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孤独な王は温もりを知る 前

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 王の寝室に銀の光が煌めいた後、ジェシカを抱いたクリストファーが姿を現した。彼はそっと慎重な動きで、ジェシカを寝台に横たえる。
 微笑を浮かべたまま眠っているジェシカを眺め、クリストファーは目元を緩ませた。

「ゆっくりお休み。私の天使」

 彼女の眠りを妨げぬよう、吐息のように囁いた後、彼の顔を綻んだ。

――私の血の記憶を見た君は、今度は何を話してくれるだろう。

 クリストファーは瞳を閉じた。閉じられた視界は、彼に最も大切なことを思い至らせる。

 いや、何も話してくれなくてもいい。ただ私をその瞳に映してくれればいい。
 それだけで私は幸せだ。

 彼は10年前と同じく、彼女の眠りを見守った。


◇◇◇
 予想通り、叔父は何の抵抗もせず、クリストファーの刃を体で受け止める。
 自分の刃を受けて助かることなどあり得ないと分かっているはずなのに。叔父の予知の力の強さなら、この場面を視たはずなのに。
 刃を受け止めた叔父の身体はゆっくりと頽れる。クリストファーは咄嗟に叔父を抱きとめた。それでも叔父が彼に攻撃を向けることはなかった。
 叔父アレッドの真意を認めたくなくて、クリストファーは眉を顰めた。甥のその表情を見て、アレッドは苦笑を零す。

「王となる者がそんな顔をしてはいけないだろう」

 それならば、叔父上が王になればよかったのだ、という言葉をクリストファーは何とか飲み込んだ。もう今更な言葉を言う時ではなかった。
 けれども、彼の育ての親ともいえるアレッドに誤魔化しはできなかった。
 アレッドは少し苦しそうに瞳を閉じて、それでも口元には笑みが上る。

「私ではない。お前がなるのだ。お前は素晴らしい王となり、一族を導く。そして…」

 アレッドはふっと目を開き、悪戯気な眼差しを向けた。

「森に置き土産を用意した。しっかり受け取っておくれ」

 もはや叔父の言葉の意図が全く分からないクリストファーは、不審を抱きながらも、力強く頷いた。これがアレッドからの最期の頼みになることは分かっていた。ならば、どんな置き土産であれ、全力で探して受け取ることは必然だった。

 アレッドは苦しい息の下、目元を緩め、震えながら手を伸ばした。クリストファーはもう冷え切ってしまったその手を握り締めた。ほんの僅かに握り返されたとき、最期の言葉が小さく響いた。
 
「お前は幸せになる」

 穏やかに閉じた瞳が開くことはもうなかった。
 この世でただ一人、自分に触れることのできた叔父はこうして世を去った。


◇◇
 生まれたときから、クリストファーの魔力は類を見ない強さだった。
 母ジェーンはその魔力に侵され、彼を生んで力尽きて逝ってしまった。部屋で出産を手伝った者は全員、クリストファーの魔力に当てられ倒れてしまったことを考えると、母は出産までよく持ち堪えてくれたというべきだろう。

 桁外れな魔力で、知能は生まれ落ちたときに既に5歳ほどには発達していたが、身体は赤子のままであり、魔力を抑制することはできなかった。そのことは、小さな赤子を抱き上げられる者はいないということを意味する。
 父であり、王でもあるデイヴィッドなら、彼を抱き上げることはできたかもしれない。
 けれども、デイヴィッドは己の魂の片割れを亡くしたことを魔力で感じるやいなや、正気を失い、もぬけの殻と化してしまった。
 離れた城に住んでいる叔父アレッドが報せを受けて駆け付けるまで、クリストファーは産湯にも浸かれず、寝台に母の亡骸と共に横たわったままだった。
 
 アレッドは、弟妹を持ったことも、自身の子どもも持ったことはなかったけれど、初めての育児を懸命にこなしてくれた。
 クリストファーは、魔力を抑制できるようになる2歳まで、アレッドにつきっきりで育ててもらった。
 幼い彼から見ても、アレッドは激務だった。代わりを務められる者が誰もいないクリストファーの育児に励む傍ら、片割れを亡くし廃人となってしまった父に代わりに政務を執る毎日だった。
 けれども、どれほど多忙でも、アレッドはクリストファーを最優先にして、クリストファーを膝に乗せたまま政務をこなすことも日常だった。
 
