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妹の裏切り
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「ゲレオルク卿。イーリスが何か粗相をしましたかな?」
威厳のある声を聞いた瞬間、身がすくんだ。私は、この声をよく知っている。私に向けられたことはほとんどないけれど。
「お父様……」
「バルヒェット伯爵! ちょうど良かった、僕はこのような下賤な女にはもう耐えられないのです。婚約の破棄をお認めいただきたい」
私がその人物の名を呼ぶのと、ゲレオルクが嬉々として話しかけたのはほぼ同時だった。
「だが……イーリスの出自は前もって説明していたはずです。それはご承知の上でしょう」
お父様の額には、深いシワが刻まれている。ああ、私のせいで気苦労をおかけしてしまった。申し訳なさがつのる。娘でもない私を育ててくださっている恩のある方なのに。
ある日突然お父様に呼び出され、婚約話を聞かされた。お相手は、3歳年上で侯爵令息のゲレオルク様。
お会いしたゲレオルク様はとても格好良くて、どうしてこんな素敵な方が私なんかの婚約者に、と首をひねったものだった。
ゲレオルクの実家が経済的に苦しんでいるのは、社交界ではよく知られている。友人のいない私でも、噂話くらいは耳に入る。
バルヒェット伯爵家は裕福だ。恐らく、私との婚約の条件にお金が動いているのだろう。そのために、社交界でも爪はじきにされている私を妻として迎え入れることにした。
「確かにその通りです。しかし、僕は真実の愛を見つけてしまったのです」
「真実の愛?」
私は黙ってうつむいているだけだが、お父様の声は、私の内心の疑問に綺麗に重なった。
「ヒーリーヌ。おいで」
ゲレオルクの言葉に、私は弾かれたように顔をあげた。まさか、ここで妹の名前を聞くとは思わなかったのだ。
私とは違って正真正銘の伯爵令嬢であるヒーリーヌは、うるんだ目でお父様を見上げた。
「お父様……。わたくし、ゲレオルク様と結婚したいのです」
「せっかくバルヒェット家と縁を結ぶのです。僕はヒーリーヌと結ばれたい」
ヒーリーヌは顔を赤らめて目を伏せた。ゲレオルクはそんな彼女の肩に優しく手を回す。
「バルヒェット家にとっても悪い話ではないと思います。どうかご一考を」
気づけば、周りの視線は私たちに集中していた。管弦の音すら止まっている。
……いや、違う。彼らが見つめているのは「私」たちではない。視界に入っているのはゲレオルクとヒーリーヌ、それからお父様だけだ。
「……イーリス」
お父様が苦い声で私を呼ぶ。こうやって話を交わすのはいつ以来だろうか。
お忙しい方だから、わずかな家族団らんの時間に水を差す気にはなれなくて、私から避けていた。
ヒーリーヌは私のことをあからさまに嫌っていた。お母様と呼ぶことを許してくださった伯爵夫人も内心は憎く思っていらっしゃることだろう。
愛されたいと思わなかったわけではない。温かな家族が欲しかった。生まれながらに手にできなかったなら、新たに築きたいとも思った。
ヒーリーヌは輝かんばかりの、はちみつ色の金髪なのに、私の髪は不気味な黒。
でも、届かないものに焦がれても仕方がない。身分不相応な願いは己を滅ぼすだけだ。
「私は構いません。このお話をいただくまでは、教会で神々に一生身を捧げる所存でおりました。全てが元通りになるだけです」
胸元のネックレスを強く握りしめる。私を守ってくれる、大切なお守り。
最初にゲレオルクが婚約破棄を告げたときの、張りつめた空気はいつの間にか消え去っていた。新たなカップルを祝福する雰囲気さえある。
お父様のシワも薄くなっているように見える。
「ふむ……。イーリスもこう申していることだ。前向きに検討させていただこう」
「ありがとうございます、伯爵」
ヒーリーヌが、わっと泣き伏す。張りつめていた気が緩んだのだろうと、招待客たちは優しい目を向ける。
でも、私は気づいていた。ゲレオルクが蔑んだ目で私をにらんだことも、ヒーリーヌが勝ち誇った笑顔で私を嘲ったことも。
だけど、これで良かったのだ。これこそが、誰もが納得する正しい結末だ。
私はそっと、その場から立ち去った。もう誰も私なんて見ていない。きっと気づかれない。
自室に戻って、ベッドにもぐりこんだ。顔を押し当てた枕がみるみるうちに湿っていく。
誰もいない部屋には明かりさえついていなくて、でもその暗さと静けさがありがたかった。幼い頃から私の傍にあり続けたものたちだから。
