英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第3章:水の底に揺れるもの 第2話:風が導く

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 地下十三階層、水脈の交差する洞域のひとつ。

 静かに澱んだ空気と、遠くから聞こえる水音が、耳の奥にしっとりと染み込むようだった。

 冷たい岩肌に背を預け、僕は静かに息を吐いた。視界の先には暗い水路――流れはゆるやかだが、どこか吸い込まれそうな深さがある。壁面の苔が微かに発光していたおかげで、完全な闇ではなかった。

「……まずい、な」

 声にしてみると、思った以上に響いた。足元の小石がカラリと転がる。音ひとつが神経を刺激するようで、自然と呼吸が浅くなる。

 悔しさが、喉の奥に滞る。けれど今は後悔している場合じゃない。自分が生き延びるため、仲間と再合流するために、動かなければ。

 水音の方角を頼りに、足を踏み出す。湿った石床には滑りやすい箇所も多く、一歩ずつ確認しながら進んだ。壁を手でなぞると、ざらついた感触と、わずかな苔のぬめりがある。

 ふと、右手の先に開けた空間が見えた。幅三メートルほどの広間――かつては貯水区画だったのかもしれない。中央には浅い水たまりが広がり、その奥に――。

 何かがいた。

 水を揺らしながら、ゆっくりと動く影。四足の低い体躯。岩のような甲殻が、苔と水草に覆われている。小さな目は獲物を捕らえたように、こちらをじっと見ていた。

「……魔獣、か」

 逃げるよりも、静かにやり過ごす方が賢明だ。そう判断して身を屈めた、そのときだった。

 背後で、空気がかすかに揺れた。

「動かないで」

 少女の声――静かで、鋭い。次の瞬間、空気を切る音がし、水音とともに魔獣のうなりが途切れた。驚いて振り返ると、そこには黒髪の少女が立っていた。背には長弓、腰には矢筒。いつか見たことがある、鋭く、静かな瞳。

「……リ、リィ……?」

 名を呼ぶと、彼女はわずかに眉を動かしただけで、すぐに視線を逸らした。

「もう一体、奥にいた。音で呼び寄せないよう、気をつけて」

 それだけ言うと、彼女は音もなく前に出て、矢をつがえた。

 矢の先には、確かにもう一体の魔獣が身を沈めていた。リリィは無駄のない動作で弦を引き、次の瞬間、矢が放たれる。硬い音を立てて魔獣が崩れ、ようやく水辺に静けさが戻った。

「……どうして、ここに?」

 ようやく声を出すと、リリィは肩越しに僕を見た。

「……道に迷ったのなら、ついてきて。危ないから」

 それだけ言って、彼女はゆっくりと歩き出した。

 澄んだ水音が、洞の奥へと誘うように響いていた。

 リリィに導かれながら、僕はぬかるんだ足元を注意深く踏みしめる。濡れた岩肌は滑りやすく、手をつきながら進む場面も多い。けれど、先を行くリリィは身のこなしが軽く、風のように岩の間をすり抜けていた。

「……こっちよ」

 振り返る声は短く、それ以上の説明はなかった。

 けれど、その背が不思議と頼もしく思える。さっきまでの心細さは、少しだけ遠のいていた。

「ねぇ、リリィ」

 僕が口を開くと、彼女は足を止め、軽く首を傾げてこちらを見た。

「なんで、ここに?」

 その問いに、リリィはほんの一瞬だけ目を伏せた。そして、静かに言葉を返す。

「偶然よ。あなたが流された先に、たまたまいた」

「でも……どうして助けてくれたの?」

 彼女は答えない。代わりに、何かを取り出した。

 僕はリリィを見た。そこにあったのは、僕の探索バックだった。

「あ、それ……」

 思わず声が漏れる。リリィは何でもないようにそれを差し出した。

「落ちていた。濡れているけど、中身は無事」

 受け取ると、確かに湿ってはいたが、蓋はしっかり閉じており、薬品も灯も無傷だった。

「ありがとう。本当に助かった」

 そう告げたが、リリィは小さく首を横に振った。

「助けたつもりはない。ただ、目についたから拾っただけ」

 そっけない言葉。けれど、その指先は少しだけ湿っていて、歩きづらい場所を進んできたのだと分かる。

「……それでも、僕は感謝してる。何度目か分からないけど、また、助けられた」

 その言葉に、リリィはふと顔を背けた。

「……足音が聞こえた。だから来ただけ」

 淡々とした声。でも、その奥にある微かな揺らぎは、どこか優しく響いた。

 ふと、通路の奥から水音が反響してきた。

「戻ろう。ここは危ない」

 リリィが先に立ち上がり、暗がりの先へと足を進める。僕もそれに続いた。

 道すがら、リリィはふいに振り返った。

「……一人で突っ込むのは、もうやめて」

 その一言に、僕は思わず立ち止まった。

「……心配、してくれたの?」

 リリィは答えなかった。ただ、小さく息を吐いて、また前を向いた。その背中を追いながら、僕は微かな笑みを浮かべていた。

 出口に近づくにつれ、空気が少しずつ乾いていく。岩の裂け目から外の光が差し込む。

 その光の先に、クレアさんとガルドさんの姿があった。

「ニコ!」

 クレアが駆け寄り、僕の無事を確かめるように顔を覗き込む。

「無事でよかった。どれだけ探したと思ってるの」

「ごめん……迷って、でもリリィが……」
 
 言いかけたところで、リリィは僕の横をすり抜けて歩き出した。

「行くよ。ここに長くいても意味ない」

 クレアさんはきょとんとした顔をして、その背を目で追った。

 クレアさんは僕の顔をじっと見て、そして小さく微笑んだ。

「ふーん。なるほどね」

 何が“なるほど”なのかは分からない。ただ、その笑みがどこか意味ありげに感じられて、僕は少しだけ居心地が悪くなった。

 ガルドさんは無言のまま頷き、先頭に立って歩き始めた。僕たちはその後に続く。

 谷を抜ける風が、僕の髪を揺らした。その風はどこか、あの日の森で感じた風に似ていた。

 導かれるように、再び僕たちは歩き出す。新たな絆の気配を胸に秘めながら。
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