英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第3章:水の底に揺れるもの 第4話:ありがとうの意味

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 水脈の底を流れる冷気が、肌にまとわりつくようだった。

 視界を覆うのは、黒く濁った空気と湿り気を帯びた岩の壁。その奥から、かすかに水音と、低く唸るような音が混じって響いてくる。

「もうすぐ……だな」

 小声で呟いたのはガルドさんだった。重く構えた盾を傍らに、彼は足音ひとつ立てずに前を行く。

 僕たちは今、調査依頼の最終地点に向かっていた。

 ここまで、いくつもの罠や魔獣に遭遇したが、それを越えて来られたのは、間違いなく――

「止まって」

 リリィの小さな声が、背後から届く。僕はすぐに足を止めた。彼女の指が壁際を指す。淡く濡れた苔の上、かすかな滑り跡が残っていた。

「滑りやすい。ここの段差、足を取られるわ」

 すでに彼女の視線は、次の足場を見定めていた。躊躇もなく進む後ろ姿に、僕は言葉を失っていた。

(いつからだろう。こんなにも……頼っているのは)

 それは、認めたくない焦りと、同時に浮かぶ感謝の気持ちだった。

 ほんの数日前まで、リリィは“無言の案内人”だった。

 けれど今は、僕たちの歩調に合わせ、罠や気配を探り、矢で道を開き、時には戦いさえ支えてくれている。

「ありがとう」と、言いたかった。

 だけどまだ、口にはできなかった。

「……ここから先は、開けた空間になっている。気をつけて」

 リリィの声に、僕たちは再び列を整えた。ガルドさんが前、クレアさんと僕が中程、リリィが後衛――自然にそうなっていた。

 洞窟の先が、ふわりと明るくなる。光は、天井の隙間から漏れるわずかな陽光。それでも、暗がりに慣れた目には十分すぎるほどだった。

 そして、その空間の中心にいたのは――

「魔獣……!」

 僕が思わず呟いた。

 そこにいたのは、鱗に苔をまとった中型の四足獣。水場に潜む魔獣で、鋭い爪と尻尾の棘を持つ。すでにこちらの存在に気づいているらしく、低く唸り、姿勢を低くしていた。

「まだ気づかれていないわ。……でも、時間の問題ね」

 リリィが弓を構える。矢羽がわずかに震え、静寂のなかで、僕の鼓動も高鳴る。

 ――でも、僕が動こうとした、その瞬間だった。

 足元がぐらりと傾いた。

「――っ!」

 僕の足が、岩の隙間に滑り込む。バランスを崩し、前のめりに倒れかけた。

「ニコ君!」

 クレアさんの声が響く。だけど間に合わない。魔獣の視線がこちらに向き、脚が動いた。――狙われた!

 そのとき、空気を裂く音が響いた。

 シュンッ――

 矢が放たれた。

 魔獣の動きが止まる。喉元に、一本の矢が深く突き刺さっていた。

 すぐさまガルドが突撃し、盾で魔獣を押し倒す。クレアさんの光が炸裂し、魔獣は呻き声を上げて崩れ落ちた。

 ……すべてが、ほんの一瞬の出来事だった。

「大丈夫?」

 リリィの声がした。僕のすぐ傍に、弓を下ろした彼女が立っていた。

 その表情は、読めなかった。けれど、微かに眉が寄っていた。

 僕は立ち上がりながら、小さく息を吐いた。

「……また、助けられた、ね」

 リリィは少しだけ視線を逸らした。

「別に、助けたわけじゃない。邪魔だったから」

 冷たい声だった。けれど――その手は、わずかに震えていた。

 戦闘が終わっても、誰もすぐには動かなかった。

 空間には水音だけが満ちていた。魔獣の体はすでに沈黙し、その周囲にただ岩と苔、そして僕たちの息遣いが残されている。

 僕は、先ほどの瞬間を反芻していた。

 足を滑らせ、倒れ、魔獣に狙われたとき――あの矢がなければ、きっと僕は、今ここに立っていない。

「リリィ……さっきの、本当にありがとう」

 そう言った僕の声に、リリィは反応を見せなかった。

 矢筒を確かめながら、ゆっくりと弓を収める。その横顔に表情はない。けれど、目元がかすかに揺れていた。

「……勝手に、生き延びただけでしょ」

  ぽつりと、彼女はそう言った。

「礼なんて、いらない。私は……助けたつもり、ないから」

 否定するようでいて、それ以上に、自分を責めているような声音だった。

 リリィの背が、少しだけ震えているように見えた。この人は、なぜ、そんなふうに言うんだろう。助けてくれたのに。命を救ってくれたのに。

「でも、僕は――ありがとうって言いたい」

 僕は言った。

「僕は、リリィに助けられた。あの矢がなかったら、ここにいない」

「……」

「それに……君は、あのとき、迷いなく矢を放ってくれた。それだけで、僕は救われたんだ」

 リリィは少しの間、黙っていた。

 やがて、静かに吐息をこぼしながら、目を伏せた。

「……じゃあ、好きにすれば」

 そう呟くと、背を向けて歩き出した。

 けれど、その後ろ姿は、ほんの少しだけ――柔らかく見えた。

「なんだか、少しずつ……変わってきたね」

 クレアさんが隣で微笑むように言った。

 彼女の手のひらから、ほのかに光の精霊が舞う。戦闘後の癒やしの残滓だ。

「リリィのことも。ニコ君自身も」

「そう、見える?」

「うん。少なくとも、前よりもちゃんと“仲間”に見えてきたよ」

 その言葉が、心に優しく響いた。

 今回の戦いで、僕はまたリリィに助けられた。けれど――もう、ただ助けられただけじゃない。

 彼女の矢に頼り、ガルドさんの盾に守られ、クレアさんの光に支えられて、自分も一歩ずつ前に出ている。

「ありがとう」

 もう一度、心の中でそう呟いた。

 立ち止まっていたリリィが、振り返った。目が合った。言葉はない。けれど、その沈黙のなかに、確かに何かがあった気がした。

 風が、洞窟の奥から吹き抜けていく。

 それは、新しい何かを予感させる、優しい風だった。
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