殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第1章

舞踏会の準備

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秋を迎えたとある日の昼下がり。
珍しく、――本当に珍しく、庭ではなく部屋にいたリズは、穏やかに部屋へ差し込む日差しに包まれるような心地がして、いつしか睡魔に襲われ、手にした本を落としそうになっていた。
慌ててしっかりと持ち直した本は、青いベルベットで表紙が装丁された重々しくも美しいものだ。
表紙に施された精緻なクロシア国章に、リズは今日も感嘆の溜息をこぼす。

このように、至ってのんびりした読書の時間ではあるものの、実はリズにとっては、王宮で開かれる舞踏会の準備の真っ最中なのである。
普通の貴族のご令嬢は、舞踏会の準備に読書は必要ない。
しかし、自分が普通のご令嬢ではないことを痛い程認識しているリズには、この500ページにも及ぶクロシア国王室法を読むことは、れっきとした舞踏会の準備にあたるのである。

王室法は多岐にわたって定められ、皇位継承の順位から、王族の公務、婚姻の手続き、さらには王宮での作法について定められた条文もある。
リズが今、目を通しているのは、この王宮作法の個所である。
挨拶の順序など、王宮で守るべき作法が大まかに決められている。
これらの条文は規範として定められたもので、特に罰則は設けられていないものの、人目を忍ぶ趣味の持ち主としては、要らぬ批判は浴びたくないという哀しい事情があり、リズは作法を順守すべく目を通しているのである。

読む経緯はこのように哀しいものの、意外なことに読む行為はリズにとって楽しいものだった。

本当にいつ見ても面白いわ

リズはついつい作法以外のページを捲ってしまうことを止められなかった。
リズの楽しみは、その時々の実情に合わせて急遽決められたと思える個所を見つけ出すことである。
この王室法の楽しみ方が、普通の貴族のご令嬢の範囲に収まるかどうかは、公爵家の誰もが深く考えないことにしている。

今、捲っている王妃の章には、公務に関するページにリズの口元を緩める箇所がある。

第30条第2項。王妃は体調が悪い場合、舞踏会を欠席するものとする。

この時点で、王妃を心配して作られたことが窺え、リズは微笑ましく思えるのだが、30条はこれでは終わらない。

第30条第3項。王妃は熱がある場合は、必ず舞踏会を欠席しなければならない。

よほど、真面目な王妃陛下がいらしたのね。これほど強く書かなければ王妃陛下を止められなかったのね。

王妃陛下を案じる国王陛下の姿が目に浮かび、リズはそっと口元に手を当て、零れる笑いを押さえていた。

「あら、随分と楽しそうね。リズ」

侍女の取次も待たずに母のクリスティが部屋を訪れ、リズを空想から引き戻した。

「リズ。ドレスを合わせてみましょう」

クリスティは陰りのない笑顔と曇りのない声をリズに向ける。
背後についてきたクリスティ付きの侍女たちも、主に負けじとばかりに揃ってこれからの時間の期待を全身から醸し出している。
リズは母たちの気合に一瞬臆したものの、注意深く本を閉じ、笑顔を返して母を出迎えた。

「まぁ、リズの頭には中身が完璧に入っていると思っていたわ」

青い表紙に目を遣り、クリスティは口の端を上げる。
この本には毒草は一切書かれていないにもかかわらず、リズが熟読しているもので、公爵家にもすっかりお馴染みの本となっているのだ。

「王宮に行くのは3か月ぶりですので、忘れていないか不安になってしまって」

「ふふ。リズは真面目ね。私のお友だちには、王室法を読んだことすらない方もいるのに」

――それは、お母様のお友達は普通の趣味をお持ちだから、良心の咎がないからでしょう

疾しいことのあるリズは心の中で呟いた。
そんな娘の胸中を素通りして、クリスティは青い装丁に見入っている。

「いつも思うのだけど、王太后さまは、本当に見事な刺繍をなさるのね」

クリスティが表紙の刺繍に見惚れ、しみじみと呟く。侍女たちも、そしてリズも一斉に頷いて同意を示した。

この本は、畏れ多くも王太后陛下が使っていたものなのである。
6年前の初めてのお見舞いの時に、殿下がリズに贈り物の一つとして渡したのだ。
当初、畏れ多く、そして王室法を殿下から渡されるなど意味深長すぎる贈り物だと、固辞しようとしたリズだったけれど、――不敬罪すれすれのことをしでかした自分への皮肉もあるのだろうかと意味を考えてしまったリズであったけれど――、
太后陛下はこれをもう処分するつもりだと聞くと、思わず頂くことにしたのだった。

