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第一章
第四話
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◇◇◇
閨には、読書用の几と椅子、怠ける用の長椅子、燭台、螺鈿細工の文箱や化粧箱がしまわれている壁棚。
そして、閨の奥には帳が降りた寝台がある。
室の戸はぴったりと閉められていて、ここからの脱出は叶いそうにない。長椅子に肩を並べて座っている私と陛下の間に重苦しい空気が流れている。
「……あなたは、俺のことが嫌いだろうか?」
ちらりと盗み見た彼と目線がかち合い、予想だにしなかったなかった質問を投げかけられた。
「陛下を嫌うなど、恐れ多いことです」
「……では、なぜ俺を見て逃げたのだ?」
「昔からなのですが驚いて混乱すると、まず逃げようと思ってしまう節があるのです」
昔、絶対に気付かれることがないと思っていた悪戯に母が気付いてこっぴどく叱られた。逃げ果せてしまえば、母の戦意もなくなると学んでからは、悪戯をしては逃げを繰り返していた。
こんな悪癖が今も残っているなんて、私はいつまで子ども気分でいるのだろう。
「本当に申し訳ないですわ」
頭を下げると同時にシャラと歩揺が揺れる。
「そうか、嫌っていないか。よかった」
安堵したような声に顔上げて彼の顔を見ると、柔和な笑顔が浮かんでいる。
私はこの人を、傷つけてしまったのだ。
「あなたと話がしたくて、つい」
そう照れくさそうに笑った。
「あなたの好きな本は、なんだろうか?」
そう尋ねられ、私は心を許し始めていた。傷付けてしまった彼に誠心誠意応えようと、言葉を選びながら会話を広げようと試みる。
「陛下は、怪異小説をお読みになられますか?」
「林玄に眠れなくなると聞いたのでな、好んで読むことはない」
「私が読んできたものの中に眠れないほど恐ろしいものはありません。単に怪異や幽鬼の類いに強いから、というのもあると思いますけれど」
「……面白いのだろうか、怪異小説や幽鬼の話は」
「もちろんです。一部をお聞かせしても?」
「あぁ、お願いしよう」
陛下は私の話に興味津々だった。
段々と饒舌になっていく私に、目を輝かせて聞き入る彼。
侍女を呼んで、私が借りている本を持ってこさせた。
最終的には、長椅子に座って膝が触れ合う距離で本を読んでいた。一冊を誰かと共有して読むなんて、小さい時以来だ。
『彼は振り返らずに、真っ新な雪を踏みしめて遠ざかった。一縷の望みを残して去ってしまう貴方は、いつまでも弱いままなのね』
「彼女は一体何に望みを感じたのだろうか?いまいちピンと来ない」
私が読みあげた一節に彼は疑問を抱いたようだ。
「正解ではありませんが、解釈をお話しても?」
「あぁ、頼む」
「このお話は雪山に住む女人と青年が出てきます。二人は幼馴染で、子どもの頃から青年は臆病でした。何をするにも彼女と一緒。彼女もまたそれが当たり前で、普通だと思っていた。しかし、彼が町に下りて行くことになります。婿として召されることになったからです。彼は彼女に、もう一人で生きていけると告げて去って行くんです。そこであの言葉が出てきます」
「そうだな」
「何をするにも彼女頼りだった彼が一度も振り返らない。彼なりのケジメだったんですよ。でも、彼はわざわざ真っ新な雪を踏んで行く。彼女は彼が引き留めて欲しいと願っていることに気付く。その足跡を辿れば彼がいる。彼女もまた彼を引き留めたかった。だから彼女は、自分にばかり追いかけさせる彼に弱いと言った。それは彼女なりにケジメをつけたことも意味していると思うんです」
「ほう……それはどんな?」
「冒頭に書いてありますね。『弱い男は嫌いなの。けど貴方は好きよ、臆病だけど勇気があるから』と青年に言って話が始まりますから。彼女の『弱い』にはそういったものが含まれているかと思います」
『雪尽 弱虫』
青年としっかり者で世話焼きな女人の話。互いに手を伸ばし合って、求めているのにどちらもその手を掴まない。
そのもどかしさと切なさに胸を締め付けられる。
「ふむ…あなたの解釈は正解と見える。しかし…この話は切ないな。泣きそうになる」
