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 退屈。今の俺の感情を一言で表すとすれば、それに尽きるだろう。
 周囲から漏れ聞こえてくる話し声は惚れた腫れただのゴシップまがいのものばかりで知性の欠片も感じられない。いつも着ている白衣とは違い、あまりにも窮屈な作りのスーツのせいで、息をするのも一苦労だ。先程からチラリチラリと隠しきれていない盗み見の視線が、全身に纒わり付くのがとても鬱陶しかった。
「ねえ、あそこにいるのが噂の……?」
「なんでも9歳で最初の論文を発表して学会に認められた、稀代の天才らしいわよ」
「あら、でも学校には義務教育中に最低限籍を置いておくだけおいて、初等学校にもまともに行かなかったって話じゃない。それに、そんなに頭がいいのならどこかの大学に入るか、国営の研究室に属するものではないのかしら」
「それがね、どうもあまりにも偏屈すぎて、どこに行ってもまともな人間関係を築けずに長続きせず、追い出されてしまったらしいのよ」
「まあ。天は二物を与えずと言うけれど、それは本当だったのね。あの歳で1人切りで研究をして結果を残しているのは立派だけれど、そんな性格じゃ周りが大変そうだわ」
 本人達はヒソヒソ内緒話のつもりかもしれないが、生憎と全部こっちに筒抜けだ。別にいいさ。周囲にどうこう言われるのはもう慣れた。好きに言わせておけばいい。彼女達が言っていることは、世間から見た俺の評価としては当たっているだろうしな。
 壁の花を決め込んでしばらく経った。いつまでこうしていればいいのだろう。最初は『在野ながらも高名な研究者』の肩書きに惹かれ、俺と仲良くなろうと親しげに話しかけてきた人間達も、今では俺を遠巻きに見るばかり。付き添いで着いてきてくれた兄さんは、お前のパトロンを探してくるねと言い残し、知り合いに呼ばれてどこかに行ってしまった。俺を1人にするわけにはいかないと心配する兄さんを、いいからと言って追いやったのは自分だが、正直失敗だったかもしれない。社会不適合者の俺と世間との潤滑油である兄さんがいなくなると、途端に俺は何もできなくなる。
 ああ、狭く機材に溢れてゴチャついた実験室と、実験用の機器の立てる音、山と積まれた書類に羅列された魔法式が恋しい。俺がここでこうしている合間にも、学問はどんどん進歩していくというのに。本当に、この時間がもったいない。時間があるのに何もしないでいるなんて、俺に言わせてもらえればとんでもない怠慢だ。ここが実験室なら、新しい理論の組み立てと実証実験にこの無駄な時間を当てられるのに。
 まったく、何から何まで腹立たしい。こんな社交の為のパーティーになど微塵も興味がないし、煌びやかなドレスやピッチリ撫でつけた髪の人々と渡り合う能力は俺にはないってのに。時間でも体力でも知力でも、実験以外に自分のリソースを割くのはゲンナリする程嫌いな事だ。こういった場に出てくる度、俺は根っからの無愛敬なのだとつくづく思う。
 では、何故今俺はここにいるのか? それは至極単純な理由。金だよ、金。金の為に俺はここに来たんだ。
 俺、ルクレツィオ・アーリは在野の研究者である。どこか公的な支援を受けている研究室や施設、機関に属しているわけではないし、実力はあっても奨励金を貰えるような企画には面接段階で研究方面は大変優秀だが人格に大いに問題あり、と判断され全落ちしているので、莫大な研究費は殆どが自費。偶に何がしかの賞に受かって貰う賞金や、論文を寄稿して得る報奨金が俺の稼ぐ金の全てだ。
 俺が研究しているのはまだこの世で確立されていない転送魔法。何もかも手探り状態の為ただでさえ金のかかる分野なので、いくら資産家の家系で死んだ両親の残してくれた遺産があるとはいえ、とてもじゃないが俺には賄いきれない。偶に稼いでくるぐらいの小金じゃあっという間に使い果たしてしまうし、正直焼け石に水である。かといって俺は勤め人の才も商売人の才もないので、普通の真っ当な仕事をして稼ぐこともできやしない。どうにかこうにか兄さんが受け継いだ家業で稼いでくる金を食い潰して繋いでいるのが現状である。