幸せな未来なんて、夢見たのが間違っていたのだ。私には過ぎた夢だった。それだけの話。
威厳のある声を聞いた瞬間、身がすくんだ。私は、この声をよく知っている。私に向けられたことはほとんどないけれど。
「お父様……」
「バルヒェット伯爵! ちょうど良かった、僕はこのような下賤な女にはもう耐えられないのです。婚約の破棄をお認めいただきたい」
私がその人物の名を呼ぶのと、ゲレオルクが嬉々として話しかけたのはほぼ同時だった。
「だが……イーリスの出自は前もって説明していたはずです。それはご承知の上でしょう」
お父様の額には、深いシワが刻まれている。ああ、私のせいで気苦労をおかけしてしまった。申し訳なさがつのる。娘でもない私を育ててくださっている恩のある方なのに。
ある日突然お父様に呼び出され、婚約話を聞かされた。お相手は、3歳年上で侯爵令息のゲレオルク様。
お会いしたゲレオルク様はとても格好良くて、どうしてこんな素敵な方が私なんかの婚約者に、と首をひねったものだった。
ゲレオルクの実家が経済的に苦しんでいるのは、社交界ではよく知られている。友人のいない私でも、噂話くらいは耳に入る。
バルヒェット伯爵家は裕福だ。恐らく、私との婚約の条件にお金が動いているのだろう。そのために、社交界でも爪はじきにされている私を妻として迎え入れることにした。
「確かにその通りです。しかし、僕は真実の愛を見つけてしまったのです」
「真実の愛?」
私は黙ってうつむいているだけだが、お父様の声は、私の内心の疑問に綺麗に重なった。
「ヒーリーヌ。おいで」
ゲレオルクの言葉に、私は弾かれたように顔をあげた。まさか、ここで妹の名前を聞くとは思わなかったのだ。
私とは違って正真正銘の伯爵令嬢であるヒーリーヌは、うるんだ目でお父様を見上げた。
「お父様……。わたくし、ゲレオルク様と結婚したいのです」
「せっかくバルヒェット家と縁を結ぶのです。僕はヒーリーヌと結ばれたい」
ヒーリーヌは顔を赤らめて目を伏せた。ゲレオルクはそんな彼女の肩に優しく手を回す。
「バルヒェット家にとっても悪い話ではないと思います。どうかご一考を」
気づけば、周りの視線は私たちに集中していた。管弦の音すら止まっている。
……いや、違う。彼らが見つめているのは「私」たちではない。視界に入っているのはゲレオルクとヒーリーヌ、それからお父様だけだ。
「……イーリス」
お父様が苦い声で私を呼ぶ。こうやって話を交わすのはいつ以来だろうか。
お忙しい方だから、わずかな家族団らんの時間に水を差す気にはなれなくて、私から避けていた。
ヒーリーヌは私のことをあからさまに嫌っていた。お母様と呼ぶことを許してくださった伯爵夫人も内心は憎く思っていらっしゃることだろう。
愛されたいと思わなかったわけではない。温かな家族が欲しかった。生まれながらに手にできなかったなら、新たに築きたいとも思った。
ヒーリーヌは輝かんばかりの、はちみつ色の金髪なのに、私の髪は不気味な黒。
でも、届かないものに焦がれても仕方がない。身分不相応な願いは己を滅ぼすだけだ。
「私は構いません。このお話をいただくまでは、教会で神々に一生身を捧げる所存でおりました。全てが元通りになるだけです」
胸元のネックレスを強く握りしめる。私を守ってくれる、大切なお守り。
最初にゲレオルクが婚約破棄を告げたときの、張りつめた空気はいつの間にか消え去っていた。新たなカップルを祝福する雰囲気さえある。
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「ふむ……。イーリスもこう申していることだ。前向きに検討させていただこう」
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ヒーリーヌが、わっと泣き伏す。張りつめていた気が緩んだのだろうと、招待客たちは優しい目を向ける。
でも、私は気づいていた。ゲレオルクが蔑んだ目で私をにらんだことも、ヒーリーヌが勝ち誇った笑顔で私を嘲ったことも。
だけど、これで良かったのだ。これこそが、誰もが納得する正しい結末だ。
私はそっと、その場から立ち去った。もう誰も私なんて見ていない。きっと気づかれない。
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誰もいない部屋には明かりさえついていなくて、でもその暗さと静けさがありがたかった。幼い頃から私の傍にあり続けたものたちだから。
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