 いつ倒れても驚かない日々を送りながら、それでも、アレッドは常にクリストファーに笑顔を向けてくれていた。クリストファーを見つめる濃い緑の瞳は、いつもはっきりと愛情が見え、クリストファーが笑顔を見せる度に、「私のクリスは天使だ!」と、クリストファーにできることが増える度に「私のクリスは天才だ!」と叫んでいた。
 
 アレッドの叫びと周りの生温い視線は、知能は既に10歳を超えたクリストファーにはこそばゆいような恥ずかしさがあったけれど、一日でも早く、アレッドの負担を少しでも軽くするために、小さな体でできることを必死に増やしていった。
 
 クリストファーにとって、アレッドは父であり、母であり、紛れもなくかけがえのない存在だったのだ。
 
 努力の甲斐があって魔力を抑制できるようになり、周りを昏倒させることが無くなると、クリストファーは幼い身体で、叔父の執務を手伝い始めた。アレッドは「私のクリスは孝行者だ」と目を細めて頭を撫でつつ、「もっと自由な時間を楽しませてやりたかった」と眉を寄せて嘆いた。
 
 クリストファーは笑い飛ばした。
「私に伴侶は望めませんから、どの道、円滑な王位継承のために早くに引退します。案外、叔父上に引き継いでもらうかもしれませんよ」

 自分に触れることのできる者がいない状態で、伴侶も世継ぎも望めはしない。次代への王位継承は王の直系でなくなることは確実だ。王位をめぐって争いが起こらぬように、早めに後継を決めておく必要がある。
 本音を言えば、自分を飛ばしてアレッドに継いでもらうのが楽な方法だった。

 実際、何度か叔父にこのまま王位を継いでもらえないかと頼んだこともあった。
 アレッドの答えはいつも同じだった。穏やかな瞳と穏やかな声で、クリストファーの頭を撫でながら、諭すように、夢見るように言うのだ。
「人生はどう転ぶか分からないから、幸せも生まれるんだ。私のクリスは最高の王となって、最高の幸せを得て…、…私を楽隠居させてくれるはずだ」

 撫でられる感触が心地よく、思わず瞳を閉じて聞き入ってしまうことが常だったけれど――、

 もっと強く継承を懇願すれば、叔父はあのような選択を強いられなかったのだろうか。
 もっと強く自分が自由を求めれば、叔父は継承してくれたのだろうか。

 今でこそ詮無い疑問が過るが、当時のクリストファーは継承までの時間はまだあると、心地よさに身を任せて、強く出ることはなかった。

 そして、アレッドと二人で執務をこなす日々は続いたが、それはとうとう終わりを迎えた。
 クリストファーが20歳を迎えたとき、父デイヴィッドはこの世を去った。
 生まれてから父と顔を合わせたことも数えるほどで、父がこの世を去ることに何の感情も沸かなかった。
 最期の体面で、父からかけられた言葉は、「ジェーン。私を許してくれ」だった。
 父は息子の顔も分からなかったようだ。
 憎しみどころか呆れすら覚えず、全く経緯も分からぬまま「許します」と母の代わりに返事をした。父は涙を零し、そのまま息を引き取った。
 恐らく、最初で最後の親孝行はできたのだろう。

 この日、クリストファーが辛く思えたことは、隣に立つアレッドがこの会話を聞き、苦悶を顔に浮かべ、絞り出すような声で「クリス」と囁いたことだった。
 クリストファーにとって、家族はアレッドだけだった。
 叔父の為なら何でもするつもりだった。自分の全てをかけて、叔父に尽くすつもりだった。
 アレッドにもそれは伝わっていたはずだった。
 
 叔父はそれをどう思っていたのだろう。
 叔父は魔力で何を視たのだろう。
 即位式の日取りが発表された一月後、アレッドは兵を挙げた。
 
 クリストファーの即位に不満を持つ勢力がアレッドの下に集結したのだ。
 強すぎる力は恐怖を与えたのかもしれない。
 強い魔力を持つ王族は血を吸わずとも成体になれるということが、誰も近寄ることができないクリストファーの成体への変化で明らかになってしまい、「吸血」の一族の根幹を揺るがしたのかもしれない。
 原因は推測の域に過ぎなかったが、反乱が起きたことは事実だった。
 