「分かりますわ。どちらも互いが必要なのに、その手を掴まないのがもどかしくて苦しいです」
「この本は悲恋ばかりなのか?恋が成就した話は無いか?」
「では――」
二人が気付かないうちに、外は闇を増していた。
羲和と弦沙でさえ船を漕ぐほどに、二人は一緒にいた。閨から漏れ聞こえる彼女の優しい声と、彼の楽しそうな声。
まるで読み聞かせをされているようで、外で聞いているだけは眠くなってしまうのだ。
***
「詩涵、という名は誰に付けてもらったのだ?」
「母です。父は字にこだわりが強くて、なかなか決まらなかったそうで、母が詩涵で押し切ったと。父も母も詩が好きなので、詩のような情緒を持った子になって楽しい思い出で溢れるようにと名付けてくれました」
「いい名だ。あなたは見事に名付け通りの女人になったのだな」
「母には、父に似て本の虫になってしまったと言われます。あ、ですが母も私の話を聞くのが好きだと言ってくれました。凌梁も弦沙も、皆そう言ってくれますわ」
「あなたの話は感情豊かで、聞いていると引き込まれてしまうからな。あなたと同じ感情を共有しているような気持ちになる」
彼女の寝台に腰掛けている彼に目を向ける。
なぜ彼がそこにいるのかと言えば、付き添いで来たはずの羲和様が弦沙と共に眠っているからだ。
陛下がいつも無理をさせてばかりの羲和様を起こすのは忍びないと言うので、そのまま寝かせているのだ。
「自分ではよく分からないですけれど、嬉しいです。弦沙は字を読むことが苦手だから、この気持ちを共有できないなんて思ってしまっていたのですが……もしそうならば、たくさん聞かせてあげないと」
楽しそうな弦沙の顔を浮かべて、笑みを零す。その傍らに凌梁がいて、いつの間にか他の侍女も集まっていたら尚良い。
「楽しそうだな。あなたの宮は」
「ええ。毎日楽しいですよ。私が過ごしやすくなるように仕えてくれるので、感謝しかありません。変わり者を好いてくれる、良い人たちです」
「あなたは、皆に好かれる質を持っているからこそだろう。あなたの周りは心地が良い」
ふっと笑んだ彼は、几に置かれた本を手に取った。『鱗粉と蛇』だった。
「あ、その本は――」
「……すまない」
私の制止を聞く前に本を開いた彼が、頬を染めて本を閉じる。
「浰青さんの小説の中でも、最速で廃書になった本なので。その……刺激的過ぎて」
「……あぁ、挿絵が驚くほどにな」
「ふ、ふふ、ごめんなさい」
「なにも笑わなくても……」
居心地悪そうに目線を泳がせる彼を見ていると、なんだか少しかわいく思えてしまう。
「そういえば陛下は、どんな本を読まれるんですか?」
「よく読むのは、史学の本や地理書。娯楽には漢詩を読むことが多い」
「勉学の本ばかりですのね。恋愛ものをお読みになったのは、『雪尽』が初めてですか?」
「あぁ、そうだな。あまり読まないから、流れるように進む感情の機微が掴めなかった。だから、あなたと読んだ時の感情がありありと残っている」
胸に手を当てて、嬉しそうに笑う。
まるで初めて本に惹かれた私のようだった。
「――よろしければ、また私のお話に付き合っていただけますか?」
口をついて出た言葉に驚いた私がいるのに、目を瞠って顔をあげた彼にゆっくりと微笑みかける。聞かなかったことにしてほしいと言ってしまえるのに、ただじっと彼の返事を待つだなんて。
すべて、私の本好きが悪いのだ。
「いい、のか……?あなたは、読書の時間がなによりの幸せだと言っていたのに」
「だからですわ。陛下が私を通して、浰青さんの本を好きになっていただけたら嬉しいと思いました。私のお話しできるすべてが陛下の娯楽になれば、浰青さんの小説がまた市井に出るかもしれません。書物好きとして、それに勝る幸せはありません。言葉を求める誰かに、共有できることが幸せなのですから」
「……あなたの幸せに、俺も混ぜてくれるのか」
「お邪魔にならないのなら、陛下の望むままに」
こうして、私の平穏で怠惰な生活は幕を下ろした。
向いている、向いていないの問題の前に動かなければ何も分からない。逃げていては大事なものを見逃し、人生の中に何度とない機会を失う。
どうせなら、嫌だと思えるほど彼を知ろうと思ったのだ。今はまだ好印象しかなく、良い人止まりだから。
