上 下
13 / 75
第3章 揺れる心と戸惑う想い

第12話

しおりを挟む
世界が社長室に呼ばれてから、私はパソコンを打つ指先を止めると湯飲みを抱えて立ち上がった。

まだ世界に触れられた頬と手首が熱いと感じる私はどうかしている。
世界と私とでは、世間ではきっと弟とされる存在以上に年が離れているのに。

(ほんとどうかしてる……それに契約交際なのに)

私は見積課の扉を開けると突き当りを曲がって給湯室へと歩いていく。スカートの中のスマホが震えて覗けば、実家の母からだ。

『梅子ちゃん、今度いつ休み?話したいことがあるから用事がてら一度そっちにいくわ』

「一度そっちにって……また展覧会でもあるのかしら」

私の母は書道家をしており、地元で書道教室を運営しながら年に何回か個展を開くために東京へ来るのだ。結婚のことを言われるのが嫌で正月以外はなかなか帰らない私にしびれをきらしたのだろう。

「話したいことか……どうせ彼氏いるか?結婚は?でしょ……」

現状五年ぶりに彼氏と呼べる存在はできたはできたが、とても母には報告できない。それに三カ月の契約交際とはいえ、このまま三カ月満了まで世界くんのいうがままに交際を続けていても良いのだろうか。

もうすぐ私は三十五歳を迎える。誰かと付き合うのならば、自分の年を考えてもっと現実的な相手と付き合うべきなのは十分わかってる。若い世界の気まぐれの恋愛に付き合わされてる暇なんてない……それなのに……。

「……なんでこんなに気になるのよ……」

私はスマホに送られてきた世界からのLINEメッセージをひとつずつ浮かべて眺めていく。

──『今日は先に帰りましたが明日は飯作るんで一緒にたべませんか?』

──『栄養ドリンク、梅子さんの玄関扉のドアノブにかけときます』

──『ちょっとだけ寝る前電話しちゃだめですか?』

──『今週の週末、どっかいきませんか?』

気づけば自然と顔がほころんでいて、私はあたりを見渡すとあわてて口元を引き締めた。

(かわいいな……)

世界にはああ言ったが、世界から毎日届く何気ないLINEは嫌じゃないし、正直嬉しいと思う自分がいる。でも素直にそれを認めてしまえばとんでもなく自分が誤った方向へ進んでいってしまう気がして、いつも心にブレーキをかけてそっけない返事をしてしまう。

──『会ったのも三回目です』

世界の声が意思に反して天井から降って来る。

(そういえば二回目じゃなくて、三回目?)

記憶を数年前まで遡るが、やはり世界とは会ったこともなければ見たこともない。私は小さく首を振った。

「何真剣に考えてんだろ……どうせ三カ月の間だけだし、きっと年上と交際してみたいっていう若さ子特有の気まぐれよ……」

でも気まぐれで彼氏のフリをしてもと元カレを寝取った後輩から助けてくれたり、食事を作ってくれたり、休日に好きでもない時代劇を一緒に見に行ったりするのだろうか。

はじめは揶揄われてるのだとばかり思っていたが、世界の時折見せる真剣な表情に今までの世界の言動が、私をただ単に揶揄ってるだけだと言い切ることがどうしてもできない。そもそもあの見た目で若い女の子に不自由することのない世界が、私と付き合うメリットも私を揶揄うメリットも全く思い浮かばない。

「やめよ。終わり終わり……」

私は頭の中から、底なし沼のようなため息案件をかき消すと給湯室の扉を開けた。

「あれ、めずらし、誰もいない」

わが社TONTON株式会社は主力商品であるトイレは勿論ユニットバス、化粧台、システムキッチンも自社工場で生産しており商品のラインナップは幅広い。給湯室はそんなわが社の商品を気軽に試してもらう場であり、社員からの生の声をもとに、よりよい商品開発へ繋げるために他企業の給湯室よりはるかに広く作られている。

給湯室は二十畳ほどあり、わが社のシステムキッチンと化粧台がおかれていて、いつもは数人の従業員が利用しているが誰もいないのは珍しい。私はシステムキチンの大理石天板の上に湯飲みを置くと、戸棚から急須に緑茶の葉をいれてお湯を注いだ。

「はぁ……」

世界について考えるたびに、もういくつため息が転がっていっただろうか。

──ガチャ。

「失礼しまーす」

扉の開く音と共に、鼻にかかった声と香水の甘い香りが漂ってくる。振り返れば、目の前にはロイヤルコプンハーゲンのマグカップを抱えた長い栗色の髪の女子社員がこちらを見ていた。

「お疲れさま」

(これまた、キラキラした美少女だわ……)

「あの、紅茶ってどこにありますかー?」

「え?紅茶?」

コーヒーも紅茶も緑茶も自由に戸棚から取り出して、セルフで飲んでよいのだが場所を知らないということは、やはりこのキラキラした見た目と舌っ足らずなから話し方から、彼女は新入社員なのかもしれない。私は戸棚から紅茶の箱を取り出した。