 始めは、アレッドが継承するなら、この反乱に乗り、機を見て自分が殺されようとクリストファーは思った。それで構わなかった。アレッドは今まで一族を率いてきた。継承になんの不安もない。アレッドがそれを望むなら自分が消えることなど躊躇はしない。

 けれども、アレッドの下に集った勢力を報告され、クリストファーは絶望した。
 勢力の中に、人の王の弟が加わっていたのだ。
 ノックスの長い歴史の中、人の数は吸血鬼よりも圧倒的に増え、吸血の一族は人に紛れ、存在を秘されるようになった。アレッドの軍勢が勝利すれば、協力の見返りに人の王まで討たれ、一族の存在が人の世界に暴かれてしまう。
 何より、人の王が討たれるまで、人の世界にも内乱が起きてしまうだろう。
 人の世界に影響が及ばない内に、速やかにアレッドの軍を壊滅させる必要があった。

 つまり、クリストファーはアレッドを討つしか道は残されていなかった。
 そしてアレッドは容赦なかった。
 元々、アレッド側の軍勢の数は少数だったにもかかわらず、アレッドは自軍の中で戦功に焦る集団を見つけ出し、集団を先攻させ、クリストファーに当たらせるという戦法を取った。
 いかに少数精鋭であっても、圧倒的な数の差と、クリストファーの強さの前にはなすすべもない。
 叔父の意図は明白だった。
 クリストファーの即位への不穏分子を一掃させることだった。
 その不穏分子には、叔父自身も含まれていたのだ。


◇◇
 アレッドを自身の手で討ったクリストファーは、城に帰還し軍を解き、日常に戻った。
 アレッドが不穏分子を上手く取りまとめていたため、戦で一掃した後、政情を戻すことは容易かった。むしろクリストファーの強さを崇める勢力が勢いを増し、結束は強まったとも言えた。まるで何事もなかったように、日常は戻った。
 
 変化は執務室に叔父がいないだけである。
 自分と食事を共にする相手がいないだけ。
 自分と視線を交わすものがいないだけ。
 クリストファーが一人になっただけであった。

 戦後処理と滞った執務を捌いたクリストファーは一人きりの執務室で瞳を閉じた。

「叔父上。これが叔父上の言う『幸せ』なのですか」

 答えを返す存在はいなかった。


◇◇
 戦から3か月が過ぎた頃には政務に余裕ができ、クリストファーはアレッドの最期の頼みを果たす時間を取ることができた。
 足を運んだ、国境に広がる広大な深い森を見て、彼は小さく笑いを零した。

「この中から、見つけ出すのですか」

 一体、何が待ち構えているのか、見当もつかなかったが、クリストファーは懐かしいアレッドの魔力を探り始めた。
 懐かしい魔力はすぐに見つかった。叔父の置き土産は、探し出すことではないらしい。
 転移で魔力の場所にたどり着くと、クリストファーははっきりと苦笑を浮かべた。

「これを使えば、戦況も変わったでしょうに」

 待ち受けていたものは、アレッドの結界に包まれた、クリストファーが生み出した魔力の石だった。幼いころ、実践的な魔力の攻撃と防御を練習するために、作り出した石だった。
 練習を始めて2年も経つと、クリストファーの相手をできるのは、クリストファー自身しかいなくなってしまったからだ。
 戦闘に特化した魔力の石で、魔力を感知しただけで攻撃を放つように作られている。叔父は結界の中に封じ込めることがよくできたものだと感心した。
 石の威力は、クリストファーが全力で当たらなければ負けてしまう強さだ。弱ければ練習にならないと、石を生み出した日は身体がふらつくほど魔力を込めた。
 その石が5個、銀の魔力を放ちながら、結界の中で待ち構えている。
 結界を解除すれば、即座に5個同時に攻撃を放ってくるだろう。
 練習では3個同時までが限界だった。
 加えて、クリストファーへの難題はまだ残されていた。
 この森は国境を護る大切な場所だ。森を傷つけないように配慮しながら、戦わなければならない。

 クリストファーは目を細めた。

「叔父上。厳しい置き土産を下さるのですね」

 アレッドの最期の頼みだ。クリストファーは右手を上げて、結界を解いた。

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