一生わかんねぇと思うけど」
「なっ……」
「ということで俺らは、失礼します」
世界はそういうと私の掌を強く握ったまま、開いた口が塞がらない二人を置いてその場をあとにする。その掌は大きくてあったかくて、私は掌から伝わる久しぶりの温もりに戸惑いながらも、ひどくほっとした。
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