それに連れ立って、浰青さんの本がもっと広まってくれたらいい。そんな下心を持って、私は彼に寄り添っていくことを決めた。
閨には、読書用の几と椅子、怠ける用の長椅子、燭台、螺鈿細工の文箱や化粧箱がしまわれている壁棚。
そして、閨の奥には帳が降りた寝台がある。
室の戸はぴったりと閉められていて、ここからの脱出は叶いそうにない。長椅子に肩を並べて座っている私と陛下の間に重苦しい空気が流れている。
「……あなたは、俺のことが嫌いだろうか?」
ちらりと盗み見た彼と目線がかち合い、予想だにしなかったなかった質問を投げかけられた。
「陛下を嫌うなど、恐れ多いことです」
「……では、なぜ俺を見て逃げたのだ?」
「昔からなのですが驚いて混乱すると、まず逃げようと思ってしまう節があるのです」
昔、絶対に気付かれることがないと思っていた悪戯に母が気付いてこっぴどく叱られた。逃げ果せてしまえば、母の戦意もなくなると学んでからは、悪戯をしては逃げを繰り返していた。
こんな悪癖が今も残っているなんて、私はいつまで子ども気分でいるのだろう。
「本当に申し訳ないですわ」
頭を下げると同時にシャラと歩揺が揺れる。
「そうか、嫌っていないか。よかった」
安堵したような声に顔上げて彼の顔を見ると、柔和な笑顔が浮かんでいる。
私はこの人を、傷つけてしまったのだ。
「あなたと話がしたくて、つい」
そう照れくさそうに笑った。
「あなたの好きな本は、なんだろうか?」
そう尋ねられ、私は心を許し始めていた。傷付けてしまった彼に誠心誠意応えようと、言葉を選びながら会話を広げようと試みる。
「陛下は、怪異小説をお読みになられますか?」
「林玄に眠れなくなると聞いたのでな、好んで読むことはない」
「私が読んできたものの中に眠れないほど恐ろしいものはありません。単に怪異や幽鬼の類いに強いから、というのもあると思いますけれど」
「……面白いのだろうか、怪異小説や幽鬼の話は」
「もちろんです。一部をお聞かせしても?」
「あぁ、お願いしよう」
陛下は私の話に興味津々だった。
段々と饒舌になっていく私に、目を輝かせて聞き入る彼。
侍女を呼んで、私が借りている本を持ってこさせた。
最終的には、長椅子に座って膝が触れ合う距離で本を読んでいた。一冊を誰かと共有して読むなんて、小さい時以来だ。
『彼は振り返らずに、真っ新な雪を踏みしめて遠ざかった。一縷の望みを残して去ってしまう貴方は、いつまでも弱いままなのね』
「彼女は一体何に望みを感じたのだろうか?いまいちピンと来ない」
私が読みあげた一節に彼は疑問を抱いたようだ。
「正解ではありませんが、解釈をお話しても?」
「あぁ、頼む」
「このお話は雪山に住む女人と青年が出てきます。二人は幼馴染で、子どもの頃から青年は臆病でした。何をするにも彼女と一緒。彼女もまたそれが当たり前で、普通だと思っていた。しかし、彼が町に下りて行くことになります。婿として召されることになったからです。彼は彼女に、もう一人で生きていけると告げて去って行くんです。そこであの言葉が出てきます」
「そうだな」
「何をするにも彼女頼りだった彼が一度も振り返らない。彼なりのケジメだったんですよ。でも、彼はわざわざ真っ新な雪を踏んで行く。彼女は彼が引き留めて欲しいと願っていることに気付く。その足跡を辿れば彼がいる。彼女もまた彼を引き留めたかった。だから彼女は、自分にばかり追いかけさせる彼に弱いと言った。それは彼女なりにケジメをつけたことも意味していると思うんです」
「ほう……それはどんな?」
「冒頭に書いてありますね。『弱い男は嫌いなの。けど貴方は好きよ、臆病だけど勇気があるから』と青年に言って話が始まりますから。彼女の『弱い』にはそういったものが含まれているかと思います」
『雪尽 弱虫』
青年としっかり者で世話焼きな女人の話。互いに手を伸ばし合って、求めているのにどちらもその手を掴まない。
そのもどかしさと切なさに胸を締め付けられる。
「ふむ…あなたの解釈は正解と見える。しかし…この話は切ないな。泣きそうになる」
「分かりますわ。どちらも互いが必要なのに、その手を掴まないのがもどかしくて苦しいです」
「この本は悲恋ばかりなのか?恋が成就した話は無いか?」
「では――」
二人が気付かないうちに、外は闇を増していた。