 と、なればだ。やればやる程無限に嵩む研究資金を得る手段が1つ。金だけは唸る程あって体面のいい使い道を探している上流階級の人間とお近づきになり、パトロンとなってもらう。これが一番手っ取り早い。
 が、これもなかなか大変だ。ハッキリ言おう。俺は他人に興味が無い。関心事といえば、研究、それだけ。故に他人の欲求の原理が理解できず、人に気にいられるような言動が全くできないのである。ステータスは研究関連の能力に極振りしているから、あとが全部ポンコツなんだ。茶を淹れさせれば吹き零し、庭を掃かせれば池に落ち、会話をしていたと思えば次の瞬間にはマイワールドにトリップする。根本的に人間生活に向いてない。
 幸か不幸か唯一できる行為の研究の才は人並み以上だったのでそれに縋って生きてるが、逆にそれに没頭し過ぎて他が全部駄目になっちまった。たった1人残った家族である兄さんが、俺のことを理解して支えてくれていなければ、とっくの昔に食事をし忘れるか金が尽きるかして死んでいただろう。いや、冗談抜きで。
 その大恩ある兄さんの勧めでこうしてパーティーに出席してパトロンを探しているのだが、どうだかな。先に言った通り俺は他人に興味が無いし、思考が常人というよりは狂人のそれなので、とことん誰とも話が合わない。最初は俺の華々しい研究の受賞歴に目が眩んで寄ってきた連中も、二言三言言葉を交わせば『あ、こいつはヤバい。のやつだ』と気がついて離れていく。そんな反応を返されるのも仕方がない。一切の誇張抜きで、滅茶苦茶空気読めないんだよな、俺。
 結果、人でごったがえすパーティー会場も、こうして俺の周りだけ隙間ができてしまっているというわけ。マジでどうすっかな。一応は生家が代々資産家の家系で、兄さんが家業を継ぎ手広くやっているから直ぐに食い詰めることはないが、それにも限界がある。そうでなくともいつまでも兄さんにこんな出来損ないの弟の世話を任せておくのも申し訳ない。流石の俺もそこら辺の罪悪感はあった。研究に集中し過ぎると食事や睡眠もままならない俺だ。幼児未満の生活能力には目を瞑るとして、せめて自分の研究費くらいは自分で稼いで、兄さんを安心させてあげたいという思いもある。
 兄さんもそんな俺の気持ちを察してか、最近はツテを頼ってちょくちょく俺を交流目的のパーティーに連れていきたがっていた。特に今回のパーティーは王家に連なりのある社交界の重鎮も沢山出席する、大変格式高いものであるそうだ。俺のパトロン候補もゴロゴロいる。是非とも手頃な誰かを捕まえなくてはいけない。
 それだというのに、俺は未だ1枚の名刺も、小切手も手に入れていないのだ。頂戴するのは突き刺さる好奇の視線ばかり。というかそれだけ。本当、どうしたものか。研究の為ならいくらでも働く筈の頭が今はちっとも動かず、しかもとても痛む。黙って先程ボーイに押し付けられた、飲む気にもなれない名前も分からぬ黄金色の酒の入ったグラスをクルクル回す。
 パトロン探しに失敗するのはこれで何度目だろう。優しい兄さんは何も言わないが、俺は明らかにあの人の人生のお荷物だ。俺みたいな不出来な人間を、血の繋がった弟だからというだけで背負い込んで、兄さんは本当に損な星回りに生まれた人だと思う。そう思うのならもう少し色々改めろと自分でも思わないでもないが、この難儀な性格も生き方も生まれつき。思ったところでどうにかなるものではない。意志の力だけで魚が陸に上がって歩き出せたらなんの苦労もないのである。
