大人の恋愛の始め方

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【第2部】28.温泉

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バコッ

「あたっ」
 とても小気味いい音が響いた。
 髪の長い女性が、スリッパ片手に仁王立ちでそこにいた。彼女が高虎の頭を叩いたということは明らかだ。
「菜穂子……」
「虎ちゃん、今わたしの噂してなかった?」
 頬を引きつらせた高虎の妻・菜穂子がそこにいる。どうやら途中から話を聞いていたようだ。
(虎ちゃんって呼ぶの、確か奥さんだけだったな)
 その呼び方に、かつての「若」に威厳がなく吹き出しそうになったが、ぐっと堪えた。
「し、してないよ」
「セックスが雑だって言ってなかった?」
「言ってないって。トモがさ、雑に何度もセックスするっていう話」
「はあ!?」
 あんたいい加減にしろよ、とトモは高虎に詰め寄る。
「人のせいにしないの!」
 菜穂子にも詰め寄られた。
「うううう……」
 ごめんなさいごめんなさい、と高虎は菜穂子に平身低頭で詫びを入れた。
「影山君、ごめんなさいね。主人が本当にいつも」
「いえ……」
「虎ちゃん、人前で卑猥な単語を連呼しないの」
「ごめんなさいいぃ」
 ほら行くわよ、と菜穂子が高虎の手を引く。
「あ、待って。トモに渡したいものがあるから、それだけ」
「いいわよ」
 高虎はジャケットの胸ポケットから、小さな袋を取り出し、トモの目の前に差し出した。
「何ですか」
「遅くなったけど、引越祝」
「えっ……」
「昔はお年玉だったけどな。それも兼ねておまえにやる。はずんどいたよ。あの子と二人分だからな」
 また後でな、と高虎は菜穂子に連れていかれ、すぐ側の襖の向こうに消えた。
「もう、人前でああいう話しないでよ」
「ごめーん」
「最近は里菜はすぐ寝てくれないから、虎ちゃんと時間が合わないの。わかってよ」
「わかってるよ。じゃあ、里菜が寝たらしてくれる?」
「まあ、ね」
「ねえ今、里菜寝てるんだよね。今チャンスじゃない?」
「伯父様の家で出来るわけないでしょ。ちょっと!」
「チューくらいいいじゃん」
「きゃっ、こらっ、いきなり触んないでよ」
 高虎が菜穂子のどこかを触って叱られているのがわかった。
「ダメ? みんなあっちで喋ってるしさ。このまま……しようよ」
 囁くような二人の会話は、耳のいいトモには聞こえていた。
(おいおい……結局仲良しかよ……)
 それよりも、夫婦の会話はシャットアウトし、手渡された小さな袋を見つめる。ポチ袋だ。
(引越祝いとお年玉、か……)
 組が解体するまでは、若だった高虎は毎年「お年玉」をくれていた。どうやら全員にではなかったようで、行く宛もなく組長の邸宅に籠もる連中や、彼を慕っている者にくれていたようだ。二十歳を過ぎた大人の自分にも、少しだが、と言って配ってくれた。
「神崎さん……感謝します」
 中は開けずに、聡子の元に戻った。
「大丈夫でしたか? 絡まれてたんですか」
「いや、少し話をしただけだ」
 ポケットにポチ袋をしまい、神崎の前に座る。
 聡子は、高虎にトモが「絡まれた」と思っていたようだ。本当に苦手らしい。
 三人は談笑し、楽しい時間を過ごした。


「俺たちそろそろお暇します」
 すっかり日も暮れてしまい、いつまでも長居するわけにもいかない、とトモはそう申し出た。
「もうそんな時間かあ」
 高虎も時計を見たあと、妻の菜穂子のほうを見た。菜穂子は娘の里菜を腕に抱いている。遊び疲れて、また眠ってしまっているようだ。
「じゃあ、俺らも帰るとするか」
 高虎一家も帰り支度を始めた。
「会長、今日はお邪魔しました」
「またいつでも来なさい。聡子さんも、一人で遊びに来てもらっても構わないんだよ」
「ありがとうございます」
 玄関先では、高虎一家とトモ達二人を、神崎やカズ達が見送ってくれようとしていた。
「お邪魔しました」
 聡子が頭を下げると、皆が口々にまた来て下さいねと言ってくれた。
「影山、ここはおまえの実家みたいなものだ。遠慮することない。さっきも言ったが、またいつでも来なさい」
「はい……」
 頭を下げ、二人は高虎一家より先に神崎邸を後にした。
「トモ、またな」
「はい、また」
「聡子ちゃんもまたな」
「……またいつか」
 スン、と聡子は無表情になり、声をかけてきた高虎に挨拶をした。
「冷たっ」
「聡子ちゃん、またお話しようね。里菜も聡子ちゃん気に入ったみたいだし」
「はい、是非。お話したいです」
 菜穂子に声をかけられると、聡子は嬉しそうに言った。菜穂子とは話をしてみると、波長があったらしく、女子トークを展開していた。娘の里菜も聡子に懐いたようで、三人の女子たちは楽しそうに盛り上がったいたのだった。
「何その温度差。菜穂子との差はなに、ひどい」
 高虎に対しての警戒心や敵視は全く解けていない様子で、トモは笑いそうになってしまったのだった。
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