こんな素敵な刺繍の装丁がされているのに、処分するなんてもったいない

すっかり表紙に魅せられたリズは大切にこの本を扱っている。
ちなみに、この刺繍は、若かりし王太后陛下が、王室法の勉強を嫌って、刺繍をしながら講義を受け、何とか講義を乗り切った産物であるそうだが、素晴らしい刺繍であることに変わりはない。

法律は改正されていくものであり、余力のある貴族は大抵1年で買い替えていくものである。
しかし、この本が気に入ったリズは、買い替えるのではなく改正された箇所については新しいものを貼り付けて使い続けている。
そのため、本の中身は膨らみ、見栄えが良くない状態であるものの、リズには、買い替えるなどとんでもないことであった。
ちなみに、改正部分は週に一度は訪れる殿下が渡してくれるため、情報の更新に抜かりはない。

「さて、お勉強はそこまでにして、舞踏会のドレスを合わせましょう」

母は刺繍から目を離し、本題に戻り、侍女に運ばせたドレスに目を向けた。
リズも目を向け、そして――、思わず唾を飲み込んでいた。

「お母様、随分と…、首飾りが強調されるデザインですね」

母が満面の笑みを浮かべて眺めるドレスは、平均的な胸元のラインより、少なくとも2センチは深いものだった。
胸の谷間どころか、胸の上半分は見えてしまうだろう。

リズは、王室法にドレスのデザインに関する条文がなかったか、必死に頭の中でページをめくったものの、残念ながらまだそのような条文はなかった。
このドレスで顰蹙をかえば、条文が出来るかもしれないと思ったものの、とにかく今は断る理由に条文は頼れない。

何とか自力で説得して、お母様に別のドレスを頼まなくては…

作法は守っても、この胸元で批判を浴びてしまうとリズが内心頭を抱えると、クリスティはころころと笑いながらこのドレスを評した。

「ふふ。私はこんな大胆なドレスはもう着ることはできないけれど、まだ若いリズなら大丈夫よ。殿方の視線を独占ね」

いえ、私にも着ることはできません。そして、殿方どころかご婦人たちの非難の視線も独占です

瞬間、正直な感想を口にしそうなリズであったが、即座に立ち直り、何とか当たり障りのない言葉を紡いだ。
「お母様。このドレスに似合う首飾りを私は持っていませんわ」

胸の開いたドレスを着こなすためには、華やかな首飾りは必須だ。
幸いにして、リズはシンプルな首飾りが好みであり、手持ちの首飾りでは寂しい印象になってしまう。

我ながら、いい口実を思いついたと思ったリズであったが、クリスティは華やかに笑いながら、リズの口実をはねのけた。

「まぁ、リズ。もちろん、首飾りも誂えているわ」

なぜか誇らしげな様子で、侍女の一人が首飾りの箱を開けた。
中には、大きく見事な赤い宝石を中心に、小さな宝石で繊細な文様を作り出した、こんなときでなければリズもうっとりと眺めるであろう、美しい首飾りが煌めいていた。

文句のつけようがない首飾りを目にして、退路を断たれたリズは、押し寄せる動揺を隠しながら、首飾りの感想を口にする。

「本当に、見事な首飾りですね。王室に献上できるのではないでしょうか。あまりに見事で私は首飾りに負けてしまいそうです」

一縷の望みを託して、クリスティを見つめると、母は娘の不安を艶やかな笑顔で吹き飛ばした。

「ふふふ、リズ。そんなことはないわ。そもそもあなたなら、首飾り無しでも着こなせるわよ。お母さまが保証します」

着こなせるかどうかの問題ではないのです、お母様。

天を仰ぎたい気持ちを押し隠しながら、リズは正攻法でこのドレスから逃れることは無理だと思い定めた。

こうなったら、当日、病気になるしかないのかしら。
病気を装うにはどの草を煎じたらいいかしら

母のドレスへの熱い思いを聞き流しながら、リズはあれこれと裏の手を考え始める。

そのとき、またもや侍女の取次を待たずに、部屋のドアが開けられた。

「僕の天使は、どんなドレスを着るんだい?僕もそれに合わせた色目の飾りを身に付けるよ」

美しい銀の髪を煌めかせながら、アンソニーが楽しそうにドレスに近づいてきた。

「お兄様…!」

リズの声は、歓喜の輝きを現していた。
兄はその声に嬉しそうに目元を緩める。
16年間でここまで兄が近づいてくるのを喜んだことはなかった。
クリスティと、侍女たちの顔が曇る。
果たして、皆の予想通り、ドレスを見たアンソニーは一瞬凍りついた後、怒涛の抗議をクリスティに始めた。
クリスティも怯むことなく、ドレスへの熱い思いをアンソニーにぶつけ――、
――そして、胸のラインにレースを付ける妥協案で、何とか両者は収まりがついたのだった。

お兄様、ありがとうございます。

リズは感謝の思いを深く心の内で捧げていた。
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