 人の輪に迎合することができぬせいで、研究はできてもどこの研究室にも入れて貰えず、学び舎で学ぶことすら叶わず、パトロンを見つけることも、1人で生きていくことすらろくろくできぬ己が憎い。何より1番度し難いのは、こんな時まで早く自分の研究室に戻ってやりかけの実験の続きをしたいと思ってしまうこの研究馬鹿な頭であろう。まったく、どうにかならないものか。こんなことではいつまで経っても独り立ちできやしない。
 あーあ、誰か研究に理解のある優しい大金持ちが、俺に全財産くれないかな。それか、穏やかで優秀で高名な学者が拾ってくれてもいい。そんな贅沢なこと、天地がひっくり返っても今更有り得ないけど。俺は世間に認められるような学才を損なって余りある程人格に問題があるし『学校』や『組織』と名のつくところには産まれてこの方とんと縁がない。ああいう集団に基づく場所は、俺みたいな輪を乱す奴は入れてもらえないんだよ。先にあげたような人間が目の前に出てきたら、俺は先ず詐欺を疑う。まあ、実際過去には俺の研究成果を狙って近づき騙そうとした人間はいるにはいたが、皆最後には俺の相手をすることに耐えきれず何も盗めぬまま逃げ出したので、要らぬ心配だが。
 ああ、家に帰りたい。正確には、家にある自分の研究室に。転送魔法に必要な送受信用の魔法陣の構築について、新しい仮説を立てたばかりなので、早くその実証実験がしたかった。理論を組み立てたところでもういい加減遅刻するから準備をしてくれと兄さんに泣きつかれて渋々出てきたから、何もかもが中途半端のままだ。気になって仕方がない。
 でも、あの魔法陣、構成をもうちょっと詰めたいんだよな。いまいちピンと来ないところがあって、そこが気になる。エネルギーの充填について、あと少し何か不十分な気がしていた。転送魔法は空間を歪める類のものだから、とても大掛かりで危険なものだ。ちょっとの失敗も許されない。
 本来はちゃんとした設備の元、安全をシッカリ確保してからやるものである。俺のように在野で自己流でやってるのは見識ある人間からしたら、正直正気の沙汰ではない。行政から危ないので止めなさいと言われないのは、ひとえに今までの実績と、家が所有している広大な森の真ん中に実験室兼自宅を建てた無理矢理な安全確保法からだろう。ほら、実験に大失敗しても、巻き込むのは周囲の森の木々とそこに住む動物たちだけだからな。それらの価値は世間では人命と魔法学の発展と比べて、あまりに軽い。森の中なら危険な実験に対して文句を言う近隣住民とかもいなくて一石二鳥だ。
 クソッ、ちょっと実験について考えていたら益々気になってきた。早く帰りたい、帰りたい、帰りたい。今何時だよ。……まだこんな時間!? 開始から1時間ちょっとしか経ってねぇ! マジかよ俺はもう5時間はここにいる気分だってのに……。
 チッ、と舌打ちをして壁にかかった時計を睨みつける。勿論そんなことをしても時計は決められた速さを守って進むだけだ。俺に気を使って針の動きを速めたりしない。その事に益々腹が立って、俺はイライラと手慰みに手に持ったグラスを益々クルクル指先で回した。
 今頃兄さんは必死になって俺のパトロンを見つけようと駆け回ってくれているだろうし、そんな人に早目に切り上げて帰りたいとはとてもじゃないが言えやしない。かといって自分から誰かに話しかけてパトロンを探す気力も最早なく。仕方がない、ここは大人しく頭の中で転送魔法の理論の詰め直しをしよう。実証実験ができないのは残念だが、引っかかるところのある理論を再考し、構築し直す機会が与えられたとポジティブに考えて、我慢するしかない。
 そうしてもう自力でどうこうするのを完全に諦め、マイワールドに没入しようと思った俺は、ふと手元のグラスの中身を目に止めた。グラスの中ではシャンデリアの輝きを受け止めて酒がキラキラと光っている。水面は斜めにかしいで俺がグラスを回すのに合わせてクルクルと回っていた。均等に、等速で動く酒。あっちが持ち上がり、そうすると反対のこっちが下がる。それはまるで、そうと決められ動く一つの機構のようで……。閃いた! そうか、そういう事だったのか!