「あ、そこなんですね。すみません、新入社員なんでー」

(語尾伸ばすの何とかならないのかしら……)

「ここの戸棚に入ってるから、いつでも何杯でもご自由にどうぞ」

「ありがとうございまーす」

私から紅茶の箱を受け取ると、ロイヤルコプンハーゲンのマグカップにティーバッグをいれお湯を注ぐ。私も蒸らし終わった緑茶のはいった急須を傾け、湯飲みに注ぎ入れた。

「あれ?もしかして見積課の課長さんですかー?」

「え?そうだけど」

「源……梅子課長?」

私がぶら下げているネームホルダーを覗きながら、可愛らしいグロスの塗られた唇が小さく動く。

「ぷっ、なんだかおばあちゃんみたいな名前ですね」

「ちょっとあなたねっ」

「あ、申し遅れました、御堂世界の許嫁の花田心奈です」

(何て言った?)

「えっと……御堂くんの許嫁?」

「はい、いつも世界がお世話になってまーす」

心奈は長いウェーブを靡かせながら、大きな二重瞼をにこりと細める。そういえばいつも定時になると決まって世界に内線がかかって来る。相手は社長の決めた許嫁だと世界が面倒くさそうに話していたことを思い出した。

「世界が本気だっていうんでどんな美女かと想像してましたけど、まさかこんなおばさんだとは思いませんでしたー」

「な……に……?」

心奈の言葉がすぐに理解できない。何度か頭に浮かべてようやく頭が働いてくる。心奈は私と世界の契約交際のことを知っているということなのだろうか。

「私、高校のとき世界と付き合ってたんですー。もちろん初めての相手が世界なんですけどー」

心奈は長い髪を指先でくるくると回しながら、私との距離を一歩つめる。張りのある瑞々しい肌に大きな瞳は本当に漫画から飛び出してきたかのように愛らしく、同性の自分でもドキンとする。

「ねぇ早く世界と別れてよ」

その可愛らしい顔からは想像もつかない、ピリッと空気が一瞬で張り詰めるような冷たい声色だった。

「え?」

「世界モテるんですよね。だから今までほんと数えきれないくらい、いろんな女の子と付き合ってきたの、私見てきたんですけどー。同年代ばっかなんですよねー。意味わかりますかー?源課長にいま言い寄ってるのって、ちょっと年上の女を一回抱いときたいだけなんだと思うんですよー」

私は何も言葉が出てこない。世界に関して知らないこともわからないことも多すぎて、心奈に返す言葉が見つからない。そして若く可愛い心奈をみているだけで、何故だか泣きたい気持ちになってくる。

「ちなみに、もう世界に抱かれましたかー?」

「何言って……」

「あ、よかった。その顔だとまだなんだー?でも今後気を付けてくださいね、世界、噛み癖あるからー。この辺り」

心奈はネイルの施された人差し指を鎖骨辺りに当てるとにっこり微笑んだ。その笑顔に心の真ん中がズキンと痛む。

「……御堂くんから何聞いたか知らないけど……私は関係ないから」

自分で吐き出した言葉なのに、胸が苦しくてたまらなくなる。私は思わず胸元をぎゅっと握りしめていた。

「そうですか、よかったー。そうですよね、年が違いすぎておかしいですよねー。じゃあ遠慮なく、これからも世界を追っかけていこうと思います。ほんとにいいんですよねー?源課長」

「私の許可なんていらないでしょ」

「一応念のためですー。わぁい、源課長の許可もらっちゃった、嬉しいな。ありがとうございますー」

心奈はマグカップ片手にご機嫌で給湯室をあとにする。心奈の足音が遠ざかってから、私は痛んだ胸をごまかすように深呼吸を繰り返した。

「……ばかみたい……」

心奈の言うとおり、世界ははっきり言って女の子にモテると思う。そして見た目以上に彼自身の内面は魅力的だと思う。きっと女の子なら一度は好きになってしまうような、人を惹きつける力がある。

口は悪いが優しくて、なによりもいつも真っすぐだ。その真っすぐな想いをきちんと受け止める勇気もないくせに、これからもその想いが私だけに向けられたらいいのになんて、勝手に期待していた自分に気づく。

(年が違いすぎておかしい、か……)

「そうだよね……世界くんはまだ二十二……」

世間一般でいう二十二歳の恋愛対象として私は全然当てはまらない。そんなことわかっていたはずなのに、あらためて心奈から指摘されて傷つくなんて馬鹿げてる。

(こんなんじゃまるで……私は、世界くんのこと……)