羲和と弦沙でさえ船を漕ぐほどに、二人は一緒にいた。閨から漏れ聞こえる彼女の優しい声と、彼の楽しそうな声。
まるで読み聞かせをされているようで、外で聞いているだけは眠くなってしまうのだ。
***
「詩涵、という名は誰に付けてもらったのだ?」
「母です。父は字にこだわりが強くて、なかなか決まらなかったそうで、母が詩涵で押し切ったと。父も母も詩が好きなので、詩のような情緒を持った子になって楽しい思い出で溢れるようにと名付けてくれました」
「いい名だ。あなたは見事に名付け通りの女人になったのだな」
「母には、父に似て本の虫になってしまったと言われます。あ、ですが母も私の話を聞くのが好きだと言ってくれました。凌梁も弦沙も、皆そう言ってくれますわ」
「あなたの話は感情豊かで、聞いていると引き込まれてしまうからな。あなたと同じ感情を共有しているような気持ちになる」
彼女の寝台に腰掛けている彼に目を向ける。
なぜ彼がそこにいるのかと言えば、付き添いで来たはずの羲和様が弦沙と共に眠っているからだ。
陛下がいつも無理をさせてばかりの羲和様を起こすのは忍びないと言うので、そのまま寝かせているのだ。
「自分ではよく分からないですけれど、嬉しいです。弦沙は字を読むことが苦手だから、この気持ちを共有できないなんて思ってしまっていたのですが……もしそうならば、たくさん聞かせてあげないと」
楽しそうな弦沙の顔を浮かべて、笑みを零す。その傍らに凌梁がいて、いつの間にか他の侍女も集まっていたら尚良い。
「楽しそうだな。あなたの宮は」
「ええ。毎日楽しいですよ。私が過ごしやすくなるように仕えてくれるので、感謝しかありません。変わり者を好いてくれる、良い人たちです」
「あなたは、皆に好かれる質を持っているからこそだろう。あなたの周りは心地が良い」
ふっと笑んだ彼は、几に置かれた本を手に取った。『鱗粉と蛇』だった。
「あ、その本は――」
「……すまない」
私の制止を聞く前に本を開いた彼が、頬を染めて本を閉じる。
「浰青さんの小説の中でも、最速で廃書になった本なので。その……刺激的過ぎて」
「……あぁ、挿絵が驚くほどにな」
「ふ、ふふ、ごめんなさい」
「なにも笑わなくても……」
居心地悪そうに目線を泳がせる彼を見ていると、なんだか少しかわいく思えてしまう。
「そういえば陛下は、どんな本を読まれるんですか?」
「よく読むのは、史学の本や地理書。娯楽には漢詩を読むことが多い」
「勉学の本ばかりですのね。恋愛ものをお読みになったのは、『雪尽』が初めてですか?」
「あぁ、そうだな。あまり読まないから、流れるように進む感情の機微が掴めなかった。だから、あなたと読んだ時の感情がありありと残っている」
胸に手を当てて、嬉しそうに笑う。
まるで初めて本に惹かれた私のようだった。
「――よろしければ、また私のお話に付き合っていただけますか?」
口をついて出た言葉に驚いた私がいるのに、目を瞠って顔をあげた彼にゆっくりと微笑みかける。聞かなかったことにしてほしいと言ってしまえるのに、ただじっと彼の返事を待つだなんて。
すべて、私の本好きが悪いのだ。
「いい、のか……?あなたは、読書の時間がなによりの幸せだと言っていたのに」
「だからですわ。陛下が私を通して、浰青さんの本を好きになっていただけたら嬉しいと思いました。私のお話しできるすべてが陛下の娯楽になれば、浰青さんの小説がまた市井に出るかもしれません。書物好きとして、それに勝る幸せはありません。言葉を求める誰かに、共有できることが幸せなのですから」
「……あなたの幸せに、俺も混ぜてくれるのか」
「お邪魔にならないのなら、陛下の望むままに」
こうして、私の平穏で怠惰な生活は幕を下ろした。
向いている、向いていないの問題の前に動かなければ何も分からない。逃げていては大事なものを見逃し、人生の中に何度とない機会を失う。
どうせなら、嫌だと思えるほど彼を知ろうと思ったのだ。今はまだ好印象しかなく、良い人止まりだから。
それに連れ立って、浰青さんの本がもっと広まってくれたらいい。そんな下心を持って、私は彼に寄り添っていくことを決めた。
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