 一瞬のうちに俺の脳内にある1つのアイディアが浮かぶ。気になっていた魔法陣のエネルギー充填についてのことだ。やはり、先程まで考えていた魔法陣では不十分だった。あのままでは魔法陣全体に均等にエネルギーが流れずムラができて、魔法がきちんと発動しない。きっと中途半端に空間が歪んで大変なことになっていたことだろう。実験実行前に気がつけてよかった。
 魔法陣にムラなくエネルギーを充電するには、全体に均一に等速で魔力を注ぐようにしなくてはならない。その為には今までの魔法陣に加えて、螺旋状に線を引いて、あそこの紋章をを描き変えて、回路の阻害になるあの印を消して……。ここから先は難しい計算が必要だ。流石の俺でも頭の中だけで構築するのは無理がある。紙は……持ってない。ペンもだ。
 でも、このアイディアを早く纏めなくては。今抱いている感動のまま、書き進めればきっと素晴らしいものができる。どこか、書く場所、それと、書くものは……。
 グラスを床に置き、指に歯を立てたのは無意識だった。ペン胼胝のできた固い自分の指の皮膚を食い破り、そこから血が吹き出すのを確認する。そのまま空中に指を差出し、スッと動かした。溢れた血がそこに込められた魔力で空中に固定される。傷口から流れ出す血は魔力でコントロールしているので、止まることはない。それをいいことに一心不乱に空中に頭の中にある式を書き出していく。
 魔法陣の式は1度書き出すと止まらない。細かな式と定理が複雑に組み合わさり、うねりとなっていく様は、まるで1つの大きな生き物のようだ。その流れはこの世の何とも比較できぬ程に美しい。この美しさを見る為に、俺は研究を続けていると言っても過言ではない。式はどんどんと書き出され、一瞬一瞬姿を変えていき、その美しさに俺はよりいっそう魅了されていく。いつまでもこの流れを見続けていたい。やがて俺はただひたすらに自分が美しいと思うものを追い求め、生み出し続けるだけの1つの仕組みになっていった。
 だが、そんな時間も永遠には続いてくれない。やがて夜が明けるように、花の命に限りがあるように、俺の式も終わりの時がやってくる。ああ、式が書き終わってしまう、全てが証明され、謎は解き明かされてしまう。口惜しく思いながらも、その儚さにすら背筋が震えた。名残惜しく思いながら、俺はユックリと式の最後の一筆を書き終えた。
 目の前の式に集中していた視野が少し広がると、俺の目の前には壮観な眺めが広がっている。書きながら何度もスライドさせた為、血の式は俺を中心に縦横無尽にそこかしこに浮いていた。何層にも重なり、絡み合い、今はまだ俺にしか分からないこの世の真理の1つを表してくれている。
 書き途中の式もいいが、こうして完成されたところもまた美しいな。いつまででも見ていられる。そうして俺が煌々と輝くシャンデリアの灯りの元、赤黒く煌めく文字と数式の羅列を惚れ惚れとした思いで恍惚と眺めていると。
「素晴らしい! これが今『歴代随一の天才』と名高い、あのルクレツィオ・アーリか! かなりの変人と聞いていたが、まさか突然空中に自分の血で式を書き始めるとはね。淀みなく式を書き続けるその姿は、それだけで圧巻だった。実に素晴らしいショーを見せてもらったよ!」
 パチパチパチと手を鳴らしながら、無遠慮な男の声が俺の至福の時間を打ち壊した。
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