「……好きになっても未来がないでしょ……」

私はこぼれてしまいそうなモノに気づかないフリをすると、湯飲みを抱えて見積課へと足をむけた。

※※

俺はエレベーターを降りると、見積作成に使用する陶器の色見本を取りに金庫室横の資料管理室のドアノブをひねった。

「あ……」

俺の吐き出した一文字の言葉によって、長身のスーツ姿の男がすぐに振り返った。

「これはこれは梅子んとこの子犬くんか」

明らかにけんを含んだ言い方に苛立つ。

「視力悪いんすね。俺が子犬に見えてんすか?」

「じゃなきゃ言わないけどね。というか先輩社員に対しての口の利き方も知らないとはな。これだからお坊ちゃんは困るな」

「それ言うなら、陶山家直系の跡取りでいずれこの会社のトップにたつ俺にアンタこそ敬語を使うべきだろ。殿村部長」

「本当生意気だな。キミみたいに若さだけで突っ走るだけが取り柄の自己中心的な奴に一方的に言い寄られて、梅子の気苦労が目に見えるよ。くれぐれも梅子の邪魔にならないように大人しくおすわりしてるんだな」

殿村は言い捨てるとまた色見本を選びながら腕に抱えていく。俺は殿村に歩み寄ると殿村の視線を捕まえた。

「じゃあ……その子犬が梅子さんをもうとしたら?」

すぐに面白いほどに殿村の顔色が変わる。

「梅子に何した?」

殿村はすぐに手元の資料を放り投げると、俺のネクタイごと掴み上げて壁にドンと押しやった。

「ふ……いつも涼しい顔したアンタも焦るんだな。大事な大事な梅子さんが、まさか俺みたいな子犬に嚙まれると思ってなかった?あんないい女、噛むに決まってんじゃん」

「僕は何したかって聞いてるんだけどね」

殿村の俺の首元を閉める指先に力がこもる。
俺は瞳を細めると唇を持ち上げた。

「キスしただけ」

「お前っ」

「早いもの勝ちだろ。アンタがなんで今まで梅子さんに手出さずに指くわえてんのかしらねぇけど、俺はアンタの言う通り黙って、おすわりできないんでね。あともう一個。いま梅子さんと付き合ってる」

しんとした空気が流れて、殿村の綺麗な二重瞼がぐっと細くなる。

「何て言った……?」

「耳まで悪いんすね。梅子さんと付き合ってます。ちなみに俺本気です」

殿村に首元を締め上げられたまま、俺も左手で殿村の胸元を掴み上げ返す。

「くっ……どんな手使った?梅子がお前みたいな子供と付き合うなんて、よっぽどの汚い手を使ったんだろうな。何かを盾にして脅したのか?」

「まさか。ちゃんと付き合ってって告ってオッケー貰いましたけど?それにさー、子供っていうけど、俺ちゃんと梅子さんのこと満足させられますから


「そんなこと聞いてないっ!梅子に触るな!」

「嫌だっていったら?俺、事前に殿村部長に宣戦布告しましたよね。梅子さんは『俺の女にする、早いもの勝ちですよ』って。忘れちゃいました?」

殿村が奥歯を噛み締めたまま俺を睨み落とす。殿村はいつも余裕綽綽よゆうしゃくしゃくとしていて、どんなに仕事でトラブっても焦る姿なんて見たことがないと明菜が話していたが、梅子のことになると別らしい。

「……いいだろう。僕も本気で取りにいかせてもらう。悪いがキミみたいな世間知らずで、若さしか取り柄のない男じゃ梅子は守ってやれない。梅子の抱えてる等身大の悩みや苦しみに、キミは応えてもやれなければ支えてやることもできないはずだから」

「は?そんなことアンタが勝手に決めんなよっ」

声を荒げた俺を見ながら殿村が鼻を鳴らした。

「いずれ分かる。年の差は一生埋められない深い深い谷だって思い知ることになるよ」

殿村は乱雑に俺の手を振り払うと、乱れたネクタイをさっと締め直し、資料管理室から出ていった。ひとりになった資料管理室で、俺は陶器の色見本片手に殿村の言葉を反芻する。

確かに俺と梅子はひとまわり年が離れている。梅子が俺との契約交際の中で、契約といえど未だに迷いを抱えているのも知っているし、梅子がなぜ俺とのことをそんなに迷うのかも分かっているつもりだ。それでも俺は、梅子ともっと一緒にいたい。一緒にすごす時間の中で互いのことをもっと知り、そのうえで将来を見据えて共に寄り添えたらどんなにいいだろうか。

「なぁ、梅子さん……年なんて関係ねぇよな」

俺はそう呟きながらも、胸の中の小さな不安が膨らむのを感じていた。



しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】今更魅了と言われても

恋愛 / 完結 24h.ポイント:31,452pt お気に入り:639

皇太子殿下の容赦ない求愛

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:1,892

死が見える…

ホラー / 完結 24h.ポイント:2,172pt お気に入り:2

神は可哀想なニンゲンが愛しい

BL / 完結 24h.ポイント:298pt お気に入り:23

顔面偏差値底辺の俺×元女子校

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:305pt お気に入り:2

処理中です...