英雄は根に咲く

ぼん

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第一部:冒険の根を張る

第3章:水の底に揺れるもの 第5話:水底の言葉

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 深層の谷を抜け、僕たちはようやく地上近くの安全地帯へと戻ってきた。

 風はやわらかく、湿気を帯びた洞窟の空気とはまるで別世界のようだった。

 ガルドさんが焚き木を組み、火打石で火をつける。乾いた音、ほのかな炎がぱちぱちと音を立て、薪の香りが漂った。

 クレアさんは傷の手当てと小鍋の用意を並行してこなし、僕はそのそばで荷物をほどいていた。

 リリィの姿は、もうなかった。

「……やっぱり、戻ってなかったか」

 クレアさんが鍋をかき混ぜながら言った。

 昼の帰還時、彼女の姿はすでになく、連絡を残すこともなく消えていた。だが、誰も驚いてはいなかった。

 そういう人なのだ、と皆が薄々感じていたからだ。

「でも、少しだけ……変わっていた、気がする」

 クレアさんの呟きは、火の粉に紛れて小さく揺れた。

「……あのときも、これを拾ってくれてたんだよね」

 僕はリュックの奥から、リリィが拾ってくれた探索バックを見ながら、胸元にあるペンダント型の器をそっと握る。

 精霊の光は、今日も小さく脈を打っていた。

「ニコ君」

 声をかけてきたのはクレアさんだった。彼女は鍋の火を弱め、僕の隣に腰を下ろした。

「どう思った? あの子のこと」

 不意に尋ねられ、僕はすぐには言葉が出なかった。

 焚き火の炎が、ぱちぱちと夜の空気を切り裂く。

 あの子――リリィ。

 彼女は何も言わずに現れ、何も言わずに去っていった。けれど、間違いなく僕たちを助けてくれた。

 斥候としての働き、あの正確な矢。命を救ってくれた瞬間。それでも彼女は、それを“助けた”とは言わなかった。

 僕は、少し笑った。

「……たぶん、優しい人なんだと思う。誰よりも」

 自分でも、少し意外な言葉だった。

 けれど口にしたとき、それが確かな実感として胸にあった。

 クレアさんは静かに微笑んだ。

「うん。そうかもね」

 その隣で、無言だったガルドさんも小さく頷いた。

 リリィの存在は、言葉よりも確かな余韻を残していた。

 火がゆらめき、夜の帳が下りていく。星は出ていなかったけれど、僕たちの中には、小さな光が灯っていた。

 夜が深まるにつれ、焚き火の音がより際立って聞こえるようになった。

 谷間の冷気は徐々に肌を刺し始め、僕たちはそれぞれの寝具に身を包み、火のそばで輪になるようにして過ごしていた。

「なあ、あの子……」

 珍しく、ガルドさんが口を開いた。彼の低い声が、夜の静けさをゆるやかに破った。

「どうして……一緒にいないんだ?」

 問いかけというより、独白のようなその言葉に、僕は返すべき言葉を探す。

 ガルドさんにしては珍しい表情だった。少し戸惑いと、どこか寂しげな色が混じっていた。

「……たぶん、迷ってるんだと思う」

 僕はゆっくりと言葉を紡いだ。

「誰かと一緒にいるって、簡単じゃない。信じるのも、頼るのも……怖いから」

 リリィが戦闘中に見せた一瞬の隙。あのとき、彼女の手が震えていたのを僕は見逃さなかった。

 そして、戦いの後に呟いた“ありがとう”の一言に込められた、ぎこちない優しさ。

 きっと、あれが精一杯だったのだ。

 クレアさんが火を見つめたまま言った。

「優しい人ほど、不器用になるものだよ」

 その言葉に、誰も反論はしなかった。

 炎が少しだけ揺れた。風が、谷の底からそっと吹いてきた気がした。その風に運ばれるように、僕の記憶が遡る。

 あのとき――リリィと再会したあの瞬間。彼女が無言で僕の落とした探索バックを差し出してくれたとき。

 その手には、見えない“何か”が込められていた。言葉ではないけれど、確かに伝わってくる想い。

 それは、僕にとって“助けられた”としか言いようのないものだった。

 だから、僕は「ありがとう」と言いたかった。

「……いつか、また会えると思う?」

 クレアさんがぽつりと呟くように言った。

「うん、きっと」

 僕は頷いた。

「だって、あの人……まだ全部言ってない気がするから」

 火の粉が空へと舞い上がり、星と溶け合っていくようだった。

「もし、また会えたらさ……今度は、僕から“ありがとう”を返せたらいいな」

 その言葉が、谷の風に溶けていく。静かで、けれど確かな誓いのように。

 僕たちは黙って、夜の火を囲み続けた。

 それぞれが、言葉にしないまま、あの黒髪の少女のことを思いながら。

 彼女の姿はもうなかったけれど、その存在は、確かにこの夜のどこかに残っていた。
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